2021年9月30日木曜日

献血をするわけ

 今年2回目の献血をした。人生で12回目の献血である。初めての献血は高校生の時。以来、献血などしようという気にもならなかったが、10年前に職場で実施してからというもの、たびたびするようになったのである。なぜ献血などするのかと言うと、それは自分自身、「禍福は糾える縄の如し」という考え方があるためである。人間、幸せにばかり囲まれていることはできず、不幸まみれのままでいることもない。必ず禍福は入り乱れて自分に降りかかってくると信じている。それが根底にあるのである。

 良いことがあれば悪いこともある。だから良いことが続いたら悪いことが起こるかもしれないと警戒しないといけない。しかし、悪いことが起きるのをビクビクしながら待っているのもバカらしい。そこで自ら不快(=自分にとって悪いこと)を作り出して不幸の代わりにしてしまおうという魂胆である。献血は実に不快な経験である。針を刺されるのも不快なら、機械で血液を吸い上げる際に針を通して微妙に伝わってくる振動も実に不快である。そういう不快感は、自分にとっての幸福と釣り合わせるのにちょうど良い気がするのである。

 こういう考え方は、いつの頃からか漠然とあったのであるが、欽ちゃんの『負けるが勝ち、勝ち、勝ち! 「運のいい人」になる絶対法則』(読書日記№626) を読んだ時に確信した。欽ちゃんは、かつて『欽ドン!』が視聴率30%を超えるたびに、運を使うために馬券を300万円買っていたという(もちろん、当たり狙いではなく、損してそこで悪運を使ってしまうのである)。残念ながら私にはそんな資金力はないから、自ら不快に身を委ねる方を選んでいるのである。

 献血を終えると、少し休憩するように求められ、お菓子や飲み物や、最近ではいろいろと小物をプレゼントしてくれる。飲み物は失った水分を補給するという意味で、医学的観点から飲むように言われるからそれはいいとして、いろいろもらってしまうとせっかく運を減らしにきているのにその効果が薄れてしまうような気がする。なるべくお菓子は食べないようにし、今回もらった歯磨き粉(なぜこんなモノをくれるのかはわからない)は家族に渡した。今回に限らず、献血は別途行なっているユニセフへの寄付と併せて定例化しようと思っていることである。

 毎回400ml。血液検査もしてくれるのでその数値も参考になる。前々回基準値を超えて医師の診断を勧められ、前回はギリギリ基準内だったコレステロール値が、今回は一気に下がっていた。どうやら『LIFESPAN-老いなき世界-』(読書日記№1243) を読んで感化されて始めた「一日二食」の生活の効果が現れてきたのかもしれない。これも「空腹」という不快を毎日味わうという目的もあったのだが、体重も春から7㎏落ちて腹回りもスッキリし、ズボンも緩くなった。コレステロール値の改善は想定外だったが、運を減らすつもりがいい結果につながってしまうと、良いのか悪いのか複雑な気分である。

 また、今年は町内会の班長役が当番で回ってきている。これも面倒だしやりたくないのは本心だが、こういう面倒ごとを引き受けるのも「運減らし」の効果があるかもしれないと考えている。だからなるべく積極的に参加している。妻はこれ幸いとばかりに私にすべてを押し付けてくるが、「少しはお前もやれよ」とは決して言わないのはそういう考え方があるからである。仕事でも、やらなくても誰にも何も言われないことをわざわざ引き受けたり、何かあれば二つ返事で引き受けたりしているが、それもこういう「運減らし」の考え方である。

 この世は不条理であり理不尽であり不公平である。心正しき者が必ず幸せになるとは限らず、憎まれっ子は世に憚る。それを嘆いても仕方がない。この世に神様がいたとしても、とても全人類を公平に見ることなんて不可能だろうから期待はしない方がいい。であれば個々人が不条理な世の中で心安らかに暮らしていく術を身につけるしかない。普段から運減らしをしていれば、大きな不運には襲われないと信じて平穏に暮らせるのであればそれでいいではないかと思う。

 今年に入って突然理不尽な失職を味わった。とは言え、再就職の相談に乗ってもらった人たちは皆真摯に対応してくれた。それほど人付き合いがうまいとは思えぬ自分であるが、まだまだ友人知人には恵まれている。そして縁あって再々就職した今の会社も、いい雰囲気で楽しく仕事ができている。収入が減ってしまったのは難事であるが、あっちで減った運、減らした運の分だけ良いことがこっちでちゃんと起こっているように思う。少なくとも今の職場はストレスとは無縁である。

 献血した400mlもどこかで誰かの役に立っているかもしれない。もしかしたらアマのジャッキーな血が混じって迷惑しているかもしれないが、それは笑って許してもらおう。個人のささやかな思い込みであるが、それで日々穏やかに暮らせて、少しだけ誰かの役に立っているとしたら、まぁいいだろうと思う。これからも少しの不快と面倒とを自分のために引き受けていこうと思うのである・・・


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【本日の読書】
 混迷の国ベネズエラ潜入記 (わたしの旅ブックス) - 北澤 豊雄 かたちだけの愛 (中公文庫 ひ 30-1) - 平野 啓一郎



2021年9月27日月曜日

メンタルヘルス

 不動産会社からシステム開発会社に転職してはや2ヶ月弱。業種的にはまったく異なるが、「総務」という観点からはあまり関係がない。銀行に入った時は、お金のことに詳しくなれば銀行を辞めてもどこかの企業で財務部長くらいになって食っていけるだろうという漠然とした思いがあったが、財務を専門にしていると、業種に捉われなくてもいいという利点があると改めて思う。とは言え、中小企業ゆえに財務部などと独立したものはなく、財務兼人事兼の総務である。

 そんな総務部に着任して、本業の財務の把握が落ち着いたところで個人的に問題意識を感じているのが「メンタルヘルス」である。既に社員が3人も休んでいる。医師の診断はみんな同じ「適応障害」。適応するのに障害があるというなんともよくわからないようで、適したような診断である。調べてみたら、実はIT関連業界は適応障害に罹る比率が高いようなのである。在宅勤務や客先常駐などの勤務形態がそれを助長しているらしい。1日パソコンに向かい、人との交流が少なくなりがちな環境が良くないのであろう。

 なんとかしたいと思うのはいいが、まず困るのは「症状について想像がつかない」ということ。頭が痛いだとか熱があるとかならわかるが、「適応障害」という症状については想像がつかない。その昔、銀行の敬愛する先輩が過去に鬱になって銀行に行けなくなったという話を聞いたことがある。その時にも思ったのだが、自分にはそういう経験がない。冬の朝、布団から出たくないといった類の「会社に行きたくない」という感情ならわかるが、家を出て会社に向かう途中で苦しくなってしまうというのはもう理解の範囲外である。

 その昔、私も大失敗をして何千万円という損害を出してしまったことがある。さすがにその時は堪え、周りの視線も痛かったし、出勤すればその瞬間から針のむしろであった。しかしながら、そんな針のむしろであったが、「行きたくないな」と思いつつ毎日きちんと出勤した。休んだ方が精神的には楽だったが、休めば当然「そういう目」で見られるし、それよりもむしろ針のむしろの方がマシだという感覚が働いたのである。その時、「会社にいけなくなるのってこういう気持ちなんだろうか」とは思ったが、結局出勤できていたのでそれが本当にそうであったかどうかはわからない。

 銀行を辞める時も実はゴタゴタがあって、夜眠れないという経験をした。食欲もなくなり、寝ても夜中に何度も目が覚めてしまう。1日中、心ここに在らずという状態で、家族との会話も上の空であった。また、一昨年は会社の借り入れの連帯保証をし、会社がダメになったら自己破産というプレッシャーからやはり眠れなくなった。会社の状態も不安定だっただけに、恐怖感溢れていた。不安なまま眠ると夜中に夢を見て目が覚めてしまう。経営者であればそういう経験をしている人も多いだろうが、実に嫌なものである。それでも会社に行けなくなるというところまではいかなかった。

 思うになんとなく自分には心のヒューズみたいなものがあって、ストレスが一定の限度を越えてしまうとそれが飛んでそれ以上のストレスを感じなくなる何かがあるようである。「なんとでもなれ」というような感覚になってしまい、ストレスを感じなくなるのである。見方によっては責任の放棄ともとれるかもしれないし、開き直りなのかもしれない。人の輪の中にいるよりもむしろ1人でいたいと思うから、孤独なエンジニアの気持ちなど想像しようもないが、自分なら耐性があるようにも感じる。

 外部からのストレスに対する耐性は人それぞれである。血を見て卒倒する人もいれば平気な人もいる。痛みに大げさに反応する人もいればそうでない人もいる。「覚悟」もそれには影響するだろう。体の大きさが人それぞれであるように、心の耐性もまた人それぞれである。それに「慎重」の裏返しは「優柔不断」であるように、「メンタルの弱さ」は「責任感の強さ」かもしれない。自分は割とストレス耐性が強いと思うが、だからと言って弱い人を「軟弱だ」とは思いたくないと思う。

 人事部も兼ねる総務部としては、社員のメンタル問題について考えないといけないと思っているが、自分自身想像がつかない領域なだけに苦手意識があるのも事実。さてどうしたらいいのだろうと思案しているところである。想像がつかないと言い訳する一方、それに反してなんとなく医者に対する不信感のようなものもある。心の不調を訴えて医者に行けばまず間違いなく「適応障害」などと診断を下すように思う。それは心の中という見えない世界である以上、医者としては「なんでもない」とは診断し難いだろうと思うのである。必然的に診断を下した方が無難であることは想像に難くないわけであり、返ってそう感じてしまうところがある。

 そんなことを言い出せば、問題解決から遠くなってしまうので、その疑惑はとりあえず封印して考えようと思う。自分はメンタル耐性があってよかったと思う一方、なんで耐性があるのかはよくわからない。それはもともとの脳の働きなのか、それとも「考え方」なのかもしれない。少年時代に松本零士の漫画を読んで感化された影響かもしれないし、その両方なのかもしれない。それはともかくとして、自分は大丈夫だからという上から目線ではなく、同じ視線の高さで真摯にこの問題を考えてみたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 IT技術者が病まない会社をつくる - 浅賀 桃子 かたちだけの愛 (中公文庫 ひ 30-1) - 平野 啓一郎




2021年9月23日木曜日

文学の道

 『文学入門』という本を読んだ。70年前の古い本であるが、手に取ったのは自分の中に文学とやらを学んでみたかったという思いがあったからである。高校生の頃、将来の進路の候補として頭に浮かんだのが「法学部」と「文学部」(文系選択は迷いがなかった)。「法学部」は、なんとなく将来の職業として(映画の影響から)弁護士というのがあったのであるが、「文学部」はただ単に本が好きだったからというだけのことである。どちらにすべきかは、(文学部を出て食べていけるのかという)現実的な考えから迷うことなく法学部を選んだのであるが、なんとなくその時のやり残し感が残っているとも言える。

 その時、漠然と思ったのは、「文学ならいつでも学べる」という感覚があったのも事実。この本を手に取ったのも、それを思い出したからとも言える。一読してそれなりになるほどとは思ったが、もう少し幅広く学んでみたいという物足りなさ感があったのも事実である。しかしながら、そもそも感じたのは、「文学とは何を学ぶのか」ということ。大学の文学部では、我が娘が文学部の心理学科に行っている通り「心理学」もあり、「哲学」もある。「哲学」は本当に大学に入って学んでみたいと今でも思うが、純粋に「文学」というとよくわからない。

 古今東西の文学作品を研究するのだろうか、それとも「読み方」なのか「書き方」なのか。いくつかの大学のホームページを見てみたが、正直言ってあんまりよくわからない。ただ、『文学入門』にも書かれていたが、「読み方」などは特にあるわけではなく、そこからの「感じ方」は人それぞれによるところが大きく、「学ぶ」などという大げさなものではないように思う。それが証拠に、「直木賞受賞作品」「芥川賞受賞作品」などという謳い文句に惹かれて読んではみたものの、何がいいのかよくわからないという作品は数多くある。

 この直木賞だとか芥川賞だとかという選考基準も素人にはよくわからない。表現なのか、ストーリーなのか、そのトータルなのか。『容疑者Xの献身』が直木賞を受賞したのはわかるが、なぜ『永遠のゼロ』ではないのかはわからない。同じ作家でも『暗殺の年輪』よりも『蝉しぐれ』の方が面白いと思うのに、なぜ『暗殺の年輪』だけなのか(タイミングももちろんあると思うが)。およそ「賞」となると素人の私には良し悪しは区別できない。

 それは実は私の大好きな映画の世界にも言える。コッポラや黒澤明などの巨匠が創った名作を否定する気は無いが、では平凡な監督が同じ作品を撮ったらどうなるのかよくわからない。『地獄の黙示録』は確かに深い作品だと思うが、それはコッポラ監督によるものなのか、それとも脚本なのか、それともマーティン・シーンやマーロン・ブランドという出演者なのかよくわからない。『パラサイト半地下の家族』がアカデミー作品賞に輝いたが、同じ韓国映画でも『アシュラ』の方が断然面白かった。ハリウッド映画でも、「アカデミー賞受賞作品」などと言われても最近は鵜呑みにしないことにしている。

 いわゆる玄人受けというのはあるだろう。スポーツでもサッカーはあまり観ても面白いとは思わないが、ラグビーはメチャクチャ面白い。それはプレーの意図がわかることもあり、簡単なようでいて実は難しいプレーというものがわかるというのもある。そうした一つ一つがよくわかるので、観て面白いと思うのかもしれない。文学も映画も、そんな玄人が観たら、実はすごいということもあっての受賞なのかもしれない。深く学べば深く学ぶほど、より深く味わえるというものなのかもしれない。

 いずれにせよ、これで終わりというわけではない。学んでみたいという気持ちは強くあるし、「求めよ、されば得られん」ということもある。今後も折に触れ、文学そのものに興味を持って手を出してみたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 ジャパナビリティ 世界で生き抜く力 ――私の履歴書 (日本経済新聞出版) - 福川 伸次 かたちだけの愛 (中公文庫 ひ 30-1) - 平野 啓一郎




2021年9月19日日曜日

論語雑感 雍也第六(その1)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。雍也可使南面。仲弓問子桑伯子。子曰。可也簡。仲弓曰。居敬而行簡。以臨其民。不亦可乎。居簡而行簡。無乃大簡乎。子曰。雍之言然。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、雍(よう)や南面(なんめん)せしむべし。仲弓(ちゅうきゅう)、子(し)桑(そう)伯(はく)子(し)を問(と)う。子(し)曰(いわ)く、可(か)なり、簡(かん)なり。仲弓(ちゅうきゅう)曰(いわ)く、敬(けい)に居(い)て簡(かん)を行(おこな)い、以(もっ)て其(そ)の民(たみ)に臨(のぞ)まば、亦(ま)た可(か)ならずや。簡(かん)に居(い)て簡(かん)を行(おこな)わば、乃(すなわ)ち大簡(たいかん)なること無(な)からんや。子(し)曰(いわ)く、雍(よう)の言(げん)然(しか)り。
【訳】
先師がいわれた。
「雍には人君の風がある。南面して政を見ることができよう」
仲弓が先師に子桑伯子の人物についてたずねた。
先師がこたえられた。
「よい人物だ。大まかでこせこせしない」
すると仲弓がまたたずねた。
「日常あくまでも敬慎の心を以って万事を裁量しつつ、政治の実際にあたっては、大まかな態度で人民にのぞむ、これが為政の要道ではありますまいか。もし、日常の執務も大まかであり、政治の実際面でも大まかであると、放漫になりがちだと思いますが」
先師がいわれた。
「おまえのいうとおりだ」
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 大学を卒業し、銀行に入ったのは1988年の春であった。同期は330人くらいいたと記憶している。その中でも同期のKは、一見すると遊び人風で(実際もそうなのであるが)、行動はどこか破茶滅茶的なところがあって、お世辞にも銀行員的とは言えない人物であった。しかし、天下のW大学ラグビー部でレギュラーを取った男でもあり、それだけでも尊敬に値する男である。そんな同期の彼が、一部上場企業の社長になったと報じられた。同じ同期ながら、ずいぶん差がついてしまったものである。

 彼の持ち味は明るくて、破茶滅茶なところはあるが、その実友人知人を大事にするところがある。どちらかと言えば、1人でいることを好む私とは対照的で、彼は人が集まるところの中心にいるような人物である。銀行に入った頃の彼は、とても社長になるような男には見えなかったが、おそらく社会人経験を積む中でそれなりのものを身につけ、そして持ち前の人柄で人脈を得て今の地位を築いたのだろうと思う。大まかなところは銀行員ぽくはないが、こせこせしない親分肌の気質は、人の上に立つに相応しいものだろうと思う。

 最後に彼に会ってからもう10年以上会っていないが、Facebookでその活躍は知っていたが、私にはないものをことごとく持っている男である。「日常あくまでも敬慎の心を以って万事を裁量しつつ、政治(=経営)の実際にあたっては、大まかな態度で人民にのぞむ」という言葉通りの男であると思う。一方、社長とは言え、「日常の執務も大まかであり、政治(=経営)の実際面でも大まかである」人物も知り合いにはいる。その人の会社はまさに迷走状態であった。政治も経営も核にあるのは同じなのだろう。

 ずいぶんと会っていないが、会えば彼はあの頃のように接してくれるだろう。銀行チームの同じジャージを着てともに試合に出ていたあの頃のようにである。同じチームではありながら、一流チームのトップでプレーしていた彼に遅れじと張り合っていた気持ちは今も私にはある。立場では雲泥の差がついてしまったが、私は私で今の立場で恥ずかしくない行動を取りたいと考えている。方や東証1部上場企業のトップ、方や中小企業の1事業部長ではあるが、自分の立場で胸を張って彼に自分の仕事の説明をしたいと思う。それにはそれなりのものがないといけない。

 先日、新入社員向けの研修では、「どんな事があっても『言われてません』、『指示されていません』とは言ってはいけない」という話をした。それを言った瞬間、「自分は指示待ち族である」と公言することになる。いい年したサラリーマンでも、結構平気でこの言葉を使っている。仕事は自ら考え、自ら動く事が大事。1人でいることを好む性分ではあるが、仕事ではどうしても人と関わり合わないといけない。であればそれなりに人の輪の中で影響力を発揮したいと思う。自分より経験の浅い人には、大らかに接しつつ、影響力を持てるようにしたい。

 人はやはり大まかな態度で接してくれるリーダーについて行きたいと思うものだと思う。自分の経験を振り返ってみても、小さなミスや漏れをネチネチと詰める上司には嫌悪感しか抱けなかった。自分もそうならないようにしないといけない。彼はきっとそんな態度は微塵も見せないだろう。こせこせしないのもその通り。仕事は1人ではできない以上、信頼して任せつつ、上手く行くように心配りをし、いざとなれば己の責任を全うする。それが人君の風を備えた彼に対する対抗策であるように思う。

 たとえ差があったとしても、彼に対しては常に恥ずかしくない自分でいたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング) - 近内悠太 ジャパナビリティ 世界で生き抜く力 ――私の履歴書 (日本経済新聞出版) - 福川 伸次 文学入門 (岩波新書) - 桑原 武夫




2021年9月16日木曜日

新人教育

 転職して1ヶ月。なんでもありの総務部であるが、会社の将来を見据えた上で「人材育成」が必要であると考えている。技術的なことには手は出せないが、それ以外なら何かできるかもしれないと考えて色々と調べていたら、新人向けの教材を借りられることが判明した。取引銀行が提供しているサービスである。そこで早速、DVDを取り寄せた。それは「会社の常識・非常識」をテーマにしたものである。そこでは、新人と上司との「常識ギャップ」が採り上げられていた。

 2時から会議と言われ、2時ぴったりに会議室の席に着く新人。それを見ていた上司は「せめて5分前には来い」と言う。「それならそうと言ってくれればいいのに」と思う新人。ここんな調子でいろいろな「会社(社会)の常識」が採り上げられる。そこで奇異に描かれるのは、「常識」を知らない新人たち。我々世代から見ると「今時の若い者は」と言いたくなる若者たち。いつの世も若者はおじさんたちの頭を抱えさせるものという姿。

 どうして世の新人たちはこうも常識知らずなのだろうかと考えてみる。
しかし、考えてみれば私も新人の頃は日々ムカムカしていたのを思い出す。「そんなこと言ってくれないとわからないだろう」ということは結構あった。「仕事は盗むものだ」と教えられ、「そんなの非効率だろう」と腹の中では思っていた。「新人類」という言葉が世に広まったのは、私のすぐ後の世代である。だが考えてみればそれは当然だとわかる。

 新人たちはそもそも会社の常識など知らずに入ってくる。おじさんたちにとっては「常識」であっても、それを知らない新人たちにとっては「常識」ではない。以前、イギリス王室に食事に招かれた外国の賓客がディナーの席でフィンガーボールの水を飲んでしまったと言う。女王はその賓客に恥をかかせないように自らフィンガーボールの水を飲んだというエピソードである。しかし、フィンガーボールを使う習慣(常識)のない外国人には何の水だかわからないだろう。そしてそれを「常識知らず」というのは間違いである。

 新しい環境に入れば「常識」を知らないのも当たり前。みんなそこから教えられて「常識」が身に付いていくのである。今の世のその「常識」を支えているのは、かつての「新人類」である。ではどうするか。「常識」人であれば、非常識人である新人に面倒でも気がついたら教えるべきだろう。「休暇を取りなさい」と部長に指示された新人が忙しい年度末に休暇を取ろうとして上司に呆れられるが、そういう常識を知らなければそういうことになる。「今の若い者」はという前に、休暇はあらかじめ忙しい時期を避けて取るものだと教えるしかない。もっとも、ちょっと気が効く新人なら「いつ取ればいいのか」と聞くかもしれない。

 新人からすれば、こうした「常識ギャップ」を乗り越えるためには、とにかく聞くしかない。コピーを取れと言われたら、「どのように取れば喜ばれますか」とでも聞いてみればいい。新人のうちはトンチンカンなことを聞いても大目に見てもらえる。それは新人ならではの免罪符である。始めは一々聞くのも気が重いかもしれない。それに対して必要なのはマメにコミュニケーションを取ることだろう。上の人に話しかけ難かったら、とにかく始めは挨拶からすればいい。1日に1回でも目を見て挨拶していれば、おじさんたちの方から話しかけてくるかもしれない。

 DVDでは「報連相」も採り上げられていた。「報連相」は新人に限らず大事であるが、新人にとっても大事である。良くありがちなのが、「報連相」しようと思っているが、上司が忙しそうでついつい気後れして黙っている。DVDでは「3時までに仕上げろ」と言われていた資料作成で、新人くんがわからないことがあって手が止まり、3時を過ぎて上司から怒られるというシーンがあった。「わからないならなぜ聞かない」と怒られるのだが、新人くんの気持ちもよくわかる。

 我々ぐらいのベテランになれば、相手の様子を伺って話しかけるというのは何の抵抗もない。緊急性が高ければ、忙しそうな相手でも「ちょっとすみません」と遠慮なく言える。だが、新人くんにはそういう感覚はわからない。私が上司であれば、3時になってできたかと聞くのではなく、途中で様子をチラ見しながら「わからないことはないか」ぐらいは聞くだろう。あるいは余裕のある資料ならわざと放置して様子を見るかもしれないが、そういうケースを除いては、やはり上司の方が気にかけるべきであろう。

 それはさておき、新人のうちは報連相のタイミングなどわからなくても当然である。コツはとにかく怒られても気にせずに話しかけることに尽きる。そのうち聞くべき内容の重要度と相手の様子とのバランスを見て話しかけるタイミングをつかめるようになってくる。私からすれば、新人相手に怒る方がおかしいと思う。それと怒られたとしても、「怒られた」と取るのではなく、「教えてもらった」と捉えるメンタリティも必要だろう。

 自分もそういうノウハウを教えられていたら、新人の頃の職場をもう少し気持ちよく過ごせていたと思う。まぁ、みんな自分の仕事が忙しかっただろうし、それで給料がもらえるわけでもないし、仕方がなかったのだろう。新人の研修も誰から言われたものではないが、会社の将来のためにはなるだろうし、自分の経験にもなるだろうから、半分楽しみながらやっているところもある。第2回目も予定しているので、今度はもう少しブラッシュアップしてやりたいと思う。

 会社の将来を背負う新人たちに何か残せるものがあるといいなと思うのである・・・



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【本日の読書】
 世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング) - 近内悠太 ジャパナビリティ 世界で生き抜く力 ――私の履歴書 (日本経済新聞出版) - 福川 伸次




2021年9月12日日曜日

仕事のやり方

 転職して1ヶ月。ほぼ社内の様子には慣れ、仕事の内容も概ね把握し、自分のペースで仕事をこなしている。当然ではあるが社内にはいろいろな人がいる。これまで銀行に26 年半、不動産会社に6年半勤めていたが、今度の会社はまた違う人たちがいて面白い。仕事の内容が変われば当然とも言えるが、そうは言っても仕事の「やり方」というものはそう変わらない。仕事のできる人、できない人というのもそれぞれいて、しかしながらそれぞれ共通しているものだと改めて思わされる。

今度の会社の部下の1人は、若手の3年目。言われた事はそつなくこなす。直属の上司曰く、
「一つ仕事を頼むとプラスαを乗せてやってくれる」。
これはなかなかいい傾向である。仕事は、たとえコピー一つにしても考えてやれば違いをもたらすことができる。ただ、コピー機のボタンを押すだけではなく、どういう資料でどういう状況で使うのか、どういう風にコピーを取れば使いやすいのかと考えて取るだけで大違いである。私がサラリーマンの「三種の神器」の一つと考える「創意工夫」である。頼もしい部下を持ててありがたいと思う。

 一方、あまりできのよろしくない人もいる。あちこちで怒られている声が聞こえてくる人がいて、耳をすませてみると「なぜやっていないのか」と問われて、「(やるように)指示されていません」と答えていた。これはサラリーマンとしては最悪に近い回答である。典型的な「指示待ち族」である。しかもその仕事の担当者はその人なのである。自分の担当であればなおさら「やらなくてもいいのだろうか」と思わなければいけない。自分が担当で一番よくわかっているわけであるから、「何を成すべきか」を考えていないといけない。指示されていないのなら(指示がないと動けないと思うのなら)、「やらなくてもいいのですか」とか、「やってもいいですか」と自ら指示を出してもらうよう働きかけるぐらいでないといけない。

 そもそもなぜそういう回答をするかと言えば、おそらくその人は常に「やらされ仕事」をしているのだろう。仕事は自ら作り出すものである。たとえ最初は指示されたことからスタートするにしても、どこかで自分主体にならないといけない。ところがいつまでも受け身のままだと「言われるまでやらない」という事が身に染みつき、それは思考レベルで浸透するから、言われるまで自分で考えるということをしなくなる。言われて初めてスイッチが入るから(=自分がやらなければいけないとわかるから)、慌てて「聞いていません」、「指示されていません」となってしまうのだろう。

 そういう人は、A=Bだと教えられると、A=Bだと理解する。B=Cだと教えられると、B=Cだと理解する。しかし、そこで思考停止してしまい、それではつまりC=Aなんだなというところまで気がつかないのである。先日もある役所への申請について、疑問に思い調べてみたのだが、担当しているその人に聞けばあるケースAをピックアップして申請しているとのこと。しかし、ちょっと考えてみたところ、その趣旨からするとBというケースでも申請していいのではと疑問が湧いた。そこで役所に確認したところ、申請可との回答が得られた。それに該当するケースがかなり見つかったのである。

 私も初めての業務であるが、ちょっと「考えて」みればわかることなのである。少なくとも疑問には思えるだろう。そうしたら聞くなりなんなりして調べてみればいい。それだけでその仕事をより深く理解する事ができる。しかし、「言われたことだけ」やっていてはそういう疑問すら持てない。あるいは疑問にぐらいは思ったのかもしれないが、「言われてもいないことはやらなくてもいい」と考えたのかもしれない。そういう思考習慣が根付くと大変である。

 たとえば経理の仕事についたら、言われるがままに伝票を切ったりという作業から入るかもしれない。慣れてきたら、これはどうしてこういう勘定科目でどうしてこういう記帳をするのだろうと疑問に思うべきである。そしてそれを一つ一つ確認していけば、「ではこういう場合は」という疑問が次々に湧いてくる。やがてもっと詳しく知ろうと思えば、本を買って簿記の勉強を始めることもできるし、長じて簿記の資格を取ろうとすることもできる。自分の担当する仕事をそうして極めようとすれば、やがてその道のプロとなれる。それは決して「指示されていないから(やらない)」という思考回路からは出てこない。

「給料以上の仕事をするのは損」という考えがあるが、それは極めて害のある考え方である。給料以上の仕事をしたら損というのは目先のことしか考えていない。それではいつまでたってもその給料しかもらえないということに気づいていない。
「下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そしたら誰も君を下足番になどしておかぬ」(小林一三)
なのである。日本一になるには指示を待っていてはなれない。とても大事な思考習慣である。かの人はもう大ベテランであり、残念ながら長年の思考習慣はもう変えられないであろう。

 人の振り見てではないが、他人の様子はよくわかるもの。自分は大丈夫だとは思うが、今一度油断がないかは意識したいところ。新しい環境であるがゆえにいい緊張感もあるし、そのあたりを改めて自分も強く意識したいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか (ハヤカワ文庫NF) - 管賀 江留郎 大名倒産 下 (文春文庫) - 浅田 次郎 文学入門 (岩波新書) - 桑原 武夫





2021年9月9日木曜日

島耕作と菅総理

菅首相、退陣へ 自民総裁選に不出馬―政権運営行き詰まり
2021年09月03日13時38分
菅義偉首相(自民党総裁)は3日の党臨時役員会で、17日告示、29日投開票の総裁選に立候補しないと表明した。新型コロナウイルス対応への世論の不満などから内閣支持率が下落する中、党内で「菅離れ」の動きが広がり、総裁再選は困難と判断した。首相は後継の選出を待って退陣する見通しだ。
時事ドットコム
ヤング 島耕作(1) (イブニングコミックス) - 弘兼憲史
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ネットで無料漫画をよく読んでいるが、最近気に入っているのが『島耕作』シリーズである。これも面白いもので、学生から始まってヤング、主任、係長と出世していき、最後は会長、相談役にまでなるサラリーマンの出世物語である。それぞれに面白いのだが、先日読んだのは、『ヤング島耕作』のある話。それはまだ島耕作が3年目の若手の頃の物語で、島耕作は会社の寮に住んでおり、同じ部屋の2年目の若手の相談に乗るという内容である。

 その若手は、学生時代からコツコツ努力せよと教わり、それを実践して高卒ながら大企業である初芝電産に入社する。ところが入ってみれば真面目に働いた人が必ず報いられていないということに気づく。むしろ調子よくやっている者の方が上司から可愛がられている。そういう者は、上司の見ていないところでは手を抜き、それでも評価されているが、一生懸命コツコツ努力し続けている自分は評価されていない。そんな悩みを島耕作に打ち明けるのである。

 そんなエピソードを読んでいて、自分もまさに同じように感じていた若い頃を思い出していた。私もどちらかと言えばコツコツ努力するタイプである。上司に媚を売る暇があったらその分努力する。上司が見ていようといまいと仕事に対するスタンスは変えない。それを良しとしていたのである。ところがお調子よくやっている同期が評価され、自分はそれ以上に努力しているのに評価されない。上司に誘われて飲みに行っては楽しく過ごす同期の男は「頑張っている」と評価され、自分も負けずにやらないとダメだと叱咤される。おかしいだろうと不満を抱えていた。

 私の同期の男も頑張ってはいた。だから評価されるのは当然だと思うが、その「頑張る方向」が私とは違っていたのである。取引先係のその同期と融資係の私とでは仕事の内容も違うから、ある程度は仕方がない。スポーツで言えば攻撃側は華々しく見えるが、守備側は地味である。そんな違いもあったが、上司に誘われても基本的に飲みに行かなかった私のスタンスもまずかったと思う(もちろん、喜んで行きたくなる上司は別である)。今振り返ってみても、サラリーマンとしては間違いなく世渡りはうまくなかったと思う。仕事だけきちんとやっていればそれでいいという考え方であったのである。

 正しく実力だけで評価して欲しいと思うのが人情だが、会社というところは残念ながらそうではない。結局、「愛いやつ」、「覚えめでたいやつ」の方が出世したりする。サラリーマンとして最も大事なものは、間違いなく「コミュニケーション能力」だと思う。実力は二の次である(もちろん、実力がなければそもそもダメであるが、「ある程度の実力」で十分である)。今でこそそう理解できるが、当時はそれがまだ理解できず、理不尽さに憤り続けていたものである。そんな経験があるからこそ、この場面に心惹かれるところ大であったのである。

 長期政権であった安倍晋三前首相の後を受けて総理になった菅首相が総裁選の出馬断念を表明した。支持率低下に歯止めがかからず、地方選挙でも負けが続いている状況であり、やむを得ないのかもしれないが、ちょっと残念に感じたニュースである。確かに話をしている姿とかに、どうも覇気のなさを感じさせるし、人気が出るタイプでは間違いなくない。イメージでだいぶ損をするタイプだと思う。しかし、伝わってくる評価では、ずいぶん仕事のできる人だと言う。評価はされていないが、実績も上げている。なんの後ろ盾もなく総理大臣にまで登りつめたのだから、考えてみるまでもなく、その通りの実力者なのだろうと思う。だが、それだけではダメなのだろう。

 国民の立場からすると、政治家は一様に何をやっているのかはよくわからない。わかるのは、テレビに出て話をしているところだけである。よほど興味を持ってその発言や功績をフォローしていないと、一般人には政治家の実力なんてよくわからないだろう。支持率なんていい加減で、その時々の雰囲気でコロコロ変わったりする。マスコミの報道も偏っているし、よほど意識しないと報道されるイメージに惑わされてしまう。コツコツ努力していたって、目につかなければそれまでだし、暗いガリ勉タイプより明るい性格のやつの方が上司には好かれるものである。それはサラリーマンでも政治家でも同じなのだろう。

 悩む若手に、島耕作は世の中は理不尽なものだと思った方がいいとアドバイスする。ものごとはあまりこうだと決めて考えない方が楽だとアドバイスする。そして寮の4人部屋仲間と麻雀をやれと勧める。禁止されているからと抵抗する若手に「だからやれ」とアドバイスするのである。今の私から見れば、いいアドバイスだと思うが、私もあの頃こういうアドバイスが欲しかったなとつくづく思う。さすれば、その後の銀行員人生もずいぶん変わっていただろうと思わざるを得ない。

 菅総理も忸怩たる思いをしているのかもしれない。私は別に自民党支持者でも菅総理支持者でもないが、政治家は根暗でも力強く話せなくても、何をやっているのかわからなくても、実はしっかり仕事をしてくれているというタイプが私はいいと思う。次の総裁には誰がなるのかわからないが、これで引退するわけではないし、菅さんには引き続き国会議員として国民のために働いていただきたいと思う。自民党支持者ではないが、共産党や立憲民主党などの「なんでも反対」野党よりは自民党の方がはるかにマシだし、そういう意味では自民党の「消極的支持者」であるとも言えるので、頑張っていただきたいと思うところである。

 世の中は理不尽である。
それはもう十分理解している。それでも、とあえて思う。イケメンでテレビ映えがするとか、コミュニケーション巧みで「愛いやつ」であるとか、そういうことではなくて、純粋に「仕事ができるか」という実力本位で評価して欲しいものだとつくづく思う。政治家であってもサラリーマンであっても。コミュニケーションが大事であることは否定しない。私も今では仕事で必要なコミュニケーション力はそこそこついたと思うが、それでもやはりコツコツと努力してやった仕事の内容に対して100%評価される世の中であって欲しいと思う。

 そういう世の中で私は働いてみたかったとつくづく思うのである・・・


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【本日の読書】

  冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか (ハヤカワ文庫NF) - 管賀 江留郎 大名倒産 下 (文春文庫) - 浅田 次郎




2021年9月5日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その27)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。十室之邑。必有忠信如丘者焉。不如丘之好學也。
【読み下し】
子し曰いわく、十室じっしつの邑ゆう、必かならず忠ちゅう信しん丘きゅうの如ごとき者もの有あらん。丘きゅうの学がくを好このむに如しかざるなり。
【訳】
先師がいわれた。「十戸ほどの小村にも、まじめで偽りがないというだけのことなら、私ぐらいな人はきっといるだろう。だが、学問を愛して道に精進している点では、私以上の人はめったにあるまい」
************************************************************************************

 銀行に入り、初めて持った部下はどうにもできの悪い男だった。頭は悪くなかったが、それが故にか理屈先行のところがあり、物事を自分勝手に解釈して行動するところが多々あった。それまでにも随分怒られていたようであるが、私が着任してからは何とかしたいと指導していた。ある時、その男が私に言った。「仕事は真面目にやります」と。それがさも自分の得意なこと、自信を持って言える唯一のことであるかのようにである。私も自分自身そういう気持ちがあったから彼の気持ちはよく理解できた。だが、違うのである。

 仕事を誠実にこなすこと。真面目にこなすことは大切なことである。その裏には、「真面目にやっていない者がいるが私は違う」という意識があるのだろう。それはそれでよくわかるが、それでも違う。なぜなら、真面目に働くことは「当たり前」のことであるからである。小学生が「毎日学校に行っています」というようなものである。もっとも、大学生であれば、「毎日学校へ行っている」のは真面目だと自慢してもいいかもしれない。しかし、それは普通、当たり前のことであり、わざわざ強調することではない。

 サラリーマンであれば、毎日会社へ行くことは当たり前であり、真面目に仕事をするのも当たり前である。もっとも、社員の質が下がればその当たり前が当たり前でなくなることもありうることであろう。ブルーワーカー系だとそういう社員の比率は高いと思う。父が中学を卒業して田舎から出てきて住み込みで働いていた時、その真面目な働きぶりに感心した社長の奥さんがこっそりと小遣いをくれたと言う。真面目な父らしいエピソードだが、おそらくみんながみんな父のような真面目さだったらそうはならなかっただろう。

 真面目というのは一つの取り柄であるのは確かである。しかし、取り柄になるというのは、それが希少価値を持っていることが必要である。つまり誰もがみんな持っていたらそれは取り柄にはならない。銀行のように真面目な人間がたくさんいる会社では、それは取り柄にならない。彼はそれに気づいていなかったのだが、一方で真面目に働いていればそれで免責されると勘違いしていたのかもしれない。「いろいろと怒られてはいるが、仕事は真面目にやっている」という言い訳だったのだろうと思う。

 そうして「自分は真面目に働いている」ということが自分自身に対する評価になるのはいいのであるが、問題はそれが「当たり前」の会社の中ではどうなるかということである。社員の質が高くなれば、みんなが真面目に働いているから、当然ながら真面目に働くのは大前提で取り立てて言うほどのものでは無くなる。そうなると、もう一歩必要になってくる。孔子はそれを「学問」としたが、我々サラリーマンでは、それは「仕事」であろう。「愛して精通」などと言えばワーカホリックのようなイメージであるが、単純に一生懸命やっているかということであろう。

 かつて「24時間戦えますか」という言葉が流行ったが、今はそういう世の中ではない。さしづめワークライフバランスというところであるが、これは「仕事も生活も緩やかに」ということではないと私は思う。あえて言えば、「仕事も生活も一生懸命に」だろう。当たり前だが、人間は毎日1日ずつ死に向かっている。1日1日が大切な日々のはずである。
「あなたが虚しく生きた今日は、昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日」(『カシコギ』)という言葉があるが、せっかくであれば自分も平凡な毎日を一生懸命生きたいと思う。

 転勤によって別の職場になって以来、あの時の部下とは一度も会っていないが、今どうしているのだろうかとふと思う。今も「真面目に」働いているのだろうか。考え方が変わっていないとしたら、銀行では残念な境遇にいるかもしれない。あの頃の私には大して指導力もなかったから、それはそれで申し訳なかったと思う。まあ、ほどほどにワークライフバランスしているのかもしれない。

 また明日から新しい1週間が始まる。かく言う自分もしっかりと一生懸命、ワークライフバランスしようと思うのである・・・



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 【今週の読書】
  冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか (ハヤカワ文庫NF) - 管賀 江留郎 大名倒産 下 (文春文庫) - 浅田 次郎




2021年9月2日木曜日

紙か電子版か

 趣味でもあって本はよく読む。本を読むのは主に電車の中。いつの頃からか通勤電車は私の貴重な読書タイムである。であるからここ10年来、通勤が苦だと思ったことはない。むしろ7年前に転職した際、通勤時間が過去最長の1時間半になった時も、むしろ喜びを覚えたくらいである。そして今回、二度目の転職に際し残念だったのが通勤時間が半分になったことである。まぁ、物は考えようという典型かもしれない。そんな読書タイムに読む本はいまだ紙の本である。

 近年は電子書籍が幅を利かせてきている。確かに電子書籍はかさ張らないし、スマホで読めるので便利である。パラパラめくるのは面倒だが、後から戻って読み直すことも、「付箋」をチェックしておけば紙の本と同じように後から簡単に読み返すこともできる。みんなスマホに入ってしまうから何十冊、何百冊という蔵書を持ち歩くこともできる。私のように行きと帰りとでそれぞれ別の本を読む人間にとっては、大きさもまちまちな本を少なくとも2冊以上持ち歩く必要もなく、便利この上ない。ただ、なんとなくの抵抗感を除いては、であるが・・・

 最近、新聞も紙の新聞から電子版に切り替えた。値段が安いというのもあるが、パソコンでもスマホでも読めるという手軽さが良さそうに思えてである。ただ、やはり紙の新聞の優位性は動かない。電子版でも確かに紙面と同じ記事を読むことはできる。しかし、パラパラとめくっていって、ふと目についた記事を読むというのが電子版では少ない。紙面であればまず一通り目を通すことができるが、電子版だとその頻度が落ちてしまう。「目に入ってくる」のと「探しに行く」の違いと言える。そしてこの違いは大きい。

 日経新聞の場合、電子版の良さは記事の保存とかこの記事の読み返しであろう。あとであの記事を読み返したいとなった場合、紙の新聞だとガサゴソと古新聞を漁らないといけないが、電子版だと検索できる。保存しておけば検索の手間もいらない。また、私の履歴書など過去の特集も読むことができる。新聞の場合、「目に入ってくる」ことが少ないというデメリットはあるが、メリットがそれを上回る。

 電子版は漫画も同様である。こちらは一長一短だろうか。かつて漫画小僧だった私は今でも漫画を愛する。最近はもう紙のコミックを買うこともないが、無料漫画を楽しむか、『鬼滅の刃』など最近のものはKindleで購入している。昔の漫画は見開き両ページを使った場面があったが、電子版だと半分に割れてしまう。両ページであれば迫力だったものが、半分ずつだと半減してしまう。ただし、最近の電子版を意識した漫画だと、「縦読み(縦にスクロールする)」というものもあり、横に読んで行くタイプと異なる画面構成が可能になっている。これはこれで面白い。

 電子版の最大のメリットはやはり「保管」だろう。私の部屋の本棚はなるべく増やさないようにしようと思っても、やむなく溜まっていく本や漫画がかなりのスペースを占めている。これがすべて電子書籍であったらさぞかし部屋も広くなると思う。紙の本を買うのをやめれば、「スペース」のメリットは果てしなく大きい。とは思うものの、まだどうしても紙の本に心が残ってしまう。新しいテクノロジーが登場した時、どうしてもついていけない人がいる。老人が最たる者であるが、紙の本に執着が残るのは「そういうことか」と思う気持ちもある。

 紙には紙の良さがあるとは思う。ただ、だからと言ってそれに固執するべきであろうか。「スマホは画面が小さい」というデメリットを挙げてみる。それは確かにその通りであるが、よくよく文字の大きさを比べてみると、大して違わない。それにタブレットなら大きさの問題はない。立ち読みでパラパラと本をめくり、読むか読まないかを決める場合は、紙に軍杯が上がる。だが、実はそうやって読む本を選択するケースは私の場合ほとんどない。書評から選ぶのが大半だからである。

 購入ということを考えてみると、電子版の方が若干安い。ただ、古本ということになれば紙に軍配が挙がる。電子版では読み終わった本を売ることはできないし、買うこともできない。電子版には「古書」という概念がない。さらに「借りる」ということが電子版にはできない。私がKindleで購入した場合、紙の本であれば子供に簡単に読ませることができるが、電子版だとアカウントを共有する必要がある。幸い子供に知られて困る類のものはないが、読書のプライバシーは守れない。(今のところ、かもしれないが)図書館で借りることもできない。

 紙の本がいいのか電子版がいいのかという議論は不毛であると思う。電子版は一つの形態であり、好きな方を選べば良いと思うからである。実際、電子版では無料で読めるものも多く、古い本が公開されていることもある。たまたま目について読んだものでも、『遠野物語』、『善の研究』、『堕落論』等多数ある。本屋でブラブラするのと同じように、オススメとして表示されるのは電子版ならではである。どちらがいいかとあれこれ考えるよりも、あれもこれもと考えたいところである。

 それにしても便利になってきたものだと思う。かつては立派な本棚がステイタスだったが、これからは不要となるのだろう。あるいは「見栄え」で必要とされるのかもしれないが、私個人としてはスペースのメリットに魅力を感じる。先行きのところはわからないが、とりあえず漫画はすべて電子版になるだろう。小説やビジネス書の類は都度判断だ。今の段階でどちらがいいというのではなく、柔軟に使い分けていきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか (ハヤカワ文庫NF) - 管賀 江留郎 大名倒産 上 (文春文庫) - 浅田 次郎




2021年8月29日日曜日

スモーキング・マナー

 およそ26年ぶりにタバコを常習するようになったが、再開してみると否が応でも気がつくのは、「タバコを吸える場所が少ない」という事実である。別にタバコを吸わなくても、なんとなく感じていたことであるが、実際、吸い始めるとその事実に直面する。まずは職場。前職では小さなビルゆえか、外階段に灰皿が設置されていたので、「ちょっと席を外して」という感じであったが、転職した新しい職場は立派なビルの7階。一応、職場内に喫煙ルームがあったが、「電子タバコのみ」。「煙が出ない」というのがその理由。

 その喫煙ルームはどうやら部屋を借りている我が社で勝手にスペースを作ったらしいが、煙はまずいとなって「電子タバコのみ」となったようである。ビル全体は当然禁煙。外へ出るしかないが、近隣にタバコ屋があって店内を喫煙所として開放している。ところがタバコを買わないとダメらしい。たまたま買うタイミングであればまだしも、そうでなければ面倒である。さらにファミリーマートが店内に喫煙所を設けているのが判明。ここは「密を回避」という条件がつくが、時節柄やむを得ない。ただ、狭いゆえに4人も入れば密状態。タイミングが難である。

 足を伸ばせば公共施設に喫煙所が設置されていて、ここはオープンスペースゆえに密の心配はなく、使い勝手は誠に良い。ただ、少し離れているので、仕事中にちょっと一服するには難儀である。路上の喫煙も禁止の表示がいたるところにある。ただ、それが悪いかと言えばそうではない。再開したとは言え、やはり臭いも気になるし、健康面の意味でも本数を制限するようにしているが、そういう我が身にはこういう環境は誠に都合が良いと言える。

 ファミリーマートの狭い喫煙所を利用してみて気がつく。その時はたまたまであるが、灰皿の上に空の箱が捨ててあった。そこは当然吸い殻を入れるところであり、空箱は持って帰ってしかるべきところに捨てるべきである。どこかの不届き者の仕業であろうが、タバコを吸う人間にはこういう「マナー違反」がかなり多いように見受けられる。これは昔から気になっていたところであるが、相変わらずのようである。灰皿の周辺は灰が散乱。非常に見苦しい。おそらくお店の人が掃除しているのだと思うが、かなり不快な気分になると思う。そういう人のことも考えれば、灰の処理にも気を使うべきであろう。

 気がつけば歩きタバコをしている人を目にすることもある。このご時世にとんでもないことである。吸い終わったタバコをどうするのかと想像してみるのも不快である。週末のシニアラグビーの練習後、タバコを吸いながら雑談しているのは、いつもグラウンドを分け合って練習している仲の良いチームの面々。右手にタバコ、そして左手には携帯用の吸い殻入れを持っている。さすが、しっかりしていると感心。そういう自分も一つ持っている。

 考えれば、昔は飲食店には普通に灰皿があった。みんな普通に食後の一服を楽しんでいた。隣の人がこれから食べようとしていても、である。それを考えれば、今は禁煙が普通であり、良い環境になったと思う。そもそもであるが、本来環境に頼るべきではないのである。タバコを吸う人間は、エチケットとして周りに気を配る必要がある。吸い殻の処理もしかり。ポイ捨てなど言語道断である。「吸いにくい」と文句を言うのではなく、本来であれば自らを律するべきであり、律すれば必然的に吸える場所は限られてくるのである。

 タバコを吸う人間は、どこかそういう部分がルーズであるように思う。自分のことしか考えていないとも言える。周りに吸わない人がいるなら吸わないのがマナーであり、それが守れているなら「受動喫煙」という問題は本来発生しないはずである。ポイ捨ても然り。また、せっかく設置してある喫煙所も綺麗に使うように心掛けないといけない。トイレも自分で掃除してみれば綺麗に使おうと心掛けるようになる。喫煙所も然りだろうと思う。マナー違反者は防犯カメラで監視して捕まえた上で罰として掃除させるというのも良いかもしれない。

 喫煙所で何気なく紙タバコを吸っている人を観察していたら、みんなかなり短くなるまで吸っていることに気がついた。今はマルボロが一箱570円。サラリーマンの懐にはかなり厳しい価格である。みんな少し吸って捨てるというもったいない吸い方ができなくなってきているのかもしれないと感じる。それを逆手に、電子タバコが単価の安さを売りに攻勢をかけているようである。確かに、灰と煙というタバコの害悪を極力減らした電子タバコはその意味で良いと言える。ただ、個人的には電子タバコに乗り換えることは当分ないだろう。

 吸いにくい環境はwelcomeである。マナーに期待しても、残念ながらタバコを吸う人間のモラルにはあまり期待できない。ならば徹底して吸いにくくするのは正しい対応であろう。この先、ずっとタバコを吸い続けるかはわからない。また以前のように「休煙」するかもしれない。ただ、吸う限りはエチケットはきちんと守りたいと思う。自分自身、そのように身を律することができる人間でありたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 1本5000円のレンコンがバカ売れする理由 (新潮新書) - 野口 憲一 死の島 (文春文庫) - 小池 真理子 マスコミと官僚の「無知」と「悪意」 - 髙橋洋一 大名倒産 上 (文春文庫) - 浅田 次郎





2021年8月26日木曜日

タリバン政権について思うこと

 アフガニスタンから米軍が撤退すると発表され、その期限が迫るとなった途端、タリバンが北部の州都を制圧し始め、あっという間に首都カブールに侵攻し、政権が崩壊してしまった。米軍が撤退を発表してからあれよあれよという間である。カブールでは外国人はともかく、アフガン人の米軍協力者やタリバンを恐れる人々が空港に殺到しているという。中には発進した輸送機に乗り切れない人が機体にしがみつき、離陸後に落下するという悲劇も起きているらしい。

 なぜ、こんなにも早くタリバンが侵攻し、政権が崩壊してしまったのだろう。ニュースをさらりと聞き流しそうになって、ふと興味を持ってみた。タリバンは中露の後押しを受けているということであるが、総兵力は約6万人と報じられている。一方、これに対するアフガニスタン正規軍は30万人。さらにアメリカは2002年以降、アフガン治安部隊に880億ドル(9兆7000億円)の資金支援を実施し、軍用ヘリコプター「ブラックホーク」など多数の米国製の装備品も提供してきたという(日経新聞)。戦力では圧倒的な差があるはずである。

 ただ、アメリカも圧倒的な戦力差がありながらベトナムで負けた歴史がある。戦力差だけで単純に比べられないのは確かである。しかし、激しい戦闘の上で敗退したならともかく、わずか3週間ほどの短期間であり、「蜘蛛の子を散らす」ように正規軍が逃げた雰囲気がある。おそらく士気の差が圧倒的だったのだろう。いくら装備に優っていても、立ち向かう気持ちがなければ武器などなんの役にも立たない。それに汚職なんかも激しかったようだし、ガニ大統領は札束抱えて亡命したらしいし、そのあたりに原因があるのだろう。

 我々が見ているのは常に「西側」のニュースである。私が薫陶を受けた師匠は、「複眼思考」という言葉を常々語られている。物事を一方向からだけ見るのではなく、角度を変えて見るということである。今回のニュースでは、タリバンの偶像破壊とか女性抑圧とかの蛮行が強調され、慌てて女性のポスターを剥がす店舗や不安を訴える人々の話などが報じられている。しかし、「アメリカ」を「ロシア」あるいは「中国」と置き換えると、ニュースのニュアンスはガラリと変わる。それが偏っている何よりの証拠である。

 そもそも6万人の兵力だけで国土を支配することができるはずもない。それも重装備の正規軍が30万人もいるのに、である。ニュースではタリバンを恐れる人々の顔しか映さないが、支持する人だって当然いるわけである。アメリカが南ベトナムを支えきれなかったのも、北ベトナムの軍事力が強かっただけではなく(むしろ軍事力ではアメリカ・南ベトナム側の方が優れていたのである)、市民レベルで南ベトナム政府が支持を得られなかったからに他ならない。今回のアフガニスタンも結局のところ同じなのではないかと思う。

 かと言って、タリバンが正義というわけではない。現にタリバンは早くも元政府軍への総攻撃を開始し、厳格なイスラム思想に沿った女性や子供達への締め付け、米軍協力者の捜索が拡大しているという。要はどちらが正しいかという話ではなく、どちらが国民の支持を受けているのかという話である。そこにはアメリカ=正義、民主主義=正義という図式が当てはまらないということだと思う。タリバンにはタリバンの正義があり、そしてそれは我々の考える正義とは異なるが、現地の人たちからは(少なくとも政府よりも)支持を得ているということなのではないだろうか。

 それになぜアメリカが撤退を決めたのかということもある。詳しいことはわからないが、「一言で言えばアフガニスタン政府を支える必要がなくなった」ということは間違いない。石油に依存する必要がなくなり、中東のプレゼンスが低下しているということは専門家の意見としてよく目にする。正規軍兵士のモラルも低く、武器の横流しなどもかなり行われていたと言う。20年もの間、10兆円近くつぎ込んできてもそれでは守る価値もないということなのだろう。米軍に占領された歴史のあるわが国と比較してもその違いは明らかである。わが国は戦後6年で米軍の手を離れて国際社会に復帰している。

 今後、タリバン政権がどんな政治を行うのかはわからない。懸念されているように、我々の理解できないイスラム思想に基づいて窮屈な恐怖政治を行うのかもしれない。ただ、それはアフガン人の選択であり、周りがとやかく言うべきものではないと思えてならない。タリバンは、米軍の総攻撃で散り散りなって20年、その間消滅することなく勢力を拡大または維持し、着々と米軍が去るのを待っていたわけである。当然6万人だけではなく、それを支持する人たちがいたという事実は重いと思う。

 事の真相はわからないが、一つの価値観にとらわれる事なく、いろいろな見方をしていきたいとだけは、改めて思うのである・・・




【本日の読書】
 マスコミと官僚の「無知」と「悪意」 - 髙橋洋一 死の島 (文春文庫) - 小池 真理子





2021年8月22日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その26)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。已矣乎。吾未見能見其過。而内自訟者也。
【読み下し】
子し曰いわく、已やんぬるかな。吾われ未いまだ能よく其その過あやまちを見みて、内うちに自みずから訟せむる者ものを見みざるなり。
【訳】
先師がいわれた。
「なんともしようのない世の中だ。自分の過ちを認めて、みずから責める人がまるでいなくなったようだ」
************************************************************************************

 人は誰でも自分の人生の主人公であり、したがって自分の行動は常に正しいというのが自分の内なる世界の出来事であろう。傍から見ればおかしいということでも、本人の中では正しいということが多々あるし、それが普通であろうと思う。かくいう自分も、常に自分の中では考えて正しいと思う行動を取っている。ただし、「正しい」とは必ずしも法律やルールやモラルを守ったものとは限らない。あくまでも自分なりの「正当化」である。「盗人にも三分の理」ということわざにある通りである。

 同じようなことに「すっぱいブドウ」がある。イソップ童話にある自己正当化の話である。ある社長はこの典型であった。父親に出資してもらって始めた会社は長年赤字を計上し続けていたが、個人資産がかなりあるので何とか倒産せずに済んでいた。単調な経営でまるで工夫がなく、それゆえに赤字になるのも当然であった。しかし、それは経営が下手ということではなく、あくまでも「相続対策」のためにわざと赤字にしているということであった。父親が出資しているため、相続が発生すれば株をもらうことになる。その時に過大な相続税を回避するために赤字にしているのだと強弁していた。

 そして相続が発生。会社はともかく、その他の相続資産がかなりあって、それなりに相続税は納めたようである。すると、今度は「納税は社会貢献だ」といい始めた。だから変な相続対策などせずにきちんと納めたのだと。どうやら会社を赤字にしていたのは「変な相続対策」ではないらしかった。ただ単に相続税をたくさん取られたので、悔し紛れに「社会貢献だ」と言っているだけなのは明らかだった。その後、事あるごとに「税金がかかるから」と口癖のように言っていたが、「社会貢献」ならかかってもいいのではと聞くたびに思ったものである。

 その社長にとっては、会社を黒字経営できないことも、税金をたくさん取られることも不本意で仕方がなかったのだろう。だから「黒字を出せない」のではなく、「わざと赤字にしている」のだし、「多額の税金を取られた」のではなく、「多額の社会貢献」をしたのである。だから取られた後は、税金がかかることはなるべく避ける、あるいは節税策に勤しむのである。傍から見れば面白いくらいわかりやすい「すっぱいブドウ」である。「すっぱい」とでも言わない限り心中穏やかではいられなかったのであろう。

 「すっぱいブドウ」は自分自身に対する慰めなのか、はたまた他人に対する見栄なのかはわからないが、件の社長はおそらく両方だったのだろうと思う。ただ、そういう言い訳を周囲に、そして自分自身に対してしていると、それは自分の成長には繋がらないと思う。わざと赤字にしていると言えば、その場は取り繕えるのかもしれない。しかし、それではいつまで経っても「どうしたら黒字にできるのか」がわからないままである。素直に「自分の能力が足りない」と自覚して行動しない限り、黒字化するヒントは掴めないし、他からのアドバイスも受けられないだろう。

 私自身、「自己正当化」はよくやっている。同じ行動でも二つの面があったりする。一つは自分自身の私利私欲であるが、実はそれをしなければ大きなデメリットがあるという行動でもあった場合、他人には大きなデメリットの方を強調して「やむを得ない」ということを主張するのである。いわゆる「大義名分」という奴であるが、この「大義名分」はよく利用する。もともと日本人は「大義名分」を重視するところがある。倒幕運動も単なる権力争いであったが、「錦の御旗」を用意した薩長が「官軍」になったようにである。

 「すっぱいブドウ」と「大義名分」は異なるものであるが、「自己正当化」という共通点がある。いずれも他人に対する自己正当化であるが、自己正当化は他人に対してはいいかもしれないが、自分に対してやってはいけないと思う。なぜなら、それをやっていては自分のためにならないと思うからである。できないのには理由がある。その理由をきちんと捉え、できるようにしないといけない。それを「あれはすっぱいから」と言っていたのでは、いつまで経ってもできないままである。件の社長のように、である。

 また、他人に対しても「すっぱいブドウ」は簡単に見透かされる。「では仮に取ろうとしたら取れるのか」と他人は突っ込みたくなる。その時の言い訳は苦しいものにしかならない。しかし、ここで「実は届かないんだよ」と正直に告白すれば、他人も突っ込めなくなる。件の社長も「実は能力がなくて黒字にできない」と告白していれば、私に心の中で突っ込まれることもないし、「じゃあ、あの人に相談してみれば」と親身になってもらえる可能性もある。正直で謙虚な人間を貶すことは、普通の人にはなかなかできないことである。

 人は誰でも自分の人生の主人公であり、ゆえに常に自分は正しく、他人に対してもひとかどの人物として見られたいという思いがある。だが、いたずらに自己正当化に走ってもそれは簡単に見透かされてしまう。結果、かえって他人からは(心の中で) バカにされることになる。だから逆に正直にできないものはできない、誤ったことは誤ったと認めてしまう方がいいし、楽だったりする。見栄を張ってみたところで大して効果はない。逆に正直になってしまった方が、他人からの嘲りを回避できるという効果がある。なら、それだけでも徳ではないかと思う。

 人生も後半になると、これから大人物になれる可能性もますます減ってくる。ならば少なくとも他人から嘲られることのない方を選びたい。件の社長を見ていて、そんな風に思うのである・・・




【今週の読書】
 1本5000円のレンコンがバカ売れする理由 (新潮新書) - 野口 憲一 死の島 (文春文庫) - 小池 真理子




2021年8月19日木曜日

共産党独裁は悪か

 先日、日経新聞に『学習塾は敵、ゲームは麻薬 習近平式「大衆動員」の深層』という記事が出ていた。なんでも急成長した中国の教育産業、ゲーム業界に衝撃が走り続けているという。その原因は、7月下旬、義務教育段階の校外補習を担う学習塾に突然、共産党中央から「非営利組織化せよ」というの命令が突き付けられたのだそうである。背景には、「学習塾など教育負担が重すぎる、学校から家に持ち帰る宿題が多すぎる、といった父母らの大きな不満に配慮する」ということがあるらしいが、「実態は民間教育への政治的な管理・統制の強化」ということでもあるらしい。

 また、別の記事では、中国当局がマンション取引の規制を強めるというのがあった。主要都市で住宅購入に資格制を設けたり、中古物件の売買価格に当局が介入したりしているらしい。不動産高騰への社会の不満が強いためで、今後3年で投機や違法取引を抑え込む方針だという。不動産取引の制限については、過去に日本でも「総量規制」というのが行われ、バブル崩壊の原因になったとされているから極端ということでもないが、「非営利組織化せよ」というのは、日本(というか先進国)ではありえない。さすが共産党独裁国家である。

 その「独裁」であるが、その意味は「反対を許さない」というところにある。仮に日本で「非営利組織化せよ」という決定が下ったとしても、まず教育産業界で反対の声が上がり、それに共産党他の野党が便乗して国会ですったもんだとなり、民間でも国会にデモが押し寄せたりして、大騒動の挙句、ひょっとしたら覆るかもしれない。しかし、中国では覆らない。決定は決定である。何より反対する野党はないし、デモは鎮圧されて終わりだし、すぐ逮捕されるし、逮捕されたらどうなるかわからないし。香港の例を見てもそれは明らかである。「鶴の一声」で決まってしまうことである。

 怖いと言えば怖いのであるが、「意思決定即実行」という意味では、誠にスピーディである。例えば、日本でも民間企業では社長が基本的に決定権を持っている。上場企業であればまだしも、多くの中小企業では社長は独裁者である。たとえ全社員が反対したとしても社長の鶴の一声でなんでも決まってしまう。一応、法律では株主総会が最終的な権限を有しているが、社長が株のすべてまたは過半数を持っていれば意味はない。会社の意思決定は取締役会にあるが、社長が株の過半数を押さえていれば、最悪、役員を全員解雇できるからこれも意味はない。

 しかし、会社は逆に民主的であると意思決定という意味で機能しなくなるところがある。それに多数決がいつも正しいというわけではない。ヤマト運輸が宅急便事業に進出すると決めた時も、役員は全員反対したというし、会社が民主主義を採用していたら今頃ヤマト運輸はとうの昔に消滅していたのであろう。もちろん、社長の独断専行で失敗して消えていった会社も数多くあるから、そこは良し悪しである。「会社は社長の器以上に大きくならない」と言われている通り、ダメ社長の下の社員は悲劇から逃れるには会社を辞めるしかない。

 果たして会社は、独裁と民主主義とどちらがいいのかと言われれば、それはやはり独裁だと思う。日本電産や京セラ、ソフトバンクやユニクロなど「名独裁者」がいたからこそ大発展したのは間違いないし、中小企業でもそれでうまくいっているところが大半であろう。逆に中小企業では、たとえ役員という肩書きを持っていたとしても、「指示待ち族」だったり、自分なりの経営観を持っていない「名ばかり役員」も多いから「民主主義」が育たないという面も否定できない。

 では国家はどうなのだろうか。
独裁者が、国民の人権に充分配慮し、国民の幸福のために権力を行使するのであれば、それは歓迎なのかもしれない。何より意思決定が早いし、今回のコロナ禍のような危機的状況や災害などに際しては圧倒的に早い意思決定がなされ、それを有無を言わさず実行して効果を発揮するのだろうと思える。ただ、問題は私利私欲に走られるとどうにも止められないというところにある。中国も人権弾圧という大問題を抱えている。

 「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」とは、かのチャーチルの名言であるが、これはやっぱり当面真実であり続けるのだろうと思う。もし、民主主義以上の政治形態が出てくるとしたら、それはやっぱり「AI独裁」なのかもしれないと思う。そういうAI独裁体制下で暮らしてみたいかと問われると、不安もあるが、個人的にはいいのではないかとも思う。少なくとも今の中国よりははるかに安心して暮らせそうな気もする。そんな「独裁体制」が実現するかどうかはわからないが、当面は独裁体制はどうも不安だし、今の日本に生まれて暮らせる幸せを改めて噛みしめたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 1本5000円のレンコンがバカ売れする理由 (新潮新書) - 野口 憲一 死の島 (文春文庫) - 小池 真理子




2021年8月15日日曜日

AI独裁

 先日、『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』という本を読んだ。その前にも『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』と『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』という本も読んでいるが、「サピエンス三部作」と名付けても良さそうな人類の過去、現在、未来を語ったユヴァル・ノア・ハラリという人の記した大作である。その中で、AI(アルゴリズム)の進化について語っている部分が深く印象に残った。

 AIの進化については至る所で語られている。医療の分野では、たとえば画像診断で医師でも見落とすような異変を指摘できるそうである。やがて診断はすべてAIが行い、治療方針もAIが決め、手術もロボットがやるようになれば医師の出番はほとんどなくなってしまう。それが様々な分野に進出する。ちょっと衝撃的でさえあったのは、「自動運転」「軍事技術」「政治」であろうか。詳しくは本書の一読をお薦めしたいと思う。

 なかでもたとえば軍事技術では、AIを搭載したロボット兵士の話は衝撃的でる。殺人ロボットなどというとSFの影響でついつい危険視してしまう。しかし、AIは事前に決められたルールに従って正確に行動(つまり敵を殺害)する。人間と違って戦闘中に正気を失うことがない。ベトナム戦争では「ソンミ村の虐殺」という米軍兵士が民間人を何百人も虐殺した事件が起こってしまったが、ロボット兵士ではそういうことが起こらない。史上初めて戦場で「戦場ルール」が遵守されることになるという。

 また、近年、イギリスのEU離脱(ブレクジット)が話題となったが、大衆はしばし感情に左右される。わが国でも小泉首相が郵政民営化を唱えた時に支持率が急騰して郵政選挙に圧勝したり、民主党が圧勝したり、戦前であれば朝日新聞を筆頭としたメディアの煽りによって大衆が熱狂し、軍国主義へとまっしぐらに突き進んで行った過去がある。AIは感情に左右されないから、冷静に合理的に判断を下す。そうすると、誰に投票したら良いのかとということについて、過去の実績や言動などに基づいて冷静に判断を下すようになるかもしれず、人はなかなかその判断を無視しにくくなるかもしれない。

 それどころか政策すらもAIが判断して決めることになると、それは果たしていいのかどうかと疑問に思うが、よくよく考えると人間よりもいいのかもしれない。前東京都知事の猪瀬直樹による著『日本人はなぜ戦争をしたか』によると、昭和16年夏の段階で総力戦研究所という所が、「もし日米開戦すれば日本必敗」という研究結果を導いたという。彼我の国力を冷静に分析した結果であるが、時の東條英機首相は労をねぎらいつつも現実は理屈通りにはいかないとして、この成果を却下している。もしもAI首相であれば違う決断を下していただろう。人間の政治家が何人も集まるより、AIなら一台で事足りてしまう。それは果たして危険な未来なのだろうかと考えてしまう。

 他愛もない話だが、十代の頃は恋愛で好きな相手との相性を占ったことがある。結婚前は今の妻との相性である。妻との相性はかなり悪く、ショックを受けたのを覚えている。「まぁ、所詮くだらない占いだから」とバカにして気にしなかったが、今にして思えばバカになどせず真面目に捉えて他にしておけば良かったと思う。もしもAIが結婚相手を決めるとなれば、膨大な結婚・離婚データを元に最適な相手を選んで勧めてくれるだろうし、そうなれば一時の感情に流されて後になって後悔することもないのかもしれない。生まれる子供の可能性まで判断材料とすれば、その方が幸せなのかもしれない。

 子供が生まれれば、両親の性格や遺伝データから生まれた子供の性格を判定し、最適な進路を提示する。あとは決められた通りに進学し、就職し、結婚する。能力が発揮できる会社に就職し、能力が発揮できる上司との組み合わせを選んで配属先が決められる。それに沿って能力を発揮すれば昇進させてもらえる。しかし、出世しても副社長どまりかもしれない。なぜなら経営判断はAI社長が行うからで、それによって放漫経営などとは無縁になり、働く社員もハッピーになるかもしれない。「会社は社長の器以上に大きくならない」という真理があるが、そうするとどの会社も果てしなく大きくなるだろう。

 「独裁」という言葉は悪いイメージでしかない。そこには民意を無視して独裁者が好き勝手に振る舞い、大衆は圧政に苦しむというイメージである。しかし、もしもAIが大衆にとって常に最適な政策を施行するような社会となった場合、「AI独裁」は悪い政治形態なのだろうか。ワンマンAI社長の下で働く社員は、安月給で働かされ放漫経営で会社が潰れる心配はないとなると、果たしてそれは悪なのであろうか。少なくとも、「会社はオレのもの」と勘違いして好き勝手する社長よりは圧倒的に善であると思う。国もまた然りか。

 人間が一番と思い込んでいると、ひょっとしたらそれは大きな間違いなのかもしれない。そして我々は少なからずSF映画に毒されているのかもしれない。もしかしたら、大事な判断は人間がやるよりもいいのかもしれない。いろいろと想像力を働かせてみると面白い。こういう思考訓練になるような本をこれからも読んでいきたいと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像 


【今週の読書】
 三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾 - 近藤 康太郎 百田尚樹の新・相対性理論: 人生を変える時間論 - 百田 尚樹




2021年8月12日木曜日

東京オリンピック雑感

 東京オリンピックが閉幕した。金27、銀14、銅17の計58個のメダルは、日本史上最高だと言う。地元だから特に何か有利になるとも思えないが、開催国として関係者一同の力がみなぎったのだろうか、それとも特別な国の後押しがあったのだろうかと思ってみる。何にせよ、喜ばしいことである。当初は、主に資金的な理由からオリンピック誘致には反対であったが、決まってしまったものは仕方ないというスタンスでいた。実際にかかった費用は、当初の見積もりの倍以上の1兆7,000万円だったという。

 しかし、開催の時期が近づき、いよいよチケットの販売も始まると事情が変わる。実家の母親が観に行きたいとつぶやき出したのである。前回の東京オリンピックの時、ちょうど私が生まれている。両親はともに無一文で田舎から出てきていて生活にゆとりなどなく、狭いアパートに住んで子育ても必死だったようである。父も夜遅くまで残業の毎日で、とてもゆっくりオリンピックなど楽しんでいる余裕などなかったそうである。なので今回はそのリベンジとなるわけで、「チケットが取れた」と知らせた時は大いに喜んでいたのである。

 ところが、思いもかけないコロナ禍で無観客試合となり、残念無念。母もがっかりしていた。本来であれば、やはりバレーボール好きの叔母と一緒に行けるように、当日は運転手に徹するつもりで手はずを整えていただけに、無観客試合は私自身も残念であった。それでも母はあれこれとテレビで観戦していたようである。バレーボールのチケットが取れ、母親が楽しみにしている姿を見て、それだけで東京オリンピックはやってよかったと思う。共産党などは、閉幕まで「反対!」と唱えていたが、たぶん自民党政府が開催中止としていたら、開催賛成と主張したのだろうと思う。

 私は、と言えば、もともとオリンピックにそんなに興味があるわけでもない。それでも柔道やレスリングや水泳なんかは(時間があれば)見ていたいと思ったが、悲しいかなそういうのんびりとした時間がなく、ほとんどチラ見した程度であった。「時間がない」とはビジネスマン的には禁句だが、正確に言えば、「優先順位を上げられない」である。平日は平日で、家に帰ってきてもやりたいことがある(それにチャンネル権もない)。週末はラグビーの練習があったり、実家に顔を出して料理をしたりという有様。裏でやっていたラグビーのブリティッシュ&アイリッシュライオンズの南ア遠征の各試合すらろくに観られなかったのだから余計である。

 ブリティッシュ&アイリッシュライオンズは4年に一度イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズの代表から選抜されて結成される「全イギリス」というべきチームで、前回のラグビーワールドカップ日本大会の覇者南アに遠征して、南アの代表チームと3試合、南アのプロチームと数試合対戦するという垂涎モノだったが、これも2試合(あと1試合は録画したまま)しか観れていない。大好きなラグビーですらその有様なのに、オリンピックに割く時間など取れなかったのである。まぁ、仕方ない。

 続いてパラリンピックがあるが、これはもう論外。初めから見たいとも思わない。障害者スポーツが悪いとは思わないし、むしろ積極的に好ましいと思うが、だからと言って観たいということにはならない。障害があってもスポーツができるということは素晴らしいことで、それを地域に止めるのではなく、パラリンピックという最高の舞台を用意することは、障害者にも夢を与えるし、素晴らしいことだと思う。ただ、個人的にそれを観たいかとなると、興味がないというだけのことである。高校野球よりもレベルの高いプロ野球の方が面白いのと同様、どうせ「観るならオリンピック」なのである。

 前回の東京オリンピックは、スポーツの秋10月10日に開幕し、ゆえにその日が長年「体育の日」として親しまれてきた。されど今回は真夏の祭典。何でそんなバカな時期にやるのかと素人的には思うが、それは最大のスポンサーであるアメリカのテレビ局の意向なのだとか。秋になれば自国のスポーツが目白押しとなるから、それを回避したかったのだとか。真偽は定かではないが、実際、大会費用の7割はアメリカのテレビ局が出しているらしいから、実に理屈に合った話であり、個人的には真実であると思っている。アスリートや観戦する人たちのことは二の次、それが資本主義の言うなれば欠点なのだろう。

 それにしても毎回オリンピックのたびに思うのだが、オリンピックの1つの意義としては、マイナースポーツに陽が当たることではないかと思う。野球やテニスはそれだけで成り立つが、フェンシングやアーチェリー、カヌーなんかの競技はほとんど目にする事はない。そうしたマイナースポーツにも(多少の)陽が当たるのはいい事だと思う。そういう意味で、金メダルは取れたが、野球のプロ選手の参加は如何なものかと個人的には思う。サッカーもそうだが、ワールドカップクラスの試合がある競技は、なくてもいいように思う。その分、マイナースポーツにもっとスポットライトを当ててもいいのではないだろうか。

 オリンピックは観戦できなかったが、母は孫(つまり私の息子だ)の野球をネット中継で観られて喜んでいた。今は高校野球は一回戦からテレビかまたはネット配信で試合が観られる。スマホの画像をテレビに転送して観ていたが、思いもかけぬ「観戦」に大喜びであった。残念ながら二回戦で敗退だったが、「次はいつ?」と聞く有様であった。まぁ、ラグビーに進まなかったのは残念だが、代わりに孝行してくれたので良しとしたい。やっぱりオリンピックよりも孫なのだろうか。あと2年は母を楽しませて欲しいと、楕円球ではなく白球を追う息子にエールを送りたいと思うのである・・・



【本日の読書】
 三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾 - 近藤 康太郎 百田尚樹の新・相対性理論: 人生を変える時間論 - 百田 尚樹