「政治とは何か」と問われれば、一般的な大学の教科書によると、「われわれの住む社会における紛争を解決し、対立を調整しながら、社会の秩序を維持する人間の活動である」とされている。まあ難しい定義はともかくとして、意見の違う人々を取りまとめていくのは、やはり大変なことに違いない。
8月ともなれば、15日までは戦争と甲子園に彩られるものであるが、14日に注目していた安倍談話が発表された。さっそく全文に目を通した。基本的に、「どちらかと言えば安倍総理支持派」の私としては、批判するところはなかった。期待したほど踏み込んではいなかったものの、思っていた以上に「さまざまな配慮」が感じ取れる内容だった。まぁ現時点では一番良い内容なのだろうと思う。
それでも反安倍派の立場からは、やっぱり批判の声が上がっている。特に「戦争法案反対」とこぶしを振り上げている人たちからは、評価などまるでされていない。それも無理からぬことだと思う。自分に置き換えてみてもわかるが、快く思っていない人が、たとえ正しい事をしゃべっていたとしても、何か隠された意図があるのではないかと思ってしまうものである。ただでさえそうなのだから、この安倍談話の内容なら、叩くところはたくさんあるだろう。
安全保障関連法案(個人的には賛成である)や原発再稼働問題(個人的には反対である)など、いま国内で我々がもっと真剣に議論しなければならない問題が出ている。だが、議論すればお互いに納得のいく答えがでるだろうかと言えば、たぶんどんなに議論しても双方が納得する答えは出ないだろう。たとえば安全保障関連法案は、理屈の上でいけば、反対派の主張は筋が通らない(だから理屈男の私としては賛成に回っている)。だが、どんなに理屈が正しくとも、個人の感情の部分までは変えられない。それに「正しい理屈」などその気になればいくらでも導き出せる。
意見が対立したら、納得いくまで議論すればいいじゃないかと私も考えている。だが、世の中はすべてそれでうまくいくというわけではない。どんなに理屈で反論を論破しようとも、それでも賛同を得られないことがあるのだということを、ここ数年で個人の体験としても感じている。だから、どうしようもないと諦めればいいというものではないが、あまり理想を追い求めても難しいと思うのである。要は、そこでどう折り合いをつけるかだろう。
家庭でも会社でもその他の集まりでも、自分の意見が思うように通らないということは多々ある。それはそれでかなりなストレスになる。ただそこでイライラするか、まぁ仕方ないと受け流せるかが、ストレスを溜めこむか溜めこめないで済むかの差になる。
「意見の相違は意見の相違」として認められるかどうか。ともすれば、自分の意見を一生懸命説明して相手を説得しようとしてしまう。そして相手がそれを理解できないとイライラしてしまう。時には心の中で相手をバカにさえしてしまう。そんなこともこれまでは自分自身多々あった。
最近は少し力を抜いて対応できるようになってきたと自負しているが、それでもまだまだなところがある。自分の意見は絶対ではない。相手には相手の正論がある。相手が理解できないのは、うまく説明できない自分のせい。それで自分の思い通りにいかなくとも、仕方がない。
そんな考えで、リラックスして生きていきたいと思うこの日この頃なのである・・・
【本日の読書】
それにしても、やっぱり「安全保障関連法案」に反対する人たちの考えは理解できず、その反論内容を読んでしまうと、心穏やかになれないのである・・・
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