普段、何気なくやっていることでも、よくよく考えてみるとおかしいと思うことがある。先週参列した伯父の葬儀でも、そんなことをいくつか感じた。その一つが、「お清めの塩」である。
通夜なり告別式なりに参加すると、よく小袋に入れられた塩をもらう。「お清めの塩」であるが、その存在を初めて知ったのは、たぶん小学生くらいの頃だ。葬儀に参列した喪服姿の母親が、家に帰ってくるなり私に塩を振ってくれと言ったのである。そのシーンを今でも覚えている。「なんで?」と問う私に、「死を持ち込まないため」というような内容の答えを返してくれたのである。
以来、そういうものだと思って気にもしていなかった。私も古くからの伝統はわりと、意味の薄いものでも大切にするクチだ。だから妻に笑われても、今でも夜中に爪は切らない(妻は風呂上がりに爪を切るのが一番いいという主義だ)。だが、「お清めの塩」はいかがかと思う。
古来日本人は、死を「穢れたもの」としてきた。だから、「清める」のだろうが、他人ならともかく、身内の、しかも死んで少なくとも悲しく思う伯父の死を「穢れた」ものとは思いたくない。家に持ち込んでも、呪われるなんて思わないし、「清めたい」とも思わない。だから、清めの塩は今回は無視してしまった(母はそんな私に『またか』と顔をしかめていた)。
清めの塩は、科学的な意味は(少なくとも)現代ではもうない。本当に形式的なものであり、気持の問題だ。だから本人が良しとすれば別に問題はない。昔は、冷凍技術なんてなかったから、人が死ぬとすぐに腐敗が始まる。死んですぐ埋葬というわけにはいかなかっただろうし、万が一のために塩による「殺菌」もある程度意味があったのであろう。
ちなみに線香も、詳しい由来など知りもしないが、「腐敗臭」を消す目的があると思う。通夜の席では「線香の火を絶やさない」ようにする(地域によって違うのかもしれない)が、これも腐敗臭が漂い出すのを防ぐためだと思う。やはり親しい身内が死んだだけでも悲しいのに、腐敗臭が漂って来たらなおさらであろう。加齢臭だって嫌われるのだ・・・
その線香も、最近通夜で途絶えさせないようにするというのも意味を失いつつある。というのも、伯父の遺体はドライアイス漬け。最初に着せられていた作務衣も、納棺の時にはびしょびしょになっていた。今回火葬場の関係で、通夜は死んでから3日後であったが、この季節だし昔なら遺体は大変なことになっていただろうが、伯父の遺体は加齢臭すらしなかった。
そんなことを考えてみると、ますます「お清めの塩」などに意味はないことがわかってくる。だから今回、私は胸を張って「お清めの塩」を無視したが、そんな息子の「へ理屈」が通じないのが我が母親。またしても(自分たちには反論できない)理屈を並べ立てて、習わしに従わない私を快く思わなかったようである。
でも思うのである。葬儀で一番大切なのは何だろうかと。しきたりに従って、無難に一通りの手順を踏むことか。そうではなくて、感謝をもって故人を弔うことだろう。一番大事なのは「気持ち」だ、と少なくとも私は思う。伯父の死は、少なくとも私にとって穢れたものではない。したがって、清める必要などないのだと、母には言いたいと思う。
ただ人の考え方は人それぞれ。自分が死んだ時には、「お清め」してもらってもいっこうに構わない。穢れたものとして扱われたとしても怨むことはないだろう。化けて出ることはないと、この場で約束しておきたいと思うのである・・・
【今週の読書】
0 件のコメント:
コメントを投稿