2018年5月13日日曜日

論語雑感 八佾第三(その1)

孔子謂季氏。八佾舞於庭。是可忍也。孰不可忍也。
(こう)()季氏(きし)()う、八佾(はちいつ)(てい)()わす、(これ)(しの)ぶべくんば、(いず)れをか(しの)ぶべからざらん。
【訳】
孔子が季孫氏を批評して云った、「季孫氏は家廟の祭礼で、天子のみが用いる八佾の舞楽を公然と自分の庭で舞わせた。大夫(家老)の身分では四佾で舞うべきところなのだが、天子の舞楽を舞わせるとは、僭越も甚だしい。このようなことが平気でまかり通るなら、どんな大それたことでもしでかしかねないだろう」と。
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論語も解釈が難しい。というよりも、原語がわからない身としては、訳に頼るしかないわけであるが、いつも頼りにしている「Web漢文大系」では、この訳は「季氏は前庭で八佾はちいつの舞を舞わせたが、これがゆるせたら、世の中にゆるせないことはないだろう」となっている。これだと最初はよくわからなかったが、上記の訳(実は中学生向け)だとスッキリ理解できる。論語を学ぶには、どの訳を選ぶのかがまず大事だと思う。

ここでは、本来皇帝家のみに許されていた舞を多少の権勢に驕って身の丈を超えて舞うことを許せないとしている。人間、自分に自信がついてくると驕りが出てくる。現代社会でも似たような事例はいくつもあるのではないかという気がする。「成金」という言葉は、否定的な意味合いが強いが、この言葉に含まれているニュアンスには、きっと「八佾の舞」に通じるところがあるように思う。

そういう自分に、では何か似たようなことで許せないと思うようなことはあるだろうかと自問してみると、ちょっと思い浮かばない。ただ、我々日本人のDNAには「分相応」という言葉が刻み込まれているから、「分不相応」に関しては割と反発心が起こりやすい気がする。例えば年下の者が年長者を飛び越えて意見を言ったり、あるいは部下が直属の上司を飛び越してその上の上司に直接意見を言ったりする場合に反発されるのはよくあることである。

反発する根底には、「権威」というものがあるように思う。皇帝家のみに許されている(=権威ある)舞をそうでないものが舞うことは、皇帝家の権威を侵犯する。舞う方にしてみれば、自分にもその権威にふさわしいという思いがある。直属の上司を飛び越えて意見を言えば、飛び越えられた上司の権威が揺らぐ。反発には自分の権威を守りたいという気持ちもあると思う。それは直接脅かされる直属の上司だけでなく、自分以外の者に権威を飛び越えられても困るという周りの者の気持ちもあるだろう。

権威を守ることは、一方で秩序を守ることでもある。孔子が反対するのは、皇帝家のみに許されている舞を多少権勢があるからと言って、下の者が舞うことは秩序維持の観点から好ましくないとの判断だろう。会社のヒエラルキーの中も同様で、秩序が揺らぐことは国や組織の安定を脅かすものだと言える。それはその通りだと思うが、それは一方ではまた組織の停滞の原因にもなるだけに難しいところである。

ただ、孔子の時代の中国と現代の日本社会という文脈の中では、単純に比較できないものがあるだろう。何よりも社会の安定が大事だったかもしれない孔子の生きていた環境では、権威を守ることが何より大切だったのかもしれない。それに対し、今の安定した日本の社会の中では、むしろどんどん秩序なんて壊していった方が、新陳代謝という意味でいいかもしれない。八佾の舞を誰もがどんどん舞うべきなのかもしれない。人が踊るのが許せないなら、自分はもっとうまく舞えばいいではないかという考え方もできる。

そうは思うものの、では自分はどうしているかと言うと、きちんと舞わずにいるかもしれない。今所属している会社の中では、自分より上の社長に対して守るべき分限を守っている。社長にやっていただくべきことは、やってもらうようにしている。社長がやらないならやるように説得してやってもらっている。やっぱり社長の権威を守ることで社内の秩序を維持していると言える。孔子の言いたかったことはこういうことかもしれない。

 八佾の舞を分を超えて踊る良し悪しは、結局その組織ごとに考えていくべきことなのかもしれない。いろいろと考えてみると面白いと思うのである・・・




【今週の読書】
 
    
     

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