2012年2月16日木曜日

一番古い記憶

映画ALWAYS 三丁目の夕日'64の舞台となっているのは、私の生まれた昭和39年の東京。当時の記憶などもちろん私にはない。だから映画を観ていて、その背景がどうだこうだという感じもしない。では一体どのくらい古い記憶があるのだろうかと辿ってみると、それは3歳の頃の記憶だ。

ちょうど4歳の時に引越しをしており、その少し前の記憶がいろいろと残っているのだ。両親は私が生まれると、それまで住んでいたアパートから目黒不動尊近くのアパートに引っ越しをした。「子供が産まれたら出ていく事」という契約だったらしい。今ではそんな約束をさせられるアパートなどないだろうが、歴史を感じさせるエピソードだ。

引っ越した先のアパートでの生活が、私の最も古い記憶だ。毎日銭湯に通っていて、ある時どうしても三輪車に乗っていくと言い張って三輪車で銭湯に行った。そうしたところ、出てきたら三輪車がなくなっていた。子供心に親の言う事を聞いておけば良かったと後悔した。

「キャプテンウルトラ」という番組をやっていて、その真似をして遊んでいた。今調べてみると、放送は1967年4月~10月だから確実に3歳の頃の記憶だと言える。ちなみに「キャプテンウルトラ」は「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」のつなぎの番組だ。シュピーゲル号という宇宙船が出てきて、その模型がとっても欲しかったのを覚えている。

近所の子供たちともよく遊んだ。名前などもう忘れてしまったが、互いに家を行き来していた。テレビは足のついた白黒だった。チャンネルはガチャガチャ回すスタイルだった。ALWAYS 三丁目の夕日'64では、鈴木オートで早くもカラーテレビを購入している。我が家にカラーテレビが来たのは、その後ずっと後になっての事だから、当時サラリーマンだった我が家では、まだまだカラーテレビは高根の花だったのかもしれない。


何を考えたのか、鼻の穴の中がかゆくてみかんの皮を鼻の穴に突っ込んだ事がある。まあ子供のやる事だ。当の本人にもなぜそんな事をしたのか覚えていない。そして見事に取れなくなった。母親に連れられて耳鼻科に行って取ってもらった。

4歳になった同じ月、弟が生まれた。叔母の家に預けられて数日間過ごした。夜ベランダに出て寂しくて泣いた。叔母に隠れて一人ベランダで泣いたのだが、わずか4歳にして「男は人に涙を見せてはいけない」という意識があった事になる(たぶん)。今だに人に涙を見せまいと、ALWAYS 三丁目の夕日'64をわざわざ人の少ないレイトショーで観に行くのだから、これこそ三つ子の魂なんとやらなのだろう。

親父が夜、仕事帰りだったのだろう、叔母の家まで迎えに来てくれた。たぶん嬉しかったのだろう、その時の事はよく覚えている。病院へ生まれたばかりの弟を見に行ったが、「猿みたいだ」と思ったのが第一印象だ。そしてそのアパートからの引っ越しは夜だった。夜逃げというわけではなく、親父が仕事を休めなかったためみたいだ。

いまでも実家から少し足を伸ばせばその界隈がある。目黒区の林試の森公園のすぐ近くのこの界隈を昨年両親と散歩した。両親にとっても、このあたりに住んでいた頃の事は懐かしいらしい。
我が家の子供たちも、果たして子供の頃の記憶はどのくらい残るのだろう。いずれ、今この瞬間も大昔の事になるのだろう。

懐かしい2012年を、いつか今の自分と同じように振り返っているのかもしれない。そう思うと、日々子供たちとの触れ合いをもっと密にしようと思う。そしてあっという間に過ぎゆく毎日だが、一日一日を大事に過ごしたいと、あらためて思うのである・・・


【本日の読書】

ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件 (Hitotsubashi Business Review Books) - 楠木 建   麒麟の翼 (講談社文庫) - 東野 圭吾







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