我が社には典型的な指示待ち族の人がいる。言われたことはきちんとやるが、言われないことは全くやらない。それは見事なほどである。以前、ある事をやっていない事を咎められたそうであるが、その時の回答が「指示されていませんから」だったそうである。咎めた人は「指示がなければやらないのか」と怒ったそうであるが、おそらく本人にしてみればやっていない事に対する精一杯の言い逃れだったのであろう。そんな指示待ち族ではあるが、いいところもあって、やれと言われたことはきちんとやる。その事務能力のクオリティは高い。もしかしたら私以上かもしれない。
なぜ、言われなければやらないのだろうか。おそらく、そこには仕事に対する根本的なスタンスがあるのだと思う。自分で考えるのが面倒だというのがあるかもしれない。あるいはそもそもそういう発想がないのかもしれない。真面目な方なので、入社時から言われたことを真面目にやるのが仕事だと思ってきたため、「自分からやる」という発想がないのかもしれない。仕事をやり終えると、時間が余ればネットサーフィンをしているので、しばしばそれを見咎められたりもしている。
私は高校生の時、将来の進路として「サラリーマンにはなりたくない」と友人に語っていたのを覚えている。その理由は単純で、「人に顎で指示されたくない」というものであった。会社の中で意思の持てない歯車の一つになるのが嫌だったのである。その気持ちは今でも変わらない。ただ、違うのは、「サラリーマンになったから歯車になるわけではない」ということを知ったことである。意識があれば自分から仕事を、そして会社を動かしていける。だからこそ、今楽しく働けているわけである。
その指示待ち族の方は、おそらくそれほど指示されることに抵抗がないのだろうし、むしろ指示してもらわないと困るとさえ思っているのだろう。それはもうご本人の性格だから仕方がない。ただ、若いうちならともかく、定年退職して嘱託の身分となると厳しくなる。我が社も余剰人員を抱えていられるほどゆとりはない。解雇にこそならないものの、出勤を減らして減給という方向に進んでいる。本人としては不本意らしいが、評価からすればやむをえない。
およそ信頼というのはどこから生まれるのだろうかと考えると、それは「責任」に行き着くと思う。「責任」を取る人は信頼され、取らない人は信頼されない。「指示されていません(からやりませんでした)」という回答に「責任」はない。「指示されていません」という回答には、指示をするべき人(責任者)の存在を指し示す。その言葉通りに「責任」を回避するわけであるが、責任から逃れながら同時に信頼を失っている事になるのである。事実、そうした指示待ち族を信頼する人はいない。
「それでも私は真面目に働いています」と言うかもしれない(私の人生最初の部下もそう言った)。しかし、真面目にやるのは当たり前である。「毎日会社に来ています」と言うのと同じで、それは小学生なら褒めてもらえるかもしれないが、社会人なら当たり前のことであってわざわざ強調することではない。真面目に働く上で、どう働くかが問われているのである。いちいち指示されなければ何もできない、しないのでは当然、評価もされないし信頼もされない。最低限の保証はしてくれるかもしれないが、そこで終わりである。
その指示待ち族の方も、ひょっとしたら働き方がわからなかったのかもしれない。誰だって責められたり怒られたりするのは嫌である。嫌なことから逃げるために、いつしか言われた事だけやるようになったのかもしれない。その方が怒られないという意味で快適である。余計な事を考える必要もない。その楽な地位に安住してきた結果、そこから抜け出す方法がわからなくなったのだろうと思う。それも一つの働き方ではあるが、ご本人は給料はこれ以上減らされたくないと思っている。であれば働き方を変えていただくしかない。
どうやって変えたらいいのか、ご本人にはわからないようである。もう変われないとは思わない。人はいくつになっても変わることはできるし、働き方ならいくらでも変えられる。これから少し、どうやったらいいのかについて自分なりにその方にレクチャーしてみたいと思うのである・・・
【今週の読書】
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