2019年2月28日木曜日

考えることはやはり大事だ

世の中働き方改革がブームではあるが、個人的にはちょっと違った意味での働き方が気になっている。それは、「言われた事をやるだけ」の働き方である。高校生の頃は、漠然と「サラリーマンにはなりたくない」と考えていたが、それは「サラリーマン=顎でこき使われて奴隷のように働く人」というイメージがあったからである。今でいえば「社畜」なんて言葉で言い表せられるだろうか。就職してみてわかったのは、「社畜」になるかどうかはその人の働き方次第、考え方次第だということである。

当たり前と言えば当たり前であるが、どういう意識で働くかは重要だろう。心構えであり、スタンスである。それにあたって大事なのは「考える」ことだと思う。自分の仕事の一つ一つについて、ただ言われるがままやるのと「考えて」やるのとでは自然と結果も変わってくるだろう。「創意工夫」も「考える」からこそ可能になるというものである。

そもそもであるが、この「考える」ということがあまりできていないように思える。かつて務めていた銀行でも、「考えている」とは思えない人も多かった。
「これをやることにどういう意味があるのか」
「この資料をもらうことにどういう意味があるのか」
交渉にあたって、Aという反応とBという反応が予想される。Aだったらこうしよう、Bだったらこうしようと考えておけば交渉も早い。ところがAだったらいいが、Bだったらまたその時考えようと棚上げしようとする。思わず、「なんで?」と思ってしまう。

 トヨタ自動車の改善で有名になった「なぜ」を3回繰り返すというのも、結局、「考える」ということである。「考える」からこそ自分の意見も出てくる。今の会社でも、意見を求めると「う~ん」と言って下を向いてしまったりする人がいる。考えてもわからないというケースもあると思うが、なら調べてみるとか、わかりそうな人に聞いてみるとか、そういうアクションが取れると思う。なのにそこで「思考停止」してしまう。「言われた通りやっておけば怒られないだろう」という保守的な考えなのかもしれない。

よくサラリーマンが会社帰りに赤ちょうちんでくだを巻くということがある。仕事の不満なのだとしたら、そんな不満を言う暇があったら改善策を考えて提案すればいいのにと思う。それが受け入れられないのであれば、それはそれで仕方ないので、不満を言う前に「ではどうすれば良いか」を考えれば良い。上司と意見が合わないことは不思議ではないので、言うだけ言ってダメなら切り替えるしかない。「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」(後藤田五訓)である。

「考える」ことは「責任感」にもつながる。「言われたことだけ」やっていれば、確かに怒られることはないし、ミスさえしなければ責任もない。それは確かに楽だろうが、そういうスタンスは知らず知らずのうちに、自分の「考える力」を奪い、「責任感」をも奪っていく。それは結局、「社畜」への道であり、自分自身に跳ね返ることだと思う。スポーツでも、「やらされている」練習は身につかず(根性と体力だけはつくかもしれない)、ちょっとチームのレベルが上がればレギュラーにはなれない。自分にとって必要な練習を「考えて」実行できる人間がレギュラーになれる。どの世界でも同じだと思う。

ひょっとしたら、考えていないというのは間違いで、腹の中ではしっかり考えているのかもしれない。ただ、それを表明しなければ(あるいは行動に表さなければ)、それは考えていないのと結果的には同じである。
「人の振り見て我が振り直せ」
ではないが、そんな「考えない」人たちを見るにつけ、自分自身は「考える」サラリーマンであり続けたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 世界史を変えた新素材 (新潮選書) - 佐藤 健太郎  本日は、お日柄もよく (徳間文庫) - 原田マハ




2019年2月24日日曜日

決断の正体

ネットの記事で、興味深いものを見つけた。『結婚できる人とできない人の差は、容姿や経済力ではない“決断”できるかどうかだ』というものである。記事では、お見合いをした人が、紹介を受けて最後に「結婚に向かう意思があるかどうか」を問われた際、「年齢や年収を理由に躊躇する」という例を紹介している。お見合いである以上、それらは最初からわかっていたこと。なのにそこで躊躇するのは、結局「決断力がないから」だとしている。

著者の主張はシンプルで、「結婚は決断」だというもの。人生は計画通りにはいかないもの。どんなに慎重に考えても100%思い通りにはいかない。石橋を叩いても、最後に渡る決断ができない人は結婚はできない。結婚できた人は、どこかで「決断」できた人だという主張はその通りだと思う。我が身を振り返ってもその通りであると思う。と言うより、自分の場合はもう少し考えて諦めずにいればよかったと深く後悔している。

それはともかく、著者の主張を読んでいて、もう一歩の踏み込みがないように感じたのも事実である。それは「決断できない理由」である。お見合いでは、事前段階で相手の年齢も年収もわかっている。それで実際に相手と会ってみた結果、年齢や年収を理由に「決断」できないのは、年齢や年収が「本当の理由」ではないということではないかと思う。本当の理由は、たぶん本人にもよく説明のできない「なんとなく」という理由ではないかと思う。

人間は、相手を判断するのに、年齢や年収などのスペックで判断するわけではない。見た目とか、話をしている時の雰囲気だとか、ちょっとしたしぐさなんかで印象が変わる。好きでも嫌いでもなく、大して心が動かない異性というのはいくらでもいるわけで、そういう相手と結婚するかと問われれば、結婚に焦っていない人なら即答で断れるが、誰かと結婚したいと思って探している人なら誰だって煮え切らない態度になるだろう。他にも同条件でもっといい人がいるかもしれない(いないかもしれない)。そんな心境なところに、「どうですか?」と問われれば、上手く説明できない感情を無理に説明するのではなく、手っ取り早く「条件」に難を示すのはありうるパターンだと思う。

その昔、女性に振られてばかりいた20代、どうすればいいのだろうかと悶々としていた時期があった。振られた理由を知りたいと思ったが、教えてくれることはなく、振られるのは仕方ないがせめて理由を教えてくれれば次へと活かせるのにと思ったものである。今から思えば、そんな理由を聞いても意味はないだろうと思うのだが、当時は「それさえ直せば」と必死だったものである。「優しい人が好き」と言われて優しくしても、好きになってもらえるものではないと今ではわかる。よく「好きな異性のタイプは」という質問を耳にするが、個人的にはそれに対する回答は血液型占いと同じくらいにしか信じてはいない。

おそらく、ではあるが、年齢や年収を理由に躊躇する人に、別の同条件の人を紹介し続けてみたら、案外ヒットしてあっさりOKを出すかもしれないと思っている。恋愛は相手の条件で生じるものではなく(まぁお金持ちのイケメンというだけで生じる人はいるかもしれないが・・・)、会って接するうちにいつの間にか生まれるものである。「この人!」と思う相手に巡り合った途端、それまでの「条件」なんかみんな忘れてしまうのではないかと思う。

結局、著者の言う「決断」とは、「まあこのあたりで仕方ないだろう」という「妥協」のことに他ならない。「年齢もこのくらいまでなら仕方ない」「年収もこの程度なら仕方ない」「容姿もほどほど」「性格も悪くなさそう」そういう平均点をかき集めて「妥協」するのが、お見合い結婚できる秘訣ではないかと思う。それを「決断」と言っているのに他ならない。そういう「決断」ができて結婚した人が幸せになれるかどうかはまた別の問題である。

仲人的な立場の人からすれば、そういう決断ができない人を責めたくなる気持ちはよくわかる。記事の趣旨もそんなところである。ただ、結婚するのが必ずしもいいとは思っていない立場からすると、人生で最大とも言える「決断」を安易にしないのもまた「決断」だと思わざるを得ないのである・・・




【今週の読書】
 残酷すぎる成功法則 - エリック・バーカー, 橘玲, 竹中てる実 日本国紀 - 百田 尚樹 When 完璧なタイミングを科学する - ダニエル・ピンク, 勝間 和代





2019年2月20日水曜日

論語雑感 八佾第三(その19)

〔 原文 〕
定公問。君使臣。臣事君。如之何。孔子對曰。君使臣以禮。臣事君以忠。
〔 読み下し 〕
問(と)う、君(きみ)、臣(しん)を使(つか)い、臣(しん)、君(きみ)に事(つか)うるには、之(これ)を如何(いかん)せん。孔(こう)子(し)対(こた)えて曰(い)わく、君(きみ)、臣(しん)を使(つか)うに礼(れい)を以(もっ)てし、臣(しん)、君(きみ)に事(つか)うるに忠(ちゅう)を以(もっ)てす。
【訳】
定公がたずねられた。
「君主が臣下を使う道、臣下が君主に仕える道についてききたいものだ」
先師がこたえられた。
「君主が臣下を使う道は礼の一語につきます。臣下が君主に仕える道は忠の一語につきます」
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ここでは主従関係にある者について、使う者と仕える者とのあり方について述べている。時代背景もあるから仕方がないことであるが、現在の国民主権、民主主義の世の中ではもはや封建的な意味での主従関係は存在しない。現代で似たような例をあげるとすれば、「雇用関係」であろうか。あるいはスポーツチームの監督(ヘッドコーチ)と選手との関係なんかがこれにあたるかもしれない。

個人的に興味深いと思ったのは、「君主が臣下を使う道は礼の一語につきる」というところである。「臣下が君主に仕える道は忠の一語」というのは比較的理解しやすい。我が国でも「いざ鎌倉」の精神から忠臣蔵まで、すべてを捧げて君主に尽くす姿が美徳とされてきた歴史がある。犬でさえも「忠犬ハチ公」が銅像になるくらいである。それは支配階級からしたら誠に都合の良い精神である。それだけに止まらず、君主が臣下を使う際の心得まで説いたところが興味深いと感じたところである。

質問をした定公とは、おそらく君主だろう。たぶん、「家臣の使い方」という意味で聞いたのかもしれない。あるいは、もっと大きな意味で「偉大な君主とされるためには」という観点から尋ねたのかもしれない。それに対し、君主も「礼」をもって接するべしと説いたものである。まぁ、君主だから生殺与奪の権利があるというわけではなく、ある程度の「使い方」があるというのは理解できるところである。

その君主のあるべき態度として必要なのは「礼」であるとしている。「礼」とはよくわからないが、思いやりのようなもののようであるから、要するに「愛情を持って接すべし」という事ではないかと思う。現代的な感覚から言えば当然だと思うが、当時の感覚からしてもそうであったのだろうかと、ふと思う。それはともかくとして、当時の専制君主であってさえも「礼をもって接すべし」と言うのであれば、現代においては尚更であろう。

雇用関係においては、最近「セクハラ」や「パワハラ」の概念が確立され、また一連の働き方改革で(臣下にあたる)労働者が守られるようになってきている。しかし、それ以前に雇用主(または上司)が、「礼」をもって(臣下たる)従業員(または部下)に接していれば、昨今騒がれているような過労死などの問題もなかったのではないかと思われる。そういう意味では、孔子の言葉は現代においても真理である。

一方の忠であるが、現代では「滅私奉公」も死語となりつつあり、雇用関係でそれを求めるのは時代錯誤的である。ひと昔前の「忠臣」たる「会社人間」も今では流行らない。しかし、それでも敢えて「忠」の精神は必要だろうと思う。「忠」と言っても、それは「人」に対するものではなく、言ってみれば「仕事」それ自体に対するものである。「プロフェッショナル意識」と言ってもいいと思うが、そうした「忠心」は今でも必要だろうと思う。

「自分はプロフェッショナルか」と問われれば、大概の人はそうだと答えると思うが、その実態はと言えば、
「言われればやる(言われなければやらない)」意識
「それは自分の仕事ではない」意識
「昨日と同じ今日を過ごして安心」意識
が至る所で目につく。

 現代のサラリーマン社会においても、「礼」も「忠」も共に上記の意味では重要である。いささか拡大解釈的ではあるが、そんなことをふと考えさせられた言葉なのである・・・




【本日の読書】
 残酷すぎる成功法則 - エリック・バーカー, 橘玲, 竹中てる実 日本国紀 - 百田 尚樹






2019年2月17日日曜日

日大悪質タックル事件に思うこと(その3)

日大タックル指示、200人聴取し映像解析で否定 刑事捜査は真逆の結論
日本大アメリカンフットボール部の悪質反則問題で、警視庁捜査1課は内田正人前監督(63)と井上奨(つとむ)前コーチ(30)による危険タックルの指示はなかったとし、日大の第三者委員会などの調査とは正反対の結論を導き出した。日大関係者ら約200人への聴取、試合映像など客観証拠の精査の結果、第三者委などが「指示」の根拠として挙げた関係者の証言や両氏の発言は、傷害の共犯、教唆を裏付ける材料にはならないと判断。捜査幹部は「グレーではなくシロ」と強調する。
2019.2.5 21:40
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 この問題は、私も当初から関心を持っていてずっと気にかけてきたが、とうとう「シロ」という結論が出たようである。前回のニュースでは、真相は藪の中で「グレー」という印象を持っていたが、捜査幹部が「グレーではなくシロ」と強調する以上、相当の自信があるのだろう。もともと「そんな(悪質タックルの)指示など出すだろうか」と単純に疑問に思っていたが、この結論の方がしっくりくる。

 そして思っていた通りマスコミはこの結論をおざなりにしか報じない。あれほど大々的にお昼のワイドショーなどでも繰り返し採り上げ、日大の内田監督と井上コーチを日本中に悪役としてのイメージを植えつけたのに、シロと判断されても名誉回復はしてくれない。そんなのニュースバリューがないから当然であるが、当人たちにとってみればあまりに酷い扱いだろう。なんとか救済手段があればいいのにと思う。

 当のご本人たちは、第三者委員会の「クロ」決定で解雇されている。「第三者委員会」はこうした不祥事があるとあちこちで組織され、なんとなく公平感のある人たちに思えるが、所詮は素人。マスコミによる「まっ黒」イメージから抜けられるものではなく、結局ワイドショーレベルの情報で結論を下しているわけである。ご本人たちはどんな言い訳をするのか聞いてみたいところである。おそらく、「警察ほどの調査能力はない」とでもいうのだろうが、それならそれで安易な結論を出すべきではないだろう。

ご本人たちも今さら「シロ」でしたと言われても、失ったものはあまりにも大きい。せめてニュースでもっと大々的に無罪告知してあげたらいいのにと思うが、そんなことは期待できないだろう。そもそもマスコミは、旬を過ぎてしまえば関心の欠片も持たないだろう。今さら無罪でしたなんて面白くもなんともない。報道の自由も大切であるが、この節操のなさは実に嘆かわしいと思う。これでも就活の時はマスコミ(それも報道部門だ)も考えたものであるが、やめておいて良かったとつくづく思う。

関西学院大アメリカンフットボール部は、悪質反則問題で当面中止とした日本大との定期戦について、「19年度は予定していない」という方針は変えていない。監督の指示はなかったとしても、日大選手の悪質なタックルでクオーターバックが負傷したのは事実であり、これはこれでやむを得ないだろう。ただ、「安全にできるか、何らかの検証が必要」と言っているらしいが、そんなことは不可能であり、「何を言っているんだか」と思わざるを得ない。「具体的にどうするのか」というイメージを持たずに、ただ理屈だけをこねるのはビジネスの現場でもよくあるが、こういう発想の人には本当に困らされてしまう。

個人的には、マスコミなんていい加減な集団で信用なんてカケラもできないと思っていて、それは100%間違いないと思っているが、それでも役に立つこともあると思っている。最近の児童虐待の報道など、その内容には顔を背けたくなるような酷いものであるが、それでも学校や児童相談所の問題点などが槍玉に挙がり、それで改善に動くのならそれはそれでいいと思う。マスコミとハサミは使いようだと考えれば今のあり方も仕方ないのかもしれない。

それにしても、先日観た映画『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』はいい映画であった。実話を基にしているが、ワシントン・ポストが政府の意向に逆らって報道の自由の下に政府のベトナム戦争に関する隠蔽を暴いたのであるが、こういうガッツは日本のマスコミにはないだろうなと、観ていてつくづくと思った。まぁ、そんな「ないものねだり」をしていても仕方がない。大事なのは、「自分はどうするか」である。

今回は、ラグビーと似たアメフトであるからこそ最初から「おかしい」と気がついたが、他の問題だったら疑問に思えたであろうか。自分としてはマスコミの報道はなんでも「おかしい」と思っていれば間違いがないと思っているが、それだけではなく、しっかりとした「批判の目」も持っていたいと思う。マスコミもひどいがそれに安易に操られる大衆の1人にはもっとなりたくない。

今回の「成果」を糧に、これからもマスコミの偏向報道からは自由な思考を持っていたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 残酷すぎる成功法則 - エリック・バーカー, 橘玲, 竹中てる実 日本国紀 - 百田 尚樹





2019年2月14日木曜日

音楽をイメージする

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫) - 恩田陸蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫) - 恩田陸

恩田陸の『蜜蜂と遠雷』を読んだ。あるピアノコンクールを舞台とした物語である。それぞれの出場者、そして審査員などの人々を描いた作品であるが、ストーリーの面白さに加えて驚かされたのは、音楽を言葉で表現する様子である。登場人物たちが奏でる演奏を言葉巧みに表現していく様は、読んでいてその場で音楽を聴いている気分にさせてくれるものであった。

小説自体はストーリーも面白く一気に読んでしまったが、今は便利な世の中で、作中で登場人物たちが演奏する曲をすぐYouTubeで再現できる。あまりのすばらしい「演奏」にすぐに聞きたくなってYouTubeにアクセスしたのであるが、その都度少なからず違和感を覚えたのである。その理由は簡単で、著者の言葉による「演奏」がいかに素晴らしいものであったとしても、実際に耳にする演奏がそのイメージにマッチしないからである。

そもそもであるが、音楽はイメージを伝えられるかというと、音楽に疎い私からすると、それは到底不可能な技にしか思えない。いくらビバルディの「春」を聴いたとしても、それはその曲がビバルディの「春」だとわかっているからなんとなく「春」というイメージが湧くものの、そうでなければ「春」というイメージはしてこない。事実、ビバルディの「四季」をランダムに聴いたら、たぶんどの曲がどの季節かすべてはわからない。また、ベートーベンの「英雄」を聴いても英雄の姿は浮かんでこないし、「ワルキューレの騎行」に至っては、脳裏に浮かぶのはヘリコプターだ。

以前、世界的に有名なピアニストの方に、演奏者によって同じ曲でも違うものなのかという素人質問をしたことがあるが、その時は「まったく違う」と断言された。同じ音符に従って演奏するならみんな同じになりそうなのであるが、そうではないという。素人の私としては、たぶん世界的に有名なピアニストが弾くショパンのノクターンとちょっと上手な音大生が弾く同じノクターンとを聴き分けられるかと問われれば、ものすごく自信がない。もしかしたら違いくらいはわかるかもしれないが、どっちがどっちかはわからないかもしれない。

ひょっとしたらGacktなら聴き分けられるのかもしれないが、音楽素人の私にはたぶん無理である。5,000円のワインと100万円のワインのテイスティングをしてもどちらがどちらかを味分けられないのと同じだろう。しかし、その違いを聴き分けられる人はいるわけで、だからこそ音楽家は世界的に有名になったりするのだろう。言葉と違って音楽には「翻訳」が不要である。聴く人が聴けば一発で「珠玉の演奏」を聴き分けられるのであろう。そしてそういう人たちは、脳裏にその曲がイメージしているものが浮かぶのかもしれない。

そんな「耳」を持てたらと思わざるを得ない。『蜜蜂と遠雷』では、登場人物たちが自分の中にあるイメージをさまざまに演奏で表現する。おそらく、プロの演奏家はみんなそうなのであろう。しかし素人は哀しいかな、曲名が思い出せずに鼻歌で表現しようとしても、「何それ?」と簡単に言われてしまう有様なので、それは実に遠い世界である。ただ、実は「聴く耳」くらいなら、鍛錬で名演奏を聴き分けられるレベルくらいには行けそうな気がする。それは専門家ではない小説家の百田尚樹も本(『クラシック天才たちの到達点』)を出せるくらいになれるのだから、数多く聴いていけばある程度のレベルにはなれるのかもしれない。

クラッシックは昔から好きで、CDもいくつか持っているが、それほど聴き込んでいるわけではない。ただ、『蜜蜂と遠雷』のような世界を味わえるのであれば、これから少し時間を取って聴いてみようかと思ってみたりする。恩田陸が描いた音楽の世界に少しでも近づけたら、自分の世界も少し広くなるのではないかと思う。そんな世界を是非とも体感したいと思うのである・・・




【本日の読書】
 残酷すぎる成功法則 - エリック・バーカー, 橘玲, 竹中てる実 日本国紀 - 百田 尚樹






2019年2月11日月曜日

娘のアルバイト

娘がアルバイトを始めた。高校も卒業間近となり、時間ができてきたこともあるが、そろそろもっと小遣いがほしくなったのかもしれない。かく言う自分も考えてみればいろいろなアルバイトをしてきたものである。初めてのアルバイトは、中学を卒業し、高校へ入学する前の春休み。近所に住む親方に雇ってもらって建設現場でのお手伝いであった。以来、本屋、家庭教師、築地魚河岸、ひよこのお菓子販売、水道工事等々とこなした記憶がある。

そうしたアルバイトの第一の目的は小遣い稼ぎであった。なにせ初めてアルバイトをして稼いで以来、親に小遣いをもらうのをやめてしまったから、いやが応にもアルバイトをしないと小遣いがなかったのである。別に親に強制されたわけではないのだが、自主的に自分で稼げるのだからもらうのはやめようと思っただけである。今から振り返ってみても、我ながらなかなか感心な息子である。

娘のアルバイトは飲食店。近所に新規オープンしたチェーン店である。なぜ飲食店なのか、その真意はわからないが、サインを求められた履歴書には接客が好きと書かれていた。そういえば、自分も人と関わるのが好きだと表明していた時期があったなと思い出す。今では新しい人と知り合うのは面倒でたまらない。「人見知り」だからだろうと思っているが、自分だったら選ばないバイトだと思う。

実は私も4年前にアルバイトの経験がある。転職にあたり2ヶ月ほど無職の期間が生じたのだが、転職活動以外は暇な時間が多く、「だったら稼げば」という妻の「後押し」もあってアルバイトに応募したのである。今はネットで簡単に応募できるが、選んだのは「軽作業」であった。黙々と作業していれば楽でいいなと考えたのである。事実、周りの人と余計なコミュニケーションを取る必要もなく、またそこで働く人たちの人間観察もできてなかなかいい経験であった。

アルバイトをするにあたり、娘には2つのことを伝えた。すなわち、「時給以上の仕事をすること」と「挨拶と返事ははっきりと」である。私の時には誰もそんなことを言ってくれなかったが、働くにあたっては最も大事な基本だと思う。「時給以上の仕事をする」と言うのは、一見損するようにアルバイトの立場からすると思うかもしれない。ただ、それは目の前しか見ていない。「時給以上の仕事」をしていれば、使う方も「もっともっと」と思うようになるだろう。「もっとやってもらおう、そしてもっと払おう」と。

「下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そしたら誰も君を下足番にしておかぬ。(小林一三)」とは、私の好きな言葉の一つであるが、時給以上の仕事をしていれば一段上の仕事を任されるようになるかもしれない。かつて父が丁稚奉公をしていた時代、根っからの真面目人間だった父は、他の人のように上手に手を抜くと言うことをせずに真面目に仕事をこなしていたそうである。そうしたら、それを見ていた社長の奥さんが時々こっそりと小遣いをくれたそうである。父を見ているとそのシーンがありありと脳裏に浮かんでくる。時給以上に働いたとしても、それは決して損にはならないと思う。

挨拶と返事は言わずもがな。人間は何よりコミュニケーションが大事であり、挨拶と返事は基本中の基本である。挨拶と返事がきちんとできれば、うまくいけば周りに可愛がってもらえるだろうし、それで損をすることはまずないだろう。コミュニケーションが苦手な父としては、せめて娘には同じ苦労をしてほしくないと思う。ただ、そうは思うものの、当の娘にはどのくらい響いているだろうかとも思う。自分も長い経験を経てこの境地に至ったところもあり、娘にはどこまで実感として伝わるのだろうかと思うところである。

今の所、娘は楽しく職場に通っている。レジを打ったりオーダーを取ったり、付け合せのサラダを作ったり、皿洗いをしたりとその日によって作業は異なるようであるが、まだ嫌な思いはしていないようである。いずれそういう経験もするだろうが、今のうちにいろいろと経験するといいと思う。娘の働いているところを見に行きたい衝動にものすごく駆られているが、それはぐっと我慢し、しばらくは帰ってきてから会話をしながら応援していきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 非才!: あなたの子どもを勝者にする成功の科学 - マシュー サイド, Syed,Matthew, 浩生, 山形, 桜, 守岡 魔力の胎動 (角川文庫) - 東野 圭吾





2019年2月9日土曜日

最近目についた「ちょっとしたこと」

 先日、両親がガラケーをスマホに買い替えた。不慣れな両親に成り代わって、店頭で手続きをしていると、あるお客さんがやってきて何やら購入した商品の返品を申し出た。応対した店員は「できません」と回答。すると持ち込んだ人が「なぜだ」と問答になった。「何とかというのがあるから、1週間以内なら返品できるはずだ!」とお客さん(それは「クーリングオフ」ですよとこちらも心の中でアドバイスする)。すると、店員さんは「わかりました」と商品を受け取り返金していたが、勝ち誇ったお客さんは、さらに「何でできないなんて言ったんだ」と畳みかける。「すみません」と応じる店員。一通り文句を言ったお客さんは、言い負かして満足したのか帰って行った。
 
 「適当な事を言うな!」とお客さんは言い残して言ったが、そもそも「クーリングオフ」は(その人はその言葉すら覚えていなかった)、訪問販売等の契約に適用されるもので、要は通常の判断ができない状況下にある消費者を守るためのもの。店頭販売商品には原則当てはまらない。返品に応じるか否かはあくまでもその店舗の裁量である。言った方も言われた方も不勉強であるが、返品ルールくらいは店内で周知されていないのだろうかと聞き耳立てながら思ったのである。
 
 会社で所有しているマンションの理事会で、マンションで契約している有料テレビサービスの解約について検討されたらしい(と報告があった)。検討に際し、当然のことながら、マンション全体で利用者がどのくらいいるのかについて知る必要がある。そこで管理会社が先回りして事前に有料テレビサービスの提供会社に問い合せしたらしいところ、「プライバシー」を理由に断られたということであった。その話を聞いていて、「わかっていないな」と感じた。

 「プライシー」とは個人に関する情報のことである。たとえば「〇号室の〇〇」というようなものである。「誰が契約しているのか?」と聞いたのであれば、「プライバシー(あるいは個人情報)」を理由に断るのは当然であるが、「マンション全体で何件契約しているのか?」は個人情報ではない。教えなければならない理由はないとしても、少なくとも「プライバシー」という理由は当てはまらない。質問した管理会社の担当者も答えた相手も「個人情報」って何なのかわかっていない。
 
 先日、突然警察から連絡があり、会社で管理している物件の防犯カメラの映像を見せて欲しいという依頼があった。こちらに異論があるわけでもなく(協力するのは市民の義務である)、会社に来てもらって見ていただいた。カメラはインターネットを利用して見るタイプのもので、IDとパスワードがあればどこでも見られる。会社の事務所内で長々と見るのも大変だろうとIDとパスワードを渡したらという考えもあったが、いくら警察でも「捜査に関係ない」映像まで見せる必要はない(と言っても「捜査に関係ある」かないかはこちらにはわからないが・・・)。それに一応、カメラの映像も個人情報である。という判断で、事務所内で見ていただくだけにとどめておいた。

 仕事で必要な知識はきちんと身につけておきたいのは当然であるが、すべてというわけにもいかない。そんな時、必要なのは「原理原則」がわかっているかということ。それがわかっていれば、何をどうすれば良いかということもわかってくる。そうしたことを一々覚えるのは大変であるが、日頃からちょっと考える癖をつけておくといいのではないかと思う。「そもそも○○とは」、「これはなぜこうやるのか」、「この場合のリスクは何か」等々いろいろあるが、漫然とやっていては気がつかないことをちょっと突っ込んで考えてみるようにしてみると自然と身につくのではないかと思う。

 仕事で取引先から書類が送られてきた。捺印して返送するにあたり、返信用の封筒を見たら「〇〇行」となっている。クラス会の案内などでもらう往復はがきにも同じような表示があって、普通はこれを斜線で消して「様」と付け加えて投函する。日本的な奥ゆかしい慣習である。私は、個人で相手の顔が浮かぶようなもの以外はいつも何もせず投函している。なぜならそんな手間暇が惜しいからである。自分宛てに「様」をつけるのは尊大だという考え方だろうが、その裏返しに相手に手間暇をかけさせることになる。自分がへりくだることと、相手に手間暇をかけさせることのどちらを選択するのか。

 普通に考えれば、相手によけいな手間暇をかけさせるべきではないと思うが、我々の「謙譲文化」はそれを良しとしない。私だったら相手がそのまま投函できるように最初から「様」とするのが親切だと思うが、世間的には受け入れ難い考え方かもしれない。へりくだって「行」と表示し、わざわざ斜線で消して「様」とする。それはそれで一つの文化としていいのかもしれない。そう考えて知り合い向けのものは「様」と訂正し、企業宛のは何もせず投函することにしている。それが自分たちの文化だし、それを受け入れたいと思うのである。

 日頃から何にでも好奇心あるいは興味を持つようにしたいと思っている。それが思考訓練にもなるし、必要な判断を間違えることも避けられる。「考える葦」である以上、そういう心構えでいつもいたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 非才!: あなたの子どもを勝者にする成功の科学 - マシュー サイド, Syed,Matthew, 浩生, 山形, 桜, 守岡 魔力の胎動 (角川文庫) - 東野 圭吾





2019年2月4日月曜日

論語雑感 八佾第三(その18)

〔 原文 〕
子曰。事君盡禮。人以爲諂也。
〔 読み下し 〕
子(し)曰(い)わく、君(きみ)に事(つか)うるに礼(れい)を尽(つ)くせば、人(ひと)以(もっ)て諂(へつら)いと為(な)すなり。
【訳】
「君主に仕えて礼をつくすのは当然だ。然しかるに世間ではそれをへつらいだという」
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 これはなかなか難しいことだと直感的に思う。なぜなら君主に仕える家臣としては、君主の指示に的確に応えるのがその役割であるが、時に傍から見ればそれは好ましくない姿に映るからである。「ゴマスリ」、「太鼓持ち」等々という陰口がある所以である。現代でもすぐに思い当たるのはサラリーマンだろう。上司に媚びへつらう者はよくいるし、「イエスマン」という言葉は必ずしも誉め言葉ではない。

 しかしながら、現代の企業でも経営者の指導の下、一丸となって目標達成に邁進するのは本来のあるべき姿であるし、経営者の意図を確実に実現していくのが部下たる者の務めである。ならば当然「イエスマン」でなければならないわけで、それを批判するのは「お門違い」なわけである。では批判するのがおかしいのかと言えば、必ずしもそうとは言い切れない。中には「媚びへつらい」だけと思われる人物だっているからである。

 ではその違いはなんなのだろうかと考えてみると、それは仕える人の「確たる信念」とでも言うべきものであるのではないかと思う。自分というものがしっかりとあって、それで仕えている人は、ただ上司の顔色だけ窺っている者とは明らかに違う。時に積極的に意見具申し、反対意見でもきちんと言える。そういうところがなくて、ただ言われるがままだと「腰巾着」と言われても反論はできないだろう。

 かつて内閣官房長官を務めた後藤田正晴は、後藤田五訓を残した。その中にあるのは、「勇気を以って意見具申せよ」、「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」であるが、まさにこの態度であろう。たとえボスであろうと、間違っていると思ったのならそれを率直に言うべきだし、それでも尚且つ最終的にボスの命令が下ったのならそれを実行しなければならない。心の中で違うと思っていても、それを表に出すことなく面従腹背する態度こそが「媚びへつらい」と批判されるべきである。

 ただ、そうした面従腹背も、わからなくもない。なぜなら、積極的に意見具申すると言っても自分の意見(に自信)があってこそのところはある。自信がなければ黙って従うに越したことはない。面従腹背の人物像となると、現実的にはスネ夫みたいなずるい人物というよりも、自分に自信のない人が大半な様な気がする。そういう人物が、下手に中間管理職になったりするとこのパターンになることが多いのではと思う。かつて銀行員時代に仕えた上司にもこういう人が多かったものである。

 では、後藤田五訓を地で行くような「正統派イエスマン」になるにはどうしたら良いのだろうか。それは絶えざる訓練だと思う。何をやるにしても常に「これでいいのか、どうするべきか」を考え、そして意見を発信する。たとえ反論にあっても前向きに冷静に捉え、臆せず続ける。それを繰り返すしかない。そうするうちに、自分の意見を言うのが普通になってくる。そういう「正統派イエスマン」なら、たとえ陰口を叩かれたとしても、それはもはや「妬み」でしかない。

 孔子の時代も例えば官僚組織などは、やはり今のサラリーマン社会のような組織だったのだろうか。そしてやっぱり君子の覚えめでたい者はやっかみを込めて「ゴマスリ野郎」のような陰口を叩かれていたのだろうか。そうだとしたら、人間社会は時を経ても場所を経てもあまり変わらないものだと言うことができる。実際はどうなのであろうか。ただ、たとえそうだとしても、自分はやっぱり確たる信念を持って、「正統派イエスマン」でありたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 非才!: あなたの子どもを勝者にする成功の科学 - マシュー サイド, Syed,Matthew, 浩生, 山形, 桜, 守岡 蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫) - 恩田陸






2019年1月31日木曜日

『ラブ・ネバー・ダイ』観劇雑感

ミュージカル『ラブ・ネバー・ダイ』を観てきた。基本的に私は映画好きであり、昨年だけでも年間176本の映画を観ているが、その一方でミュージカルも結構好きであり、折に触れ観に行っている。今回は久しぶりに、そしてあの『オペラ座の怪人』の続編ということで、かなり期待しての観劇であった。

観終わった感想としては、残念ながら少々「期待値に及ばず」というものであった。まぁもともと期待値が高すぎたのかもしれないが、その期待値を大いに挙げたのは、前作がストーリーも、そして音楽も非常に素晴らしかったというところがある。才能はあるものの醜い容姿から仮面を被って人前に出ることを憚っていた怪人が、美しき歌姫に恋するという悲恋もの。醜い男の悲しい恋と、心揺さぶられる音楽とが見事にブレンドされた傑作であった。

『ラブ・ネバー・ダイ』は、その10年後という設定であったが、どうにもその10年間の断絶に、前作との違和感が拭えないストーリーなのであった。その最大のものはストーリーの連続性。前作では心を動かされたものの、ヒロインのクリスティーヌは結局ラウルという子爵を選び、怪人は傷心のまま姿を消していた。しかし、本作ではいつの間にか怪人とクリスティーヌとは、10年前に結ばれていたということになっていた。ラウル子爵はギャンブルに溺れ、借金苦を抱えたダメ男になりさがり、そこに「かつての恋」が再燃するというもの。「そうだったっけ」という違和感がずっとついて回ったのである。

醜い男と美しい女という組み合わせの物語は、『美女と野獣』を筆頭に数多いが、よくあるパターンは「醜くても心は錦」という男の姿。そしてそれに気がつく女の美しい心。だから『美女と野獣』では、最後に呪いが解けてイケメン王子に戻ってハッピーエンドというものだった。おとぎ話ならそれでいいが、現実的にはイケメンになることはない。しかも、ここに登場する怪人は脅したりするのも平気で、どうも「心がきれい」とはいい難い。それはともかくとして、前作との断絶がどうしても違和感としては拭えない。

さらに、ミュージカルであるから、ストーリーに多少難があったとしても、音楽がそれをカバーできるということもあるが、今回は音楽面でも期待値に及ばなかったと個人的には感じたのである。前作は、劇中で歌われる歌も流れる音楽も「何度も聞きたい」と思わされるもの。迷わずCDも購入して聞き込んだが、今回は怪人がクリスティーヌにたった1曲だけ歌わせようとした歌も、それほどでもなかったのである(ダメだったというわけではなく、多分期待値が高すぎただけだろうと思う)。

映画であれば、ストーリーに難があればそれまでだが、ミュージカルはそれだけではない。実際に目の前で演じる役者たちの演技や、舞台袖のオーケストラが奏でる音楽。そして様々に変化する舞台装置との動きが相まって、それは見事な舞台であった。映画であれば場面転換など問題ないが、ミュージカルは一つの舞台で、時に港、時に劇場の部屋、さらに舞台裏や海岸、夢の中まで様々表さないといけない。照明や大道具や舞台装置など、役者の演技と音楽とに合わせた動きは、舞台装置担当者もかなり大変なのではないかと想像させられる。

目の前で一体として展開される舞台は、見入っているうちに別世界へと連れて行ってくれる。これが生の舞台の迫力だと思う。映画の5倍の料金も頷けるというものである。いつもはしつこいくらいに繰り返されるカーテンコールがあっさりしたものだったのは、出演者に子供がいた(子供とは思えない演技力だった)ことが関係しているのかもしれない(終演時間は9時ギリギリだった)。これはこれで個人的にはありがたかった。

全体としては、期待値には及ばなかったものの、料金に見合う楽しいひと時であったのは確か。次はまた別の作品にしようか、それとも一度観た作品をそろそろもう一度観てみるか。いずれにしてもまた次回を楽しみにしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる 学ぶ人と育てる人のための教科書 - 落合 陽一 蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫) - 恩田陸





2019年1月27日日曜日

成人誌

セブンとローソン、成人誌の販売中止へ 8月末までに
朝日新聞DEGITAL2019年1月21日
 コンビニエンスストア大手のセブン―イレブン・ジャパンとローソンは21日、国内の全店での成人向け雑誌の販売を8月末までに原則中止することを明らかにした。女性や子ども、訪日外国人客らに配慮する。日本の多くのコンビニの店頭から成人誌が消えることになりそうだ。
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職場では昼のランチは主にコンビニ弁当である。ゆえに、コンビニ(主としてセブンイレブン)には多い時で週5回通っている。行けば弁当コーナーにまっしぐらなのであまり意識していないが、多分いつも行く店舗にも成人誌が置いてあるように思う。「あるように思う」という自信のない表現は、あまりしっかりと見た記憶がないからである。雑誌の類はチラ見しているが、成人誌には見向きもしないので、記憶の片隅に残っていないのである。

「成人誌には見向きもしない」というと、何やらカッコつけているように思われるかもしれないが、事実である。その理由は2つ。1つはもちろん興味がないわけではないが、「人前でそうしたものを眺めているところを見られたくない」という羞恥心というかプライド。やっぱりどう見てもカッコ悪いだろう。もう1つは、そうしたものを見たければ、今やネットでもっと過激なものをいくらでも見られるからである。わざわざ人前で、「規制のかかった中途半端なもの」を見るメリットはカケラもないのである。

なので今回、セブン-イレブン・ジャパン、ファミリーマート、ローソンが成人誌の販売を今年8月をめどにやめると発表したニュースは意外な気がしたものである。なぜ成人誌の販売をやめるかというと、訪日外国人客の増加や女性客、子供などに配慮したとのこと。これはつまり、「イヤイヤながら」「仕方なく」やめるということである。日常的に商品の入れ替えは行われているだろうし、いちいち発表などしないだろう。それを発表するということは、アナウンス効果も狙っているわけである。販売に対する批判への回答ということだろう。「仕方なく」やめるということは、つまり「売れている」ということなのだろう。

 事実、成人誌はコンビニ店にとっては重要商品らしい。それはまず単価が高く(コンビニで売られている成人誌は1,000円にのぼることも多いらしい)、さらに「ついで買い」も誘発するらしい。要は買う人もさすがにそれだけ買うのも気まずいのか、新聞やジュースなどと一緒に買うようである。思わず「へぇぇ」である。では一体どんな人が買っているのだろうか。それは多分、インターネットをほとんど利用しない人なのではないかと想像する。なぜなら、今やちょっと検索すれば、1冊の雑誌以上に見きれないくらいの情報が手に入るからである。
 
 インターネットを利用しない男性像といったら、おそらく年配の肉体労働系かと想像してしまう。仕事帰りにビールとツマミと合わせて買って行く姿が想像できる。それにしても、そういう人は8月以降どうするのだろうか。本屋で買うとなれば、町の本屋さんはありがたいかもしれない。ただ、「ついで買い」によるごまかしが効かないので、買いにくいかもしれない。羞恥心を紛らわせるといえば自販機だが、最近あまり見かけないが、それがよもや復権するのだろうか。

自販機と言えば、その昔、昼間は光の加減で見えないが、夜になると中身が見られる自販機があった。かくいう私も高校生の頃、酔った勢いで友達と一緒に買った記憶がある。今はほとんど見かけないが、コンビニでの取り扱いが増えて減ったのか、近所からの苦情なのかはわからないが、それが復権するというのもありえなさそうである。手っ取り早いのはAmazonだが、そもそもネットを使わないおじさんたちには論外だ。となると、もう肉体系労働者(と勝手に想像している)のおじさんたちは成人誌を買えなくなってしまうのかもしれない。

考えて見ると、成人誌というのは買うのも恥ずかしいし、持っているのを見られるのも恥ずかしい。私もかつては「保管」に苦労した口である。弟は母親にバレて怒られていたが、私は一度としてそんなヘマはしなかった。だが、買うのには苦労した。ネットではその「買う」苦労も「保管する」苦労も不要である。若者はスマホを持っているのが当たり前であるだろうから、そうすると成人誌も遅かれ早かれ廃れていく運命にあるのかもしれない。

その昔、成人誌は少年にとって禁断の入り口にあるものだった。見てみたくてもなかなか見ることができないシロモノであった。本屋でその手のコーナーを通りすがりにチラ見するのが精一杯であった。ある時、親戚の家にあった成人誌を従兄弟と2人でドキドキしながら読んだ記憶がある。登場人物の名前の読み方がわからなくて2人で頭をひねりながら見ていたのは、遠い日の懐かしい記憶である。今から思うと大した「情報量」ではなかったが、それでも少年の目には禁断の書物の甘みがあったものである。

考えてみれば、そういう雑誌を見なくなって随分久しい。一度読んでみたいと思わなくもないが、いつも行っているコンビニでそれを買う勇気はない。そう考えて見ると、今でも成人誌は近くて遠い存在なのかもしれないと思うのである・・・




【今週の読書】
 マンガーの投資術 - デビッド・クラーク, 石川 由美子, 林 康史 4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した - マイケル・ボーンスタイン, デビー・ボーンスタイン・ホリンスタート, 森内 薫





2019年1月23日水曜日

我が国の道路政策

実家が何年も前から立退きの話で揺れ動いている。そもそも両親が現在の実家を買って引越したのは昭和55年(1980年)のこと。当時すでに道路の建設予定があるということはわかった上での購入であった。道路計画と言っても、それは昭和21年に計画されたもの(特定整備路線放射第二号)である。既に当時で30年以上経過していたし、両親の間でも、「いつになるかわからない」、「もう建設されないのでは」なんて話が出ていたのをぼんやりと記憶している。

それが何と実現に向けて動き出したのである。さて、困ったのは両親。立退きと言われてもどこに行けばいいのかという問題がある。提示された補償金については、金額的には普通に売却するよりはいい金額ではないかと思うが、それほど突出しているわけではない。代わりの家と言っても、近所で探すとなると、とうてい保証金では賄えない。郊外へ目を向ければ十分可能だが、両親(特に母親)は年老いて誰も知り合いのいないところへ行くのは嫌だと言っている。お金よりも今のまま住み続けたいというのが両親の希望である。

そもそもであるが、昭和21年3月に立てられた道路計画にどれほどの有効性があるのかは大きな疑問である。これには敷地内を道路が縦断することになっている星薬科大学も陳情書の中で訴えている。確かにその通りだろう。なんてったって70年も経てば周囲の状況も大きく変わっているわけで、それを「計画道路だってわかっていたでしょう」という理屈で推し進められてもという思いはする。

実家の近所では、「ゼネコン陰謀説」がささやかれている。曰く、「仕事が欲しいゼネコンが政府に陳情して仕事を作ってもらった」というものである。もっともらしいが、今はオリンピックやリニア新幹線や高速道路の補修やらいろいろある中で、この説にどこまで信ぴょう性があるかは疑わしい。ただ、70年を経て突然計画が動き出した理由は興味あるところである。もしかしたら、役所の方でただ順番として何も考えずに埃をはたいて引っ張り出して来たのかもしれない。

何回か説明会が開催され、私も両親とともに出席してきた。ただ、それはあくまでも「説明会」であって、住民の意見・希望を聞く会ではない。住民から反対意見が出ても、役所は「実施する」という前提で資料をそろえて説明し、質問に答えるべく来ているわけで、事情を聞いて考え直してくれるという立場ではない。それをわかってかわからずか、切実に移転したくないという思いを訴える人がいたのが印象的な説明会であった。

道路建設及びそれに伴う住民の立退きという問題は大きな問題であり、推進する行政側も大勢の関係者からなる組織で動いている。つまりそこに個人の感情が入り込む余地は少ないわけで、一旦動き始めると、ゆっくりではあっても確実に進むことになる。説明会に来ていた担当者たちも、切実な訴えを聞いて、たとえ心を動かされたとしても、組織の中では一歯車として全体の動きに加わらなければならない。抵抗はほとんど無駄である。

立退き条件の交渉に来た担当者も、あくまでも「立退き条件の交渉」で、「立退き交渉」ではない。立退きは嫌だと言っても、どうなるものではない。担当者の人は、さすがに年老いた両親に同情してくれたが、かと言って「では立ち退かなくて済むように上司に掛け合ってみます」なんて言ってくれるわけもない。せいぜいが、あれこれと理由をつけて立退きに伴う補償金額を上乗せしてくれる程度である。

それに住民側も一枚岩ではない。既にお金をもらって立ち退いてしまった人が何人もいて、「道路予定地」の看板が掲げられた空き地が既にあちこちにある。中には喜んでいる人もいるだろう。私も両親の住む実家だからあれこれと困っているが、空き家となった実家だという人なら、実家がなくなる寂寥感はあったとしても、現金化できて良かったと思うかもしれない。すべてはタイミングであり、それぞれが抱えた事情である。

それにしても、70年目の道路建設はやっぱり不可解である。立退きはやむを得ないとしても、実行に至る意識決定のプロセスにはとても興味がある。今度関係者に会う機会があれば、ダメもとで聞いてみようと思う。
立退き反対の両親の希望の光は、陳情に立っている星薬科大学である。個人のささやかな抵抗と比べれば、行政に対するインパクトはずっと強いだろう。何とか頑張っていただいて、両親の立退きが少しでも先延ばしできればと思うのである・・・

【関連記事】 


       


【本日の読書】
 リンカーンのように立ち、チャーチルのように語れ 聞く者の魂を揺さぶるスピーチテクニック21 - ジェームズ・ヒュームズ, James C. Humes, 寺尾まち子 マンガーの投資術 - デビッド・クラーク, 石川 由美子, 林 康史 おもかげ (講談社文庫) - 浅田次郎







2019年1月20日日曜日

論語雑感 八佾第三(その17)

〔 原文 〕
子貢欲去告朔之餼羊。子曰。賜也。爾愛其羊。我愛其禮。
〔 読み下し 〕
貢(こう)、告朔(こくさく)の餼(き)羊(よう)を去(さ)らんと欲(ほっ)す。子(し)曰(い)わく、賜(し)や、爾(なんじ)は其(そ)の羊(ひつじ)を愛(おし)む、我(われ)は其(そ)の礼(れい)を愛(おし)む。
【訳】
子貢が、告朔の礼に餼羊をお供えするのはむだだといって、これを廃止することを希望した。すると先師はいわれた。
「賜よ、おまえは羊が惜しいのか。私は礼がすたれるのが惜しい」
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こういうケースは現代でもよくあるのではないかと思わされる。なんとなく伝統的に続いてきたことだが、今ではなんのためにやっているのかという意識が薄れ、コストもかかるからやめてしまおうというようなことである。「告朔の礼」がどんなものかはわからないが、わざわざ羊を犠牲にまでしてやる意味があるのかという弟子の問いに対し、孔子が戒めているのである。目先のコスト(羊)に囚われて大事なことを失ってはいけないと。

ここでは弟子の子貢が愚かだったのではなく、そこにあるのは師と弟子との「視点の違い」だろう。弟子の子貢の目には、よくわからない儀式に羊を犠牲にするのはいかがなものかと映ったのであり、師にしてみれば、羊の犠牲には比較できない意義が「告朔の礼」にはあると考えていたのである。今の我々の環境において考えてみると、そこには気づかされるものがある。

まず子貢の立場から考えた場合、自分だったらまずそもそも「告朔の礼」にどんな意味があるのかを考えてみるだろう。ずっと続いてきた儀式であれば、そこにはなんらかの意味があるものだと考えるのが普通である。わからなければ分かる人に聞く。そうして問いかけてみれば、実はもう意味などなくなっていて、惰性でやっているということがあるかもしれない。そうすれば廃止を訴えればいいわけであるが、逆にきちんとした意義があることがわかるかもしれない。

私も今の会社に転職してきた際、いろいろと疑問に思うことがいくつもあった。疑問に思うものは、どんどん質問していったが、中にはベテランの人でもうまく答えられなかったり、実はもう意味をなさないものもあった。そうしてやり方を改めたものもあったし、続けるにしても改めてみんなでその意義を確認しあったりしたものもあった。そうしていろいろなものを見直してきたが、1つ例を挙げれば顧問契約である。

月々定額の顧問契約を支払っている専門家がいたのであるが、私は早々にこれについて疑問を持ったのである。「どういう効果(成果)が期待できるのか」と。会社も赤字だったし、月々の顧問料もバカにならない。いろいろとヒアリングした結果、すでに当初契約した意義は無くなっており、さらに今後も成果は期待できないと判断できたので、それは打ち切った。代わりに建築士と弁護士と顧問契約を締結している。こちらは技術的なアドバイスが期待できるし、いざ案件となった時に優先的に対応してもらえる。月によっては顧問料を払っても何も相談事項がない時があるが、だからと言って無駄とは言えないのである。

次に孔子の立場からであるが、もしも私が孔子の立場だったら、ただ黙って指示だけ出して何かをやらせるのではなく、事あるごとにその意義を伝えるだろう。人間、無駄なことをやらされていると思う時は生産性も低くなる。我が社でも期初には前期の決算の成績や今期の目標を全員に説明している。ルーティーンワークでないものを指示する場合には、なぜそれを会社としてやるのか(そしてあなたに担当してもらうのか)を説明している。孔子も日頃から「告朔の礼」の意義を子貢に説明していたら、上記のやり取りは生じなかったであろう。

結局のところ、どこに視点を合わせるかによって考え方は変わって来る。コストに目を向ければ、何も相談することがない月にも顧問料を払うのは無駄だとなる。しかし、視野を広くして、大事なところで優先して動いてもらうために親密な関係を維持するという考え方に立てば、スポットで見れば無駄な費用も無駄ではない。孔子も「礼」の維持という観点から見れば、羊の犠牲も無駄ではないと考えたのであろう。

それぞれ違う視点があるということを理解するとともに、会社のようにある目的を共通する組織においては、「視点を共有する」ということも大事であると思う。そんなことを改めて認識させてくれた論語の言葉である・・・




【今週の読書】
 リンカーンのように立ち、チャーチルのように語れ 聞く者の魂を揺さぶるスピーチテクニック21 - ジェームズ・ヒュームズ, James C. Humes, 寺尾まち子 おもかげ (講談社文庫) - 浅田次郎






2019年1月16日水曜日

役員心得

銀行員時代、多くの中小企業経営者とお付き合いしてきたが、経営者の方の多くがお悩みだったのは、「人材がいない」というものであった。実際、中小企業に転職してきて思うのは、それは能力云々というより、「経営マインドを持った人間がいない」ということだと理解できた。「経営マインド」とはすなわち、「会社を経営する立場で考える」ということである。これは何も社長だけに限ったことではなく、役員も然りである。

「人材がいない」と嘆く社長さんの会社に役員がいなかったわけでもないだろうが、形の上では役員であっても、一般社員と変わらなかったということだろう。これはつまり、役員であるにも関わらず、経営マインドを持っていなかったということである。そういう役員はどんな行動をするのかというと、「言われたらやる」「聞かれたら答える」といったレベルだろう。経営マインドがあれば、「言われなくてもやる」し、「聞かれなくても意見具申」するだろう。

たとえば、10人くらいでみんなでご飯を食べに行くとする。よくあるのが、「何を食べようか」となり、みんなに意見を聞くと「何でもいい」と言って顔を見合わせるような場合だ。その時、「では中華にしよう」と提案できるのが、たとえるなら経営マインドを持った人物と言えるだろう。チームの行く道を提案できることである。先の中小企業に例えると、「中華にしよう」という人がいないのである。社長は常に1人で何を食べに行くか決めている状態で、それは当然と言えば当然であるが、社長の立場からすると、「たまにはお前たちも意見くらい出せよ」と不満に思うわけである。

10人が10人、全員が「何が食べたい」というのもにぎやかで活気があっていいかもしれないが、できれば3~4人のコアになる人たちが意見を出し合い、出てきた意見を基に社長が判断するというのが、効率的かつ適切かもしれない。この時のコアとなるのが、役員となる人である。さらにここで、自分の意見に根拠を示せればなおベターだろう。「駅前のイタリアンは今週3周年記念でランチ半額サービスを実施しています」というような根拠である。

こういう時に提案できるためには、日頃から準備していないといけない。たとえば、家で夕食時に家族とテレビを何気なく見ていても、おいしい店の紹介などを見たら、チェーン店が近所にないかとその場で調べてみるとか。役員は9時から5時までが仕事ではない。常に常在戦場で、アンテナを張り巡らせていないといけない。プライベートだからといってボーっとしていたら、チコちゃんに怒られるまでもなく、役員失格である。

中小企業では、役員と言ったって威張っている余裕などないかもしれない。一般社員と一緒になって汗を流して働かないといけないかもしれない。ただ、だからと言って考え方まで「社員モード」になっていてはいけないのである。たとえば社長が緊急入院したとしたら、社長不在の中、社員に必要な指示を出して会社を動かしていかないといけない。その時、「みなさんどうしましょう」ではいけないのである。

社長であれば、「人材がいない」と嘆くばかりでなく、そういう人材を育てる意識を持たないといけないし、役員である人は、そういう行動が取れているか自問自答しないといけない。肩書だけで満足しているのか、あるいは何をしたらいいのかわからないのかもしれないが、根拠をもって「中華にしましょう」と提案できているかどうか、一度振り返ってみるべきだろうと思う。

人の振り見て、ではないが、自分も一応「役員」だし、一層意識しようと思うのである・・・




【本日の読書】
 リンカーンのように立ち、チャーチルのように語れ 聞く者の魂を揺さぶるスピーチテクニック21 - ジェームズ・ヒュームズ, James C. Humes, 寺尾まち子 普及版  [復刻版]一等兵戦死 - 松村 益二





2019年1月13日日曜日

子供はどう育つのだろうか

子供を持つ親なら、将来我が子がどんな大人になってほしいかということは、漠然とであっても思うものだろうと思う。そして、我が子に必要とあれば、できる限りのことをしてあげたいとも。そこに問題があるとしたら、「そのために何をすれば良いのかがわからない」ということだろうと思う。ほとんどの親は(熱心であればあるほど)、その答えを「教育」に求め、そのために手っ取り早く「塾に行かせる」ということにたどり着くのだと思う。

教育は大事だと思うが、私はそれよりももっと根本的なことを考えている。それはいかに「自立した大人たりえるか」ということである。一流高校に合格しても、途中で登校拒否になりドロップアウトしてしまう子が現実にいる。一流高校から一流大学に行っても、遊び呆けて退学になったり、少し前の就職氷河期みたいに、環境の影響で思うような就職ができなかったりすることもある。一流会社に就職しても、JALだって倒産する世の中だし、鬱になって会社に行けなくなったりする。結局、そうなった時、塾に行かせたことは何の役にも立たない。

自分のやりたいことを見つけたら、周りが反対してもチャレンジしてみようという意欲を持てる人間になるためには、親は何ができるのだろうか。困難に陥った時、必死に歯を食いしばって耐え抜ける人間に育っていけるようになるためには何をしたらいいのだろう。これといって名案が思いつかないまま、塾に行かせることが正解だと信じて疑わない妻を説得することができず、大人しく真面目に塾へと通う我が子の姿を忸怩たる思いで見つめているしかない。

自分自身を振り返ってみても、親から特にこれといった躾あるいは教育を受けたという覚えはない。日々の生活に余裕なんてなかったのかもしれないが、私も弟も育つように育ったと感じている。しかし、母親も「同じように育てた」と言うものの、私と弟とは性格はかなり違う。それはなぜなんだろうと昔から疑問に思う。もっとも、同じようにとは言うものの、弟が生まれるまで一人っ子として育った私と、生まれた時から兄貴という目の上のたんこぶがいた弟とでは、環境は異なるのかもしれない。

同じではないといっても、それだけだろうかとも思う。人間の人格形成には様々なものが影響しているとは思うが、それはどんなものだろうか。よく刑事事件で、弁護人が情状酌量の1つとして育った環境をあげるが、親の愛情に育まれた場合には、刑事事件の被告人になるようなことにはならないのではないかと思う。それは最低限として、例えば意思が強かったり、忍耐強かったり、思いやりがあったりというのは、どうしたら育むことができるのだろうか。

自分自身の経験からいくと、私の性格形成には結構漫画の影響があるように思う。中でも松本零士の漫画の影響はかなりあると思う。しかし、弟の方は目の前に私の読んでいた漫画があったのに、それにはかけらも興味を示さず、私の趣味とはまったく異なるギャグ漫画とかバイク等の系統を好んでいた。そうした趣向の違いは何によって生じるのか、つくづく不思議に思うところである。息子にも自分と同じような意思の強さなどを持ってもらいたいが、同じ漫画を読ませればいいというものではないだろうし、そもそも弟のように興味さえ示さないかもしれない。

たまたまNHKでやっていた『NHKスペシャル 平成史 第1回▽大リーガーNOMO~トルネード・日米の衝撃』という番組を録画して息子と一緒に見た。当時、メジャー挑戦なんて誰もやらなかったことをあえて宣言し、バッシングにもめげずに自らの意思を通して成功させた野茂の物語を息子に見せたかったのである。こういうものが結構影響力を持ったりするのかもしれないと思って一緒に見たのであるが、果たしてどうだろう。

子供たちに勧めるのは、どうしても本や漫画や映画といった自分の嗜好にあったものが多い。息子は割と受け入れてくれるが、娘はそうでもない。今年高校を卒業するが、今の時期にいわゆる文豪の文学作品を読んでみたらと勧めているが、まるで興味を示さない。「親はなくても子は育つ」というが、親があれこれ世話を焼いても無駄なのかもしれないと思ってみたりする。あとはニュースなどを一緒に見て世の中の動きに対して、自分の考えを語ったりするのもいいかと思うが、家族はバラエティ番組ばかり好んで見ていて私にはチャンネル権がないとなると、なかなか難しい。

結局のところ、意図的に仕向けるということは無理なのかもしれない。ただ、子供たちには、経済的な限界はあるにしても広くいろいろな経験をさせてあげたいと思う。塾に入れて満足している親にだけはなりたくない。そんな思いを持って、これからも子供たちと接していきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 ふじようちえんのひみつ: 世界が注目する幼稚園の園長先生がしていること - 加藤 積一 おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密 - 高井 浩章 普及版  [復刻版]一等兵戦死 - 松村 益二