子曰。不患人之不己知。患不知人也。
子曰く、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり。
【訳】
先師がいわれた。人が自分を知ってくれないということは少しも心配なことではない。自分が人を知らないということが心配なのだ。
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論語の言葉の中でも、なかなか深いと思わされるものとそうでないものとがある。もちろん、その感覚は人それぞれであるが、個人的に今回のこの言葉は「深い」と思わされる部類に入る。人は誰でも自分の人生では自分が主人公であり、自分こそが正義である。したがってそんな自分が批判されるのは快くないし、周りが自分を「正しく」評価してくれているかは大いに気になるところである。
自分のやっていることは常に正しいと信じているし、それはその通り周りにも認めて欲しいと思うのが人情というもの。だから批判されれば「不当」だと思うし、会社などで思った通り自分が評価されないと、「本当の自分を理解してくれていない」とか「たまたま運が悪かった」とかそういうものに求めたりする。だが、野村監督が言うように「評価は人が下したものが正しい」というのが真実であると思う。
自分自身そうした感情を過去には抱いていたし、同じような考えの人は多いと思うが、それこそがここに言う「患人之不己知」なのだろう。「自分がなぜ正当に評価されないのだ」という思いは、まさに「人之不己知」そのものであると思う。そして孔子はそれは憂いるに値しないと言う。確かに、「評価は人が下したものが正しい」と考えられるならば、その(自分にとって認めたくない)事実をどう次の行動に移すかとなるだろうし、その場合、確かに憂えている暇はないわけである。
そして後半の「患不知人也」であるが、人は得てして他人をそれほど知ろう=理解しようとは思わないものではないだろうかと思う。せいぜいが片思いの恋を成就させたいと思う時ぐらいではないかと思う。もちろん、恋についても相手を知ることは大事ではあるが、ビジネスにおいても実はとても重要なことである。その相手とは、取引先かもしれないし、あるいは一般消費者かもしれないが、相手のことがわかればビジネスも大いにやりやすくなることは間違いないであろう。なので、この言葉は消費者マインドをつかもうと日夜苦労しているビジネスマンなら大いに頷くところかもしれない。
一方で、例えば友人や会社の同僚となれば、それほど熱心に知ろうという気持ちにはならないかもしれない。新人として入社したばかりの人なら、周りの人を早く知って早く職場に慣れたいと思うかもしれないし、新米上司なら部下のことを早く掌握したいと思うかもしれない。残念ながら何でもない自分は、正直それほど深く知ろうという気持ちになれない。
そして正直に言えば、その人の粗が目についてしまうとどうしても批判的な視点が濃くなってしまう。どんな人にもいいところはあるわけで、「短所を見るより長所を見よ」と頭では理解できているものの、どうしても批判的視点から逃れられない。孔子の言葉を読んで真っ先に連想したのもこのことである。
孔子の言う「人を知る」は、「欠点を知る」と言う意味ではないと思う。悪い部分、できていない部分は自分でカバーすればいいではないかと頭では思う。あるいは不快な気分にさせることなく、改善するように働きかけるとか。自分の見えていない範囲で、その人も良き夫であったり父であったりするだろうし、そう言う部分を考えずして批判だけするのは簡単だが、それでは自分も天から見られたら小さく見えてしまう気がする。
そう考えてみると、「人を知る」と言うことは深い意味があると思えてならない。言葉で言うほど簡単ではない深みを感じるのである。孔子が2,500年前にどこまで考え、意図していたのかはわからないが、自分なりに解釈してうまく役立てたいと思う。
「早速明日から」と思うのである・・・
「早速明日から」と思うのである・・・
【今週の読書】
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