2019年1月23日水曜日

我が国の道路政策


実家が何年も前から立退きの話で揺れ動いている。そもそも両親が現在の実家を買って引越したのは昭和55年(1980年)のこと。当時すでに道路の建設予定があるということはわかった上での購入であった。道路計画と言っても、それは昭和21年に計画されたもの(特定整備路線放射第二号)である。既に当時で30年以上経過していたし、両親の間でも、「いつになるかわからない」、「もう建設されないのでは」なんて話が出ていたのをぼんやりと記憶している。

それが何と実現に向けて動き出したのである。さて、困ったのは両親。立退きと言われてもどこに行けばいいのかという問題がある。提示された補償金については、金額的には普通に売却するよりはいい金額ではないかと思うが、それほど突出しているわけではない。代わりの家と言っても、近所で探すとなると、とうてい保証金では賄えない。郊外へ目を向けば十分可能だが、両親(特に母親)は年老いて誰も知り合いのいないところへ行くのは嫌だと言っている。お金よりも今のまま住み続けたいというのが両親の希望である。

そもそもであるが、昭和213月に立てられた道路計画にどれほどの有効性があるのかは大きな疑問である。これには敷地内を道路が縦断することになっている星薬科大学も陳情書の中で訴えている。確かにその通りだろう。なんてったって70年も経てば周囲の状況も大きく変わっているわけで、それを「計画道路だってわかっていたでしょう」という理屈で推し進められてもという思いはする。

実家の近所では、「ゼネコン陰謀説」がささやかれている。曰く、「仕事が欲しいゼネコンが政府に陳情して仕事を作ってもらった」というものである。もっともらしいが、今はオリンピックやリニア新幹線や高速道路の補修やらいろいろある中で、この説にどこまで信ぴょう性があるかは疑わしい。ただ、70年を経て突然計画が動き出した理由は興味あるところである。もしかしたら、役所の方でただ順番として何も考えずに埃をはたいて引っ張り出して来たのかもしれない。

何回か説明会が開催され、私も両親とともに出席してきた。ただ、それはあくまでも「説明会」であって、住民の意見・希望を聞く会ではない。住民から反対意見が出ても、役所は「実施する」という前提で資料をそろえて説明し、質問に答えるべく来ているわけで、事情を聞いて考え直してくれるという立場ではない。それをわかってかわからずか、切実に移転したくないという思いを訴える人がいたのが印象的な説明会であった。

道路建設及びそれに伴う住民の立退きという問題は大きな問題であり、推進する行政側も大勢の関係者からなる組織で動いている。つまりそこに個人の感情が入り込む余地は少ないわけで、一旦動き始めると、ゆっくりではあっても確実に進むことになる。説明会に来ていた担当者たちも、切実な訴えを聞いて、たとえ心を動かされたとしても、組織の中では一歯車として全体の動きに加わらなければならない。抵抗はほとんど無駄である。

立退き条件の交渉に来た担当者も、あくまでも「立退き条件の交渉」で、「立退き交渉」ではない。立退きは嫌だと言っても、どうなるものではない。担当者の人は、さすがに年老いた両親に同情してくれたが、かと言って「では立ち退かなくて済むように上司に掛け合ってみます」なんて言ってくれるわけもない。せいぜいが、あれこれと理由をつけて立退きに伴う補償金額を上乗せしてくれる程度である。

それに住民側も一枚岩ではない。既にお金をもらって立ち退いてしまった人が何人もいて、「道路予定地」の看板が掲げられた空き地が既にあちこちにある。中には喜んでいる人もいるだろう。私も両親の住む実家だからあれこれと困っているが、空き家となった実家だという人なら、実家がなくなる寂寥感はあったとしても、現金化できて良かったと思うかもしれない。すべてはタイミングであり、それぞれが抱えた事情である。

それにしても、70年目の道路建設はやっぱり不可解である。立退きはやむを得ないとしても、実行に至る意識決定のプロセスにはとても興味がある。今度関係者に会う機会があれば、ダメもとで聞いてみようと思う。
立退き反対の両親の希望の光は、陳情に立っている星薬科大学である。個人のささやかな抵抗と比べれば、行政に対するインパクトはずっと強いだろう。何とか頑張っていただいて、両親の立退きが少しでも先延ばしできればと思うのである・・・

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