2013年4月11日木曜日

中学時代

 娘が中学に進学した。小学校は入学式も卒業式も参列したが、さすがに中学は行かなかった。またすぐに卒業となるような気がする。いつの間にかどんどん大きくなっていく感じである。楽しい中学校生活を送ってほしいと思うが、自分の中学時代はどうだっだろうとふと思う。

 品川区立荏原第六中学校に入学したのは昭和52年のことだから、もう36年前という事になる。正直言って、入学当時の事はほとんど覚えていない。ただ、他の小学校から上がってきたツッパリがあれこれといて、暗澹たる気持だったのをほんのりと覚えている。小学校時代もジャイアンみたいな奴がいたが、それがあちこちから集まってきていたのだ。

 当時は私も気が弱く、喧嘩なんて口先だけだったから、からまれない事を願うばかりだった。手先になるのは嫌だったから、大体近寄らないようにしていたと思う。それでも同じ学校、同じ学年の悲しさで、何度も接触をしたが、その都度うまく逃げていた。1度だけ殴られたし、カンパと称して100円巻き上げられた事があったが、その程度で済んだと言えるかもしれない。

 その後高校でラグビーを始めるのだが、体を鍛えて筋肉がついてくると度胸も備わってきて、おまけにぶつかり合いに慣れたせいか、喧嘩度胸もつくようになった。今にして思うと、あの頃今の度胸があったら上を向いて堂々と廊下の真ん中を歩けただろうし、ずっと楽しい中学生生活だったのではないかと思う。中学時代を思い返してみると、あまり明るい気持ちにならないのは、半分くらいはツッパリグループから逃げていたような思い出ばかりだからだろう。

 高校は受験というフィルターを通るせいか、譬えれば澄んだ水のようで、ツッパリグループなどは存在しなかった。高校に入って何より嬉しかった事だ。それに比べると中学はいろいろと混じり合った泥水の中で、それなりの逞しさがないと楽しくは過ごせなかったのだ。

 2年になって、バスケ部に入部した。なぜ1年から入らなかったのか、もう覚えていない。それなりに運動神経も良かったから、すぐにある程度のレベルには達した。ただ1年からやっていたメンバーがいたから、3年になってもレギュラーにはなれなかった。高校に入ってバスケ部に入らなかった理由は、身長が足りないと思った事と、中学でレギュラーになれなかった引け目があったからである。

 バスケ部でも思い出と言えば、試合に途中から出してもらった事と、1年上の先輩から理不尽なシゴキを受けた事だ。練習を休んだという理由で、先生のいない時に休んだメンバーだけで“特訓”を受けさせられたのである。そのあと1週間くらい激しい筋肉痛で苦しんだ事を覚えている。ここでも思い出は、良い悪いが半々だ。

 英語の授業は印象的だった。山口先生という慶応出身の20代後半の若い先生が教えてくれたのだが、英語の発音がネイティブ並みで、日本人でも流暢な英語が喋れるのだと希望を持たせてくれた。海外経験もあって、授業の合間に話してくれるアメリカやアメリカ人の話がとても面白かった。英語が好きになったのは、間違いなく山口先生のおかげだろう。

 だが、3年になると転任してしまった。後任は“じゃぱにーず・いんぐりっしゅ”の中年の先生だったから、その落差たるやナイヤガラの滝レベルだった。こうして振り返ってみると、楽しかった思い出も嫌な思い出も、みんな友達や先生が絡んでくる。学校の思い出は、みんな周りの人たちとの思い出だから当然なのだが、それだけにどんな友達や先生に巡り合うかが、大きな影響を及ぼすことになる。

 娘の通う中学には、どんな人たちがいるのだろう。娘が通うのは、地元の公立中学。雑多な泥水となるわけだが、自分の経験の割には、そういう泥水も成長過程では良いかもしれないと思ってみたりもする。どんな中学校生活になるかわからないが、それでも我が娘だし、泥水の中だけにできるだけ関心を持って見守ってあげたいと思うのである・・・


【本日の読書】

現実を視よ - 柳井 正 吾輩は猫である - 夏目 漱石







0 件のコメント:

コメントを投稿