************************************************************************************
普段、会社では同僚とよく話をしているが、その内容はと言えば日常生活の他愛もないことや、仕事の話といっても目先のことが大半で、本質的な話というのはほとんどしない。振り返って見れば、これまでもずっとそうだったと思う。だが、一方で本質的な話こそじっくりしたいなと思っていたりする。自分の会社はこれからかくあるべしとか、働くに際してはこうすべしとか、そういう話である。
そういう話をなぜしないのかと言えば、やはり真面目くさってし難いというものがある。もともと日本人的には唾を飛ばして議論をしあうというのを好まないところがある。意見がぶつかりそうな話題を避ける傾向がある。だからジャイアンツの話は気軽にできても、政治の話はし難い。議論しあってすっきり終わるのであればまだしも、大抵意見の相違が埋まることはなく、感情的なシコリが残るくらいなら議論しないほうがマシとも言える。
仕事でも人によって温度差というものがある。熱心に残業も厭わず働くのを良しとする者がいる一方で、ワークライフバランスを重視する人もいる。前者が後者に「残業してでも、休日出勤してでもやるべき」なんて熱心に説いてもすれ違うだけであろう。私はと言えば、仕事は当然熱心にやるべきで、そのためには残業でも休日出勤でも厭わずやる。しかし、その分のプライベートの埋め合わせはきっちりやる。代休はしっかり取るし、平日の勤務時間でもプライベートに充てたりする。それでいいと思う。
そういう働き方に対する考え方に関してはみんなそれぞれあると思う。我が社でも仕事熱心な社員がいる一方で、「指示待ち族」や「ぶら下がりーマン」はいる。と言っても本人がそういう意識を持っているかどうかはわからない。もしかしたら持っていないかもしれない。一度どこかでそういう働き方の話をしてみたいとは思うものの、日常業務の中ではなかなかし難いのは確かである。
考え方というのは非常に大事だと思う。それは行動面での根幹を成すからである。仕事であっても生き方であってもである。家庭でも2人の子供達にいろいろと話をしたいと常日頃考えている。それも目先の受験だとか、大学生活の送り方だとかそういうものも含めた自分の考え方である。だが、そのタイミングは難しい。食事の時にでもそういう話題になれば話を持っていきやすいが、そうでないと「まぁそこに座れ」とやるのもいかがかと思う。
そうした話は、やはり「何かのタイミング」だと思う。自分もそうだが、周りのみんなもそういう意見を持っているかもしれないし、そういう話を膝突き詰めてできたら面白いと思う。2,500年前の中国でもやはり同じだったのだろうと思う。孔子のそういう話を弟子はもっと聞きたいと思っていたのかもしれないが、孔子としてはそのタイミングがなかなかなかったのかもしれない。そう考えると、一度そういう機会を設けてもいいのかなと思う。
仕事にしても家庭にしても少し改まった話をする機会も大事かと思う。どちらにせよ、一度そういう機会を設けてみようかと改めて思うのである・・・
Gerd AltmannによるPixabayからの画像 |
0 件のコメント:
コメントを投稿