2015年7月1日水曜日

あと31年

 厚生労働省から簡易生命表というのが公表されている。これによると、現在51歳の自分の平均余命は31年となっている。つまり、平均すれば82歳まで生きるだろうということである。もちろん、平均だからそれより長くなるかもしれないし、短くなるかもしれないわけである。それはそれとして、あくまでも平均と考えたとしても、31年は短いような長いような感じだ。

 さて、その31年をどう生きるか。昨年、銀行を退職し、中小企業に転職した。一応役員だから定年はない。これが転職のメリットの一つであったが、「会社が潰れなければ」70歳まで働こうと思えば働ける。以前は「早期リタイア」というのがいいように考えていたが、仕事も楽しいし、リタイアもいいけど、楽しく仕事ができるなら、働く方がいいという考えに変わってきている。ならば、80歳まででも働けばいいじゃないかと思わなくもないが、そこは体力がどうなっているかわからない。通勤電車もしんどいかもしれないし、ひとまず70歳としておこうというところだ(住宅ローンも完済予定は70歳の時だし・・・)。

 そうすると、これから何をするべきだろうかと考える。まずはやっぱり健康と体力だろう。以前はあまり気にもしなかったが、この頃ラグビーのシニアチームの練習に行っても、はっきりと体力の衰えを感じるし、これから益々その傾向は強くなるだろう。「健全な精神は健全な肉体に宿る」ではないが、気力を支えるのは体力だ。体力が維持できれば、気力も維持できるし、元気に仕事も遊びもできるだろう。

 先日知り合った人は、銀行から50代後半で転籍し、60歳まで勤務(大体銀行はこういうパターンが多い)。そして定年となり、別の会社に移って5年間財務の仕事をし、65歳で再び定年となったあと、自ら起業したという方であった。「まだ67歳です」と自己紹介していたが、見習いたいものだとつくづく思う。

 こういうキャリアを積むには、普通のサラリーマン的に「やるべき仕事をやっているだけ」という仕事のスタイルでは当然ダメだ。+αのものが必要だろう。楽する事ばかり考えていては、定年が来て「はいご苦労さん」で終わりだろう。先々を見据えて、多少しんどくても手間でも、常に+αの仕事をこなす気概がないといけないと思っている。当面は、会社がつぶれないように土台を作り、欲を言えばもっと大きな会社にすべく尽力したいと考えている。

 ボランティアでやっている財団(小山台教育財団)の方はどうなるだろうか。仕事と家庭以外の『居場所』という意味では大事にしたいところだ。だが、こちらもいつまでもというわけにもいかない。「道を譲る」必要性もそのうち出てくるだろう。もともと地位に固執する性分ではないから、その時がくれば速やかに退くつもりである。そのあとどうするか、は頭の片隅にでも入れておこう。そのうちまた何か見つかるかもしれない。

 もともとそんなに社交的な性格でもないし、これから新たなつき合いを見つけたいとは思わない。今までの友人知人関係を末永く大事にしていくというところだろうか。これまでも人生設計などあまり考えてもこなかったから、「あと31年」と言われても、何か妙案が浮かぶというわけでもない。平凡な一日をより長く、できれば死ぬ直前までボケずにいたいというところだろうか。

 当面は、常に「残り時間」を意識しながらやりたいことをやるようにしていこうと、平凡に思うのである・・・


【本日の読書】
未来予測の超プロが教える本質を見極める勉強法 - 中原 圭介 その女アレックス (文春文庫) - ピエール・ルメートル, 橘明美





 

 

 

2015年6月27日土曜日

派遣法改正の意味がわからない

 今はすっかり「安全保障関連法案」一色になっている感のある国会だが、実は派遣法の改正というのが着々と審議されている。以前、派遣切りが話題になっていたが、あれ以来、法律も変わっている。今回、また何が変わるのかはよくわからないが、この問題の本質を理解していないところで政治家が議論しているような気がしてならない。

 そもそもは、「派遣」というのは、「正社員」と「アルバイト・パート」の中間のような存在だ。それは企業にとって「都合の良い」存在だと思う。「正社員のように働き」、「アルバイトのように解雇できる」という点で、だ。ただそうは言っても、企業を批判するのは簡単ではない。

 なぜなら我が国は、ありがたいことに簡単に社員をクビにできない社会である。だから、業績が悪化しても簡単に整理解雇はできない。となると、雇う時は慎重になる。「今10人必要だからといって、10人雇ってしまって将来市場の需要が減った時に大丈夫か?」となるのである。そこで、たとえば「10人必要だが、5人に抑えておこう」となるのである。

 そうなると、10人の求職者のうち、職を得られるのは5人だけとなる。求職者とすれば、残る5人は他をあたらないといけないし、なければバイトで食いつなぐしかない。ところが、派遣だと企業も万が一の時は雇い止めできるとなれば、「5人は正社員、5人は派遣」として10人採用できる。イメージとしては、そんなところだろう。

 この派遣制度を敵視している人たちがいて、そのために法律がコロコロと改正されているのだろう。何とか「派遣」などという制度は廃止して、「全員正社員」という方向にもっていきたいのだろう。反対派の意見を見ると、「生涯派遣に陥るリスク」などというのがある。「雇い止め」で職を失ったり、「生涯派遣社員」で安く使われて終わることがないようにしようという意図だろう。

 それはそれで悪くはないと思うが、それだと「派遣」という働き方の意味がなくなってしまう気がする。無理やり正社員の方向に行かせるべく法律で縛ろうとしているのが、国会でのこれまでの派遣を巡る動きだと理解している。だから、何となくおかしなものになっている。「3年ごとに職場を変える」というルールもそうだと思う。

 しかし、我が国には「職業選択の自由」がある。派遣が嫌なら派遣にならなければいいだけの話である。生涯派遣が嫌なら、正社員になればいいだけのことだ。政治家(特に反対派の人たち)があれこれ口をはさむことではない。ただ、正社員やアルバイトと同様、不当・違法な扱いをされないように枠組みをつくるだけで十分ではないかと思う。

 そもそも先に挙げた通り、派遣がなければ「職」そのものがなかったかもしれないものである。失業しているよりマシと考えれば、派遣だって悪くない。同じ職場に長年派遣されて、それでも正社員より給料が安くても仕方ないではないか。嫌なら正社員になるか、失業を選ぶしかない。そう言うと、「正社員になれない」という意見が聞こえてきそうだが、それは「仕方ない」。我が国は全員雇用が保証される社会主義国家ではないのである。

 そういう思いがあるから、国会での議論を聞いていてもピンとこない(というか議論の内容を詳しく知ろうという気になれない)。政治家も、弱い労働者の味方をして票を得ようと思っているのか、はたまた経済の仕組みを理解できず何でも保護しようという博愛精神なのか、もっと本質を理解しないといけないのではないかと思えてならない。

 派遣で働く人にもいろいろな事情があるだろう。全員が嫌々ながら働いているとも思えないし、満足している人もいるだろう。働き方も人それぞれだ。政治家が最低限の労働者の権利を守る以外に口を出すことはないと思う。「派遣が嫌なら正社員になればいい。そのために必要なら必要以上の努力をすればいい。」

 ただそれだけのことなのに、無駄な時間を使っているような気がしてならないのである・・・


【今週の読書】
比較ケースから学ぶ戦略経営 (中経出版) - 松田 久一 カラマーゾフの兄弟(中)(新潮文庫) - ドストエフスキー, 原 卓也 未来予測の超プロが教える本質を見極める勉強法 - 中原 圭介







 
 
 

2015年6月21日日曜日

そもそも論をしないと・・・

 このところ、安全保障法案の議論が新聞紙上等を賑わしている。個人的には政治には興味を持っているし、しかも自分たちの国のことだし、いいかげな気持ちではいたくないので、常にマスコミの報道はウォッチしている。反対派は、「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」として、これを「戦争法案」と呼んでいる。街頭でもよく目にし、耳にする意見である。だが、どうもどちらの考え方、やり方もしっくりとこない。

 そもそも、自衛隊は憲法第9条に違反している。それは成り立ちからして、日本に再軍備させまいとしたアメリカの意向によるものだ。それが日本が危険な存在でなくなり、かつ冷戦構造の中で、「友軍」としてアメリカが日本軍を必要としたため、自衛隊を発足させたのである。この時、本当なら憲法も改正すべきだったと個人的には思う。

 そして自衛隊が憲法違反かどうか問われ、最高裁に判断が委ねられた時、最高裁は判断を避けている。なぜ避けたかと言うと、法律的には違憲であるが、政治的に違憲と言ってしまうと大問題となるから、判断を避けたのである。簡単に考えても、法律的に合憲だったら、そう判断しているだろう。

 従って、今の自衛隊も安保条約も、関連法制もすべて本質的な問題を覆い隠し、解釈改憲という都合のいい理屈で自衛隊を合憲とし、その後の関連法案も合憲としてきているのである。だからそもそも自衛隊が必要か否かという議論から始め、「必要なら憲法を改正する」というのが、一番正しいやり方なのである。

 憲法改正に反対する人も、その多くが「自衛隊は必要」だと思っているだろう。国民の意識も戦後から変わってきている。だから、「解釈改憲」というやり方で、その時代にあった自衛隊のあり方を認めてきているのである。なので今さら「ここまではいいけどここまではダメ」というのはおかしいのだ。「解釈」は人によって異なるもの。それを認めている以上、「今回の安全保障法案が憲法違反である」という主張を聞いても、ちっとも心に響いてこない。

 それに、湾岸戦争のような事態が発生したら、我が国はどう行動するのかという問題もある。イラクによって一方的に軍事侵攻されてしまったクゥエートを、世界が救おうとアメリカを中心に多国籍軍が編成された。日本は「平和憲法」があるから、当然自衛隊を派遣しなかった。それで良かったのかと、今でも疑問に思う。

 他国の軍事進攻により、占領されてしまった国を助けるために軍事力を使うことは悪なのだろうか。「平和憲法」の「平和」とは、「日本の平和」という意味で、「世界の平和」ではないということだろうか。湾岸戦争後、クゥエート政府は多国籍軍に参加した国々に対する感謝の新聞広告を出したが、その中に世界で一番お金を出した我が国の名前はなかった。お金だけ出して、汗もかかず血も流さず、遠く離れたところで見ていた金持ちの国が、「平和国家」として、世界の尊敬を集められるのだろうか。

 結局、軍隊をどういう目的でもって保有し、どういう時に使用するかをきちんと憲法で決めることこそが、一番だと思う。小手先の解釈改憲でごり押ししようとする政府も、「戦争法案」とレッテル貼りして、自ら矛盾を抱えつつ憲法違反だと叫ぶ反対派も、どちらの主張にも与し難い気がする。

 そろそろ本質的な議論をすべき時なのではないかと、思えてならないのである・・・





2015年6月18日木曜日

健全なる猜疑心

 先日、『会社勤めでお金持ちになる人の考え方・投資のやり方』という本を読んでいた時のことだ。バブル期の土地の高騰の話が出てきた。当時東京都23区の土地の値段とアメリカ合衆国丸ごとの土地の値段が同じになり、当時は誰もそれを異常だと思わなかったという説明がなされていた。確かにその説明を聞くと、その通りだと思う。当時のことはよく覚えているが、確かに異常だったと思う。

 著者は、「小学生でもおかしいと思うことを当時は誰も疑わなかった」と語っていた。確かにその通りであるが、そうであってもそうした説明を聞かされると、どうも私は「なるほど」と思うより「そうだろうか」と思う方が多い気がする。何か根拠があるわけではない。直観的にそう反応してしまうのである。一見、もっともそうに聞こえるほど、そうである。まぁもともと天の邪鬼だからかもしれない。

 当然、この説明を読んだ時も「そうだろうか」と思ってしまった。別にそういうことだってありうるのではないか、と思ってしまったのである。そこで簡単に調べてみる。東京23区の面積は621平方キロ。一方アメリカ合衆国の面積は9,628,000平方キロ。その差15,500倍である。

 価格の比較で、銀座一丁目の土地の値段は、ある場所で現在坪当たり約920万円。北海道阿寒湖周辺の某場所だと坪当たり3千円。その差実に3,067倍である。土地の値段はその利用価値にある。銀座一丁目の土地と阿寒湖周辺の土地とでは当然大きな差があって然るべき。その差3,000倍が妥当とするなら、先の23区の土地がアメリカ合衆国の土地の値段の15,500倍となったのは、やっぱり開き過ぎなのだろう。ここまで比較すれば、「異常だ」というのも納得できる。

 こういう考え方は、自分ではいいと思っている。たぶん、こうした考え方をしていると、詐欺被害には遭わない気がする。「オレオレ詐欺」のニュースを聞いて、よくこんなのにいまだに引っ掛かるものだと言う声を聞くが、年寄りでなくても、人の話を素直に鵜呑みにする人は、多かれ少なかれ詐欺被害に遭う可能性は高いと思う。だが、自分はたぶん大丈夫だという気がするのは、こういう考え方をするからなのである。

 ではそれが良いかというと、人間関係ではそうとも言えない。というのも、人と議論していると、しばしば「それは本当か」と反応してしまうのである。当然、相手はいい気がしないだろう。自分の意見の根拠をつかれ、しかも確信をもって答えられず、その上自分の主張の根拠をぐらつかせられたら、良い気分はしないものだろう。自分の意見を否定されるほど気分の悪いことはない。下手にやり込めてしまうと、相手の反発を招いてしまう。

 よく、会話の基本として、「Yes,but~」ということが言われる。相手の意見を一旦受け入れ、同意して認めた上で、「でもね~」とやれというわけである。こうすると言われた方は素直に自分の考え方を見直してみようとするという。なるほどその通りだと思うし、そうした「モノの言い方」を併用しないとかなり危険だと自覚はしている。ただ、できているかどうかは不安なところだ。

 まぁそれでも一応ここまでの自覚はあるので、救いようはあるのではないかと思わなくもない。意識するかしないかは大きな違いがあるからである。人と議論する時は、常にブレーキを意識する。これを心がけようと思うのである。自分では健全だと思っている猜疑心は、内に秘めたるものにしようと思うのである・・・

 【本日の読書】
これから日本で起こること―雇用、賃金、消費はどうなるのか - 中原 圭介 思考力を鍛える50の哲学問題 - 小川 仁志





   
 
 

2015年6月13日土曜日

救急車の有料化

 昨日の産経新聞に救急車の有料化議論が載っていて、興味深く読んだ。そもそもは、救急車の出動件数が増加していて過去最多を記録し、その稼働状況は限界に来ているという問題が発端らしい。そして搬送者の半分が搬送の必要のない軽症者だという。中には「救急車で搬送されると待たされずに診てもらえるから」という不届き者もいるらしい。こうした背景から、救急車の有料化案が出てきており、賛否両論が併記されていた。

 話はそれるが、この討論はいいと思う。賛成反対それぞれの意見が併記されていて、読者はそれぞれ比較できる。これこそが新聞の役割だと思う。と当たり前のことをわざわざ言うのも、新聞の実態はそうではないからである。例えば、産経新聞は原発推進派だから、原発稼働に関する記事は「賛成目線」で書かれている。反対論によっていかに国益が削がれているかが、事あるごとに強調されている。何も考えずに読む人はそういうものかと思うだろう。こういう世論のリードはけしからんと、常々思っているから、こうした公平な議論は好ましい限りである。

 さて有料化に対する反対論は、「弱者切り捨てに繋がる」とするわかりやすい理屈で、必要のない利用をどう防ぐかは課題だとしつつ、
・搬送後に医師の判断で応分の負担を求めるのはいい(追加罰金という形だろう)
・無料は日本が世界に誇る制度(有料の国も多いらしい)
・不必要な利用者には他者の命を脅かしていることを伝える(要は市民教育だ)
といった方法を主張している。わからなくもないが、説得力十分とはとても言えない。

 よくよく考えてみれば、この問題を解決する方法は2つしかない。すなわち、「救急車を増やす」か、「利用を減らす」かだ。反対者は前者を主張しており、賛成者は後者の具体案として有料化を主張している。だが、「この国家の財政難下で、救急車を増やす」という選択肢は安易に取れないだろう。となれば、「利用を減らす」という観点から考えないといけなさそうである。そうなると、やっぱり有料化案しかないのだろうかと思うも、それについてはちょっと気になることがある。

 それはかつてマイケル・サンデル教授が、『それをお金で買いますか』で採りあげていたイスラエルの保育園の例である。その保育園では、親が子どもの迎えの時間に遅れるのに困り、これを防ごうと罰金制度(有料化案だ)を導入したという。ところがふたを開けてみれば、それが効果を発揮するどころか、逆に遅れる親が増えてしまったという。「お金を払えば遅れてもいい」という風に解釈されてしまったのである。たぶん、遅れないように必死に頑張っていた親たちは、「お金を払えば頑張らなくても遅れていける」と考えたのだろう。こうした危険性はないだろうかと思うのである。

 つまり、「お金を払えば(軽症でも)救急車を呼んでいい」と思われてしまわないかということである。そもそも「タクシーで来ると待たされる」という理由で救急車を呼ぶような不届き者である。タクシー代だと思ってお金を払うつもりなら、有料化も効果はない。何せ救急車は信号待ちもなく、確実にタクシーより早く病院に着く。さらに救急扱いで優先的に診てもらえるから、少しぐらい割高でもその方がいいと思う人が出てきても不思議ではない。安易な有料化は、実は逆効果かもしれないと思う。

 ならどうするか。個人的には、「軽症と判断した段階で搬送拒否」というのがいいような気がする。新聞では、その方法は「判断が難しい」とされていたが、そうだろうかとも思う。迷ったら運べばいいだけだし、そもそもタクシー代わりに使おうとする輩なら、救急隊員にも十分見分けられるだろうと思うのである。一度拒絶されれば、「日に2度も救急車で来る」ということはなくなるだろう。

 あれこれと考えてみると、なかなかいい思考トレーニングになった。これは良いコーナーだと思う。願わくば、第1面からすべてにわたってこうした公平な観点からニュースを伝えてもらいたいと思うのだが、たぶん期待はできないのだろう。

 残念だがそんな期待は無理な以上、(偏った意見の記事は)自分の見る目を養えていいと、前向きに思っていこうと思うのである・・・


   

2015年6月7日日曜日

汗を流す快感

昨年から大学のラグビー部のシニアチームに加わって練習に参加している。
その昔は、「タックルができなくなったら、ラグビーなんてやるものではない」と考えていた。今も基本的にはその考えは変わっていないが、若干の修正が入っている。
それは、「試合はやるべきではない」に変えたのである。

小学生の頃からスポーツには親しんでおり、野球やバスケットボールなど、チームに所属してそれなりにしっかりやった。高校から始めたラグビーは、結局社会人になるまで続け、子供が生まれるまで「タックルができる」体力を維持していた。されど、織田信長も生きられなかった年齢となると、体力の衰え=運動不足は如何ともし難くなっている。

それでも、スポーツマンの本能というべきだろうか、「体が動かなくなる=体力が衰える」事に対する危機感から、平日は帰宅すると腕立て伏せ、スクワット、腹筋をして何とか体力維持に励んでいる。そこにもう一つ「走る」という行動を加えたいのだが、ただ淡々と走るという行為がどうも好きではない。マラソンは昔から嫌いなのである。

そんな自分にとって、シニアチームの練習はちょっとした気付きであった。
「年を取って動けなくなったのに、昔を懐かしんで“ラグビーもどき”をやるのはみっともない」と思っていたのであるが、練習は別に年を取っても普通にできる。
ボールを持って走り、ボールを蹴り、パスをしたりという動きは、昔のままできるのである。
「ただ走る」よりも、ボールを扱いながらの方が遥かに楽しい。
「まだできる部分」だけでも、十分楽しく動けるのである。

そんなシニアチームの、本日は月に一度の練習日。
昨年購入した練習用のジャージに袖を通し、人工芝グラウンドに立つ。
芝生の匂いは漂ってはこないが、かつて馴染んだ土よりも、やっぱり感触がいい。
十分なストレッチは、衰えた肉体には欠かせない。

走り始めると、すぐに息が上がる。
昔は涼しい顔をして、息一つ乱さずに動いていたであろうレベルの軽い動きですらそうである。ただ、無理は禁物。なにせ頭の中の自分は、今も現役時代そのまま。
いやむしろワールドカップなんぞ観過ぎて、現役時代以上に動けるつもりになっているから、とっても危険である。体の軋みと悲鳴に素直に耳を傾けつつ、無理なく動くように心掛ける。

一通り汗を流すと、心地良い疲労感が出てくる。
木陰に入れば、風が汗を運び去って行く。
7月、8月は休みとマネージャーからの通知。
少々不満も残るが、60代以上のメンバーが過半数を占めているから仕方ないのかもしれない。
個人的には、毎週でもいいくらいなのだが・・・

「健全な精神は健全な肉体に宿る」ではないが、自分にとって体が動くということは、気力の充実にも繋がっている。それは仕事にも通じるエネルギーである。
80歳を超えて、いよいよ走る事さえできなくなったら、この気力はどうなるのだろうと思ってみたりする。

まぁ、そんな先の心配までしたところで始まらない。
今のチームでの練習を楽しみながら、少しずつ運動量を増やしていきたいとも思う。
無理しない程度に無理をしつつ、体を動かす楽しさを味わい続けたい。
せっかく身につけた“本能”を失わずにいたい。
それが自分自身の自信を維持することになるような気がする。

走って汗を流す快感をいつまでも味わいたいと思うのである・・・
     

2015年6月3日水曜日

責任感

 「仕事ができる」とは、何をもってそういうのだろうと、ふと考えてみた。いろいろと表面的には言えるだろう。ただ、「仕事ができるようになるために必要なもの」は、となれば、それは間違いなく「責任感」だろう。

 ボランティアで参加している集まりで、先日腹立たしいことがあった。ホームページを作成しようということで、一番詳しい人に担当してもらうことになった。そして一応半分完成し、運用をスタート。1年ほど前のことである。されど残りの半分がなかなか完成しない。「○○が足りない」というから、それを用意した。なのにいつまでたっても完成の兆しがない。そしてとうとう、先日その担当者は作業を投げ出した。

 メンバーもわからないから、全部彼に「お任せ」だったのは事実。されど、いろいろと人に作業をさせておいて、挙句の果てに放り出したのは、どうにもいただけない。しかもそのことに関しては、表面的なお詫びの言葉はあったものの、「メンバーの利用が少ない」、「メンバーで話し合いがなされていない」などという問題点の“客観的な”指摘が続き、さも「自分も悪いがその他の大きな要因が・・・」と言いたげである。

 よくある「できないくせにへ理屈だけは一人前」のデキナイ君の典型である。自分の部下なら、指導して考え方を叩き直すところだが、ボランティアではそうもいかない。
『苦しいこともあるだろう 言いたいこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣きたいこともあるだろう これらをじっとこらえていくのが、男の修業である』(山本五十六)
何と厳しい修業だろう・・・

 自分だったらどうするだろうと考えてみる。まずは初めに全体像からだろう。メンバーに意見を聞いて、目指すものの方向性を統一する。各人に割り振る作業があれば、協力を要請する。極端に各人間の負担が偏らないように調整する。「チームワーク」を意識してやれば、問題点が出てきてもすぐみんなで対処できる。そして、最後どうにもならなくなったら、自分一人で徹夜してでもやり遂げるだろう。彼は土壇場まで一人で抱え込み、そして放り出した。

 メンバーの利用が少ないのなら、メンバーみんなに意見を聞いて回って改善点を議論する。話し合いが必要なら、自分で日程調整して、みんなを招集して必要な意見を引き出す。作業が大変なら、手伝ってもらうことを考える。「問題点がある」と他人事のように言うのではなく、どうやったら解決できるのか我が事として考える。もちろん、「期限」も意識する。自ら主体的に動けば、自ずから道は開けるというものである。

 そうしたものは、積み上げたノウハウ的な要素もあるが、何よりベースは「責任感」だ。「他人事」ではなく、「我が事」としてとらえられているかどうか。そして「自分がやらないといけない」という意識を持てるかどうかである。何事であれ、そういう意識を持って取り組めれば、いずれ大きく成長できるだろう。もはや「成長」などと言っていられない年齢であっても、だ。

 スポーツであれ、仕事であれ、意識の差は重要だ。どんな気持ちをもって取り組むかで、己自身に跳ね返ってくる結果は大きく異なる。自分自身、そういう気持ちでもって取り組んできただけに、今回の彼の残念なスタンスがよけい目についてしまうのかもしれない。改めてどういう意識で物事に取り組むかが、いかに大事かということがよくわかった出来事である・・・


【本日の読書】
0ベース思考---どんな難問もシンプルに解決できる - スティーヴン・レヴィット, スティーヴン・ダブナー, 櫻井祐子 千日のマリア (講談社文庫) - 小池真理子




 
 
 
 

2015年5月30日土曜日

使う前に読むべきか、読んでから使うべきか

 先日、ワンダーコアを購入した我が妻。
どうするのかと静観していたら、ずっと梱包されたまま。
そしてようやく、箱から出され組み立てられた。
だが、まだ使用された形跡はない。
これが妻の性格である。

 妻はこういう場合、「完璧主義」である。使用前にはマニュアルを読み、最近では大概付属されているDVDを見る。そしてその上で、初めて使うのである。これが私の場合だと、到着した瞬間に梱包を解き、すぐに組み立てて使い始める。もちろん、見よう見まね。取りあえず使ってみるのである。

これが私個人のものであれば、問題はない。
ただし、家族で使うものだと、しばしば軋轢となる。
すぐに使おうとする私に対し、妻は「マニュアルを読め」と迫ってくるのである。
もちろん、それが正しいスタンスだとは思うが、いちいちマニュアルなど読まなくてもわかるものはわかる。ただ、それは妻にとっては許されざる態度であるらしい。

 何ごとにせよ、マニュアルを読んで理解してからやるというのは大事なこと。それを否定するつもりはない。ただ、「準備が整ってから」と言っていると、タイミングを逃すことしばしばである。ビジネスの現場では、「構え、撃て、狙え」のスタンスが重要となることも多い。今回のような商品は、到着した時がそれを使いたいという気持ちが最も高い時。そいういタイミングは大事である。

 子供の頃、数多読んだ松本零士のマンガは私の人格形成に大きな影響を与えたが、その中のある物語を思い出す。主人公の若者は大きな夢を抱き(松本零士のマンガの主人公は大概大きな夢を持った若者だ)、宇宙船を自力で製作し、星の海へ飛び出す。しかし、いかんせん、設計が粗雑なポンコツで、ある惑星に不時着する。そこで、同じような夢を抱く若者と知り合う。

 若者は長年研究室で宇宙船の設計をしていて、主人公のボロ宇宙船をバカにして鼻で笑う。そしていつか完璧な宇宙船が完成したら、自分も宇宙に出るのだと言う。しかし、主人公は言い返す。俺の船は、ボロかもしれないが、とにかくここまで飛んできた。お前の設計する宇宙船は立派かもしれないが、どれも1センチも飛んでいないと。お前の船の完成がいつになるのか知らないが、俺はその間ずっと宇宙を旅していくと。何のマンガだか忘れてしまったが、今思い出しても示唆に富むマンガだと思う。

 アルバイトなどで、仕事の前にマニュアルをきちんと読むことは大事なことだろう。何でもかんでもマニュアルを読んでいる暇があったら実践すべし、などと言うつもりはない。だけど、四の五の言っていてなかなか実行しないというのも、ビジネスの現場ではありがちである。

 とにかくやってみる。すると、どこがわかり難いとか、使いにくいとかがわかる。その時、初めてその部分のマニュアルを読んでみる。そうすると、少なくともその部分は、「問題意識」を持って読むから、マニュアルも頭に沁み込んでくるというものである。

 まあ、あれこれと理屈をつけてみたが、おおよそ家電製品なんかは、我が家ではすべてこんな調子である。妻のやり方を否定するつもりはない。ただお互いそういう性分なのだから、認め合えばいいと思うだけである。さて、そうしてしっかりマニュアルを理解したワンダーコアである。あとはしっかり使用してもらいたいと余計なお世話ながら思うのである・・・


PS
 件のマンガの続きである。
意見が対立した主人公と若者研究者だが、主人公の鋭い指摘に若者研究者は項垂れて語る。自分は研究期間が長過ぎて、もうお前のような無茶ができない体なんだよと寂しく語る。だからそんな自分でも航海に出られる宇宙船を設計しないといけないし、それにはまだまだ時間がかかると。

そして主人公に自分の設計したエンジンを渡す。
これでせめてエンジンだけでもまともになる、と。
そして頑張って星の海を渡れ、と励ます。
男の夢と友情と、松本零士のマンガは今思い出しても胸が熱くなるのである・・・


     


2015年5月27日水曜日

成功の鍵

   妻が通販で健康器具を購入した。
「倒れるだけで腹筋」というキャッチコピーで、ユーモラスなCMを展開しているアレである。実は、妻は以前別の商品を買っているのだが、どうやらまた「新たな決意」を固めたようである。

 妻がこれを購入した意図はダイエットだろう。もちろん、前回の商品「レッグマジック」はダイエットとともに「美脚」という謳い文句に惹かれたのだろうし、今回はそろそろ夏も近いので、お腹を引っ込めてビキニでも着ようと考えているのかもしれない。二兎を追うモノはというつもりはないが、たぶん今回も「見果てぬ夢」で終わるだろう。

 世の中にダイエット商品は腐るほどあるし、次から次へと新しい商品が登場する。こんなにたくさんあるからには、さぞかしスマートな人が多そうであるが、世の中からダイエットのニーズがなくなることはなさそうである。それはなぜかと言うと、世の中が豊かであるという環境要因と、ダイエットのKFS(Key Factors for Success=成功の鍵)は何かということに気付いていない(買わせる方からしたら気付かせない)ことによるからである。

 ダイエットの(美客でもスリムなお腹でも同じだが)KFSは何かと言えば、それはたった一つ、『意思』だ。これ以外にはあり得ない。決意し、決めたことを守る意思の力。これこそが、ダイエット(いやあらゆる事かもしれない)のKFSだ。

 と言うと、「そんなのわかっているが、それが難しいから苦労している」との答えが結構返ってくる。だが、それがそもそもおかしい。意思がなければ何があっても意味がない(そしてこれこそが、巷にダイエット商品が反乱している理由である)。意思に代わるものなどないのに、代わるものを求めるから失敗する。逆に意思さえあれば、「道は通じる」のである。

 例えば私は平日は毎日仕事から家に帰ると、夕食前に腕立て伏せと腹筋とスクワットを軽くこなすことにしている。「面倒だ」と思う時もあるが、無理やりにでも気持ちを奮い立たせてやっている。そのための器具など不要だ。もっとも、負荷をかけたくて、「プッシュアップバー」という器具を使っている。だが、器具を使っているのは、「より大きな負荷をかける」ためであって、「腕立て伏せをするため」ではない。ここがポイントだ。

 「これがあったら続けられそう」
そういう幻想を起こさせて商品を買わせるというのが、販売側の手口。と言っても業者が悪いわけではない。本来大事なことを無視して買う方が悪いのである。意思無き主に買われた商品は、程なくして飽きられ、やがて飾りと化す。なんという資源の無駄だろう。

 ただ、我が家に限れば、無駄な資源となる可能性は低い。なぜなら、今回の商品「ワンダーコア」には負荷を調整する機能があるようだからである。「より大きな負荷」を求める者にとって、これは頼もしいパートナーだ。当面は、妻も私が使うことを許さないだろう(自分がお金を出したモノを、お金を出してない人間が自分以上に有効活用することを許さないのが我が妻である)。だが、やがて主に飽きられたら、その時こそ「救世主登場」だ。虎視眈眈とその時を待とうと思うのである・・・


【本日の読書】
田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」 タルマーリー発、新しい働き方と暮らし (講談社+アルファ文庫 G 302-1) - 渡邉 格 ペテロの葬列 下 (文春文庫 み 17-11) - 宮部 みゆき




 
 
 

2015年5月22日金曜日

安全保障関連法案は本当に問題なのか

 「安全保障」なのか「戦争」なのか、同じものなのに異なる呼ばれ方をする法案がいよいよ26日から審議入りするとニュースでやっていた。個人的に関心は高いものの、正直どうなのだろうかという気持ちがある。

 そもそも何でこんな法案が出てきたのかと考えると、それはたぶんアメリカの意向なのではないかと思う。世界最大の軍事大国アメリカも、いまや万能ではない。「お金は持ってるお人好し」をうまく利用しようというハラはあるだろう。中韓に絶対覆せない歴史問題で責められ、北朝鮮問題も解決の糸口も見られずにいる昨今、やはりアメリカと良好な関係を維持するのは必至だろう。そうしたわからぬ“裏事情”は置いておき、表面的な部分で判断するとどうなのだろうか。

 まず一番物議を醸しているのが、「集団的自衛権」だ。これは反対派が、「戦争に巻き込まれる」と声高に叫んでいる。ただ、例えばの例で説明されていたが、「海外で邦人を救助し、搬送している米軍が攻撃を受けた場合、自衛隊が米軍を守る」というケースは(現実的かどうかは別として)、問題ないのではないかと思う。特に日本は過去イラン・イラク戦争時、テヘランから脱出できなくなった邦人に対し、何もできずにいたところ、トルコが航空機を出して助けてくれたという過去を持つ。「平和」もいいが、こうした「邦人保護」はおろそかにしてほしくない。

 一方で、例えば反対派は、「シリアで米軍が攻撃された場合、意図せざる戦争に巻き込まれる」と主張している。一見、正しそうだが、これは歯止めをかければいいような気がする。かつて日米安保改定時も、反対派は「戦争に巻き込まれる」と反対したと言う。だが、その危惧はいまだ実現の兆しもないし、むしろそんな理由で反対したのかと滑稽ささえ感じる。反対論の例としては、いささか説得力に欠けている。

 そもそもであるが、法律を作ってそれですべての問題をカバーできるわけではない。例えば同じ銃でも、警官が持つのとヤクザが持つのとでは、まるで意味が違う。要は使い方であり、市民を守るためなら警官が銃を持っても怖くないし、だから一律禁止とするのではなく、警察官だけが銃の所持を認められ、一般の人の所持は「銃刀法取締法」で禁じられている。「警察官によって守られるメリット」と「ヤクザに使われて傷つけられるデメリット」とをうまく調和させている。

 これと同じで、「危険な例があるからダメ」とするより、「危険な例を避ける」ようにすればいいのではないかと思考は流れていく。賢い者なら、「デメリットがあるからメリットを諦める」のではなく、「メリットを享受しつつデメリットをできるだけ抑える」とするのが、考えるべき方向ではないだろうか。「意図せざる戦争に巻き込まれる危険性がある」のなら、そうならない仕組みを作ればいいだけではないだろうか。

 反対派はいたずらに不安を煽っているだけで、例えば先に挙げた邦人を保護している米軍が攻撃された場合には、どうすればいいと言うのだろう。残念ながら、街頭演説で力説する方も、ネットで安倍総理を鬼畜と批難する人も、その疑問には答えてくれない。

 それに安倍総理が批判していた「レッテル貼り」。これもいかがなものかと思う。「憲法改悪反対」は古くから言われているが、「改悪」は誰でも反対するだろうが、「改正」は賛成するだろう。自分と反対だから「悪い」ものと決め付けるのもいかがなものかと思う。「戦争法案」と主張するが、内容は「戦争をするためのもの」ではない。

 ビジネスでは、リスクを恐れていては利益は得られないのは当たり前。要はいかに「リスクを回避し」、「利益を享受する」かだ。自分はビジネス・パーソンなるがゆえに、その理屈に従って物事を考える。「リスクがあるからダメ」なんて言っていたら、何もできない。得られる利益と、それに伴うリスクを冷静に比較し、リスクが大き過ぎるならやめれば良い。「戦争法案」と主張する人たちが唱えるリスクは、どうも誇張され過ぎている。

 メディアの対応もそれぞれ特徴を表していて面白いが、これからこの法案を巡るニュースが続くのだろう。是非とも反対派には、「まともな」反対論を期待したいものである。それによっては、私は自分の意見を変えることにまったく抵抗はない。野党のみなさまには、頑張って是非国民に届く反論をしていただきたいと思うのである・・・


【本日の読書】
マクロ経済政策入門 黄金の拘束衣を着た首相 - 三橋貴明 ペテロの葬列 上 (文春文庫 み 17-10) - 宮部 みゆき ほぉ…、ここが ちきゅうの ほいくえんか - てぃ先生




  
 
 

2015年5月17日日曜日

粗大ゴミを巡るババ抜き

 先日近所を歩いていると、大きなスーツケースが捨ててあるのを見つけた。その時はさして気にも留めていなかったのであるが、昨日再びそこを通ると、まだそこに置いてあった。よく見ると赤い張り紙がしてある。曰く、「これは粗大ゴミになるので、手続きに従って捨てて欲しい」とのことが、連絡先の区役所の電話番号と共に明記してあった。

 おそらく、ではあるが、それはすぐ目の前にあるアパートの住人の誰かが捨てていったような気がする。そしてそれは引っ越しで、たぶん当の本人はもうそこにはいないのではないだろうか(あくまでも想像である)。となると、そのスーツケースを持ち帰り、300円の粗大ゴミ回収券を貼って決められた通りに捨て直す、などということは期待できないのではないか思う。

 実は最近、そんな尻拭いを仕事でやった。我が社の賃貸アパートの自転車置き場に、気が付いたら2台の明らかに使われていない自転車が放置されていたのである。住人に確認したが、どうやら以前の入居者が退去の際、置いていったらしい。やむなく処理することにしたが、その際にちょっとした驚きがあった。
 
 アパートの位置する横浜市に確認したところ、1台あたり500円で粗大ゴミとして捨てられることがわかった。だが、それは「個人」の場合であり、「法人」が捨てるとなると、手続きが変わる。「事業用のゴミ」扱いとなり、扱う業者も市に登録されている指定業者となり、その業者に連絡させられる(なんだかカルテルのような匂いがしないでもない)。

 そして1台あたりの値段が倍近くとなり、さらに回収費用3,000円が必要とのこと。結果として、「個人」なら1,000円しかかからないのに、「法人」だと5,000円近くなる。捨てるのは同じ自転車なのに、である。まぁそこにはいろいろと言い訳があるのだろう。法人の事業ゴミはモノによっていろいろあるだろうし、家庭用とは処理の手間が違って大変だとかあるのだろう。たまたま自転車だから、こういう矛盾がでてしまうのだろう(ちなみに「個人」名で処理したのは言うまでもない・・・)。
  
 そんなことを漠然と考えていると、ではあのスーツケースはどうなるのだろうと、気になった。ゴミの収集担当者はルール通りではないということで、回収していかない。当の本人はいないから捨て直すこともない。どちらからも放置されたスーツケースの行方はどうなるのだろうか。

 ありうるシナリオとしては考えられるのは、以下のパターンだろうか。
 ① 見かねた御近所の誰かが、300円を払って代わりに捨てる。
 ② 見かねたゴミ収集担当者がやむなく持って行く。
 ③ 見かねた御近所の誰かが区役所に苦情申し立てをし、やむなく区が回収する。
それまでどのくらいの期間がかかるかわからないが、生物系のゴミと違って時間が経てば自然に帰ると言うものでもないので、誰かがやらなければずっとそのままという事になる。

 とにもかくにも、悪いのは捨てていった本人。けしからんと思うものの、もしかしたら粗大ゴミを捨てる際の知識などなく、無邪気に捨てていったのかもしれないということもありうる。想像通り引っ越しの際に捨てて行ったとして、知っていれば手続き通りにしたのに、たとえば若い人で知らなかったということもありうるかもしれない。このような状態に気付かないから、やり直しようもない。そんなケースであれば、批難する気も減じるというものである。

 さて、では自分はどうするか、と考えてみる。我が家のテリトリーであれば、週明けにでも区役所に電話してまずは善処を依頼するだろう。お役所らしい融通の利かぬ対応で、「ルールはルールなのでルール外の対応はできない」と言われるかもしれない(なにせそう答えても担当者は何の不利益も被らないわけである)。その際は、仕方ない、自腹を切って手続きをするだろう。毎日眺めるストレスの方が大きいからだ。

 だが、件のスーツケースは我が家のテリトリーからは離れている。自腹を切ってまでしゃしゃり出ることもなかろうと思うところである。ただ、どうなるのかという興味はある。特に区役所の対応には興味がある。はたしてどんな対応をしてくれるのだろうか。週明けにでも、役所へ電話してみようかと思うのである・・・

【本日の読書】
ほぉ…、ここが ちきゅうの ほいくえんか - てぃ先生





     

 

 

 

2015年5月14日木曜日

商社は勝者

 就職情報会社のダイヤモンド・ヒューマンリソースが、現在就職活動中の大学生9,216名に聞いて集計した就職人気企業ランキングを発表した。
           〓文系〓           〓理系〓
【男子】   1位(10)三井物産       ( 3)三菱商事
     2位( 3)伊藤忠商事      (12)三井物産
     3位( 2)三菱商事       ( 7)住友商事
     4位( 1)住友商事       ( 6)伊藤忠商事
     5位( 6)東京海上日動火災保険 ( 2)東芝

【女子】   1位( 2)三菱東京UFJ銀行  ( 2)サントリーグループ
     2位( 1)東京海上日動火災保険 ( 1)ロッテグループ
     3位( 7)みずほフィナンシャル ( 4)明治グループ
     4位( 3)三菱UFJ信託銀行  ( 6)森永乳業
     5位( 5)伊藤忠商事      ( 7)森永製菓

 一瞬、男子は人気商社ランキングかと思って何度も見直してしまった。理系も文系も見事に商社一色である。それに対し、女子は文系は金融系、理系は食品系と別れている。理系の食品系というのは、「研究職」の意味合いがあるのだろうか。大学生の就職人気ランキングなんて、その時業績の良い企業に人気が集まるのが常であるが、それはそれで世相反映的なところがあると思っている。

 それにしても、男の商社思考はどうなのかという気がする。そりゃぁ商社は業績も良いし、カッコもいいし、かつての鉄鋼や証券・銀行などと比べると浮き沈みも少なく、ある程度の人気は常である。されどここまで理系も文系もとなると、どうなんだと思えてならない。女性も文系と理系とでは違いがあるものの、それぞれの人気業界は同じ傾向がある。

 他に魅力的なものがないとも言えるのかもしれないが、我も我もと上辺のイメージに囚われ過ぎている気がしてならない。ここに公務員が入っていないのは、単に人気がないと取っていいのか、それとも調査対象外なのかわからないが、前者であればまだマシだが、後者であればもっと目を覆いたくなる事実が隠れているのかもしれない。

 商社はかつては、物の仲介を司っていた。外国のものを日本に、そして日本のものを外国に。されど、直接の貿易が増えて「商社不要論」なんかが出たこともあったが、最近では「開発」や「金融」や「情報」などありとあらゆるものを手掛け、見事に生き残っている。「勝ち組」、「負け組」という言葉があるが、「商社」は(現時点では)見事な「勝者」である。給料もたぶんけっこう高いだろう。人気も当然である。

 しかし、なのに女子の人気がないのはなぜなのかという疑問が湧く。「商社=海外勤務」というイメージから、女性が海外赴任を嫌うというのは、一昔前ならいざ知らず、現在ではそうは思えない。やっぱり、「男の職場」というイメージがあるのだろうか、と想像してみる。そのあたりは、実に興味深い。

 折からシャープが経営再建を巡って経済紙面を賑わしている。シャープだって、かつては優良企業で業績もよく、就職人気企業だった時代もあるだろう。商社だって、今はいいが、20年後は「経営再建で四苦八苦」なんて事態になっているかもしれない。その時になって、「こんなはずではなかった」とならなければといいのに思う。

 今は至るところで、「女高男低」とでもいうべき状況が見られる。我が家では奥様が絶対権力者であるし、多くのご家庭でもそうかもしれないが、そういう「権力」という意味ではなく、最近は「能力」という意味においてもそう感じられる。スポーツの世界では、世界に伍して戦っているのは「なでしこ」だし、身近なところでは、娘の通う中学校の学力上位に至るまで、枚挙に暇がない。

 そんな女子が、「商社」を選ばないところに、何か暗示するものはないだろうかと言ったら考え過ぎであろうか。ひょっとしたら、「本当に優秀な人は商社を希望していない」のかもしれない。あれこれと妄想は広がるが、なにぶん、これからも日本経済を支えていただかないといけないし、商社には引き続き勝者でいてほしいと思う気持ちは事実である。

 就職活動中の学生のみなさんには、是非とも頑張っていただきたいと思うところである・・・


【本日の読書】
なぜ関西のローカル大学「近大」が、志願者数日本一になったのか - 山下 柚実 新装版-五郎治殿御始末 (中公文庫 あ 59-8) - 浅田 次郎










2015年5月9日土曜日

大人な対応

 軍監島などが世界遺産に登録を勧告されたとニュースで報じられた。それと同時に、その勧告に韓国が「朝鮮人労働者の強制徴用の現場は世界遺産にふさわしくない」と噛みついたとも報じられた。相も変わらずまたかと呆れるばかりである。無視するに限ると個人的には思うが、国としてはそうもいかず、自民党の石破さんは「真摯に対応する」とコメントしている。まぁそうするしかないのだろう。

 そんな腹立たしい事態に対し、ネットで、「そんなこと言ったらピラミッドや万里の長城はみんな登録抹消だ」という意見を目にした。なるほど、うまい切り返しだと思う。これに対して、韓国は何と答えるのか興味深い。嫌な相手に対して、こういう切り返しがさらりとできるといいなと、常日頃考えている。

 その昔、銀行に就職が決まった際、いつも嫌味を言う叔父に「銀行は人のふんどし(=お金)で相撲を取るけしからん商売だ」と言われたことがある。その叔父はいつもそんな調子で、大学の法学部に入った時には、「医者と弁護士は人の弱みに付け込んで金を取るけしからん輩」と言われたものである。上から目線で世の中を斜に構えて見るところがあったと思う。いつもそんな調子で、また叔父ということもあって我慢するしかなく、気分を害されていたのだがその時は違った。うまく切り返せたのだ。

 「そんなこと言っても、世の中みんな人のふんどしで相撲取っているでしょう」
そういう私に、叔父は鼻で笑って、「例えば?」と聞いてきた。そこで私は、「八百屋さんは自分で畑を耕していますか?魚屋さんは自分で魚釣ってきてますか?八百屋さんも魚屋さんも人のふんどしで相撲を取るけしからん輩ってことになりますね」と切り返したのだ。さすがに大銀行は批判できても、小さな八百屋や魚屋は批判できなかったと見え、叔父はむっつり黙ったまま何も言わず、私は心の中で快哉を叫んだ。

 逆にうまく返せなかった時もある。銀行に入って初めてのボーナスをもらった時、同じ支店の中年の先輩から、「まだろくに仕事もしてないのにボーナスもらうの?」と嫌味を言われたのだ。「お前にもらったんじゃねえよ」と心の中で反発したが、当時は支店の中ではそんなことが日常茶飯事だった。ストレス溢れる職場環境で、私は毎日のように机の下で拳を握りしめていた。

 その時は、我慢するだけで精一杯だったが、後日切り返し方法があったことに気がついた。
「えっ!水野さんの時はボーナスもらえなかったんですか?」と聞き返せばよかったのだ。当然その人(水野さんという名前は残念ながらいまだに覚えている)も新人の時は仕事もせずにボーナスをもらっているのだ。自分のことは棚に上げて、というやつである(あるいは自分もそう言われたのかもしれない)。そう気付いて、なぜそう返せなかったのかと、二度悔しい思いをした。

 嫌な奴とは付き合わないで距離を置くに限ると思うが、親戚や職場や友人知人などどうしても距離をおけないこともある。そんな時、いちいちストレスを感じていてはこちらが損だし、いつまでも根に持つのも己の小ささを実感させられて、自己嫌悪感に襲われる。腹の立つ言動があっても変に我慢せず、当意即妙の切り返しで相手に返せたらストレスも感じないだろう。できることなら、そんな風に対応できる自分でありたいと思う。

 韓国にも困ったものだが、国としては無視するわけにもいかない。かといって、言いがかりにいちいち青筋立てて反論するのもどうかと思う。ヘイトスピーチなどは、さらにこちらのレベルを下の下に落としてしまう最低の対応だ。レベルの低い国に合わせて、こちらのレベルを下げないようにしないといけない。「真摯に対応」するのは必要だろうが、相手の鼻をぎゃふんと折るスマートな切り返しで対応できたらいいと思う。

 個人でもそうありたいと思うし、そうした切り返しが咄嗟にできるには、日頃からそうしたユーモア感覚を磨いておかないといけない。それは自分を磨くことでもあり、人を憎んでいたずらに自分の中に悪いエネルギーを溜めるよりはるかに良い。

そんな自分でいられるように、日々是意識したいと思うのである・・・


   

2015年5月7日木曜日

鳥貴族

 家族で居酒屋『鳥貴族』に行った。
そもそもは、娘が「焼き鳥を食べたい」と言い出したことがきっかけであった。言われてみれば、近所に「焼き鳥屋」なるものがない。実家のある武蔵小山商店街なら、昔ながらの焼き鳥屋が何件かあるものの、我が街ではちょっと見かけない。それなら、とたまたま妻が行ったことがあったこともあって、『鳥貴族』に行くことにしたのである。

 実は、少し前にいつも観ている『カンブリア宮殿』で採りあげられたのを観ていて、「近々行ってみたい」と思っていたので、個人的には、渡りに船であった。それだけではなく、社長の著書(『鳥貴族「280円均一」の経営哲学』)が私の“読書予定リスト”に入っていることもある。

 さて、行ってみればいきなり親子4人の家族がテーブルについているのが目に入ってくる。最近は、居酒屋でもこうした子供連れは珍しくない。そういう我が家も子供連れである。厳しい環境下で、顧客獲得に血道を上げる飲食業界ゆえの努力だろうが、家族で行けるというのも実にいいと思う。GWともあって、店内はカップルや家族連れが中心で、さすがに親父族はいない。

 さっそくメニューを開くと、看板に偽りなしの全品280円。これは実にシンプルでいい。頼んだ数×280円なわけで、いくら請求されるのかがすぐにわかる。酔ったところに思いもかけない金額の請求書がくるということがない。ただし、モノによって「お得感」は様々だ。

 例えば酒類は、お得感がある。ビールは「サントリープレミアムモルツ」の中ジョッキ。「金麦」だと大ジョッキ。ハイボールはジョッキとまではいかないコップだが、まぁ値段からして程良い大きさ。妻は梅酒を頼んでいたが、あまり飲まない我が家からすると、量は適量でありがたい。
 焼き鳥は、テレビでも「当日すべて自店で手打ち」と謳っていたが、味も種類も大きさも不満はない。特に「もも肉」「むね肉」系は息子もお気に入りであった。ただし、「なんこつ」は貧素。妻に言わせると、「誰かの食べ残しかと思った」というくらい、わずかに串に引っ掛かっている程度だった。たぶん、コストとの兼ね合いなのだろうが、もう少し工夫があっても良かったかもしれない。



 
とろろ焼き
変わったところでは、「とろろ焼き」というのがあって、これは名前の通り「とろろ」を鉄板で焼いているのだが、意外と美味で、娘はお代わりをしていた。最後はとり釜飯にしたが、他にも唐揚げやしそ巻き天ぷら等美味しそうだったが、食べる量にも限度があって泣く泣く見送ったものもあった。

 料金も明朗で、ドリンク付と考えれば、リーズナブルな外食となった(小学生の息子はお代わり自由のキッズ・ドリンクを何杯飲んだのだろう)。食べ物にはうるさい我が家の妻と娘も満足気であった。毎年恒例のGWグルメツアーは、結局どこにもいかなかったが、まぁこれで代用ということだ。

 居酒屋ということで、周りには酒を飲む大人たち。「大人になったら一緒に飲もう」と息子に言うと、「初任給でパパと飲みに行く」とどこで仕入れたのかと思うような事を言ってくれる。考えてみれば、息子の夢はプロ野球選手。ならば「契約金だな」と息子には訂正しておいた。どんな形かはわからないが、いずれそんな日もくるだろう。

 その時飲みに行くのは、新宿や池袋といった都会よりも、地元の街がいい。「あの時約束してから早や10年・・・」などと感慨に浸りながら、我が家では劣勢な男チームでグラスを傾けるのだ。その時まで残っていたら、『鳥貴族』に行くのもいいかもしれない。そんな庶民的な、実にささやかな夢を持たせてくれた『鳥貴族』なのであった・・・

【本日の読書】
弁護士ドットコム 困っている人を救う僕たちの挑戦 - 元榮太一郎, 上阪徹 カラマーゾフの兄弟(上)(新潮文庫) - ドストエフスキー, 原 卓也




    

 

 

 

2014年4月27日日曜日

少年野球

 小学校3年になった長男。かねてからの予定通り、近所の少年野球チームに入る事になった。今日は入部希望者による体験練習に参加。約3時間ほどの練習をこなしてきた。

 高校からラグビーを始め、以来ずっと「ラグビー第1」でやってきた私だが、子供にスポーツをやらせるにあたり、ラグビーに対する拘りはそれほどなかった。
「野球かラグビーか」
やらせるとしたらそのどちらか、というのが元々の自分の考えである。

 さて、そんなわけで地元の少年野球チームの練習に息子を連れていく。近所の小学校のグラウンドが練習場であるが、今日は練習前によそのチームが試合をしていた。何気なく観戦。少年野球をまともに観るのは、それこそ何十年振りかもしれない。

 いきなり、打球がライトへ飛ぶ。ボールを取った選手が一塁へ送球してアウト。そう言えば少年野球で、「ライトゴロ」は珍しくない。打者は一塁へ出ると必ず盗塁する。キャッチャーがセカンドへ送球できればまだ良い方で、ほとんど余裕で盗塁に成功する。レフト前ヒットがホームランになり、レフトフライはポロリと落とす。

 それでもそれなりに試合が成立する。ゴロをさばいたサードが、ファーストへ送球する。ボールは届かずワンバウンドでファーストのミットに収まる。これがきちんとアウトになる。あとでわかったが、そもそも“届かない”というのを前提に考えている。ワンバウンドで投げるように初めから指導しているそうである。

 最近の少年野球の様子をインプットし、息子の体験練習を見学。息子はAチームとは別の、3年生以下のBチームに入る。同級生は3人。一人運動センスが良くて、声が出ている子がすぐ目につく。ちょっと華奢だなと思っていたら、何と女の子だった。Aチームにも女の子がいて、一応、「共学」になっているようである。

 練習は基礎練習。少し走って、キャッチボール。それぞれいろいろなバリエーションをつける。ベースを使って走塁練習。そして最後はバッティング。キャッチボールやバッティングは、それなりに経験があるが、何よりベースを使った走塁練習が息子には新鮮だったようである。

 全体の練習を観ていて印象的だったのが、一人のコーチ。かなり通る声で、檄を入れている。子供たちからすると、ちょっと怖いかもしれない。最近は、学校の先生もだいぶ優しくなっており、ちょっと気になるところ。こうした“鬼コーチ”の存在は、頼もしく感じる。

 練習が終わって、息子に意思確認したところ、「やりたい!」と力強い答え。いずれラグビーの楽しさも教えたいと思うが、まずは野球。これからしっかりサポートしつつ、チームスポーツを楽しめるように見守りたいと思うところである・・・


【今週の読書】
エンジェルフライト 国際霊柩送還士 (集英社文庫) - 佐々 涼子 64(ロクヨン)(下) D県警シリーズ (文春文庫) - 横山秀夫





    

 

 

2014年4月24日木曜日

外国人観光客の増加に思う

 仕事でスイカを使って電車で移動する。消費税が上がってから、いままでの10円単位が円単位になって、交通費の清算がややこしくなった。来年、10%に引き上げられるまでは、しばし面倒なのだろう。そんな消費税の増税であるが、やむを得ないと思いつつも、その先の増税もあるのだろうなと漠然と思う。

 そんなタイミングで、3月の日本を訪れた外国人観光客が過去最高の105万人に上ったというニュースを目にした。海外からやってくる人たちに、消費税の影響はあるのだろうかとぼんやり考えてみた。おそらく、であるが、まったくないであろう(もちろん、免税品は当然である)。かく言う自分も、海外に行った時に消費税を気にしてどうこうなどと言う事はない。せっかくのチャンスだからだ。

 と考えてみると、消費税だったらこうした海外からの観光客からも税金を取れるだろうという事に思い至った。どうせだったら、たくさんもらった方がいいだろう。一方で、国内の景気対策として法人税の引き下げが主張されている。財務省は、「財源が・・・」と言って反対しているらしい。所得税の減税は、個人・法人ともに消費刺激効果や設備投資誘因効果があると言われている。いっそうの事、消費税を20%くらいにして、個人・法人税をその分下げたらどうだろうと思う。

 外国人観光客が、昨年は1,000万人を越えたとニュースでやっていた。観光庁のホームページに記載されている資料によると、2013年の観光客の平均支出額(除く旅費)は、525,000円だと言う。これに伴う消費税は5%だったから、26,250円。1,000万人で、2,625億円という事になる。

 これが消費税20%になると、4倍だから1兆500億円。消費税が1%上がると、税収は2兆円増えると言われているから15%上がると30兆円増える。個人所得税と法人税の歳入が約25兆円だから、ここを税率0にしても尚5兆円税収が増える。年間の所得税が0になったら、個人的にかなり手取り収入が増える。企業も競争力が増して増益となれば、それを社員へ給与へという形で反映させられる。何だか良い循環が生まれそうな気がする。

 低所得者向けには、巷で言われているように食材を消費税の対象外にすれば、多少なりとも良いだろうし、それなら観光客もあまり買わないだろうから、消費税の税収に大きな影響はないだろう。それに観光客が100万人増えれば、単純計算で消費税は1,050億円増える。500万人くらい頑張って増やせば、5,250億円増える。

 少子高齢化対策として、移民政策を主張する人たちがいるが、これは危険な考え。外国人には定住でなく、観光で来ていただいて、たくさん消費していただくのが理想的だろう。この意味からも、観光客を国を挙げて誘致し、たくさん消費していただく。経済対策と財政再建と反移民対策とを兼ねたこのアイディアはどうだろう。

 機会があれば、専門家の方にこの妄想の感想を聞いてみたいと思うのである・・・


【本日の読書】
エンジェルフライト 国際霊柩送還士 (集英社文庫) - 佐々 涼子  64(ロクヨン)(上) D県警シリーズ (文春文庫) - 横山秀夫





 

 

2014年4月19日土曜日

カラオケ嫌い

 銀行では、異動が日常茶飯事。そして異動ともなると、必ず歓送迎会がある。一次会は大抵普通の飲食店であるが、二次会となると「カラオケ」となる事がほとんど。大の「カラオケ嫌い」の私としては、これがなかなかの苦痛である。

 カラオケが世に認知され始めたのはいつ頃からだろう。それらしき記憶を辿ると、たぶん大学に入った頃ぐらいか。当時はカラオケボックスなどなく、スナックなどで歌うタイプだった。飲んで楽しくやるための「1つの手段」だった。それが今や「目的」になっていて、飲むのはさらに楽しくやるための「手段」だ。
 
 もともと、飲んで歌うのは遥か昔からの習いだ。時代劇でも宴席で歌を歌うシーンはよく出てくる。それは海外でも同じようなものだろうと思う。それ自体悪くないし、「カラオケ嫌い」と自称していても、みんなが歌っているのを聞くだけならいくらでも楽しく参加できる。ただ、自分が「歌わされなる」のが迷惑なのだ。

 この「歌わされる」というのがミソだ。カラオケに行けば、好きな者からリクエストを入れて歌い始める。そうして次々にマイクを回していく。好意的に解釈すれば、「自分だけ歌うのは悪い」「他の人にも平等に機会を」という考え方なのだと思うが、酔いもあってか、歌うのを辞退する人に“察する”人は少ない。

 他人の歌を聞いているだけで、十分満足しているのに、そうした配慮はやがて「歌わない罪悪感」へと変わっていく。この「空気を壊す」感は、耐え難いものがある。行って「空気を壊す」か、行かずに「付き合いの悪いヤツ」となるか、この選択は悩ましい。どちらも選べない時は、「自分を殺して歌う」しかない。

 その昔、取引先との宴席で、やっぱりカラオケとなった事が多々あった。こうした時は、仕事ムードでマイクも握る。さすがにそこまで偏屈ではない。それなりにウケた時代もあって、上司の指名で必ず歌わされていた事もあったが、友達同士や気の置けない職場の同僚との間では、自分も楽しくやりたい。なかなか難しいところである。

 なぜカラオケが嫌いなのかと考えてみても、これは好き嫌いだから理由などあってないに等しい。野球が好きな人がいれば、バスケットボールが好きな人もいる。それぞれ理由を挙げればいろいろとあるだろうが、それに大きな意味はない。理由などいくらでもつけられるし、究極のところ己の感性にあっているかいなかの部分だろう。

 一人の時に音楽を聞いていて合わせて鼻歌を歌ったりはするし、湯船につかってと言う事もある。歌が嫌いというわけではないが、全体的な雰囲気みたいなものなのかもしれない。ただカラオケが好きではない事は確かだし、仕事以外で本来一人一人が楽しむべき時であるなら、他のところへ行きたいと思うのである。「歌わないヤツがいても気にならない」という仲間となら、カラオケに行っても楽しめるだろう。

 ただ世の中、「好き」派が圧倒的多数だろうから、なかなか少数派としては苦しいところだ。いつか廃れるだろうと思っていたカラオケブームだが、もうそれに期待するのは無理そうだ。それなら仕方ない、うまく「空気を壊さない」様、「付き合いが悪くない」様立ち回っていくほかない。そうしたうまい立ち回りを研究しつつ、世の中を渡っていきたいと思うのである・・・

【今週の読書】
「勇気」の科学 〜一歩踏み出すための集中講義〜 - ロバート・ビスワス=ディーナー, 児島 修 64(ロクヨン)(上) D県警シリーズ (文春文庫) - 横山秀夫





        

 

 

 

2014年4月13日日曜日

練習再開

 昨年思い立って大学のラグビー部のシニアチームに参加。“諸先輩”と混じって、練習する事にした。ところが、急激に運動したためかアキレス腱が炎症を起こし、そしてそれがなかなか治らないまま半年以上。ついにまるまる一年の“休部”となってしまった。

 捲土重来。
今回は前々日に軽く近所を走ってから、練習に臨む。何せまともに走るのは一年振り。ちょっと走っただけなのに、軽い筋肉痛が体に残る。それでも春の穏やかな日差しの下、人工芝のグラウンドに立つ。

 集まったメンバーは12名。最高齢は72歳。参加者の中では、たった二人の40代メンバーの一人だった。かつては、「タックルができなくなったらラグビーはやらない」と考えていた。年寄りがよれよれのまま“ラグビーもどき”をやるなんて“みっともない”と考えていたのだ。

 しかしだからと言って運動そのものを否定したわけではなく、ジョギング代わりだと思えばいいかもしれないと考え直した経緯がある。それに、もともと黙々と走る長距離走が大嫌いときている。ボールを持って、強弱つけて走る運動だと考えれば、むしろ好ましい。

 やってみれば、昔取った何とかで、パスは思った通りのところに行くし、パント(ラグビーのキックだ)もイメージ通りに行く。イメージ通りでないのは走る事だけで、頭の中の自分が遥か先を走っている状況は変わらない。ボールを持って走って、パスして、蹴って。何だか楽しいのは、たぶん子供が遊ぶのと同じ感覚かもしれない。

 途中でコンタクトプレーの真似ごとが入る。ボールを持って軽く相手にあたるのである。ラグビーの神髄は、このコンタクトプレーにある。「相手に(意図的に)あたる」という行為は、数あるスポーツの中でもそんなに多くない。相手を倒すのがルール上認められているのは、アメフト・ラグビー系だけではないかと思う。それだけにやはり重みのある行為である。

 現役の頃は、シーズンオフになると、この「相手にあたる」という感覚がまず鈍ったものである。相手にあたった衝撃で、体にコンマ何秒かの空白ができる。ふだん十分練習していれば空白はできない。この「空白感」で、己の体の鈍り感がわかる。今は相当なものである。

 続いて軽くスクラムの形をとる。本来の押し合うような事はしないが、お互い体重をかけるだけでもだいぶ違う。走るだけに比べると、あちこちの筋肉にかなり負荷がかかると思う。その効果があり過ぎたのか、ここで左足に違和感。現役の頃の感覚では続けてやってしまうのだが、去年の教訓もあってここで練習をストップする。急激にやるのはよくない。

 練習後に部室の風呂に入って帰る。次回は一ヶ月後。まずは最後まで練習できるところからだろうか。少しずつ家でも走ろうと決意して帰宅。

「せっかくおしゃれな国立まで行ったのにケーキの一つも買わずに帰ってきたの?」
帰るなり妻に言われてしまったが、他の人にはおいしくもなんともない収穫があったのは事実。来月からまた汗を流す楽しみを味わいたいと思うのである・・・

【今週の読書】
ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上) - マイケル サンデル, NHK「ハーバード白熱教室」制作チーム, 小林 正弥, 杉田 晶子  ライス回顧録 ホワイトハウス 激動の2920日 - コンドリーザ・ライス, 福井 昌子, 波多野 理彩子, 宮崎 真紀, 三谷 武司




     

 

 

2014年4月8日火曜日

Point of No Return

 先日、輸入業を営むある会社の社長さんにお話しを伺った。海外に知己の多いその社長さん、何人かの知人に資産を海外に移した方が良いと言われているらしい。近年、シンガポールあたりに移住するお金持ちが増えているらしいが、単に税金が安いというだけでなく、日本の財政破綻に備えるという意味もあるようである。

 日本の財政赤字については、もうかなり国民の間に浸透していると思う。だが、危険性が主張される事はあっても、ではどうしようという事にはならない。平成26年度の予算も50兆円の収入(歳入)に対し、96兆円の支出(歳出)という状況。今月から消費税が上げられたが、今年度はそれによる税収増を見込んでのものだから、せっかくの増税も「焼け石に水」という気がする。よく例えられるように、「年収500万円の人が、960万円の支出の生活をしている」状況である。

 普通に考えれば、このままいけばどこかで必ず破綻する。「日本には家計金融資産が1,600兆円あるから大丈夫だ」というような声もあるが、それは「破綻しても外国に迷惑をかけない」という意味で、「破綻しない」という意味ではない。言ってみれば、銀行から借金しているのと、身内から借金しているのとの違いみたいなものであろうか。「大丈夫」という意味は、「いざとなれば国民に負担を押し付けられるから外国には迷惑をかけない」という事なのかもしれない。

 では、破綻したらどうなるのだろう。社長さんは、「資産を外国に移せ(例えばドル資産など)」と言うが、移すほどもない身としては、そんな事言われてもどうしようもない。沈みゆく船と運命を共にするしかない。一体どうなるのだろう。

 まず国債がデフォルトとなれば、元金の償還と利息の支払いがストップする。国債を持っている銀行などは、預金の払い戻しが困難になるのだろう。仮に潰れないとしても、預金の一部しか下ろせないという事になるのかもしれない。まぁそれで困るのはお金持ちくらいかもしれないが、銀行もお金を貸せなくなるから、借りられなくなった中小企業への波及効果となると、測り知れない。

 何せ税収は50兆円しかない(50兆円を維持できれば、の話だが・・・)。借金ができなければ、この範囲内でやりくりするしかない。社会保障費が今年度は30兆円だから、やっぱりここが一番大きい。地方交付税16兆円は無しにしたらどうなるのだろう。必要な財源は地方税の増税で、となると人口の少ない地方は大変だろうか。6兆円の公共投資は、全体から見ると意外と少ないと感じる。最低限の投資に抑えたらどうなるのだろう。

 国債がデフォルトとなると、その波及効果もあるだろうから、素人にあれこれ想定するのは不可能だが、年金や医療費などは半減くらいは覚悟しないといけなくなるのだろう。生活できない人だって出てくるだろう。終戦直後よりはマシかもしれないが、かなり酷い状況になるに違いない。

 そうなったら、“第二の敗戦”とも言うべきで、そこから底力を発揮してまた復活できるだろうか。今だったら、頑張って家族の為、国家の復活の為、何でもやって働こうという意欲はあるが、問題は「その時がいつになるか」だ。人生50年と言われた時代ならもう終わりの年齢になると、不安なのは「その時体が動くかどうか」だ。場合によっては、自ら「食い扶持を減らす」事を考えないといけないかもしれない。

 もういい加減、どこかで引き返してほしいと思うが、どうなんだろう。ひょっとして、“Point of No Return”はもうとっくに過ぎてしまっているのだろうか。政治家にどうのこうのと言うのではなく、もう自分達で止めないといけない気がする。「アメリカと戦争をしても勝てない」とわかっていたのに、その道を進んでしまったかつての我が国。今度は違う道で同じ事をしてしまうのだろうか。そろそろ何とかしなければ、と強く思うのである・・・


【本日の読書】
「自分年金」はこの3つの銘柄で作りなさい! - 北浜 流一郎 オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1 2つの世界大戦と原爆投下 - オリバー ストーン, ピーター カズニック, 大田 直子, 鍛原 多惠子, 梶山 あゆみ, 高橋 璃子, 吉田 三知世 ライス回顧録 ホワイトハウス 激動の2920日 - コンドリーザ・ライス, 福井 昌子, 波多野 理彩子, 宮崎 真紀, 三谷 武司




  

 

 

2014年4月1日火曜日

新年度雑感

 何だかあっという間に春になった気がする。そろそろと思っていた桜がもう満開。この時期の朝は、いつも若干遠回りして、あえて桜の木のあるところを通って通勤しているが、その桜もすでに咲き乱れていると表現して間違いない状態である。

 そしていつもの時間に銀行の本部ビルに着くと、新入行員が大挙して入口から入ってくるところだった(こちらは職員用の通用口から入ったが、彼ら彼女らも明日から通用口だ)。また1年、社会人としてのキャリアを積み上げた事になる。

 昼食時、行員食堂に行ってメニューを見ると、全品値段が10円上がっている。消費税アップを実感した最初の体験だ。当然、中味はいつもと変わりない。何だか損した気分がしたからというわけではないが、思わずご飯大盛りにしてしまった(ご飯の量によって値段は変わらない)。

 妻はスーパーで混乱したらしい。何せ値段表示がスーパーによってバラバラ。新税価格での表示に税抜き価格表示に両方併記とあり、いつもなら瞬時に「どこが安い」と判断するコンピューターが、働かなかったようである(妻のコンピューターは価格比較は早いが暗算機能はついていないのである)。

 さて、せっかく(?)上がった消費税であるが、どうも気分はよろしくない。政府は、「増税分はすべて社会保障に充てる」と宣伝しているが、そんなのはまやかしだ。全体の収入があって支出があるわけであり、消費税を社会保障にまわしたところで他の税収を無駄に使っていたら意味はない。それに増税しても(全体で)赤字には変わりないんだし・・・

 財政改善にはやはり「支出削減」が“いの一番”に行われるべきだ。近所では娘の通う中学校のど真ん中を通る道路計画がスタートした。話題となっている「マッカーサー道路」くらいの規模ならわからなくもないが、何で我が街の住宅地に道路を通す必要があるのか?この分、少しでも予算を削減できると思う。

 そもそも税金の使い道に、「必要か」という観点から考えるのは正しくない。答えはみんな「必要」となるのに決まっている。我が街の道路計画だって、必要な理由ならいくらでも説明してくれるだろう。そうではなくて、「無くても済ませられないか?」と考える事が必要だろう。そうすれば、「何とでもなる」となるだろう。道路計画については、住民からの希望を募ってもいいだろうと思う。

 たかだか小さな街の道路だが、武蔵小山の我が実家も道路拡張で立ち退きの話が出ている。ちょっと足を伸ばした隣の保谷でもいつのまにか新しい道路ができている。「ちりも積もれば山となる」ではないが、こういう道路一つ一つについて、「無くても済ませられないか」と問うていけば、随分削減できそうな気がする。

 消費税以外にも社会保険料やガソリン税、配当課税なども「こっそり」増税になっており、サラリーマンの懐にはじわりじわりと影響がきそうである。これで最後にどかんと「国庫破綻」となったら、どうするのだろう。まあ大海原で、船が沈没する時に自分だけ助かろうと思っても無理だろう。「みんなで沈めば怖くない」のだろうか。

 新年度入りして気分新たに行きたいところだが、何となく悶々としたスタートとなった感じがする。せめて気持ちだけでも明るく行きたいものである。当分は、夏休みのハワイ旅行に向けて、明るく頑張ろうと無理やり思う事にしたのである・・・
 

 【本日の読書】
オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1 2つの世界大戦と原爆投下 - オリバー ストーン, ピーター カズニック, 大田 直子, 鍛原 多惠子, 梶山 あゆみ, 高橋 璃子, 吉田 三知世 ライス回顧録 ホワイトハウス 激動の2920日 - コンドリーザ・ライス, 福井 昌子, 波多野 理彩子, 宮崎 真紀, 三谷 武司