先日の事、中学時代の同窓会に参加した。我が中学は、自分を含めてクラス会や同窓会などという催しの音頭を取る人間がいなかったせいか、こうした集まりはこれまでになく、もうないのだろうと半ば思っていたので、知らせを聞いた時はちょっと驚いたものである。といっても、地元でつながりのある者が多く、一部の交流は当然ながらあったようではある。
しかしながら、私にとっては同じ高校に進学して高校の同窓会でつながりがある友人を除いて、中学時代の友人たちとはほぼ卒業以来の再会。もともと人見知りする性格ゆえ、「出席」の返事はしたものの、当日会場となったレストランへ入っていくのに勇気がいったのは事実である。
卒業以来38年。再会した友人たちは、見事に変わっている。それはそうであろう。こちらの記憶にあるのは、みんな15歳の少年の姿である。50を過ぎたおじさんおばさんではない。それゆえに、顔を見てもすぐに誰かはわからず、戸惑うことしばしであった。すぐに参加者の名簿を見せてもらったが、男の名前はみんな覚えていてすぐに顔が思い浮かぶ(もちろん15歳の顔であるが・・・)。そこで改めて参加者の顔ぶれを見まわしてみると、そこかしこに面影が残っていて本人とわかったのである。
面白いもので、変わっていない者はすぐにわかるが、変わっていてもどこかに面影は残っている(本人だから当然だろう)。目元が多かったが、顔の中心あたりを注視すればだいたい判別できたのである。やはり38年という月日は大きく、大半の者はあの場だから判別できたが、街ですれ違ってもたぶんわからなかっただろうと思う。
来ていたメンバーの中には、大の仲良しだった男も来ていた。不思議なもので、小学校、中学とあれほど遊んでいたのに卒業後はピタリと連絡を取らなくなり、そのままになってしまっていた。懐かしい再会に、勇気をもって行って良かったと心から思った。こういう場になると、共通するのは昔話。お互い記憶していることが共通していたり違っていたり。言われて思い出したり、言われても思い出せなかったり。人間の記憶とはそんなものなのだろう。
もう一つ気付いたのは、「バラエティ」だろうか。高校の卒業生や大学の卒業生たちと明らかに種類が異なる者たちが多いのである。考えてみると、高校・大学と進学すると、そこには「受験」というフィルターがかかる。ところが中学のメンバーはそういうフィルターがない。大学に行かなかった者もいるだろうし、みんなが勤め人でもない。共通するのは実家の居住区だけで、普段接することのない職種の人たちとの交流もまた面白いものであった。
女性陣の中には、昔好きだった女の子も来ていて感激した。もう孫もいると笑う笑顔は昔の面影を残している。一目で本人と分かった1人なので、それほど大きく変わっていなかったのである。同じ学校に通い、同じ時間を過ごしながら、その後全く違う時間を過ごしてきた友との再会は心地よいものであった。中には亡くなったり病気で倒れたりという者もいたが、こういう集まりも良いと思う。
翻って、我が家には小学校6年の息子がいる。毎日遊ぶ仲の良い友達も、いずれ違う道を歩んでいくかもしれない。今のこのひと時を大切にするとともに、ずっとつながりを保てると良いと思う。今はSNSもあるから、我々よりもつながりは維持できるのかもしれないと思ってみたりするがどうだろう。今回の経験を息子には話して聞かせた。それはそのまま将来のお前にも当てはまるよと、そう言う意味を込めてである。果たして息子はどう感じたであろう。
それはともかくとして、また次の機会も、是非参加したいと思うのである・・・
それはともかくとして、また次の機会も、是非参加したいと思うのである・・・
【本日の読書】
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