2018年8月12日日曜日

私の目指す働き方

 同僚の1人が腰痛で随分痛そうにしていた。自分自身、腰痛の経験はないが、実家の母などの様子を見ているとやっぱり辛いみたいである。同僚に対しては、その人でないとという仕事が終わったところで帰宅を促し、さらに翌日の金曜日も休むように伝えた。ところが、本人はどうも渋い顔。何度か促したところ、その日だけは諸々整理しておいて翌日は休むことにようやく同意した。昔気質ゆえに休むことに抵抗があるよようである。

 その気持ちは私もよくわかる。私も実は熱を出したりして、体調不良で仕事を休んだことはない(早退はある)。体育会気質とでもいうのであろうか、仕事を休むのは練習を休むのと同じくらい「あり得ないこと」といった感じがあった。だから同僚の気持ちもよくわかる。ただし、一方でメリハリもつけていたので、連続休暇など休む時はしっかり休むのが主義であった。しかし、若手銀行員時代はそれがうまくいかず不満山積であったのを思い出す。

 私が若手銀行員だった1990年代、「仕事を休むのは悪」という空気が蔓延していた。入行1年目の時の上司は、夏休みにも関わらず職場に出てきて、「俺は今日は休みだから」と裏にこもって仕事をしていた。最初の夏休みは、その上司が係員全員の休みを決めて本人に通知していた。月曜日から金曜日まで休めば土日を挟んで長く連続して休めるのに、わざわざ水曜日スタートの予定を示された。私は悩んだ末に、その上司と直談判し、最後は「どうしても休みたい」と主張し、月曜日からの休みを勝ち取った。

 その休み期間中も基本的に毎日職場に電話するのがルール。同僚にわからないことや困ったことがないか確認するのである。私は休んだ気がしなくて、これが嫌であった。そこである時、海外旅行に行くのをいいことに電話をすっぽかしていたら、宿泊先のホテルにまで電話がかかってきたことがある。「何事か」と驚いたが、大した用件でもなかった。こんな調子で、一体何が楽しいのかという有様である。携帯電話もない時代、外出先では公衆電話を探さないといけないし、電話をすること自体が大変な時代であったのに、である。仕事を休むことは同僚に迷惑をかけることと同義の時代であった。

 その後、状況はだいぶ改善されて、「お互い様」の精神で「休みの時は電話しない」というやり方が定着した。当たり前だが、自分も休み中に職場から電話がかかってきたら嫌だろうし、なら仲間が休んでいる時は、少々大変でもなんとかしてあげれば、自分の時もそうしてもらえるのである。休みも奨励されるようになってきたし、残業もしないように促されるようになった。かつては残業の申告をせずに遅くまで仕事をさせられていたものである。PCの浸透により労働時間が記録されるようになったことも大きいだろう。

 銀行など大企業は進んでそういう状況になっているが、中小企業では相変わらず昔のまま。さすがに休み期間中に電話をするルールはないが、みんな休みを取ることに後ろめたさを感じているのは変わらない。「三つ子の魂百までも」というやつだろう。ただ、休めばいいというものでもない。「休みたい時に休む」のがいいと思う。さらに、やっぱり私は昔から「メリハリ」を重視しているから、「働く時は働く、休む時は休む」という方が好きであるから、できれば「好きな時に」それができればと思う。。それは、みんなにもそうであってほしいと思う。

 例えば、私は土日でも会社で唯一テレワークしている。会社は土日が休みだが、不動産賃貸業は土日が重要。我が社の場合、電話でとりあえず用は足りるのでその役を私が買っているのである。その代わり、平日の仕事中でも母親の病院送迎などは遠慮なく抜けているし、私用で抜けることもしばしばである。このメリハリが心地良い。休みを取ることを渋る同僚には、「今は歯を食いしばって働く時代ではないですよ」と言って納得してもらった。休む時は休んでもらう。その代わり、働く時は多少の不都合はあってもお客様優先で働いてもらう。これでいいと思う。

 世は「働き方改革」が叫ばれている。どういう形がいいかはいろいろ議論があるのかもしれないが、私には今の「124時間、週7日間、働くべき時に働き、休むべき時に休む、そしてそれを自分で決める」というスタイルが極めて心地良い。それでしっかりと成果を出し、さらに「自由に働き、自由に休む」というスタイルにしていきたいと思う。
 働くことが楽しいと思える今、それをさらに極めていきたいと思うのである・・・





【今週の読書】
  
 
 



0 件のコメント:

コメントを投稿