2019年4月22日月曜日

統一地方選2019雑感

 この週末は統一地方選があった。選挙権を得て以来、基本的には毎回きちんと選挙権を行使してきており、おそらく投票参加率はこれまでで9割近いと思う。そんな「真面目な」有権者であるが、今回は前日の土曜日に期日前投票をしてきた。基本的には選挙当日に行くことにしているので、期日前投票は久しぶりの事で、記憶にある限りでは独身時代に1度やったことがあるくらいだと思う。あまり人はいないのかと思いきや、意外と来ている人が多くて驚いたところである。

 期日前投票をしたのは、選挙日当日都合が悪かったからであるが、都合が悪かったのは私ではなく、実は娘である。18歳になった娘は晴れて今回が初投票。ところが選挙日当日は友達と遊びに行く約束があるとか。せっかくの初選挙だし、期日前投票をしたらと誘ったら思いがけず、「そうする」という答えが返ってきたのである。でも初めてだし、とブツブツ言うので、「ベテラン」のパパが同行することにした次第である(ちなみにママは今回も不投票である)。

 年頃の娘と父親というのは、世間では微妙な関係にあるらしいが、幸い我が家では幼少期から一貫して大きな変化はない(さすがに「パパ大好き!」とは言われなくなったが・・・)。ただ、油断は大敵なわけで、せっかく娘が一緒に行くと言っているわけであるから、急遽ラグビーの練習をボイコットして同行した次第である。その裏には、もしかしたらこれが娘と一緒に行く最初で最後の選挙かもしれないという思いもあった。思えば前回一緒に行った時は、体育館の入り口で娘はストップを食らったのであるが、今回は晴れて堂々と会場入りできたわけで、感慨深いものがあった。

 期日前投票と言っても、特に何か変わった点があるわけでもない。ただ、用紙に住所・氏名と当日投票できない理由を書くだけである。区議会議員選挙の場合は、いつもあまり深く考えずに投票しているので、今回も某政党という理由だけで名前を書いて投票してきたのである(残念ながら落選してしまったが・・・)。投票率は我が練馬区で41%であり、世間的には(我が妻のように)無関心派が多数のようである。

 そもそも区議会議員がどんな仕事をしているのかは、あまりよくわからない。必要な理由としては、条例の制定ぐらいじゃないかという気もする。であるにもかかわらず、政権政党の批判だとか反原発だとか、あきらかに国政レベルの話を熱弁している候補がいたりして、ちょっと違和感を感じたりすることがある。正直言って、国政レベルには関係ないだろうと思うから、あまりしっかり関心を持って見ていないところがあって、ちょっと反省すべきかもしれないとは思う。

 とは言え、選挙活動中は絶対支持しない候補でもチラシは受け取ったりする。どんな主張をしているのか興味深いからである。だからたとえ共産党の候補でもチラシを受け取っている(それで勘違いされて握手されたりするのであるが・・・)。他の選挙区では、友人・知人が立候補していて、みんな当選していたから喜ばしい限りである。今度議員としての活動内容を聞いてみようかと思う。たぶん、我々の見えないところでいろいろと働いているのだろう。

 私も、選挙権を得て初めての選挙は嬉しかったことを覚えている。娘もそうだろうと思うし、みんなそうではないかと思う。しかし、人間は当然に与えられたものにはありがたみを感じなくなるもので、その結果が投票率41%という誠に嘆かわしい現状になっているのだろう。かつては選挙権を要求して流血事件になった歴史もあるわけであるし、日本でも女性に参政権が与えられたのは戦後のことである。もっと我々はありがたみを持たないといけないのである。娘にはママを見習うことなく、今回の喜びをずっと持ち続けていて欲しいと思う。

 次回は国政選挙だろうか。この次もまた娘と一緒に行けたらいいなと思うのである・・・






【本日の読書】
 
   
   


2019年4月19日金曜日

将来のことなんか何とでもなる

知り合いの娘さんは、この春都立高校を卒業したそうである。成績優秀な都立高であり、卒業生のほとんどが大学進学であるが、その娘さんは受験しなかったという。在学中に既に勉強意欲を失い、卒業も「辛うじて」という状況だったという。現在はアルバイトをしていて、進路は「模索中」とのこと。一応、大学へ行こうかという気持ちもあるらしいが、だからと言って勉強をする気は起きないらしい。精神科にも通っているのだとか。

自分の娘だったら、どう対応するだろうかと考えてみた。
「進学したければすればいいし、したくなければしなくてもいい」
まずはそんなところからだろうか。私はもともと「鬱は病気ではない」という考えであるから、精神科に通院するのもいかがかと思う。本人がそれで少しでも楽になると感じるなら別であるが、悩みを抱えて気持ちが塞ぐのは、誰にでもあることである。それを「病気」とするより、しっかりとした考え方を持って克服できるようにしてあげるべきだと思う。

 大学へ進学するのは、時間稼ぎとしてはかなりいい。新しい環境に触れれば友達も増えるし、何かその先のヒントが見つかるかもしれない。私の父は中学を卒業して東京に働きに出てきた。当時は高校以上への進学など(父の故郷では)ごく限られた者のみに許されていたことであった。父も進学の思いを殺して働きに出たのかもしれない。翻って現代は良い時代だと言える。そういう良い環境にあるわけだから、それを生かせばいいと思う。

 それに反してどうしても勉強する気になれず、大学へ行きたくないならそれもいいと思う。別に大学へ行かなくとも今の世の中はどうにでもなる。私も高校時代、ラグビーをやっていた同期のうち2人だけ大学へ行かなかった。卒業直後はどうするんだろうという状態だったが、今では2人ともサラリーマンである我々よりもしっかりと稼いでいる。1人は業界では著名人だし、もう1人は会社社長だ。大学へ進学するよりはるかに優秀な成果を上げている。
 
 世の母親たちがバカみたいに受験、受験と我が子を急き立てているが、結局「安定してはいるがそれだけ」のサラリーマンになるだけとも言える。一流企業に入ったとしても、所詮サラリーマンだ。中には立派に出世する人もいるだろうが、大半はそこそこの地位で終わるのだろう。進学しないとろくでもない人間になる可能性もあるが、一応進学校を出ているような者なら何とかなる可能性の方が高いと思う。その娘さんも何とかなるだろう。

 ただ、一言言うなら、「目の前のことを一生懸命やった方がいい」ということである。さすがにプラプラしているだけで何とかなるほど甘くはないと思う。アルバイトをしているなら、それを一生懸命やることだ。「時給以上に働く」「自分を雇って良かったと思われるように働く」という意識があれば十分だろう。そこから誰かの目に止まったり、縁があったりして次の道が開けていくかもしれない。

 将来が見えない若者時代は、しばし先行きに不安を持つものだと思う。自分もそうであった。精神科に行くほど気を病むその娘さんもそうなのかもしれない。ただ、言ってあげたい。「それは病気ではない」と。「健全な悩みなのだ」と。その経験はいつかきっと役に立つかもしれない。それは自分自身にとってかもしれないし、あとに続く弟かもしれないし、いずれ生まれてくる自分の子供かもしれない。その時、自信をもってその体験を伝えてあげられるはずである。
 
 もともとこの世の誰であろうと安定した道などというものはない。一流企業に入ってもJALのように倒産する例もあるし、大学へ行かなくても高級車に乗れる身分になれる。不安はあっても前に進んでいくしかない。魯迅ではないが、目の前に道はなくとも自分の歩いてきたところが道になるのである。だから今は苦しいことは考えず、自分の目の前の事を一生懸命やればいいと思う。

 「大丈夫」と伝えたいと思うのである・・・





【本日の読書】