自分自身に欠けていたものが息子に実現されるのを見ようとするのは、全ての父親の敬虔な願いである。
ゲーテ
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昨日は息子の通う小学校の学校公開日であった。昔は年に一回程度の授業参観というものがあったが、今はスタイルが変わり、年に幾度となく公開日が設けられている。娘の時は6年生まできっちり行っていた(もちろん、6年次に息子が入学したという事情もある)が、今回は行くのをやめてしまった。別に手抜きをしているわけではない。息子から「来ないでくれ」と言われたことがその理由である。なんとなくその気持ちが理解できたからやめたのである。娘からは「来ないで」と言われたことはないが、これが男の子と女の子の違いなのだろうかと思ってみたりする。
しかしながら、最後は避難訓練と称して親が子供を学校まで引き取りに行くことになっていたので、結局学校へは行ったのである。校庭で担任の先生に名前を告げ、息子と帰ろうとすると、おもむろに「友達と帰るから」と無情にも告げられた。それを聞いて苦笑してしまった。どうやら息子も「通るべき道」を通り始めたらしい。
思い返せば、自分も小学校低学年の頃までは母親に甘えていたと思う。なんとなく寝る時に子守唄を歌ってくれとせがんだのを覚えているが、それがいつのことだったかは思い出せない。小学校もだんだんと学年が上がると、外で母親と一緒にいることを気恥ずかしく思うようになっていき、一緒に歩くのも嫌だったと記憶している。と言っても、母親が嫌いだったわけではなく、一緒に歩いているのを友達に見られるのが嫌だったのである。
思うにそれは、「母親と一緒=子供」というイメージがあったためである。「子供」と言っても正確に言えば「幼児」である。「もう自分はそういういつまでも母親の世話を必要とする幼児ではない」という意識が働いていたのだと思うが、今思えばおかしなことだと思える。それが再び抵抗感がなくなったのは、大人になってからである。良く解釈すれば、精神的な自立である。
息子は今でも家では母親に甘えている。しかし、一歩外へ出れば距離を置きたがるようである。学校公開もそうであるが、少年野球の試合も観に行くと言えば息子は嫌な顔をする。その気持ちは自分も経験しているだけに良くわかる。観に行きたいという反面、そういう息子の気持ちも大事にしてあげたいとも思う。それが親から自立しようとする息子の成長過程の一コマならば、あえてそこに踏み込まなくてもと思うのである。
中学、高校と経て、自分がいつから母親と一緒に歩くことに抵抗感がなくなったのかはもう覚えてはいない。大学3年の時、秋の大学ラグビーの対抗戦で、初めて早稲田大学と有料試合をやった時、両親に試合を観に来るように誘ったが、その時はもう抵抗がなかったのかもしれない。神奈川県の三沢競技場まで結構距離があったのだが、両親は揃って観戦に来てくれた。弱小国立大学の我がチームは、天下の早稲田大学相手に0-114の記録的大敗を喫したが、両親が観に来てくれて嬉しかったのを覚えている。そういえば、あの時はどんな心境だったのかと今にして思う。その時、両親に聞いたかもしれないが忘れてしまったし、今度改めて聞いてみたいとも思う。
子供達には、いずれにしろ求めるのは「自立」である。特に精神的な自立は、まずもって第一に挙げたいところである。息子がその過程にあるとしたら、それはそれで喜ばしい限りである。そんな息子には、父親として語ってやりたいことがたくさんある。お説教モードになれば、「聞く耳持たず」となるだろう。自分がどういう話だったら耳を傾けてきたのか、よく思い出してみたいとも思う。
自分が経験してきた過程を、一つ一つ息子が経験していくことを喜ばしく思う。願わくば、自分の失敗は回避させたいし、成功は真似させたい。そんな息子の成長を楽しみにしたいと思うところである。どんな男に育っていくのか、我が事として楽しみにしていきたいと思うのである・・・
【本日の読書】
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