銀行に入り、初めて持った部下はどうにもできの悪い男だった。頭は悪くなかったが、それが故にか理屈先行のところがあり、物事を自分勝手に解釈して行動するところが多々あった。それまでにも随分怒られていたようであるが、私が着任してからは何とかしたいと指導していた。ある時、その男が私に言った。「仕事は真面目にやります」と。それがさも自分の得意なこと、自信を持って言える唯一のことであるかのようにである。私も自分自身そういう気持ちがあったから彼の気持ちはよく理解できた。だが、違うのである。
仕事を誠実にこなすこと。真面目にこなすことは大切なことである。その裏には、「真面目にやっていない者がいるが私は違う」という意識があるのだろう。それはそれでよくわかるが、それでも違う。なぜなら、真面目に働くことは「当たり前」のことであるからである。小学生が「毎日学校に行っています」というようなものである。もっとも、大学生であれば、「毎日学校へ行っている」のは真面目だと自慢してもいいかもしれない。しかし、それは普通、当たり前のことであり、わざわざ強調することではない。
サラリーマンであれば、毎日会社へ行くことは当たり前であり、真面目に仕事をするのも当たり前である。もっとも、社員の質が下がればその当たり前が当たり前でなくなることもありうることであろう。ブルーワーカー系だとそういう社員の比率は高いと思う。父が中学を卒業して田舎から出てきて住み込みで働いていた時、その真面目な働きぶりに感心した社長の奥さんがこっそりと小遣いをくれたと言う。真面目な父らしいエピソードだが、おそらくみんながみんな父のような真面目さだったらそうはならなかっただろう。
真面目というのは一つの取り柄であるのは確かである。しかし、取り柄になるというのは、それが希少価値を持っていることが必要である。つまり誰もがみんな持っていたらそれは取り柄にはならない。銀行のように真面目な人間がたくさんいる会社では、それは取り柄にならない。彼はそれに気づいていなかったのだが、一方で真面目に働いていればそれで免責されると勘違いしていたのかもしれない。「いろいろと怒られてはいるが、仕事は真面目にやっている」という言い訳だったのだろうと思う。
そうして「自分は真面目に働いている」ということが自分自身に対する評価になるのはいいのであるが、問題はそれが「当たり前」の会社の中ではどうなるかということである。社員の質が高くなれば、みんなが真面目に働いているから、当然ながら真面目に働くのは大前提で取り立てて言うほどのものでは無くなる。そうなると、もう一歩必要になってくる。孔子はそれを「学問」としたが、我々サラリーマンでは、それは「仕事」であろう。「愛して精通」などと言えばワーカホリックのようなイメージであるが、単純に一生懸命やっているかということであろう。
かつて「24時間戦えますか」という言葉が流行ったが、今はそういう世の中ではない。さしづめワークライフバランスというところであるが、これは「仕事も生活も緩やかに」ということではないと私は思う。あえて言えば、「仕事も生活も一生懸命に」だろう。当たり前だが、人間は毎日1日ずつ死に向かっている。1日1日が大切な日々のはずである。転勤によって別の職場になって以来、あの時の部下とは一度も会っていないが、今どうしているのだろうかとふと思う。今も「真面目に」働いているのだろうか。考え方が変わっていないとしたら、銀行では残念な境遇にいるかもしれない。あの頃の私には大して指導力もなかったから、それはそれで申し訳なかったと思う。まあ、ほどほどにワークライフバランスしているのかもしれない。
また明日から新しい1週間が始まる。かく言う自分もしっかりと一生懸命、ワークライフバランスしようと思うのである・・・
Gerhard G.によるPixabayからの画像 |
【今週の読書】
0 件のコメント:
コメントを投稿