有子曰。信近於義。言可復也。恭近於禮。遠恥辱也。因不失其親。亦可宗也。
有子曰く、信、義に近ければ、言復むべきなり。恭、礼に近ければ、恥辱に遠ざかる。因ること其の親を失わざれば、亦た宗ぶ可きなり。
有先生がいわれた。約束したことが正義にかなっておれば、その約束どおりに履行できるものだ。丁寧さが礼にかなっておれば、人に軽んぜられることはないものだ。人にたよる時に、たよるべき人物の選定を誤っていなければ、生涯その人を尊敬していけるものだ
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最初の「約束したことが正義にかなう」とはどういうことかと考えてみるが、よくわからない。そもそもここでいう「正義」とは、「正しいこと」ということであろうか。どうもしっくりいかず、逆に「守れない約束」とは何かと考えると、それは「できない約束」であろうかと思ってみたりする。これなら銀行員時代から今に至るまで、仕事で経験していることが瞬時に脳裏に浮かぶ。「いついつまでに返済する」、「いついつまでに家賃を払う」と言った「守られない約束」の類だ。
お金の場合、「払う意思」ももちろん大事だが、肝心のお金がなければどうにもならない。約束を守れない人というのは(そもそも払う意思のない人は除いて)、楽観的な見通しに基づく当てが外れた人とも言える。「いついつまでにこのくらいお金が入ってくるからそれで払おう」、「これで一発当ててお金を作ろう」、「今手元にあるが、また入ってくるから使ってしまおう」等々様々なようであるが、いずれも同じ理屈である。
約束というのは、守れば信頼を得られるが、守られなければ信頼を失うものである。しかも簡単に。有子の意図した正義の意味はやっぱりよくわからないが、ここで言う正義とは「確かな見通しに基づいた意思」ではないかと思うところである。それをきちんと理解した上でしっかりと約束できる人は、時間通りに待ち合わせ場所に行くだろうし、したがって信頼を得られるのだろうと思う。
「丁寧さ」という点で、今も難しいのは「親しさとの紙一重」だ。仕事では、よく人の言葉遣いが気になる時がある。「うん、うん」とか「そうなんだよねぇ〜」とか、一見馴れ馴れしいように思えるが、初対面の相手はともかくとして、お得意さんとなると「親しさ」になる場合もあって判断が難しい。私はどちらかというと、「親しき仲にも礼儀あり」で常に丁寧語は崩さないが、それが逆に「取っ付き難い」と思われている節もあって、何とも悩ましい。
ただ、「人に軽んぜられることはない」という部分は、確かにそうではないかと思う時もある。映画などで、悪の親玉などが丁寧語で喋っていると、それだけで乱暴な言葉遣いの下っ端よりもはるかな凄みが出る。トラブルになって相手が激昂した時、丁寧に静かに話し続けたら相手も冷静さを取り戻したというケースもあった。「丁寧さ」も礼にかなっていれば(つまり理屈にかなっていればということだろうか)、そんな効果もあるということかもしれない。
人に頼る時に相手を選ぶというのは、至極当然のことのように思う。ここでは「生涯その人を(尊敬していける)」という部分に想いが至る。というのも、「仕事で尊敬しうる人だ、生涯おつきあいしたい人だ」と思う方はいるのだが、普段なかなかコンタクトを取れないというもどかしさを抱えているからである。年賀状はやりとりしていても、直接お会いしていない。と言って普段用事もなくてなかなか会いにも行けない。
尊敬とは心の中で思っているだけなのだろうかと思うと、それだけではない気がする。年に一度でもお会いして、その薫陶を得たいと思う一方、自分の存在を印象付けたいという思いもある。「機会がない」と嘆くだけではなく、機会を作ってでも今年はお会いしていただくべきかと思う次第である。やはり、思いは態度で伝えたい。
今年は、ぜひそういうアクションを起こしてみようと思うのである・・・
今年は、ぜひそういうアクションを起こしてみようと思うのである・・・
【今週の読書】
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