2026年10月11日日曜日

論語雑感 郷党第十 (その9)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
席不正、不坐。
【読み下し】
席せき正ただしからざれば、坐ざせず。
【訳】
座席のしき物がゆがんだり曲がったりしたままでは坐られない。
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 論語は孔子の言動をまとめたものであるが、やはり2,500年も前のものとなると、現代の感覚や常識では理解しきれないものもある。今回の言葉も、「敷物が歪んだり曲がったり」という状況がどういうものかわからないと、言わんとしている本当の意味はわからない。たとえば日本の座敷で座布団が敷いてあるイメージでいくと多分違うような気がする。物事が正しく配置されていないとダメというのであれば、なんとなくわかるような気がする。

 工場では高い生産性を上げるためには「整理整頓」ということが徹底されていると聞く。工具類などの置き場がきちんと決まっていて何がどこにあるかという事が把握されていないと、必要な工具を探すという無駄な時間を費やすということはよくわかる。実際、我が家でも老いた母はよく物を使っても片付けるということをしないから、いつも私が探し回るハメになる。本人に聞いても3分前のことはもう忘れているので、本人も自分の責任だとは思っていない。この探し物はかなりのストレスである。

 整理整頓とはいうものの、その本質は「ものの在処(ありか)」だと思う。整理整頓というと、きちんと整っているというイメージであるが、在処さえわかっていれば必ずしも整理されていなくてもいい。よく机の上を乱雑にしている人が、家族などに片づけられて、綺麗に整理整頓されたがゆえに、モノのありかがわからなくなって怒るという事がよくあるのはそのためである。乱雑であっても、本人なりにどこに何があるか把握されていれば、綺麗に整理整頓されてモノのありかがわからなくなるより遥かにマシという事である。側の人にはわからなかったりする。

 モノのありかではないが、我が社では毎週朝会があり、経営会議などの会議があるが、会議ごとにみんな座る場所が決まっている。誰が言い出したモノでもなんでもないが、みんな自然と同じ場所に座るのである。それは私自身もそうであり、なんとなく「いつもの場所」に座る。それが落ち着くのである。我が社は導入していないが、よくフリーアドレスを採用している会社がある。いわゆる「どこに座ってもいい」という制度である。私の場合、もしフリーアドレスになっても、やっぱりここと決めた場所にずっと座るような気がする。

 自宅が一番落ち着くというのもこの理屈のような気がする。様子がわかっている我が家が一番落ち着くというのも、結局はどこに何があるかわかっているという安心感が原因ではないかと思う。モノのありかがわかっていることは安心感につながる。1人であれば自分だけがわかっていればいいが、チームであれば統一したルールが必要になる。自宅では「茶碗はここにしまう」というようなモノである。もはやそのルールを覚えられない母には難しいが、会社などでは大事だろう。

 そこから転じてものがきちんと整っているかという事はやっぱり大事であり、それは普段からの規律ということかもしれない。孔子が座席の敷物がゆがんだり曲がったりしていたら座らなかったというのは、もしかしたらワガママとかそういうことではなく、弟子に対する「教育」だったのかもしれない。軍隊では、ベッドメイキングや軍服の乱れを徹底的にうるさく指導されると聞くが、それも厳格な規律が軍隊には必要だからだろう。それと同じかもしれない。

 私にはそんなこだわりはない。それがいいのか悪いのか。強いて言えば、「何事も柔軟に」。そんなスタンスでいたいと思うのである・・・




【今週の読書】
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