2019年5月19日日曜日

学校へのスマホ持ち込み解禁に思う

 政府は2月、公立小中学校への携帯電話やスマートフォンの持ち込みを原則禁止した文部科学省の通知を見直す方針を示した。大阪府教育庁も今年度から、緊急時の連絡手段の確保に向け公立小中学校に通う児童・生徒について、スマホや携帯電話の校内への持ち込みを認めた。ただ、教育界では反発や異論も根強い。     
産経ニュース-2019/04/20
************************************************************************************

 スマホも随分普及してきた。我が家も娘には高校入学と同時に買い与えた。中学生の息子はまだ「キッズ携帯」である。息子もたぶん高校生になれば買い与えるようになるのだろうと思う。この方針は妻の考えであるが、私としては別の考えを持っており、少々不満はあるが妻に合わせているという実情である。一方、学校には当然持ち込み禁止であり、それは当然だと思っていたから、文科省の方針には驚くとともに「やるじゃないか」と思わずにはいられないところである。

 もっとも通知を受けて大阪府の教育委員会が示した目的は、「防災・防犯のためと明記し、使用は地震などの災害時や犯罪に巻き込まれる危険に直面した場合に限る」としているので、そこは感心しがたいと思うところである。どうせなら「ITリテラシー育成」とでもしてくれたなら大いに賞賛したと思う。その根底には「スマホ=悪」という感覚があるのだろう。「悪」と言っても酒やたばこのような「子どもには有害」という意味である。

 しかしながら私はアルコールやたばことは同一視しがたいものがあると思う。むしろ「ITリテラシー」の方に重点を置く考え方で、なので早いうちから積極的に触れさせたいと考えている。家庭でもともかく学校でもそうである。もちろん、いろいろと考えなければならない問題はある。それは「解決」すればいいだけである。それよりも早くからスマホを使いこなし、それを有意義に使えるようになれるようにすべきだと思う。

 学校での使用については、考えなければならない問題は当然あるだろう。たとえば授業中に見ていたり、LINE等友達同士ですぐに返信しないと非難されたり、「スマホ依存症」と言われる状況である。ただし、これこそ学校で教える良い問題だと思う。私などはむしろ学校でこういうことをきちんと教えることが大事だと思う。学校への持ち込みは「免許制」にしたらいいというのが私のアイディアである。

 たとえば学校で希望者に「講習」を受けさせその結果「免許」を与えるのである。「講習」では当然スマホにまつわる様々な問題を採り上げ、やってはいけないことをはっきりさせておく。いじめにつながりかねない問題は当然である。家に帰ったら夜10時以降は親に預けるルールまで設定すれば、家庭でも親が子どもの反抗を招くことなく預かれる理由になる。もちろん、教師が求めた場合はスマホを閲覧させる同意も含めるのである。免許の有効期間を1年とすれば、毎年ルールを再確認させられる。

 一律禁止は禁止する側としては楽である。だが、それはただ楽をしているだけで子どもに対する教育にはならない。子どもにスマホを持たせたくないのは「正しい使い方」ができないだろうからで、なら「正しい使い方」を教えるのが大人としてのあり方だろう。その昔、社会党の土井委員長が憲法改正について、「ダメなものはダメ」とのたまわっていたが、こういう「思考停止」の態度では健全な議論も生まれない。大人も「思考停止」にならないためには、問題に逃げずに向き合う必要があると思う。
 
 我が家の「高校生まではダメ」というローカル・ルールは「教育的方針」というより「経済的理由」のような気がする。問題は「妻の思考回路」にあるだけに、こればっかりはなかなか難しい。息子もあと2年我慢するしかない。ただし、息子には私の一存でタブレット端末を与えている。家庭内のWiFiに接続し、いつの間にか使いこなしている。電話の機能はなくてもまぁ私の目的は達しているので良しとしている。

 それにしても中学2年の息子の周りではほとんどみんなスマホを持っているという。息子は持っていない少数派の数人の1人だという。よくそれで「欲しい」と言い出さないなと逆に感心しているが、もはやそういう時代なのである。学校に持ち込ませないことで、学校の先生たちが安心しているとしたら、それはもや問題から目を背けているだけである。正しい使い方こそ学校で教えるべきで、その意味で「スマホ持ち込み解禁」すべきなのである。

 学校へのスマホ持ち込み禁止を当然だと思っている大人は、そういう固定観念と思考停止に危機感を持った方がいいと思うのである・・・




【本日の読書】
 
   
   
    

2019年5月12日日曜日

論語雑感 八佾第三(その24)


〔 原文 〕
儀封人請見。曰。君子之至於斯也。吾未嘗不得見也。從者見之。出曰。二三子。何患於喪乎。天下之無道也久矣。天將以夫子爲木鐸。
〔 読み下し 〕
()封人(ほうじん)(まみ)えんことを()う。()わく、(くん)()(ここ)(いた)るや、(われ)(いま)(かつ)(まみ)ゆることを()ずんばあらざるなり。従者(じゅうしゃ)(これ)(まみ)えしむ。()でて()わく、()(さん)()(なん)(うしな)うことを(うれ)えんや。(てん)()(みち)()きや(ひさ)し。(てん)(まさ)(ふう)()(もっ)木鐸(ぼくたく)()さんとす。
【訳】
儀の関守が先師に面会を求めていった。
「有徳のお方がこの関所をお通りになる時に、私がお目にかかれなかったためしは、これまでまだ一度もございません」
お供の門人たちが、彼を先師の部屋に通した。やがて面会を終って出て来た彼は、門人たちにいった。
「諸君は、先生が野に下られたことを少しも悲観されることはありませんぞ。天下の道義が地におちてすでに久しいものですが、天は、先生を一国だけにとめておかないで、天下の木鐸にしようとしているのです」(下村湖人『現代訳論語』)
************************************************************************************

 論語と言えば、何となく「孔子の言葉」を伝えているものというイメージがあるが、ここで伝えられているのは「エピソード」である。詳しくはわからないが、当時の中国にも関所のようなところがあったのであろう。そこを通過する時は、大概身分を明かして通行の許可を求めたのだと思う。そして許可を求めてきた相手が孔子だとわかり、関所の責任者が孔子に面会を求めたというのであろう。当然、許可をもらう立場としては断るわけにもいかず、面会に応じた。何となくそんな場面を想像してみたのである。

 そして面会の結果、この責任者は孔子の人となりを認め、弟子たちを励ましたということである。今は浪人の身であろうといずれ世に出るであろうと。ちなみに『木鐸』とは「法令などを人民に伝えるために鳴らした木の舌のある鈴。軍事には金鐸を使い、文事には木鐸を使った。転じて、世間の人々を導く指導者」という意味であるらしい。どのくらいの時間話をしたのかはわからないが、初対面でも孔子が大人物であるとわかったということであろう。そしてそれを弟子たちとしては誇らしげに記録に留めたということなのだと推察される。

 この時の関所の役人がどうして一度の面談で孔子を人物と判断したかはわからないが、話の内容によって相手の力量がわかるということはしばしばある。それは単なる雑談だけだとわかりにくいかもしれないが、専門分野のことに関して話が及んだ場合感じられることが多い。それも単に専門分野に詳しいといったことではなく、そこに「哲学」がある場合などである。どんな考え、どんな思いを持ってそこに打ち込んでいるのか。それによって自然とリスペクトの念が湧いてくることがある。そんな時、相手を「人物」だと思う。関所の役人は孔子とあるべき政治の姿について話をしたのかもしれない。
 
 私の場合、一番これを感じるのが経営に関してである。長年の銀行員生活で培ったと言えば聞こえはいいかもしれないが、話をすることによって相手の方の力量がわかることはしばしばである。それは単に大会社の社長であれば「大人物」で中小企業であればそうではないというものではない。大企業でも特に危機対応などで馬脚を現す人は多いが、中小企業でも「人物」だと感じさせられる方もいる。その差はうまく言い表せないが、やはり「哲学」だと思う。

 「哲学」は「言葉」と置き換えてもいいかもしれない。聖書でも「初めに言葉ありき」(ヨハネの福音書11)と語られているが、語られる言葉はその人の思想であり哲学を表す。それが真理であればあるほど、その言葉を使う人に対するリスペクトにつながる。経営者でも日頃から哲学を持って経営している人と、そうでない人は言葉が違う。たんに目先の利益だけ追っているような経営者から、心から共感できるような哲学を宿した言葉を聞けることはない。

 プロ野球選手でも、元楽天の野村監督や元中日の落合監督は、著書も何冊も読んでいるが、言葉に哲学が宿っている。今年引退したイチローも数々の名言には哲学が感じられる。成功したから哲学があるのか、哲学があるから成功したのかはわからないが、ただ単に野球がうまいというだけでないことは、語られている言葉によってわかる。それは日々の努力によって培われたものでもあると思うが、日頃から「考えている」ことに他ならないだろうと思う。

 日々の仕事でも考えることは山ほどある。単に目先の細々とした「作業」レベルではなく、「そもそも」論である。「我々は何者なのか」「これから世の中に対してどんな価値を提供できるのか」「そのためには何をなすべきなのか」「我々らしくあるためにはどんなやり方をすべきなのか」「企業としては求めるべきは収益であるがそれだけがすべてなのか」等々である。営業マンであったとしても、そうした問題意識を持っている人はそうでない人と比べれば一味違う。いわんや経営者においては尚更である。
 
 そういう「言葉」を持った人と話をするのは誠に楽しいひと時である。逆にそうでない人とは気疲れしてしまう。そう思う以上、自分も相手からそう思われるわけであり、故に自分の「言葉」も磨きたいと思う。それはつまり「考える」ことに他ならず、それについてはおろそかにせずこだわりたいと思う。「また話が聞きたい」と思ってもらえるか。それを意識して、「言葉」を磨く努力をしていきたいと思うのである・・・



【本日の読書】