2013年6月22日土曜日

お酒の話

 今週は、同僚の送別会があった。もともとそんなに酒が飲める方ではない私は、たいていの場合、ジョッキでビール一杯+サワー一杯程度しか飲まないのであるが、去りゆく人に半ば無理に勧められるまま日本酒を飲んだらすっかり調子が狂ってしまった。この頃ではちょっと珍しい事だった。

 職場でも飲むのが好きな人は、毎日のように飲みに行っているようである。そこまでとはいかなくとも、家で晩酌が欠かせないという者も多い。私はと言えば、晩酌はしないし、飲みに行くのも歓送迎会+αくらいだし、せいぜいが週末の夜に一人映画を観る時にバーボンを少し飲むくらいだ。それで十分不満はない。

 初めてビールを飲んだのは中学生の時だった。お盆に田舎で近所から集まって来たおじさんたちに飲まされたのであるが、たいがいの人と同様、「こんな苦いものを大人たちはよくうまそうに飲むな」というのが感想だった。ビールの味に慣れたのは大学生の頃だったと思う。その他の酒についても同様だ。

 初めは自分が酒に強いか弱いかなんてわからない。ただ、そこは体育会系。「できない」とは言いたくない性分なので、それこそ吐くまで飲む。それで次第に限界がわかってくる。「ひょっとしたら自分はそんなに強くないな」と、学生時代を通して気がついたと言えるだろう。

 酒に対する耐性は遺伝なのだろうか。親父はやはり飲めない方で、飲めば顔が真っ赤になる。だが、祖父は飲ん兵衛で、顔には出ないタイプだった。私はと言えば、目の周りだけが赤くなる。遺伝であるようなないような気がするが、祖父と父と半々ずつ受け継いだとは言えるだろう。

 そんな程度なのでこれまで酒で失敗したという事はあまりない。でもやはり酒で失敗する人はいるもので、銀行に入って最初に配属になった支店には、飲むと見事に180度人が変わるという酒乱の人がいた。日中は穏やかで冗談を言っては周囲を和ませ、仕事も得意分野の個人ローンでは知識豊富でみんなに頼られていた。ところが飲むと酷い絡み酒。同僚からも、飲みに行った先々の店の人からも嫌われていた。誘われる時はジキル博士状態なので、のちのハイドの姿を想像し複雑な気分であった。

 幸い自分はそんなにおかしくなる性質ではなかったが、ただ困ったのはすぐに眠くなる事だ。特に接待の時は困った。注がれて飲まないのは失礼だし、飲んで寝るのは尚失礼。これでよくあとで上司に怒られた。今でもそうだが、こればかりは意識でコントロールできるものではない。「気がついたら落ちている」状態だから性質が悪い。それで自然とそんなに飲んでいなくても飲んでいる雰囲気を出す事ができるようになったと思う。

 ただ、プライベートでは時としていつの間にか限界オーバーしていた時もあった。自分でも危ないと思ったのは線路に落ちた時だ。日本酒を飲み過ぎて、なぜか途中下車した駅でフラフラ歩いていたらもの凄い衝撃があり、気がついたら目の高さにホームがあったのだ。すぐにホームに上ったが、電車が来ていなくて良かったと思う。しかしながらそれでもきちんと“着地”した自分の運動神経には、改めて関心した次第である(そのあと駅からの帰り道に電信柱に正面衝突もしてしまったなぁ・・・)。

 そんな程度の失敗はご愛嬌だ。これまでやけ酒というものは飲んだ事がないし、これからもそれはないだろう。その点では、楽しく上手に飲んでいると言えるのではないだろうか。
いずれ子供たちが大きくなったら酒を飲むようになるだろうか。妻の家系は徹底して下戸だし、父親もそんな状態だから、たぶん強くはならないのではないだろうか。

 事実、息子がまだ赤ん坊の頃、試しにバーボンを舐めさせたら真っ赤になった(あの時は妻にばれたら大変だとこっちは青くなった・・・)くらいだから、たぶん飲めない遺伝子は受け継いでいると思う。まあ飲めないなりに、飲み方はレクチャーしてあげたいと思うし、ちびちび一緒に楽しみたいとも思う。

 あるかないかどっちがいいかと問われれば、やっぱり酒はあった方がいい。そんなに飲めなくとも、まったく飲まないのはつまらないし、これからは特にビールのおいしい季節である。友達と会う時はやっぱり飲んだ方が楽しい。これからも付かず離れず、楽しく酒とは付き合っていきたいと思うのである・・・


【今週の読書】

逆説の日本史 19 幕末年代史編2 井伊直弼と尊王攘夷の謎 (小学館文庫 い 1-34) - 井沢 元彦 人生と財産―私の財産告白 - 本多 静六 マスカレード・ホテル (集英社文庫) - 東野 圭吾







     

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