よくよく考えてみると、おかしいよなと思えることはよくある。たとえば「歩きスマホ」。スマホを見ながら歩いていると、人にぶつかりそうになることからやめましょうというものである。それはそれでおかしくはないが、問題は危ないのは歩きスマホだけではないという事である。下を向いて歩いていれば同じように人にぶつかる懸念がある。雨の日に傘をさして下を向いていれば猶更である。先日はなんと文庫本を歩きながら読んでいる人を見かけたが、これも同じである。外人さんが地図を見ながら歩いているのを見かける事もあるが、紙の地図なら良くてスマホのGoogleMapはダメなのであろうかと思ってみたりする。
スマホと言えば、電車内での通話は遠慮するのがマナーである。車内放送でもご遠慮くださいとアナウンスしている。確かに車内で電話をされると耳障りでうるさいと思うから悪いことではない。しかし、耳障りという意味では、一緒に乗っている者同士の会話でも同じである。特にオバちゃん系になると遠慮がない分イライラ度は高い。なぜ1人の話し声は悪くて複数なら良いのだろうか。スマホは近年になって出てきた事象だからターゲットになってしまっているのかもしれないし、人に不快感を与えない配慮は必要であるが、それはスマホに限ったものではない。
エスカレーターで歩かないで下さいというのも変だと思う。「危険だから」というのがその理由であるが、エスカレーターだから危ないというのもおかしい。エスカレーターが動いているとしても、その上にいる人間からすれば普通の階段と同じである。相対的には動いていない階段と変わらない。階段自体は段になっているので平面に比べれば危ないとは言えるが、それは動いていない階段も同じ。「動いている」というだけで危ないというのかもしれないが、空港などにある動く歩道では「歩かないでください」というアナウンスはしていない。
また、そもそも危険かどうかを一々警告するのもいかがかと思う。歩行者同士が歩きスマホが原因でぶつかったとしても大した怪我にはならないだろうし、それが対車だったとしても当事者の問題であり、一々行政が警告するものではないように思う。それに危ないシーンはそれ以外にも多々ある。歩きスマホより酔っ払いの方がはるかに危ないと思う。そしてそれに対しては何も警告がない。もっとも、そうやって危ないと思われる行為に対して一々警告していたらきりがない。
そんな具合にまるで子どもに対するような警告はいかがなものかと思う。とは言え、ではそんな事はすべきではないのかと言えばそれもまた難しい。電車内で電話を遠慮する傾向は一般的に見られる。電話が鳴っても小声で断って切ったり、あるいは手で押さえて小声で話したりしている。そこには「避けなければいけないこと」という意識があるからだろう。私も急ぎの場合は電車を降りている。そういう行動を導いているのは、広く「警告」がなされているからに他ならない。
ガザ地区で支援物資を運び込んだトラックに民衆が殺到し、危険を感じた軍が発砲して死者が出たとニュースでやっていた。日本では震災時に支援物資を届けたヘリに、人々が整列して物資を受け取ったのを米軍パイロットが感動したと報じられていたのと対照的である。それもこれも、幼少時から「順番こ」「人に迷惑をかけない」と広く共有されているからだろう。そう考えると、こうるさく一々警告する文化も悪くないのかと思えたりする。そういう警告が、日本という社会の文化を作っているのかもしれない。
考えてみれば、我々の世代が子どもの頃は、みんな平気でゴミのポイ捨てをしていたし、歩きタバコも当たり前で、携帯用の灰皿などもなかった。当然、吸い終わればポイ捨てだし、社会のモラルも全体的に低かったと思う。それが改善されてきたのは、「ポイ捨てはやめましょう」「ゴミは分別しましょう」といったいろいろな警告の成果なのかもしれない。だとしたら、そうした警告が社会全体のコンセンサス作りに役立っていると言えることになる。お節介な人が注意することができるのも、コンセンサスがあればこそである。
そんなことをつらつら考えてみると、おかしな事にもそれなりに意味はあるのかもしれないと思う。物事を突き詰めて考えるのは割と好きな方で、それが苦にもならないが、ぐるっと思考が一巡すると結局何も考えないのと同じ結果になったりすることもある。面白いものだとは思いつつ、またおかしなことを見つけてはあれこれ考えてみるのだろうなと思うのである・・・
Arek SochaによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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