久しぶりに表参道を歩いた。
数年ぶりだったが、また少し雰囲気が変わっていた。
目についたのは、有名ファッションブランドの店舗。
この手の店舗には、何となく気後れする。
昔から、ファッションという分野は苦手な分野である。
何事につけ「花より団子」ではないが、「見た目より機能」を重視する自分としては、衣服という面においてもそう考えてしまう。だから「気に入った服」であれば、それをずっと着続けたいと思うし、そういう服は大概「機能(=着心地)」面で気に入る事が多かったりする。
それはそれで良いと思うのだが、問題は「世間がそれを良し」としない事だ。
それを初めて感じさせられたのは、1年間引きこもりそのものだった宅浪生活を経て大学に入った時の事だ。ラグビー部の門を叩いて一員となったある日、K先輩に「お前凄いズボン履いてるね」と言われた。その時履いていたのは、中村雅俊のドラマ「俺たちの時代」に象徴されるベルボトムのジーンズ。自分では気付いていなかったが、もはやそれは流行遅れのシロモノだったのである。
人は大概他人のファッションについては、面と向かって批判はしないものだろう。だからわからなかったが、その後社会人になって、婉曲的に女性に指摘された事もある。もっとはっきり指摘されたのは、結婚してからだ。「お気に入り」だった服は、妻からみんな「室内着」の指定を受けた。何でも結婚前、妻は私と結婚を考えるのにあたり、マイナスポイントとして私のファッション・センスが気になっていたらしいのだが、仲の良い友人に「服は変えられるわよ」とアドバイスされ、目をつぶる事にしたのだと言う。
こう告白すると、何だか情けない男のように思えてくる。だが、おかしいのはどっちなのかという気がしてならない。私の着ている服はすべて「購入したもの」だ。つまりどこかの誰かが、「これがいい」と決めたデザインで作られ、店頭に並べられていたものだ。その時点では、買って着てもまったくおかしなものではなかったものである。 ただ、それが「流行」というモノによって、「日陰モノ」にされてしまったのである。
「流行」って何だと言えば、それはどこかの誰かが、「今年はこれで行こう」と勝手に作りだしたものだ。そしてそれを、「今年はこれが流行るらしい」とみんなが採り入れる事によって決まっていくのだ。誰かが「右へ行け」と言うと、ぞろぞろと疑問も持たずについていく。「人が右へ行くなら我は左」という性格の私ゆえ、それは最も嫌悪するパターンだ。
しかし、それが世の中の流れとなると、異端児としては居心地が悪くなる。「おかしい」と指摘されたものを、「おかしくない」と主張して我を通すほど私も強くない。勢い「室内着」が増えていく、あるいは廃棄宣告を受けるのを眺めているしかない。私としては、ただ買った時に自分で良いと思い、そしてそれを気に入ったなら、自分が飽きるまでずっと着たいと思っている。なのに勝手に流行遅れの烙印を押して、「ファッション・センス・ゼロ」と言われる。何とも納得のいかない話だ。
まぁ嘆いていてもはじまらない。華やかな表参道のブティックの店舗を眺めつつ、せめて中味だけでも何とか維持していこうと感じた次第である・・・
2014年3月9日日曜日
ファッション
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