2017年9月4日月曜日

ルール

いよいよ八月も終わり、ラグビーシーズンが本格化する。母校の成績も気になるが、それ以外にも一流チームの試合を観戦するという楽しみも尽きない。そうしたシーズン開始にあたり、今シーズンから試験的なルール変更が導入されることになっている。「ラグビーはルールがわかりにくい」と言われているが、ラグビーのルールは、「簡単と言えば簡単」、「難しいと言えば難しい」ものだと思う。

素人的には、難しく考えずに簡単に見ればいいというのが私の意見。細かいルールなど分からなくても、「前に投げたり落としたりしてはいけない」「倒れたらボールを離さないといけない」など覚えておけば、細かいルールなどは分からなくてもいいと思う。我々でさえ、外から見ていれば密集の中で何の反則があったのかなど分からない。レフリーが笛を吹いたら反則があったという理解で十分ではないかと思う。

知らない人はともかく、知っている者はこうしたルール変更についていかないと、観ていても混乱しかねない。なので一応頭には入れるが、あとは観て理解するしかない。そんなルール変更の通達があり、卒業した大学のラグビー部のメーリングリストで親切にもそれを教えてくれる人がいて、自分はそれを一生懸命理解しようとしている。そこでふと気がついたのだが、教えてくれる人はラグビー協会に出入りしている人で、ラグビー協会もまた世界ルールについては一生懸命理解し、伝えようとしているのだと。

何でもそうだが、ルールには「作る人」とそれを「守る人」がいる。ラグビーはイギリス発祥のスポーツで、ニュージーランドを始めとする世界の強豪国がルール制定にも指導的立場にある。日本がルール改正を主導していくことはまずないのだろう。そう言えばオリンピックでも、確かスキーやバレーなど日本がメダルを独占していたらルールを変えられて勝てなくなったという話を聞いたことがある。ラグビーではそもそも強豪国は日本など眼中にないだろうからそういう陰謀めいたものはないが、日本人はルールを作るより守るタイプだと何となく思う。

例えば、オリンピック競技のように欧米は勝つためには自分たちの有利なようにルールを変えてしまおうとするが、日本人はルールの中でいかに勝つかと努力する。それはビジネスの世界でも同様な気がする。海外で開発された製品を改良するのは得意だが、そもそも生み出す力は弱かったり、あるいは日々の仕事でも与えられた範囲内で一生懸命やろうとするが、そもそもその範囲を超えたり変えたりすることは苦手だったりする。

今の会社でも新しいことをやろうと言い出す人は誰もいない。仕事の上で、意見具申してくる人もいるが、大抵それは方法論の世界で、「同じやるならこうした方が効率的」という内容である。その前提としてその仕事をするというものがあり、その仕事をしようかどうしようかという提案ではない。それはそれで悪くはないのであるが、何となく「決められた枠組みでやる」ということに居心地の良さを感じているように思えるところがある。

それは突き詰めていくと、日本人の平等意識にあるのかもしれないとも思える。例えば集団の中で意見が対立した時に、誰が正しいのかを決める基準が必要となる。みんなが平等と考えると、その基準はみんなが納得したものでなければならない。全員であらかじめ合意形成をするか、あるいは絶対的な人が決めるか。言って見れば「錦の御旗」意識である。「お上」とか「お家」とか天皇陛下とかGHQとか。

そうした「従うべき基準」を元に、価値判断をしているのが性になっていると思うのだが、どうだろうか。そう言えば若い頃、休日にも会社の行事に駆り出され、「仕事だ」と言われれば逆らうことが許されない雰囲気であったが、それもそんな性の延長ではないかと思う。ラグビーの世界では、強豪国がリードするルールに従うのは仕方ないかもしれない。そして過去にはそんなルールをうまく解釈して世界を驚かせるプレーを開発した実績もある。それはそれで1つの特技であるとも言える。

総勢10名の中小企業では、常に誰かが舵取りをしなければならない。そこには決まった進路もルールもない。幸い船頭役を担うことを認めてもらえているし(自然的にそういう風にもっていったのである)、これからも自分はルールを守るよりもそれを作る役目を果たしていきたいと思う。家庭内では有無を言わさず守る立場になってしまっているが、せめて職場では「作る人」でありたいと思うのである・・・







【今週の読書】
 
     

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