2020年10月21日水曜日

脱ハンコに思う

 コロナ禍で在宅ワークが広まり、その結果、在宅ワークの1つの阻害要因としてハンコ文化が浮かび上がり、「脱ハンコ」という考えが広まっている。さらに菅首相が官庁に対して脱ハンコの檄を飛ばしたから、この動きはもっと早まっていくのだろうと思う。それを期待して関連銘柄の株価も上昇しており、これはこれで時代の流れとして仕方がないのだろうと思う。ただ、それに対し、個人的には何となく寂しいものを感じる。ハンコ文化は、廃れて欲しくない文化だと思うからである。

 初めて自分のハンコを持ったのは、高校を卒業した時である。卒業の記念品として学校からもらったのであるが、卒業記念としては粋なプレゼントだったと思う。キチンと印鑑ケースに入れられた初めての自分のハンコは、何となくさらに大人になったという感じを抱かせてくれたものである。それはさっそく銀行で口座を作った時に「届出印」として利用し、以来、今に至るまで銀行の届出印はこれを使い続けている。

 これとは別に実印を持っているが、それは親が作ってくれたものである。何のきっかけがあったのかはわからないが、弟とあわせて作ってくれたのである。象牙が良いかと聞かれ、象牙は嫌だと答え、何とかという木製のものにしてもらった。先にもらった印鑑は名字だけであったが、実印はフルネーム4文字のもの。よく見ないと上下がわからないが、それは「実印を押す時はよく見て考えて押すため」と言われて納得した。使ったのは家と車を買う時と、最近では会社の借入の連帯保証であるが、やはり押す時は慎重に押した。

 銀行に入った時には仕事用の印鑑を支給されたが、これはシャチハタであった。一々朱肉をつけるのは非効率という考えがあったのだと思う。ただ、最初に仕えた上司はこだわりのある方で、銀行支給のシャチハタは使っていなかった。毎朝、女性行員に朱肉の掃除をさせていたが、今から思うと「責任を持って判を押す」という決意の表れだったのかもしれない。その上司には、判を逆さまに押すと「反対だがやむなく押す」という意味になるから気をつけなさいと注意されたのを覚えている。

 結局、銀行在職中は支給のシャチハタを使い続けたが、それはそこまでこだわりがなかったということによる。しかし、転職を機に朱肉式にしようと思い立ち、1つ専用のものを用意したが、ここでもまたしてもシャチハタを支給された。それは役職と日付と名前がセットになっているもので、やむなく社内の書類ではそれを使っている。ただし、それ宅建士として押す印鑑等では用意していたものを意地で使っている。今は、その他用として認印を1つ持っているが、今の自分の印鑑は仕事用を含めて計5本ということになる。

 印鑑の意味合いはと考えると、確かに押すには押すが果たしてどういう意味があるのか疑問に思うケースも多い。実印を押して印鑑証明を添付する場合は「本人確認」という意味があり、銀行の届出印も同じくこの意味がある。だが、ただの認印は三文判など簡単に手に入るし、印鑑照合をするわけでもなければ何の意味もない。我が社も賃貸契約書については、とりあえず印鑑を押してもらっているが、本人確認は別に(運転免許証など)で行っている。まあ、何か争いになってもこれが争点になることはほとんどないと思うから別に問題だとも思わないが・・・

 今後、役所関係の書類に捺印が不要となったとしても、我々都区民には影響はないと思う。オンライン化の流れの中で代わりの仕組みができるのであれば、それもまた良しである。脱ハンコと言っても、「本人確認」という意味合いではすぐになくなることも考えにくいし、ハンコ文化はイコール紙の文化でもあり、それは今後減ってもなくなるものではないと思う。それはつまりハンコについても、使う頻度は減ってもなくなることは(当面)ないということだろう。

 昨年、娘が高校を卒業したが、特に高校から印鑑のプレゼントというものはないようであった。そこで私から娘にプレゼントした。これから銀行口座を開いたり、何かと印鑑を使うことはあるだろう。持っていても困るということはないはず。今や銀行の口座も判がなくても作れるのかもしれないし、今後も必要性はなくなっていくのかもしれない。箪笥の肥やしならぬ引き出しの肥やしになるのかもしれないが、それでも「自分のハンコ」を持っていてもらいたいという親心である。

 時代の流れに逆らうつもりはないが、1つの文化の証として、私は自分の印鑑をこれからも大事にしていきたいと思うのである・・・


【本日の読書】
  



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