2021年8月29日日曜日

スモーキング・マナー

 およそ26年ぶりにタバコを常習するようになったが、再開してみると否が応でも気がつくのは、「タバコを吸える場所が少ない」という事実である。別にタバコを吸わなくても、なんとなく感じていたことであるが、実際、吸い始めるとその事実に直面する。まずは職場。前職では小さなビルゆえか、外階段に灰皿が設置されていたので、「ちょっと席を外して」という感じであったが、転職した新しい職場は立派なビルの7階。一応、職場内に喫煙ルームがあったが、「電子タバコのみ」。「煙が出ない」というのがその理由。

 その喫煙ルームはどうやら部屋を借りている我が社で勝手にスペースを作ったらしいが、煙はまずいとなって「電子タバコのみ」となったようである。ビル全体は当然禁煙。外へ出るしかないが、近隣にタバコ屋があって店内を喫煙所として開放している。ところがタバコを買わないとダメらしい。たまたま買うタイミングであればまだしも、そうでなければ面倒である。さらにファミリーマートが店内に喫煙所を設けているのが判明。ここは「密を回避」という条件がつくが、時節柄やむを得ない。ただ、狭いゆえに4人も入れば密状態。タイミングが難である。

 足を伸ばせば公共施設に喫煙所が設置されていて、ここはオープンスペースゆえに密の心配はなく、使い勝手は誠に良い。ただ、少し離れているので、仕事中にちょっと一服するには難儀である。路上の喫煙も禁止の表示がいたるところにある。ただ、それが悪いかと言えばそうではない。再開したとは言え、やはり臭いも気になるし、健康面の意味でも本数を制限するようにしているが、そういう我が身にはこういう環境は誠に都合が良いと言える。

 ファミリーマートの狭い喫煙所を利用してみて気がつく。その時はたまたまであるが、灰皿の上に空の箱が捨ててあった。そこは当然吸い殻を入れるところであり、空箱は持って帰ってしかるべきところに捨てるべきである。どこかの不届き者の仕業であろうが、タバコを吸う人間にはこういう「マナー違反」がかなり多いように見受けられる。これは昔から気になっていたところであるが、相変わらずのようである。灰皿の周辺は灰が散乱。非常に見苦しい。おそらくお店の人が掃除しているのだと思うが、かなり不快な気分になると思う。そういう人のことも考えれば、灰の処理にも気を使うべきであろう。

 気がつけば歩きタバコをしている人を目にすることもある。このご時世にとんでもないことである。吸い終わったタバコをどうするのかと想像してみるのも不快である。週末のシニアラグビーの練習後、タバコを吸いながら雑談しているのは、いつもグラウンドを分け合って練習している仲の良いチームの面々。右手にタバコ、そして左手には携帯用の吸い殻入れを持っている。さすが、しっかりしていると感心。そういう自分も一つ持っている。

 考えれば、昔は飲食店には普通に灰皿があった。みんな普通に食後の一服を楽しんでいた。隣の人がこれから食べようとしていても、である。それを考えれば、今は禁煙が普通であり、良い環境になったと思う。そもそもであるが、本来環境に頼るべきではないのである。タバコを吸う人間は、エチケットとして周りに気を配る必要がある。吸い殻の処理もしかり。ポイ捨てなど言語道断である。「吸いにくい」と文句を言うのではなく、本来であれば自らを律するべきであり、律すれば必然的に吸える場所は限られてくるのである。

 タバコを吸う人間は、どこかそういう部分がルーズであるように思う。自分のことしか考えていないとも言える。周りに吸わない人がいるなら吸わないのがマナーであり、それが守れているなら「受動喫煙」という問題は本来発生しないはずである。ポイ捨ても然り。また、せっかく設置してある喫煙所も綺麗に使うように心掛けないといけない。トイレも自分で掃除してみれば綺麗に使おうと心掛けるようになる。喫煙所も然りだろうと思う。マナー違反者は防犯カメラで監視して捕まえた上で罰として掃除させるというのも良いかもしれない。

 喫煙所で何気なく紙タバコを吸っている人を観察していたら、みんなかなり短くなるまで吸っていることに気がついた。今はマルボロが一箱570円。サラリーマンの懐にはかなり厳しい価格である。みんな少し吸って捨てるというもったいない吸い方ができなくなってきているのかもしれないと感じる。それを逆手に、電子タバコが単価の安さを売りに攻勢をかけているようである。確かに、灰と煙というタバコの害悪を極力減らした電子タバコはその意味で良いと言える。ただ、個人的には電子タバコに乗り換えることは当分ないだろう。

 吸いにくい環境はwelcomeである。マナーに期待しても、残念ながらタバコを吸う人間のモラルにはあまり期待できない。ならば徹底して吸いにくくするのは正しい対応であろう。この先、ずっとタバコを吸い続けるかはわからない。また以前のように「休煙」するかもしれない。ただ、吸う限りはエチケットはきちんと守りたいと思う。自分自身、そのように身を律することができる人間でありたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 1本5000円のレンコンがバカ売れする理由 (新潮新書) - 野口 憲一 死の島 (文春文庫) - 小池 真理子 マスコミと官僚の「無知」と「悪意」 - 髙橋洋一 大名倒産 上 (文春文庫) - 浅田 次郎





2021年8月26日木曜日

タリバン政権について思うこと

 アフガニスタンから米軍が撤退すると発表され、その期限が迫るとなった途端、タリバンが北部の州都を制圧し始め、あっという間に首都カブールに侵攻し、政権が崩壊してしまった。米軍が撤退を発表してからあれよあれよという間である。カブールでは外国人はともかく、アフガン人の米軍協力者やタリバンを恐れる人々が空港に殺到しているという。中には発進した輸送機に乗り切れない人が機体にしがみつき、離陸後に落下するという悲劇も起きているらしい。

 なぜ、こんなにも早くタリバンが侵攻し、政権が崩壊してしまったのだろう。ニュースをさらりと聞き流しそうになって、ふと興味を持ってみた。タリバンは中露の後押しを受けているということであるが、総兵力は約6万人と報じられている。一方、これに対するアフガニスタン正規軍は30万人。さらにアメリカは2002年以降、アフガン治安部隊に880億ドル(9兆7000億円)の資金支援を実施し、軍用ヘリコプター「ブラックホーク」など多数の米国製の装備品も提供してきたという(日経新聞)。戦力では圧倒的な差があるはずである。

 ただ、アメリカも圧倒的な戦力差がありながらベトナムで負けた歴史がある。戦力差だけで単純に比べられないのは確かである。しかし、激しい戦闘の上で敗退したならともかく、わずか3週間ほどの短期間であり、「蜘蛛の子を散らす」ように正規軍が逃げた雰囲気がある。おそらく士気の差が圧倒的だったのだろう。いくら装備に優っていても、立ち向かう気持ちがなければ武器などなんの役にも立たない。それに汚職なんかも激しかったようだし、ガニ大統領は札束抱えて亡命したらしいし、そのあたりに原因があるのだろう。

 我々が見ているのは常に「西側」のニュースである。私が薫陶を受けた師匠は、「複眼思考」という言葉を常々語られている。物事を一方向からだけ見るのではなく、角度を変えて見るということである。今回のニュースでは、タリバンの偶像破壊とか女性抑圧とかの蛮行が強調され、慌てて女性のポスターを剥がす店舗や不安を訴える人々の話などが報じられている。しかし、「アメリカ」を「ロシア」あるいは「中国」と置き換えると、ニュースのニュアンスはガラリと変わる。それが偏っている何よりの証拠である。

 そもそも6万人の兵力だけで国土を支配することができるはずもない。それも重装備の正規軍が30万人もいるのに、である。ニュースではタリバンを恐れる人々の顔しか映さないが、支持する人だって当然いるわけである。アメリカが南ベトナムを支えきれなかったのも、北ベトナムの軍事力が強かっただけではなく(むしろ軍事力ではアメリカ・南ベトナム側の方が優れていたのである)、市民レベルで南ベトナム政府が支持を得られなかったからに他ならない。今回のアフガニスタンも結局のところ同じなのではないかと思う。

 かと言って、タリバンが正義というわけではない。現にタリバンは早くも元政府軍への総攻撃を開始し、厳格なイスラム思想に沿った女性や子供達への締め付け、米軍協力者の捜索が拡大しているという。要はどちらが正しいかという話ではなく、どちらが国民の支持を受けているのかという話である。そこにはアメリカ=正義、民主主義=正義という図式が当てはまらないということだと思う。タリバンにはタリバンの正義があり、そしてそれは我々の考える正義とは異なるが、現地の人たちからは(少なくとも政府よりも)支持を得ているということなのではないだろうか。

 それになぜアメリカが撤退を決めたのかということもある。詳しいことはわからないが、「一言で言えばアフガニスタン政府を支える必要がなくなった」ということは間違いない。石油に依存する必要がなくなり、中東のプレゼンスが低下しているということは専門家の意見としてよく目にする。正規軍兵士のモラルも低く、武器の横流しなどもかなり行われていたと言う。20年もの間、10兆円近くつぎ込んできてもそれでは守る価値もないということなのだろう。米軍に占領された歴史のあるわが国と比較してもその違いは明らかである。わが国は戦後6年で米軍の手を離れて国際社会に復帰している。

 今後、タリバン政権がどんな政治を行うのかはわからない。懸念されているように、我々の理解できないイスラム思想に基づいて窮屈な恐怖政治を行うのかもしれない。ただ、それはアフガン人の選択であり、周りがとやかく言うべきものではないと思えてならない。タリバンは、米軍の総攻撃で散り散りなって20年、その間消滅することなく勢力を拡大または維持し、着々と米軍が去るのを待っていたわけである。当然6万人だけではなく、それを支持する人たちがいたという事実は重いと思う。

 事の真相はわからないが、一つの価値観にとらわれる事なく、いろいろな見方をしていきたいとだけは、改めて思うのである・・・




【本日の読書】
 マスコミと官僚の「無知」と「悪意」 - 髙橋洋一 死の島 (文春文庫) - 小池 真理子





2021年8月22日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その26)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。已矣乎。吾未見能見其過。而内自訟者也。
【読み下し】
子し曰いわく、已やんぬるかな。吾われ未いまだ能よく其その過あやまちを見みて、内うちに自みずから訟せむる者ものを見みざるなり。
【訳】
先師がいわれた。
「なんともしようのない世の中だ。自分の過ちを認めて、みずから責める人がまるでいなくなったようだ」
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 人は誰でも自分の人生の主人公であり、したがって自分の行動は常に正しいというのが自分の内なる世界の出来事であろう。傍から見ればおかしいということでも、本人の中では正しいということが多々あるし、それが普通であろうと思う。かくいう自分も、常に自分の中では考えて正しいと思う行動を取っている。ただし、「正しい」とは必ずしも法律やルールやモラルを守ったものとは限らない。あくまでも自分なりの「正当化」である。「盗人にも三分の理」ということわざにある通りである。

 同じようなことに「すっぱいブドウ」がある。イソップ童話にある自己正当化の話である。ある社長はこの典型であった。父親に出資してもらって始めた会社は長年赤字を計上し続けていたが、個人資産がかなりあるので何とか倒産せずに済んでいた。単調な経営でまるで工夫がなく、それゆえに赤字になるのも当然であった。しかし、それは経営が下手ということではなく、あくまでも「相続対策」のためにわざと赤字にしているということであった。父親が出資しているため、相続が発生すれば株をもらうことになる。その時に過大な相続税を回避するために赤字にしているのだと強弁していた。

 そして相続が発生。会社はともかく、その他の相続資産がかなりあって、それなりに相続税は納めたようである。すると、今度は「納税は社会貢献だ」といい始めた。だから変な相続対策などせずにきちんと納めたのだと。どうやら会社を赤字にしていたのは「変な相続対策」ではないらしかった。ただ単に相続税をたくさん取られたので、悔し紛れに「社会貢献だ」と言っているだけなのは明らかだった。その後、事あるごとに「税金がかかるから」と口癖のように言っていたが、「社会貢献」ならかかってもいいのではと聞くたびに思ったものである。

 その社長にとっては、会社を黒字経営できないことも、税金をたくさん取られることも不本意で仕方がなかったのだろう。だから「黒字を出せない」のではなく、「わざと赤字にしている」のだし、「多額の税金を取られた」のではなく、「多額の社会貢献」をしたのである。だから取られた後は、税金がかかることはなるべく避ける、あるいは節税策に勤しむのである。傍から見れば面白いくらいわかりやすい「すっぱいブドウ」である。「すっぱい」とでも言わない限り心中穏やかではいられなかったのであろう。

 「すっぱいブドウ」は自分自身に対する慰めなのか、はたまた他人に対する見栄なのかはわからないが、件の社長はおそらく両方だったのだろうと思う。ただ、そういう言い訳を周囲に、そして自分自身に対してしていると、それは自分の成長には繋がらないと思う。わざと赤字にしていると言えば、その場は取り繕えるのかもしれない。しかし、それではいつまで経っても「どうしたら黒字にできるのか」がわからないままである。素直に「自分の能力が足りない」と自覚して行動しない限り、黒字化するヒントは掴めないし、他からのアドバイスも受けられないだろう。

 私自身、「自己正当化」はよくやっている。同じ行動でも二つの面があったりする。一つは自分自身の私利私欲であるが、実はそれをしなければ大きなデメリットがあるという行動でもあった場合、他人には大きなデメリットの方を強調して「やむを得ない」ということを主張するのである。いわゆる「大義名分」という奴であるが、この「大義名分」はよく利用する。もともと日本人は「大義名分」を重視するところがある。倒幕運動も単なる権力争いであったが、「錦の御旗」を用意した薩長が「官軍」になったようにである。

 「すっぱいブドウ」と「大義名分」は異なるものであるが、「自己正当化」という共通点がある。いずれも他人に対する自己正当化であるが、自己正当化は他人に対してはいいかもしれないが、自分に対してやってはいけないと思う。なぜなら、それをやっていては自分のためにならないと思うからである。できないのには理由がある。その理由をきちんと捉え、できるようにしないといけない。それを「あれはすっぱいから」と言っていたのでは、いつまで経ってもできないままである。件の社長のように、である。

 また、他人に対しても「すっぱいブドウ」は簡単に見透かされる。「では仮に取ろうとしたら取れるのか」と他人は突っ込みたくなる。その時の言い訳は苦しいものにしかならない。しかし、ここで「実は届かないんだよ」と正直に告白すれば、他人も突っ込めなくなる。件の社長も「実は能力がなくて黒字にできない」と告白していれば、私に心の中で突っ込まれることもないし、「じゃあ、あの人に相談してみれば」と親身になってもらえる可能性もある。正直で謙虚な人間を貶すことは、普通の人にはなかなかできないことである。

 人は誰でも自分の人生の主人公であり、ゆえに常に自分は正しく、他人に対してもひとかどの人物として見られたいという思いがある。だが、いたずらに自己正当化に走ってもそれは簡単に見透かされてしまう。結果、かえって他人からは(心の中で) バカにされることになる。だから逆に正直にできないものはできない、誤ったことは誤ったと認めてしまう方がいいし、楽だったりする。見栄を張ってみたところで大して効果はない。逆に正直になってしまった方が、他人からの嘲りを回避できるという効果がある。なら、それだけでも徳ではないかと思う。

 人生も後半になると、これから大人物になれる可能性もますます減ってくる。ならば少なくとも他人から嘲られることのない方を選びたい。件の社長を見ていて、そんな風に思うのである・・・




【今週の読書】
 1本5000円のレンコンがバカ売れする理由 (新潮新書) - 野口 憲一 死の島 (文春文庫) - 小池 真理子




2021年8月19日木曜日

共産党独裁は悪か

 先日、日経新聞に『学習塾は敵、ゲームは麻薬 習近平式「大衆動員」の深層』という記事が出ていた。なんでも急成長した中国の教育産業、ゲーム業界に衝撃が走り続けているという。その原因は、7月下旬、義務教育段階の校外補習を担う学習塾に突然、共産党中央から「非営利組織化せよ」というの命令が突き付けられたのだそうである。背景には、「学習塾など教育負担が重すぎる、学校から家に持ち帰る宿題が多すぎる、といった父母らの大きな不満に配慮する」ということがあるらしいが、「実態は民間教育への政治的な管理・統制の強化」ということでもあるらしい。

 また、別の記事では、中国当局がマンション取引の規制を強めるというのがあった。主要都市で住宅購入に資格制を設けたり、中古物件の売買価格に当局が介入したりしているらしい。不動産高騰への社会の不満が強いためで、今後3年で投機や違法取引を抑え込む方針だという。不動産取引の制限については、過去に日本でも「総量規制」というのが行われ、バブル崩壊の原因になったとされているから極端ということでもないが、「非営利組織化せよ」というのは、日本(というか先進国)ではありえない。さすが共産党独裁国家である。

 その「独裁」であるが、その意味は「反対を許さない」というところにある。仮に日本で「非営利組織化せよ」という決定が下ったとしても、まず教育産業界で反対の声が上がり、それに共産党他の野党が便乗して国会ですったもんだとなり、民間でも国会にデモが押し寄せたりして、大騒動の挙句、ひょっとしたら覆るかもしれない。しかし、中国では覆らない。決定は決定である。何より反対する野党はないし、デモは鎮圧されて終わりだし、すぐ逮捕されるし、逮捕されたらどうなるかわからないし。香港の例を見てもそれは明らかである。「鶴の一声」で決まってしまうことである。

 怖いと言えば怖いのであるが、「意思決定即実行」という意味では、誠にスピーディである。例えば、日本でも民間企業では社長が基本的に決定権を持っている。上場企業であればまだしも、多くの中小企業では社長は独裁者である。たとえ全社員が反対したとしても社長の鶴の一声でなんでも決まってしまう。一応、法律では株主総会が最終的な権限を有しているが、社長が株のすべてまたは過半数を持っていれば意味はない。会社の意思決定は取締役会にあるが、社長が株の過半数を押さえていれば、最悪、役員を全員解雇できるからこれも意味はない。

 しかし、会社は逆に民主的であると意思決定という意味で機能しなくなるところがある。それに多数決がいつも正しいというわけではない。ヤマト運輸が宅急便事業に進出すると決めた時も、役員は全員反対したというし、会社が民主主義を採用していたら今頃ヤマト運輸はとうの昔に消滅していたのであろう。もちろん、社長の独断専行で失敗して消えていった会社も数多くあるから、そこは良し悪しである。「会社は社長の器以上に大きくならない」と言われている通り、ダメ社長の下の社員は悲劇から逃れるには会社を辞めるしかない。

 果たして会社は、独裁と民主主義とどちらがいいのかと言われれば、それはやはり独裁だと思う。日本電産や京セラ、ソフトバンクやユニクロなど「名独裁者」がいたからこそ大発展したのは間違いないし、中小企業でもそれでうまくいっているところが大半であろう。逆に中小企業では、たとえ役員という肩書きを持っていたとしても、「指示待ち族」だったり、自分なりの経営観を持っていない「名ばかり役員」も多いから「民主主義」が育たないという面も否定できない。

 では国家はどうなのだろうか。
独裁者が、国民の人権に充分配慮し、国民の幸福のために権力を行使するのであれば、それは歓迎なのかもしれない。何より意思決定が早いし、今回のコロナ禍のような危機的状況や災害などに際しては圧倒的に早い意思決定がなされ、それを有無を言わさず実行して効果を発揮するのだろうと思える。ただ、問題は私利私欲に走られるとどうにも止められないというところにある。中国も人権弾圧という大問題を抱えている。

 「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」とは、かのチャーチルの名言であるが、これはやっぱり当面真実であり続けるのだろうと思う。もし、民主主義以上の政治形態が出てくるとしたら、それはやっぱり「AI独裁」なのかもしれないと思う。そういうAI独裁体制下で暮らしてみたいかと問われると、不安もあるが、個人的にはいいのではないかとも思う。少なくとも今の中国よりははるかに安心して暮らせそうな気もする。そんな「独裁体制」が実現するかどうかはわからないが、当面は独裁体制はどうも不安だし、今の日本に生まれて暮らせる幸せを改めて噛みしめたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 1本5000円のレンコンがバカ売れする理由 (新潮新書) - 野口 憲一 死の島 (文春文庫) - 小池 真理子




2021年8月15日日曜日

AI独裁

 先日、『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』という本を読んだ。その前にも『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』と『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』という本も読んでいるが、「サピエンス三部作」と名付けても良さそうな人類の過去、現在、未来を語ったユヴァル・ノア・ハラリという人の記した大作である。その中で、AI(アルゴリズム)の進化について語っている部分が深く印象に残った。

 AIの進化については至る所で語られている。医療の分野では、たとえば画像診断で医師でも見落とすような異変を指摘できるそうである。やがて診断はすべてAIが行い、治療方針もAIが決め、手術もロボットがやるようになれば医師の出番はほとんどなくなってしまう。それが様々な分野に進出する。ちょっと衝撃的でさえあったのは、「自動運転」「軍事技術」「政治」であろうか。詳しくは本書の一読をお薦めしたいと思う。

 なかでもたとえば軍事技術では、AIを搭載したロボット兵士の話は衝撃的でる。殺人ロボットなどというとSFの影響でついつい危険視してしまう。しかし、AIは事前に決められたルールに従って正確に行動(つまり敵を殺害)する。人間と違って戦闘中に正気を失うことがない。ベトナム戦争では「ソンミ村の虐殺」という米軍兵士が民間人を何百人も虐殺した事件が起こってしまったが、ロボット兵士ではそういうことが起こらない。史上初めて戦場で「戦場ルール」が遵守されることになるという。

 また、近年、イギリスのEU離脱(ブレクジット)が話題となったが、大衆はしばし感情に左右される。わが国でも小泉首相が郵政民営化を唱えた時に支持率が急騰して郵政選挙に圧勝したり、民主党が圧勝したり、戦前であれば朝日新聞を筆頭としたメディアの煽りによって大衆が熱狂し、軍国主義へとまっしぐらに突き進んで行った過去がある。AIは感情に左右されないから、冷静に合理的に判断を下す。そうすると、誰に投票したら良いのかとということについて、過去の実績や言動などに基づいて冷静に判断を下すようになるかもしれず、人はなかなかその判断を無視しにくくなるかもしれない。

 それどころか政策すらもAIが判断して決めることになると、それは果たしていいのかどうかと疑問に思うが、よくよく考えると人間よりもいいのかもしれない。前東京都知事の猪瀬直樹による著『日本人はなぜ戦争をしたか』によると、昭和16年夏の段階で総力戦研究所という所が、「もし日米開戦すれば日本必敗」という研究結果を導いたという。彼我の国力を冷静に分析した結果であるが、時の東條英機首相は労をねぎらいつつも現実は理屈通りにはいかないとして、この成果を却下している。もしもAI首相であれば違う決断を下していただろう。人間の政治家が何人も集まるより、AIなら一台で事足りてしまう。それは果たして危険な未来なのだろうかと考えてしまう。

 他愛もない話だが、十代の頃は恋愛で好きな相手との相性を占ったことがある。結婚前は今の妻との相性である。妻との相性はかなり悪く、ショックを受けたのを覚えている。「まぁ、所詮くだらない占いだから」とバカにして気にしなかったが、今にして思えばバカになどせず真面目に捉えて他にしておけば良かったと思う。もしもAIが結婚相手を決めるとなれば、膨大な結婚・離婚データを元に最適な相手を選んで勧めてくれるだろうし、そうなれば一時の感情に流されて後になって後悔することもないのかもしれない。生まれる子供の可能性まで判断材料とすれば、その方が幸せなのかもしれない。

 子供が生まれれば、両親の性格や遺伝データから生まれた子供の性格を判定し、最適な進路を提示する。あとは決められた通りに進学し、就職し、結婚する。能力が発揮できる会社に就職し、能力が発揮できる上司との組み合わせを選んで配属先が決められる。それに沿って能力を発揮すれば昇進させてもらえる。しかし、出世しても副社長どまりかもしれない。なぜなら経営判断はAI社長が行うからで、それによって放漫経営などとは無縁になり、働く社員もハッピーになるかもしれない。「会社は社長の器以上に大きくならない」という真理があるが、そうするとどの会社も果てしなく大きくなるだろう。

 「独裁」という言葉は悪いイメージでしかない。そこには民意を無視して独裁者が好き勝手に振る舞い、大衆は圧政に苦しむというイメージである。しかし、もしもAIが大衆にとって常に最適な政策を施行するような社会となった場合、「AI独裁」は悪い政治形態なのだろうか。ワンマンAI社長の下で働く社員は、安月給で働かされ放漫経営で会社が潰れる心配はないとなると、果たしてそれは悪なのであろうか。少なくとも、「会社はオレのもの」と勘違いして好き勝手する社長よりは圧倒的に善であると思う。国もまた然りか。

 人間が一番と思い込んでいると、ひょっとしたらそれは大きな間違いなのかもしれない。そして我々は少なからずSF映画に毒されているのかもしれない。もしかしたら、大事な判断は人間がやるよりもいいのかもしれない。いろいろと想像力を働かせてみると面白い。こういう思考訓練になるような本をこれからも読んでいきたいと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像 


【今週の読書】
 三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾 - 近藤 康太郎 百田尚樹の新・相対性理論: 人生を変える時間論 - 百田 尚樹




2021年8月12日木曜日

東京オリンピック雑感

 東京オリンピックが閉幕した。金27、銀14、銅17の計58個のメダルは、日本史上最高だと言う。地元だから特に何か有利になるとも思えないが、開催国として関係者一同の力がみなぎったのだろうか、それとも特別な国の後押しがあったのだろうかと思ってみる。何にせよ、喜ばしいことである。当初は、主に資金的な理由からオリンピック誘致には反対であったが、決まってしまったものは仕方ないというスタンスでいた。実際にかかった費用は、当初の見積もりの倍以上の1兆7,000万円だったという。

 しかし、開催の時期が近づき、いよいよチケットの販売も始まると事情が変わる。実家の母親が観に行きたいとつぶやき出したのである。前回の東京オリンピックの時、ちょうど私が生まれている。両親はともに無一文で田舎から出てきていて生活にゆとりなどなく、狭いアパートに住んで子育ても必死だったようである。父も夜遅くまで残業の毎日で、とてもゆっくりオリンピックなど楽しんでいる余裕などなかったそうである。なので今回はそのリベンジとなるわけで、「チケットが取れた」と知らせた時は大いに喜んでいたのである。

 ところが、思いもかけないコロナ禍で無観客試合となり、残念無念。母もがっかりしていた。本来であれば、やはりバレーボール好きの叔母と一緒に行けるように、当日は運転手に徹するつもりで手はずを整えていただけに、無観客試合は私自身も残念であった。それでも母はあれこれとテレビで観戦していたようである。バレーボールのチケットが取れ、母親が楽しみにしている姿を見て、それだけで東京オリンピックはやってよかったと思う。共産党などは、閉幕まで「反対!」と唱えていたが、たぶん自民党政府が開催中止としていたら、開催賛成と主張したのだろうと思う。

 私は、と言えば、もともとオリンピックにそんなに興味があるわけでもない。それでも柔道やレスリングや水泳なんかは(時間があれば)見ていたいと思ったが、悲しいかなそういうのんびりとした時間がなく、ほとんどチラ見した程度であった。「時間がない」とはビジネスマン的には禁句だが、正確に言えば、「優先順位を上げられない」である。平日は平日で、家に帰ってきてもやりたいことがある(それにチャンネル権もない)。週末はラグビーの練習があったり、実家に顔を出して料理をしたりという有様。裏でやっていたラグビーのブリティッシュ&アイリッシュライオンズの南ア遠征の各試合すらろくに観られなかったのだから余計である。

 ブリティッシュ&アイリッシュライオンズは4年に一度イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズの代表から選抜されて結成される「全イギリス」というべきチームで、前回のラグビーワールドカップ日本大会の覇者南アに遠征して、南アの代表チームと3試合、南アのプロチームと数試合対戦するという垂涎モノだったが、これも2試合(あと1試合は録画したまま)しか観れていない。大好きなラグビーですらその有様なのに、オリンピックに割く時間など取れなかったのである。まぁ、仕方ない。

 続いてパラリンピックがあるが、これはもう論外。初めから見たいとも思わない。障害者スポーツが悪いとは思わないし、むしろ積極的に好ましいと思うが、だからと言って観たいということにはならない。障害があってもスポーツができるということは素晴らしいことで、それを地域に止めるのではなく、パラリンピックという最高の舞台を用意することは、障害者にも夢を与えるし、素晴らしいことだと思う。ただ、個人的にそれを観たいかとなると、興味がないというだけのことである。高校野球よりもレベルの高いプロ野球の方が面白いのと同様、どうせ「観るならオリンピック」なのである。

 前回の東京オリンピックは、スポーツの秋10月10日に開幕し、ゆえにその日が長年「体育の日」として親しまれてきた。されど今回は真夏の祭典。何でそんなバカな時期にやるのかと素人的には思うが、それは最大のスポンサーであるアメリカのテレビ局の意向なのだとか。秋になれば自国のスポーツが目白押しとなるから、それを回避したかったのだとか。真偽は定かではないが、実際、大会費用の7割はアメリカのテレビ局が出しているらしいから、実に理屈に合った話であり、個人的には真実であると思っている。アスリートや観戦する人たちのことは二の次、それが資本主義の言うなれば欠点なのだろう。

 それにしても毎回オリンピックのたびに思うのだが、オリンピックの1つの意義としては、マイナースポーツに陽が当たることではないかと思う。野球やテニスはそれだけで成り立つが、フェンシングやアーチェリー、カヌーなんかの競技はほとんど目にする事はない。そうしたマイナースポーツにも(多少の)陽が当たるのはいい事だと思う。そういう意味で、金メダルは取れたが、野球のプロ選手の参加は如何なものかと個人的には思う。サッカーもそうだが、ワールドカップクラスの試合がある競技は、なくてもいいように思う。その分、マイナースポーツにもっとスポットライトを当ててもいいのではないだろうか。

 オリンピックは観戦できなかったが、母は孫(つまり私の息子だ)の野球をネット中継で観られて喜んでいた。今は高校野球は一回戦からテレビかまたはネット配信で試合が観られる。スマホの画像をテレビに転送して観ていたが、思いもかけぬ「観戦」に大喜びであった。残念ながら二回戦で敗退だったが、「次はいつ?」と聞く有様であった。まぁ、ラグビーに進まなかったのは残念だが、代わりに孝行してくれたので良しとしたい。やっぱりオリンピックよりも孫なのだろうか。あと2年は母を楽しませて欲しいと、楕円球ではなく白球を追う息子にエールを送りたいと思うのである・・・



【本日の読書】
 三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾 - 近藤 康太郎 百田尚樹の新・相対性理論: 人生を変える時間論 - 百田 尚樹




2021年8月9日月曜日

論語雑感 公冶長第五(その25)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
顏淵季路侍。子曰。盍各言爾志。子路曰。願車馬衣輕裘。與朋友共。敝之而無憾。顏淵曰。願無伐善。無施勞。子路曰。願聞子之志。子曰。老者安之。朋友信之。少者懷之。
【読み下し】
顔淵がんえん・季路きろ侍じす。子し曰いわく、盍なんぞ各〻おのおの爾なんじの志こころざしを言いわざる。子路しろ曰いわく、願ねがわくは車しゃ馬ば衣い軽けい裘きゅう、朋友ほうゆうと共ともにし、之これを敝やぶりて憾うらみ無なからん。顔淵がんえん曰いわく、願ねがわくは善ぜんに伐ほこること無なく、労ろうを施ほどこすこと無なからん。子路しろ曰いわく、願ねがわくは子しの志こころざしを聞きかん。子し曰いわく、老者ろうしゃは之これを安やすんじ、朋友ほうゆうは之これを信しんじ、少者しょうしゃは之これを懐なつけん。
【訳】
顔淵と季路とが先師のおそばにいたときのこと、先師がいわれた。「どうだ、今日は一つ、めいめいの理想といったようなものを語りあってみようではないか」すると、子路がすぐいった。「私が馬車に乗り、軽い毛皮の着物が着れるような身分になりました時に、友人とともにそれに乗り、それを着て、かりに友人がそれをいためましても、なんとも思わないようにありたいものだと思います」顔淵はいった。「私は、自分の善事を誇ったり、骨折を吹聴したりするような誘惑にうち克って、自分の為すべきことを、真心こめてやれるようになりたいと、それをひたすら願っております」しばらくして子路が先師にたずねた。「どうか、先生のご理想も承らしていただきたいと思います」先師はこたえられた。「私は、老人たちの心を安らかにしたい。友人とは信をもって交りたい。年少者には親しまれたい、と、ただそれだけを願っているのだ」
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 昔から将来の夢を聞かれるのが苦痛であった。そんなものなかったからである。それは今の今に至るまで同じである。一体全体、夢ってなんだろうと今でも思う。子供は「パイロットになりたい」とか、「お嫁さんになりたい」とか言うが、それは夢というよりも「目標」と言える。では、夢とは目標なのか。「甲子園に行きたい」「会社を上場させたい」という夢もよく聞くが、それもよくよく考えれば「目標」だと言える。そうではなくて、夢とは「理想」なのではないかと改めて思う。

ではそんな理想とはなんだろうか。
これなら人それぞれ誰にでもあるような気がする。高校を卒業したら大学はどこへ行き、就職はどこ(どんな会社)がよくて、どんな相手と結婚して、子供は何人で、どんなところに住んで・・・と理想ならいくらでも出てきそうな気がする。そんな「理想の生活」なら、誰でもいくらでも語れると思う。「年に数回海外旅行をして、欲しいものはなんでも買って」と。ただし、いい大人になるとそこに「実現可能性」という制限が加わる。

 理想を言えばキリがないが、そこに「実現可能性」が加われば、理想はよりリアルな現実に近づく。毎年海外旅行に行きたいとは思うが、現実的には無理である。今はコロナ禍でそもそも無理であるが、それがなくても高校生の息子は部活動で忙しく、転職したばかりだとそもそも時間的に取れない。2人の子供が高校生と大学生となると、教育費の捻出で資金的にも厳しい(もちろん預金を取り崩せば十分可能だが、そんなことで預金は取り崩せない)。将来的には可能かもしれないが、妻は私と2人で行きたがらないだろうし、そうなると1人で行くか同行者を見つけるかしないといけない。この理想はかなりハードルが高い。

 今は平日は会社に出勤している。仕事は総務で会社の裏方役であるが、一方で今後の会社の行くべき道を考えたり、苦しい現状を打破したりということも考えないといけない。財務に加え、人事面でも人材育成の方法を考えたり、総務本来の仕事の見直しもしないといけない。着任して1週間しか経っていないが、やるべきことは日ごとに増えていく。なかなか仕事も楽しそうである。当面、70歳まではこうして楽しみながら仕事をしたいと考えている。人によってはハッピーリタイアを急ぐ人もいるかもしれないが、私は1つの刺激として仕事をしていきたいと思う。理想の生活の1つである。

 週末にはシニアのラグビーの練習に参加している。ハァハァゼィゼィと息を切らし、汗を流すのは実に心地よい。1つ1つのプレーの精度を上げ、できないことをやれるようにする(あるいはできることをもっとうまくできるようにする)という試みは、体全体への刺激になる。ラグビーの試合を観ては自分のプレーの参考にもなるし、自分の技術を上げるための創意工夫は、それはそれで楽しい。たまに参加する試合でもタックルを決めれば気持ちいいし、たとえ後に打撲や擦り傷が残ったとしても、それすら心地よい。いつまでとは言わず、いつまでも続けたいと思う。これも理想の生活の1つである。 

 週末の夜は映画が楽しみである。面白そうな映画を片っ端から観ていく。お供は大抵ジャックダニエルだが、今の時期はサントリー・プレミアムモルツだったりする。本は通勤電車の中で読むのが日課であるが、転職で通勤時間が短くなったのが残念である。どちらもたくさん観たいし読みたいが、感想をブログにまとめるのが追いつかず、それがストレスになっている。けれど、一本、一冊の積み重ねが楽しく、より多く積み上げる幸せをこれからも続けていきたいと思う。これも理想の生活の1つである。

 お金がたくさんあれば幸せになれるとは限らないが、理想の生活に一歩近づくことはできる。だからお金は欲しいが、だからと言って他人を貶めたり、他人から恨まれたりしてまでかき集めたいとは思わない。お金も大事だが、人(それは家族であり、親戚であり、友人であり、会社の同僚であり、関わり合う人である)からの信頼を損ねてまで大事だとは思わない。もっとも1億円くらい目の前に積まれたらわからないが、その時は分け合うとかしてなるべく信頼は損ねないようにすると思う。

 お金以外に欲しいのは、やはり人からの信頼であろうか。自分自身常に「良き夫、良き父、良き息子、良き友人、良き同僚」でありたいと思っているし、そのために一肌脱ぐ必要があれば、喜んで脱ごうと思う。たとえ時間がかかったり、手間がかかったりしたとしても、「ありがとう」と言ってもらえるなら、これは1つの報酬と言える。頼まれごとを受ければ、たとえ面倒であってもそのこと自体が1つの報酬と言える。なぜなら嫌われていたら頼まれ事すらないだろうからである。

 友達は量より質だと考えている。大学時代の友人は7人(ラグビー部の同期6人とゼミの同期1人)だが、それで寂しいとは思わない。表面上、顔と名前を知っている友人10人よりも心を許していろいろと話せる友人が1人いればそれでいいと思う。たまにであっても、会えば「よぉ!」と普通に話せるのであればそれだけでいい。同期以外にも先輩もいて後輩もいて、気がつけばそういう関係の友人が結構いるもので、これからも積極的に増やしたいとは思わないが、新しい友人を拒絶しようとも思わない。ただ、気に入らない人間とはたとえ上辺だけでも付き合いたいとは思わない。そこは積極的に距離を置きたいと思う。これは理想の生活のための態度である。

 これから年々歳をとる。体も衰える。体力が衰えると気力も衰えるのが気になるが、なんとか穏やかに暮らしていきたいと思う。妻との関係改善もできるならしたいと思うが、無理なら別々の老後を送るのも選択肢の1つである。なんともまぁ、ささやかな「理想の生活」であるが、今楽しんでいることをずっと続けていくのが、考えてみれば望ましいと思う。そういう「理想」を持って、これからも日々を送りたいと思うのである・・・



【今週の読書】

 400年前なのに最先端! 江戸式マーケ - 川上 徹也 21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考 (河出文庫) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之








2021年8月5日木曜日

コロナ妄想

 コロナの感染拡大が続いている。なんとかうまく食い止める方法はないのかと思うが、まわりを見渡すとなかなか難しいということを肌で感じる。先月までの勤務地は蒲田。コロナで飲食店街もすっかり閑古鳥という感じだが、一駅隣の川崎はそうではないらしい。というのも、川を渡った川崎は神奈川県で緊急事態宣言の対象外(今は違うが・・・)。蒲田で飲めないならと、一駅お隣に「遠征」しているようである。その人たちがすべて感染しているというわけではないだろうが、そういう「考え方」が感染拡大の底辺にあるのは間違いないだろう。

 一方、知人がある飲食店に行って経験したことであるが、その店では酒類の販売は停止中であり、メニューにもソフトドリンクしかない。しかし、店員さんに「シロップ」を追加で頼むと、その「シロップ」入りの「ソフトドリンク」で酔っ払えるのだとか。ビール党には物足りないだろうが、サワー党には十分なようである。お店としては顧客サービス兼売上維持のための苦肉の策なのであろうが、そういう「考え方」が感染拡大の底辺にあるのは間違いないだろう。

 我が家ではいち早くワクチン接種を済ませたのは妻である。地方銀行に勤務しているため、職場での接種ができたのである。パートの身分であっても接種対象になっているのは、地方銀行といえどもさすが大きい企業ならではである。しかしながら、翌日から2日間熱を出して寝込んでしまった。なんでもモデルナ製のワクチンの2回目接種後、78%の人が発熱するそうである。まぁ、熱が出るだけでそれよりも大きなリスクを回避できるのであればそれに越したことはないが、なんとなくモデルナには抵抗感を覚えてしまう。もしかしたらそれを見越しての金曜日接種なのだろうかと思ってみる。

 ワクチンの2回接種完了者は、総人口の31.5%の4,000万人を超えたのだとか。私も来週最初の接種を予定しているが、最終的には総人口のどのくらいまでいくのだろうかと興味深く思う。しかし、ワクチンを接種しても感染しないわけではないらしいから、それもなんとも言えない。まぁ、2回接種をしたからといって、マスクなしの生活に戻れるというわけではなさそうである。一体、どこまで続くのだろうかと思う。当初から5波くらいまではいくと予想されていて、「そうなんだろうか」と疑問に思っていたが、見事予想通りになってしまった。さすがだと変なところで感心。

 昨年あたりは、ダラダラと続けるより、スパッと外出禁止令を出して1ヶ月間くらい人の動きを強制的に止めたらどうだろうかと思ったものである。緊急事態宣言と言っても、営業活動に制限を受けているのは今や飲食店ぐらいである。それ以外は不自由がないからみんな普通に活動している。だから感染も収まらない。特定の業種だけを犠牲にするのではなく、みんな外出禁止とすれば公平である。理屈であれば1ヶ月間くらいで感染を根絶できるように思う。

 その時問題になるのはやはり食料だろう。配給には工夫を凝らす必要があるが、物流業界はフル回転で頑張っていただく他ない。町内会単位で配るという考え方もあるが、そこで主婦同士のおしゃべりでも始まれば意味はない。やはり一軒一軒配る他はないが、その間、アマゾンも楽天市場も通常の購買は制限が必要になるかもしれない。医師は往診対応だろう。例外を設ければすぐにそこに殺到しそうであるから、生死に関わるもの以外は例外なしとすべきだろう。

 例外は、警察、消防をはじめとした公共機関。病院も当然。配給に携わる物流関係、食料準備関係も例外だろう。マスコミもテレビ・ラジオ局と新聞関係は例外だろうが、新聞は新聞でも新聞とは言えない赤旗は例外扱いはできないだろう。マスコミと言えども雑誌関係はダメだろう。公共交通機関は難しいところだが、ストップだろう。例外扱いの関係者は自家用車か許可を得たタクシーだろう。道路も空いているだろうから、渋滞の影響もないだろう。

 1ヶ月間家にこもったらかなりストレスは溜まると思うが、感染はかなり抑えられると思う。下手にダラダラ緊急事態宣言だとかまんえん防止とかをやるよりも経済に与える影響は少ないように思う。今回は、後手後手に回ってしまったのはやむを得ないところがあるが、「次」もあるかもしれず、その時にはこういう思い切った手もいいように思う。少なくとも個人的には賛成するだろう。もともと家で時間を過ごすことにそれほど抵抗感はないので、状況を楽しみながら過ごすかもしれない。ブログも毎日更新するかもしれないし・・・

 実現性はともかく、中途半端に対峙するよりも一気にケリをつけたいと思うのは、私だけではないと思うのである・・・




【本日の読書】
 400年前なのに最先端! 江戸式マーケ - 川上 徹也 21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考 (河出文庫) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之





2021年8月1日日曜日

コロナ雑感2021年8月

 新型コロナの第5派の渦中にあり、東京都の感染者数は昨日はとうとう4,000人を超え、本日もまだ3,000人超えの状況である。感染した友人に聞いたところ、「身に覚えはない」とのこと。それゆえに自分もいつ感染するかはわからない。とは言え、これまで感染を免れてきたのは、一応一通り気をつけているからだと思う。飲みには行っていないし、密は可能な限り避けている。手指の消毒にマスクは基本中の基本。通勤電車に1時間以上揺られているが、早朝(6時台)の時差出勤がいいのだろうかと思ってみたりする。

 ワクチンの接種は後10日ほどであるが、ワクチンを打ったから大丈夫というわけでもなさそうなので、引き続き今の生活態度を維持しようと思っている。そうすれば、これまで同様、大丈夫な気がする。それにしても3,000人レベルで感染者が発生したら、医療機関をはじめとして大変だろうなと思う。我が母校の高校のラグビー部でもついに感染者が発生したそうであるが、保健所の手が回らず濃厚接触者の特定ができず、ゆえに部員全員が自宅待機となったそうである。部活顧問の先生も突然の夏休みかもしれない。

 そんな中、昨日劇団四季の『アナと雪の女王』の鑑賞に行ってきた。親しい友人に誘われたからであるが、おっかなびっくりの鑑賞である。訪れたのは、「ウォーターズ竹芝」という複合施設内に新設された劇場「春」。以前の施設よりもデッキができたりして周辺も楽しめる。その名の通り海に面しており、この時期でもやはり潮風にはどこか涼しげな感じが混じる。ちょうど遊覧船が到着したが、降りてくる客はさすがにまばら。都内に住む人たちが、この時期地方に出かけるわけにもいかず、子どもを連れて遊びがてら乗っていたという雰囲気である。

 そんな心地良さを味わいつつ、場内に入ると、なんと満席。「いいのだろうか」と席に座りつつ思う。そこかしこに鑑賞の登録を呼びかける文言とQRコードが掲示されていて、おそらく感染情報が入れば登録者に通知するのだろうと想像してみる。しかし、よくよく考えてみると、みんな静かに座って鑑賞しており、場内スタッフが会話の自粛を呼び掛けている。マスクをしていて、静かに喋らずに鑑賞しているのであれば、意外と感染リスクは少ないのかもしれないと思ってみる。

 結局、鑑賞登録は面倒だったのでやらなかったが、それは考えてみれば鑑賞の事実はオンラインでのチケット購入記録から追おうと思えば追えるのではないかと思ったこともある。今はそういう時代である。なんでもオンラインで手続きができる。チケットも現物を手にすることもなく、指定された座席に座り、後日クレジットカードに請求がきて口座から料金が落ちる。その人気ゆえに当日窓口に並んでチケットを買うことができず、みんな予約制であるから誰がきていたかわからないということはないはずである。

 密の劇場内を見回して、そう言えば「左系」の人たちは此の期に及んでまだオリンピック中止を訴えているなぁと思い出す。オリンピックは、結局無観客になってしまい、海外からの観光客も来ないし、それほど感染の増加に影響しないのではないかと思うが、「左系」の人たちにとってはそうではないのかもしれない。それよりも超過密な劇場鑑賞の方がよっぽど問題視すべきだと思う。まあ、「左系」の人たちにすれば、劇団四季など叩いたところで政権批判には繋がらないから意味はないのかもしれない。それにしてもここにきての感染拡大は一体、何が原因なのだろうか。 

 私の友人の例を挙げるまでもなく、感染理由は「わからない」のが多いのだろう。本当にわからないのか、「言えない」のかはわからないが、そうした感染ルートがわからないと個人としても気をつけようがないのがもどかしい。引き続き、家と職場の往復に徹し、密を避け、少なくともマスクを外す必要がある飲食店に行く場合は食べたらすぐに撤収するというこれまでの心掛けで行くしかないだろう。それで大丈夫かどうかはわからないが、それ以外の方法はわからないので仕方がない。

 シニアのラグビーの練習にしたって、青空の下で走り回っているがゆえに感染のリスクは極めて低いのではないかと思う。唯一気をつけるべきはロッカールームであろうが、サクッと着替えてグラウンドに飛び出せば、あとは青い空と熱風とが守ってくれそうな気がする。グラウンドではコロナよりも熱中症の方が危険な気がする。練習後のビールも当然ながら当分はお預けである。これも残念だが仕方ない。

 一体、いつまで続くのだろうかと暗澹たる気持ちになる。早く落ち着いて、練習後の一杯を仲間たちと楽しみたいと思う。まだまだ暑い夏、明日からは転職後の新しい職場。暗い面を見て下を向くより、明るい面を見て上を向いていきたいと、改めて思うのである・・・



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【今週の読書】
 21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考 (河出文庫) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之 女帝 小池百合子 (文春文庫) - 石井 妙子













2021年7月29日木曜日

仕事とモラル

 先日、【「あなたから買いたい」と言われる超★営業思考】という本を読んだのだが、その中でTBSからプルデンシャル生命保険に転職した著者が、最初はなかなか契約が取れず、後輩に圧力をかけて契約を取ったエピソードが紹介されていた。プルデンシャル生命保険は、完全成功報酬制らしく、契約が取れないと給料がもらえないらしい。家族も養わなければならないとなれば、なりふりなど構っていられず、体育会系で言うことを聞きやすいと踏んだ後輩から契約を取ろうとしたらしい。その事情はよくわかる。

 実は、私もソニー生命から転職しないかとオファーを受けたことがある。サラリーマンであればこういうオファーが来るということはちょっと誇らしいことでもあり、その時は私も「話ぐらいは」と面接に出かけて行ったのである。そこで根掘り葉掘り聞かれたのは、銀行でのお客さんとの親密度。「年賀状は何通ぐらい出しているのか」とか、担当が外れてもお付き合いが続いているお客さんは何人ぐらいいるのかとかである。質問を受けながら、「あぁ、これは転職後に保険の勧誘ができそうな『見込み客』をどれくらい持っているのか確認しているんだな」と感じたのである。

 ソニー生命もプルデンシャルも、基本的に営業マンが紹介をもらって営業するスタイルを取っている。最初は家族や友人、知人からスタートするのだろう。その時は転職する気もそれほどなかったので断ったが、こういうセールスを伴う保険勧誘の仕事は、私には合いそうもない。背に腹は変えられず、無理に契約してもらうのも気がひける。先の本の著者は、一旦後輩から契約を取るが、すぐにクーリングオフをされ、後輩は電話にも出てくれず、人間関係が壊れてしまったようである(その後、やり方を変えなんとトップセールスになったそうである)。

 保険に限らず、不動産仲介業なんかも基本的に成果報酬制を取っているところが多く、「お行儀の悪い」営業マンはかなりいる。例えば賃貸の仲介手数料は、法律で「貸し手と借り手から合計で家賃の1ヶ月分」と決まっているが、通常「借り手」から1ヶ月分をもらい、貸し手からは「広告料」という名目で1ヶ月分をもらう。これを「礼金を1ヶ月分上乗せして請求していいから広告料を2ヶ月分くれ」なんてことは当たり前になされている。法人契約で礼金が2ヶ月以上の場合は注意が必要である。

 「お客様は神様」的に「顧客ファースト」の精神からすれば大きく外れる行為である。エイブルグループなどは、会社をあげて良心的に営業しているが、名前の知れていない街の仲介屋さんはちょっと注意しないといけない。「自分の成績か顧客の利益か」どちらを優先すべきかと言えば、それは「顧客の利益」というのが正解であるが、それで自分の給料がもらえない(あるいは少なくなる)場合、それでも「顧客の利益」と言えるだろうか。不動産業界では、「自分ファースト」の営業マンの方が残念ながら圧倒的に多い。

 私は不動産業界にこれまで属していたが、幸い仲介業は片手間にやるだけで、成果報酬でもなく、こんな事をしなくても困らなかったから余裕を持って「顧客ファースト」の行動が取れた。だが、仮に仲介業社で働いていたら、顧客ファーストの精神を貫き通せただろうか。もちろん、必死で顧客ファーストを貫くべく創意工夫と努力をしたと思うが、究極的に自分と顧客とを天秤にかけたらわからないと思う。

 法律の世界には、「緊急避難」という考え方がある。溺れかかっている時に、近くに浮かんでいた浮き輪を人と争って奪い、結果相手が溺死した場合に責任を問われることはないという概念である。もちろん、生命、身体の危機を前提にした「緊急避難」と単なる仕事の「自分ファースト」とが同じだと言うつもりはないが、完全成功報酬型の仕事や外資系などですぐクビにされるような場合、その恐怖(特に家族がいる場合)は軽く見ることはできないと思う。

 本当に生きるか死ぬか(失業するかしないか)という状況であればまだしも、少しでもゆとりのある状況でどう行動するかはその人自身のモラルと言える。人を押しのけてでも自分を優先したり、人の取り分を考えずに自分の分だけを考えたりはその人自身の人間性と言える。先の著者は、後輩から契約を取った時はよほど追い込まれていたのだろうが、そのあとすぐに気がついて、後は平日は毎日会社に泊まり込んで仕事をしたという。つまりそこまでやれば、モラルを持って仕事ができるわけであり、トップセールスという成功者の道を歩めたのであろう。

 自分もかくありたいと思う。どんな状況においても顧客や同僚や友人知人に対し、恥ずべき行為をしなくても済むようにしたいと思う。こういう事は、常日頃考えて意識していないとついつい魔がさしてしまいそうである。サラリーマン人生もそろそろ先が見えてきている。それゆえに、最後の最後まで襟を正して働きたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考 (河出文庫) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之 女帝 小池百合子 (文春文庫) - 石井 妙子













2021年7月25日日曜日

持てる者と持たざる者

 子供の頃、「金持ちの家に生まれたかった」という思いは幾度となく思ったものである。それは小学校も高学年になると家に友だちを呼ぶことに抵抗感を抱くようになったことにも表れていた。その頃住んでいた家は、2階建ての家の1階に住んでいたのであるが、六畳間と八畳間に風呂と台所、今で言えば2Kの家であった。その家に親子4人で暮らしていたのである。友だちの中には四畳半にトイレと台所というアパート住まいもいて、それに比べると自分の家が恥ずかしいというほどではなかったが、それでももっと広い家に住み、自分の部屋がある友だちもいて羨ましく思ったものである。

 両親は長野県から裸一貫で出てきて、中卒の親父は頑張って一軒家を構え、自営業を全うして借金もすべて返済して引退した。親父もまた恵まれた環境ではなかったが、私も大学を出させてもらい今がある。それほど恵まれていなかったからこそ、努力して難関国立大学を出られたと言える。高校生から小遣いをもらっていなかったし、自分で言うのもなんだが、この自立心は自分の育った環境ゆえであることは間違いない。もしも金持ちの家に生まれ、恵まれて育っていたらどんな人間になっていただろうか。

 親が会社を上場させた成功者で、金持ちの家に育ったある知り合いは、その親のコネで知り合いの上場会社に就職し、何年か修行をした後、30代の若さで父親の経営する上場企業の取締役となった。その後、父親の有り余る資金で会社の設立資金を出してもらい、社長に収まった。社員も父親が子飼いの部下を集めて順風満帆で事業をスタートした。そしてそれほど苦労もせずに会社を売却して引退生活である。ただ、経営手腕としては父親の帝王学までは伝授されず、おそらく普通の会社ではサラリーマンとしては通用しないだろうレベルであった。

 自分と比べて羨ましいと思う半分、では自分もそうなりたいかと言うと難しい。お金か実力か。どちらが好ましいだろうか。その人はおそらくもう何もしなくても十分食べていける。仕事も趣味みたいなものだったとさえ言える。多少仕事なんてできなくてもお金があれば喰うに困らない。「俺の方が実力がある」などと言っても、所詮負け惜しみである。私はまだまだ働かなくては家族を養っていけない。実力といったって、銀行では役員になるほどではなく、自分で事業を起こすほどでもない。腕一本で外資系を渡り歩き、年収何千万円というレベルには程遠い。つまり、典型的な中堅サラリーマンである。

 それでもどちらがいいのだろうか。女性であれば、金持ちのボンボンと普通のサラリーマンとどちらと付き合うかとたとえられるだろうか。お金か愛か。愛はないけどお金のある生活か、愛はあるけどお金のない生活か。理想は「愛」であるが、迷わず答えられるのは10代までではないだろうか。今の自分の姿は、間違いなく両親が作り上げた生活環境の賜物である。金持ちの家庭であれば、今の自分ではない自分だったと思う。それはどんな自分だっただろうか。嫌味で傲慢な奴になっていたかもしれないが、もしかしたら慈善活動を熱心にやり、気前の良いいい奴になっていたかもしれない。

 ただ中学を卒業してすぐ東京に出てきて住み込みで働き始めるしかなかった親父よりは、はるかに恵まれていたことは確かである。上を見ればキリがないが、普通に大学まで出られる環境だったことは間違いなく、それは恵まれていたと今では断言できる。もっと金持ちの家に生まれていたら、親の残した金で何不自由なく暮らせていたかもしれないが、親の残した財産を減らして終わる人生だっただろうと思う。今の両親で良かったのである。

 転職にあたり、今度就職する会社の社長さんからは意外にも熱心に誘っていただいた。それは間に入ってくれた方が、この6年半の私の仕事ぶりを評価して推薦してくれたことに他ならないが、それも持たざる家庭に育ったがゆえに、ささやかではあっても自らつけた実力の成果とも言える。親の残した財産を減らして生きるよりも遥かにいいと思う。そうして自分に対しては納得するが、では果たして自分の子供たちはどう思っているのだろうかとふと思う。やはり「金持ちの家に生まれたかった」と思っているだろうか。

 ひいき目に見ても見なくても我が家は典型的な中流家庭である。4LDKの一戸建てと言えど、住宅ローンは70歳まで払わなければならない。借りた時は「途中で繰り上げ返済して・・・」なんて考えていたが、それで返済額は減ったが、依然として70歳まで返済は続いていく。教育費はこれからまだまだ重い負担が続く。車の買い替えも家族揃っての海外旅行も当分お預けである。それほど不自由はさせていないと思うが、当の本人たちはどう思っているのだろうか。ただ、思うのである。むしろ、「金持ちの家に生まれたかった」と思う方がいいのかもしれないと。

 「貧しさの中なら、労りだけで十分子供は育つ。だが豊かさの中では精神的な厳しさを与えなければ鍛えられない」とは松下幸之助の言葉である。子供の成長にはハングリー精神がある程度必要だろうと思う。歯を食いしばって試練の壁をよじ登る気概である。「子孫に美田を残さず」という諺も結局、同じことを言っているのだと思う。自分の父親が本当はすごいんだなと思ったのは働き始めてからだったかもしれない。地道にコツコツと働き、家族を養うことは大変なことなのだと理解できた時だったと思う。おかげで今の自分がある。

 子孫に残したくても残すほどの美田はないが、それもまた良しなのだろう。持たざる者こそが持てるものを持てればその方がいいだろう。そういう気持ちを子供たちには背中で伝えたいと思うのである・・・



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 21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考 (河出文庫) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之 女帝 小池百合子 (文春文庫) - 石井 妙子








2021年7月22日木曜日

論語雑感 公冶長第五(その24)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。巧言令色足恭。左丘明恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人。左丘明恥之。丘亦恥之。
【読み下し】

子し
曰いわく、巧言こうげん、令れい色しょく、足すう恭きょうなるは、左さ丘きゅう明めい之これを恥はず。丘きゅうも亦また之これを恥はず。怨うらみを匿かくして其その人ひとを友ともとするは、左さ丘きゅう明めい之これを恥はず。丘きゅうも亦また之これを恥はず。
【訳】
先師がいわれた。「言葉たくみに、顔色をやわらげて人の機嫌をとり、度をこしてうやうやしく振舞うのを、左丘明は恥じていたが、私もそれを恥じる。心に怨みをいだきながら、表面だけいかにも友達らしく振舞うのを、左丘明は恥じていたが、私もそれを恥じる」
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 「面従腹背」という言葉がある通り、世の中では心とは裏腹に他人に合わせなければならないというのはよくあることである。サラリーマン社会では典型であるし、それはサラリーマン社会ならずともママ友同士の間だったり、ご近所付き合いだったり、人と人の間ではごくありふれていることであろう。左丘明という人物も孔子もそれを恥じるとしている。それはその通りだろうと思う。だが、その通りにならぬのもまた人の世である。

 人間誰しもその人なりの考えがあり、それは必ずしも誰もが同じというわけではない。考え方が違えば、時に不快な思いをするのも事実。私も銀行員時代、部長の顔色ばかり伺う課長に辟易していたことがあったが、ぐっと堪えて課長に接していた。そうしなければ仕事に支障をきたすし、それはプロとして問題である。表面だけは「いい部下」を演じていたものであるが、それは左丘明からすると卑しむべき態度なのだろうかとふと思う。

 そうではなくて、「度を越した」態度だとするなら大丈夫かもしれない。ただ、では課長は「度を越していた」かと言うと、そうも言い切れない。判断基準を「(課長として)自分がどう思うか」ではなく、「部長ならどう判断するか」に置いていただけである。簡単に言えば「忖度」であるが、会社は「部下の考え」で動くのではなく、基本はトップの考え、およびそれに基づく部長の考えであり、それを受けた課長の考えで動くものである。であれば、自分の考えより「部長がどう考えるか」に判断基準を置いていた課長の態度は間違いではない。

 さすがに漫画に出て来るような揉み手擦り手で上司に寄り添うような人は見たことはないが、何を言われても自分の考えを主張できず、影でブツブツ言っている人なら山のように見ている。『きみはいい子』という映画では、ママ友仲間に馴染めず苦労する若い母親が出てくるが、そういう表面だけいかにも友達らしく振舞っている人は多いだろう。

 だが、では自分の考えがすべてで、媚びへつらうのは悪いのかと言うと、まず「媚びへつらっている」かどうかはその人にしかわからないことである。先の課長もずいぶん部長に気を使っていたが、揉み手はしていなかった。呼ばれればいそいそと駆けつけていたが、本人は「媚びへつらっている」とは思っていなかったと思う。それはあくまで主観の問題であると思う。理不尽な指示に耐えなければならないこともあるが、だからと言って媚びへつらっているわけではない。

 実際、バカであっても上司なら立てないといけないし、取引先であればなおさらである。それは面従腹背であっても、「関係性の維持」という意味では大事なことだと思う。気にくわないからと言って片っ端から喧嘩していたのでは仕事は成り立たない。だから人によってはストレスも溜まるのだろう。私の好きな言葉に「ライオンに勝てると思えば猫にもなれる」というものがある。表向き「いい部下」「いいママ友」「いい隣人」を演じるのは人間関係を維持する上で大事だったりする。

 それは心の中では毛嫌いしている人物であっても、軽蔑している人物であっても同様である。それらにいちいち嫌だといっていたら会社勤めなんてできないし、ご近所付き合いもギスギスしたものになるだろう。なんでも心の赴くままに人と接することができるわけではない。付き合わなくて済むなら当然そうするが、付き合わざるを得ないのであれば、面従腹背もまたやむを得ない態度である。

 時に表向きの顔を作るのは大事だったりする。とくに女性なんかはそうであろう。私も同僚の女性がいつも笑顔を向けてくれるからといって、安心しきってはいけないのではないかと思うべきかもしれない。現代社会で心の思うままに生きられるという人は、それだけで幸せなのだと思うのである・・・



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 21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考 (河出文庫) - ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之 女帝 小池百合子 (文春文庫) - 石井 妙子






2021年7月18日日曜日

子供の人格形成には何が影響するのだろうか

 高校1年になった我が息子。小学生から野球を始め、いずれラグビーをやってほしいという父親の願い虚しく、高校でも野球部に入部。この夏、甲子園の東京予選では1年ながらレギュラーで試合に出場した。もっとも、弱小都立高の野球部ゆえ部員の層が薄いのが幸いしたと言える。本当はいきなりレギュラー出場するよりも、「ライバルを追い抜けないと試合に出られない」という環境が本人の実力向上という部分では良いと思っていたが、致し方ないところである。

 さっそく、夕食の席では実力の劣る先輩をバカにするような発言をしていて、なんとかしなくてはと考えている。たとえ実力が劣っていても、先輩は先輩。仮に後輩だとしても、野球は1人ではできないチームスポーツであり、実力のいかんに関わらずメンバーがいないと試合はできない。まずはチームメイトとしていてくれるだけでありがたいものである。実力が劣るなら、チームとしてそれをどう克服するかを考える方向に向けないといけない。仲間を大事にするのはチームスポーツの基本中の基本であり、そんな仲間に対する態度としても良くない。どう伝えれば効果があるのか。頭ごなしに言って効果があるのか悩ましい。

 3代目で会社が潰れるというのはよく耳にすること。初代が会社を立ち上げて成功しても、2代目は割と初代の苦労を見ているし、直接薫陶を得られるのでまだいいが、生まれた時から恵まれた環境が当たり前だと思って育つ3代目はバカ息子になりがちで、ゆえに会社を潰してしまうというのである。初代は親として子供に自分がした苦労はさせたくないと思うのだろうが、その親心が仇になる。初代がどうやったらその成功のエッセンスを孫にまで伝えられるかは難しいと思う。

 57年も生きていれば、それなりに世の中のことも少しはわかっていて、失敗も数多く経験している。それゆえにどんな考え方をしたら良いのか、すべきなのか、ある程度の考えはある。そうした考え方は息子にも(娘にも)伝えていきたいと思っているが、そうした親のアドバイスが時として煩わしいものだったりすることは、「子供の立場」を経験してきているゆえによくわかっている。伝え方によっては、その内容の良し悪しに関わらず、受け入れてもらえないものである。

 そもそもであるが、そうした親の考え方、価値観が正しいかという問題もある。もっと言えば、正しいか否かというよりもその価値観が自分の性格に合っているか否かもある。人生の優先利益に「お金」を置く人もいるし、「仕事」を置く人もいる。タイタニック号では人を押しのけて助かった人もいるし、人を助けて犠牲になった人もいる。人を押しのけて助かった人が悪いかと言えば、人は生きていてこそなのであり、法律では「緊急避難」という概念(溺れている時は同じく溺れている他人から浮き輪を奪っても許される)も認められている。何が正しいかをこれと決めることはできないことは多い。

 社員を家族と考えて大切にする社長もいれば、自らが金儲けをするための道具と考える社長もいる。ワタミの渡邉美樹会長などは、自分が若い頃ハードワークで苦労し、それが自身のために良かったと考えているゆえに社員にそれをさせようとしたのか、一時「ブラック企業」のレッテルを貼られてしまっていた。親の心子知らずとも言えるし、人にはそれぞれの価値観というものがあるので、押し付けるのもよくはない。「仕事が大事」と考えるなら、ワタミの会長の考えはわかるが、例えば「仕事よりも家庭」と考える人には苦痛でしかないだろう。

 人は誰でも自分が正しいと思うことを子供には伝えたいと思うだろう。野球であれば(スポーツは何でもそうであるが)、やはり練習が大切であり、家に帰ってきてからも素振りくらいはしてもいいんじゃないかと思う。勉強ももちろん大事。(そこそこレベルの高い)高校に合格し、安心したのか、一学期の成績は良くない。そして本人もそれを悪いと思っていない。やっぱり文武両道は両立して欲しいと思うのは親の考えだが、うるさく言っても逆効果のように思う。

 すでに性格からして息子は私とは異なる部分が多い。明るいキャラクターでどうやら人を笑わせるのが好きみたいである。友人とはどんな交流をしているのかはわからないが、「少数精鋭」的な私とは違うようである。それはそれで伸ばしていって欲しいと思うが、「努力」という言葉も胸に刻み込んで欲しいと思う。黙って見守るのがいいか、あれこれとうるさく口に出すのが良いかは難しいが、「そう言えば親父はこんなことを言っていたな」と時に思い出してもらえるのが理想である。

 以前読んだ『わが子を強運にする51の言葉』という本は、経営者であった父の言葉を娘である著者が紹介するというもの。その内容もさることながら、娘がそんな形で父の言葉を記憶して自分のものとしていることに感動を覚えたものである。できるものであれば、自分もそんな言葉を子供たちに残したいし、自分が考える「こうなっては欲しくない人間」にならないように育てたいと考えている。それには何が必要なのか。それがただいまの大きな課題である。

 バカ娘にバカ息子にならないためにはどうしたら良いのだろうか。それは一番力を入れて考えたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 空き家幸福論 問題解決のカギは「心」と「新しい経済」にあった - 藤木哲也 地上最強の男―世界ヘビー級チャンピオン列伝―(新潮文庫) - 百田尚樹




2021年7月15日木曜日

タイミング2021

 家を建てたのは、もうすぐ40歳を迎える時であった。ローンを組むにしても残りの期間と年齢を考えたら、「そろそろ」となったのである。探し始めてしばらくしたところ、近所の土地が売りに出ていた。我が家が探していることを知っていたママ友からの情報であった。駅からも近い今の立地は申し分なく、値段も買える範囲であったので決断したのである。当時の同僚から、「10年前に俺もそのあたりで探したが、とても手が出なかった」と羨ましがられた。地価が下がっていたことも買えた要因の一つである。これが今のタイミングだと、地価も上がっているし、土地だけで売りに出ていることも含めて難しいと思う。

 その時、探していなければもちろん買えなかったわけであり、土地を買って家を建ててとなると、今の相場環境だとかなり勇気がいるだろう。そもそも当時も駅から徒歩圏内は手が出ないだろうと思ってバス便の範囲で探し始めたくらいである。本当にラッキーだったと思う。建てたのは無名の工務店であったが、そこはもともと目をつけていた地方のハウスメーカーの東京の代理店であった。たまたま近所でオープンハウスをやっており、出かけて行ってコンタクトをとったのである。これも絶妙のタイミングであった。

 今回、突然転職せざるを得なくなり、急遽転職活動を始めることになった。幸いなことに縁あって2社から内定をいただいたが、両社ともちょうど私の求めるポジションが空いていたというのが大きな要因。1社は空席状態が続いており、1社は現担当者が引退を予定しているというもの。これもタイミングである。1年前だったら募集していなかったかもしれない。また、逆に1年後なら別の人がその椅子に座っているかもしれない。不動産も同様だが、こうしたタイミングによって人生が大きく変わるというのも何か不思議な感じがする。

 こうした「タイミング」は、個人の力ではどうしようもない。不動産を売りたい人も買いたい人も、人を採用したい会社も就職したい人も、これと狙っているわけではない(まぁ、ここというところを虎視眈々と狙っている場合もあるだろうが・・・)。いずれもたまたまのタイミングでの出逢いと言える。しかしながら考えてみれば、この世の事の大半はたまたまのタイミングなのかもしれない。恋愛なんかもたまたまのタイミングでの出逢いがきっかけであったりする。

 こうしたタイミングをもしもコントロールできたとしたら、絶大な力を発揮しそうな気がするが、なかなか難しいだろう。ターゲットが絞れていればある程度は可能かもしれない。たとえば、不動産であればこのエリアというのを決めておいて、毎日不動産の売り情報をチェックするという方法がある。周辺の仲介業者にもマメに顔を出し、「探している」という事実を告知する。これにより、新規に売り情報が出た時に、いち早く教えてもらえるということがある。いち早く教えてもらえれば、それだけ自分が買える可能性が高くなる。

 転職でも、この会社というのがあれば、転職エージェントに希望を伝えるとか、あるいは直接アプローチするという方法もある。恋愛はもっと簡単でこれと決めたらアタックするのみである。しかしながら、そうした特定のターゲットが決まっていなければ、やはりたまたまのタイミングという不思議な縁しかない。結婚して最初に住んだアパートも、いくつか回った最後に、「希望の駅ではないが、一つ先の駅の物件も見てみませんか」と不動産会社のお姉さんに言われ、案内されたところが気に入ったという経緯がある。

 狙うのも主体的でいいと思うが、世の中は広く、自分のカバーできる範囲には限りがある。自分の世界の外に可能性を求めるという意味では、「タイミング」に賭けてみる意味は大きい。私は別に運命論者という訳ではないが、たまたまのタイミングという縁には何か意味があるように思う。事実、今住んでいる家も他には考えられないくらい気に入っているし、今の会社での実績が今度の会社での採用理由になっていると思うと、前回の転職もまた結果的には良かったと思う。

 そうした「タイミング」には、何か意味があるようにも思うし、あるいはそれを意味に変えてきたのかもしれないと思う。どちらかと言えば、自分の考えは後者である。「求めた」から「出逢えた」わけであり、それが悪い結果にならなかったのは、自分の振る舞いである。そう考えると、今回の転職も自ら求めた結果であり、それが良い結果になるのもならないのもこれからの働き方次第だろう。

 いいタイミングであったと言える様、これから新しい職場で精進したいと思うのである・・・




【本日の読書】
 日本一を目指す物流会社のすごい社員勉強会 - 大須賀 正孝, ハマキョウレックス社員勉強会 地上最強の男―世界ヘビー級チャンピオン列伝―(新潮文庫) - 百田尚樹




2021年7月11日日曜日

天国と地獄

 生前、良い行いをした者は天国へ行き、逆に悪事を働いた者は地獄へ落ちるということは誰もが知っている話である。キリスト教でも仏教でも同じように天国と地獄があるのは偶然か、はたまたどこかで融合したのかは知らないが、昔はそれなりにいいことをしようというモチベーションと、悪いことはすまいという戒めとして子供に対する教育などの点で効果があったのだろうと思う。今はそういう効果はほとんどないかもしれない。

 それでも、ひどいことをされて泣き寝入りせざるを得ない状況なんかで、相手を恨んで「ろくな死に方はしないだろう」と考える程度は今でもあると思う。この世の中は、決して公平ではなく、むしろ当たり前のように不公平であり、理不尽である。清く正しく生きていても、幸せになれる保証は微塵もないし、ひどいことをしても何の咎めを受けないことも珍しいことではない。幸せになるか不幸になるかは、その人の行いとはまったく関係がない。まぁ、人に喜ばれる良いことをすれば、心の充足は得られるかもしれないが、悪いことをしてもそうかもしれない。

 『鬼滅の刃』19巻で登場する上弦の弐の鬼・童磨は「この世界には天国も地獄も存在しない。それは人間による空想だ」と断じる。「悪人がのさばって面白おかしく生きていても天罰は下らない。だからせめて悪人は死後地獄に行くって思わなきゃ精神の弱い人はやってられないでしょ」と語る。身も蓋もないと言えばそれまでであるが、その通りだと思う。これだけ酷いことをした相手が何の咎めも受けず、バチも当たらずのほほんと生きているのが悔しいという思いがあり、消化できないその思いをせめて「いつかバチが当たるに違いない」と思うことで慰めるのである。

 イソップ童話に「すっぱい葡萄」という話がある。キツネが美味しそうなブドウを見つけるが、高いところにあって届かない。ついに諦めるが、その時に「あのブドウはすっぱくてまずいに違いない」と言って去るのである。「すっぱいから食べないほうがいいのだ」と思うことで、悔しい心を慰めているのである。身近なところでもそんな実例を目にしているが、この「すっぱいブドウ」の心境に「いつかバチが当たるに違いない」という心境は相通じるものがある。どちらも悔しい気持ちを無理やり納得させるものである。

 人は誰でも心の平穏を保っていたいものである。嬉しくてプラスになるのは構わないが、悔しくてマイナスになるのは堪らない。何とか悔しさを晴らしてプラスにしたいが、自分の力ではどうにもならない。そんな時、「神様はちゃんと見ているに違いない」、「いつか天罰が下るに違いない」と思うのは、心の平穏を保つためには効果のある考え方である。ただ、現実には天罰が下ることはない(たまたま下ることはあるかもしれないが、それはまったくの偶然である)。

 私はこうした「すっぱいブドウ」的な発想は封印するようにしている。食べられなかったブドウはきっと美味であるはずだし、諦める前に必死で何とかしようと創意工夫を重ねる。それでもダメだったら、潔く「美味しそうなブドウなのに食べられなかった」と敗北宣言を出す。酷いことをされても泣き寝入りをするのではなく、「何か一矢報いられないか」と考えるし、できないなら潔く「敗北宣言」を出して終わりにする。絶対に食べてもいないものを「すっぱい」とは言わない。何よりそれで慰められる自分ではない。

 「正しいことをしていれば神様が見ていてくださって、いつか幸せになれる」という考え方は、子供に対する教育的にはいいかもしれないが、そういうことはあり得ない。神様は存在していたとしても、1人ひとりの行いなんて見ていないし、その行いだって「自分から見た正しい行い」であって、他の人が見たら違うかもしれない。もっとも、人間なんでもドライに合理的に考えればいいというものではなく、「すっぱいブドウ」が必要な人もいるだろう。それはそれで否定はしない。ただ自分はそうではないというだけである。

 正しいことをするなら、それはいつか自分だけが天国に行くためではなく、いい事、正しいことをするのは自分が心地よいからであって、それ以上でも以下でもない。悪いことをすれば自分がカッコ悪くなるだけだし、人に恨みを買うようなことをすれば自分の居心地が悪いだけなので、そんなことはしない(ただし、それが「報復」なら話は別である)。あとでバチが当たるかもしれないから悪いことをしないのではなく、それがカッコ悪いからしないのである。それが証拠に、程度の軽い「ずるいこと」ならよくやっている。

 人生も後半戦に入ってくると、「自分だけが良ければそれでいい」とは思わなくなる。それは決して「きれいごと」ではなく、あえて人に恨みを買うくらいなら、あるいは人と揉めるくらいなら、多少損したっていいじゃないかという心境だろう。それは理屈ではなく、心の感じであり、どちらが心地よいかである。決して天国に行く準備ではない。人には慰めが必要であるが、自分にとってのそれは、「心の心地良さ」であって、天国や地獄や、「いつかバチが当たる」といったものではない。

 これからの残りの人生であるが、人には喜ばれる生き方をしたいと思う。きれいごとではなく、己の心地良さとしてそれを追求したいと思うのである・・・




【今週の読書】
 空き家幸福論 問題解決のカギは「心」と「新しい経済」にあった - 藤木哲也 地上最強の男―世界ヘビー級チャンピオン列伝―(新潮文庫) - 百田尚樹




2021年7月8日木曜日

論語雑感 公冶長第五(その23)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰。孰謂微生高直。或乞醯焉。乞諸其鄰而與之。
【読み下し】
子し曰いわく、孰たれか微び生せい高こうを直ちょくなりと謂いうや。或あるひと醯けいを乞こう。諸これを其その隣となりに乞こいて之これに与あたえたり。
【訳】
先師がいわれた。
「いったい誰が微生高を正直者などといいだしたのだ。あの男は、ある人に酢を無心され、それを隣からもらって与えたというではないか」
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 論語もすべて名言格言であふれているわけではない。時に意味のわからないものもある。今回の言葉もその1つ。微生高という人物が、酢をくれと言われ、それを隣からもらって与えたことを孔子は批判している。なんとなく褒められこそすれ、批判されるようなことではないと思う。酢をくれと言われたが、自分は持っていなかった。「持っていない」と断れば済むところ、わざわざ隣からもらってきて与えたというのである。微生高とは、いい人のように思えてならない。

 人に何かを頼まれた時、断るのは簡単である。特にそれが自分の手に負えない時、断るのは致し方ないこと。金を貸してくれと言われ、持っていれば貸せるが、持っていなければ貸せない。金に限らず、車でも何でもものに関して言えばすべて当てはまる。会ってくれと言われても、時間が空いていれば会えるが、別の外せない予定が入っていたら会うことはできない。行動においてはすべてその通りである。しかし、微生高はそれを乗り越えている。

 自分は持っていないものを「隣からもらってくる」という手法で「持っていない」という問題をクリアしている。相手の頼みに対し、「できない」とそのまま答えるのではなく、「何とかできないだろうか」と考えたわけである。そしてそれを「隣からもらってくる」というアイディアで克服している。微生高に酢を頼みに来た者は、それで(酢をもらうという)目的を達成している。相手の問題を解決しているわけであるから、微生高という人物は「できる」人物と言える。なのになぜ孔子は批判するのだろう。

 1つには文化の違いがあるのかもしれない。なにせ2,500年も前の、しかも異なる文化圏の話である。ひょっとしたら現代の日本とは違う感覚の常識があるのかもれない。たとえば日本では人に何かをしてもらったら、「お返し」をする。しかし、中国では「お返し」はしないらしい。と言うのも、お返しをすると、「これで貸し借りチャラ」というニュアンスで捉えられるらしく、ドライに思われるようである。目先のお返しではなく、「いつかもっと大きなことで返す」というように考え、お礼はしないのだとか。末長い関係をいたしましょうというらしい。これはこれでなるほどである。

 そうした文化の違いがあるかもしれず、「さすがの孔子様もおかしなことを言う」と決めつけるのは早計である。論語の研究者などごまんといるだろうから、単なる解釈だけではなく、その言葉の裏側にある意味も含めて教えてもらいたいと思うところである。そもそも、人の真意などはそうそうわかるものではない。表面上の言葉だけを捉えると誤って真意を捉えることになる。マスコミのようにあえて悪意的に言葉の一部を切り取って都合のいいように報じるとまではいかなくても、誤解程度なら多々あるだろう。

 我が実家の母親は、その見本のような言動で人をイラつかせる。結婚したばかりの頃、お中元やお歳暮を送れば必ずケチをつけられたものである。ビールを送れば「お父さん最近飲んでいないんだよね」、コーヒーを送れば「最近胃が悪くて・・・」といった具合である。なぜ素直にお礼を言わないのか。なぜ送った者が気を悪くするようなことを言うのか。我が家の嫁姑関係が崩壊したのはそうした母親の言動が間違いなく一役買っている。当時は腹立たしく思ったものである。

 今に至ってもそれは変わらず、最近は母の日に胡蝶蘭を送ったが、「もらっても育て方が・・・」とまたブツブツ言う。しかし、それ以降、行くたびに「まだ咲いている」と嬉しそうに言うし、ご近所さんが訪ねてくると、「ほらこれ」と玄関において見せびらかしている。たぶん、内心は嬉しいのであろうが、それを素直に表現しないという悪い癖なのである。親子だから無理にでも好意的に解釈してくれるが、他人には通用しない。父によれば、母のそういう裏腹な一言は、父の親族間でも誤解を招きまくっていたと言う。

 孔子の時代には、人はその人を信用して頼みにきているのであり、ないならないで断るというのが正しいという常識だったのかもしれない。なのに(頼んだ人からすれば)よく知らない隣の人にもらって与えるなど、言語道断だったのかもしれない(何が入っているかわからないし・・・)。論語に載せて語り継ぐくらいだから、おそらく微生高の行為はどこか間違っていたのだろう。

 時に人の言動に惑わされることなく、腹の立つことも一旦堪えてその真意を冷静に探ることが必要だろうと思う。自分の常識が相手の常識と常に一致しているとは限らない。自分の正論が相手の正論と同じとも限らない。心の内は言葉では伝わらない。そんなことを改めて意識したいと思うのである・・・




【本日の読書】
 運が悪くってよかった!: たかの友梨自伝 - たかの 友梨 起業の天才!―江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男 - 大西 康之