2013年7月31日水曜日

2013サイパン旅行記

 夏休みに突入し、今年の我が家はサイパンへ行ってきた。基本的に我が家は、「南の島でのんびり」を旨としている。これまでグアムには二度行っているため、今年は少し趣向を変えて行き先をサイパンへと定めたわけである。当然、南の島はもっといろいろとあるわけであるが、そこは恥ずかしながら経済的な事情も加味されているわけである。

フィエスタ・リゾート&スパホテル 
 早くからJTBのツアーに申し込み、宿泊はフィエスタ・リゾート&スパ/サイパンにした。部屋へ入ってみると、窓から海が一望できるし贅沢を言えばキリがないので、まずまず満足な水準。着いた翌早朝、一人浜辺を散策。初日の予定が空白だったため、どう一日を過ごすかプランを立てるための準備である。大黒柱も楽ではないのである。

朝の空気に触れ、白い砂浜の感触を楽しむ間もなく、「社長サン!」と随分古典的な呼び掛けに会う。「ジェッスキー、ドウ?、バナナボートイイヨ!」と現地のチャモロ人なのだろうか、真黒な顔のおじさんに話し掛けられる。

 滞在中、ビーチを歩けばこの呼び掛け、街をあるけば「マッサージ」と何回声を掛けられただろう。残念ながら、我が家のニーズとは合わず、すべて辞退した。日本人の人の良さであろうか、何だか断るのも忍びないのであるが、わずか20分程度のアクティビティに家族4人6,000円の価値は見出せなかったので仕方ない。これが600円なら、笑って付き合っただろうと思うが、物価は総じて日本より高目の観光地価格なので、シビアに選別せざるを得なかったのである。

 それはそれとして、ホテルの目の前に広がるビーチにはまず満足。翌日行ったマニャガハ島の透明度からは比べるべくもなかったが、それでも日本本土の水準からすれば遥かに透明。浜辺で遊ぶ子供たちを尻目に、ビーチチェアーに夫婦で寝そべり、青い空に眩い陽の光をヤシの葉が遮る下で、潮風に頬を撫でられながらまったりとまどろむ贅沢・・・


マニャガハ島
 今回の目玉の一つが、子供たちとのシュノーケリング。目の前を魚たちが泳ぐ様を見る機会はそうやたらに作れるものではない。マニャガハ島は、我々が泊まったフィエスタホテルのビーチからすぐ沖合に浮かぶ孤島で、船で10数分で行き来できる。ここに簡単な施設が作られ、利用者が様々利用できるようになっている。

着いてすぐにがっかりさせられたのが遊泳ゾーン。せっかくの島を囲む海なのに、狭い一画を区切られ、そこで遊泳するようにと指導される。狭い区画にたくさんの人が泳ぐせいか、魚もそんなに見られない。やむなくボートシュノーケリングのオプションを申し込む。島の沖にモーターボートで移動し、サンゴの海でシュノーケリング。そこはさすがに文句なく、水深も3メートルくらいあって、目の前に広がる海の中の世界に子供たちも狂喜していた。

 その遊泳区画であるが、よく見ればその他のところでも中国人らしき一群が泳いでいるのを発見。ならばとそちらに移動して、おっかなびっくり海に入る。そこは波も強く、かなり流されがちであるが、なんと珊瑚が広がっていて魚たちの種類も豊富でシュノーケリングにはむしろこっちの方が良い事が判明。

 よくよく観察してみれば、「ライフセイバー不在」との看板は出ていたが、「遊泳禁止」とはなっていない。たぶん日本的な感覚で、好きなところで観光客に好きな事をさせて、万が一の事があった時の責任やら何やらを考えて、安全な囲いの中に「誘導」したのであろう。当然十分な情報提供はして欲しいが、基本的には自己責任だし、必要以上に安全性優先で知らぬうちに楽しみを奪われるのは堪ったものではない。子供連れだし無茶はいけないが、考える力を失うと自分で判断できない羊になってしまうだろう。

 その他にも到着時には既にチェックインが済まされていたし、帰りの時間は朝少し早かったが、なんと頼みもしないモーニングコールをかけてきたりと、サービスとよけいなお世話が混合。予定よりも早く起こされて腹が立った事もあり、担当者にやんわり注意しておいたが、あまり至れり尽くせりというのも考えモノだ。JTBあたりは、何でもかんでもお膳立てし過ぎるきらいがある。高品質を支える「メイド・イン・ジャパン」の発想なのだろうが、海外旅行は多少「不便を楽しむ」くらいでちょうど良いと思うところである。

 まぁそれはこちらの心掛けにもよるところがあるだろう。便利は便利で利用させていただいて、自分で判断する部分はしっかり残しておけばいいのだと思う。満足いくサイパンの旅であったが、来年はハワイへ行きたいと密かに思うのである・・・
    



2013年7月24日水曜日

参院選雑感

 先週末の参院選は、事前予想通り、自公の圧勝で終わった。ねじれ国会も解消し、いよいよアベノミクス本格化のお手並み拝見といったところだ。前回の衆院選は、反民主党の結果という感が強かったが、今回は自民党支持の結果だろう。まあここ何年かの政権の中では間違いなく良いし、安部総理も「古い自民党に戻ったら未来はない」と発言しているし、ここは素直に期待したいと思う。

 それにしても投票率52.61%というのは、嘆かわしい数字だ(我が家の妻も誘ったが行かなかった)。有権者の半分しか投票しないという現実。ここに我が国の悪いところの原因があると思う。みんな人ごとで、どうでも良いことなのだ。日本の政治が三流なのは、四流のマスコミに騙されているのが原因ではなく、この無関心なのだと思う。

 開票結果を見てみると、私は今回は迷わず自民党に投票したのだが、案外民主党が頑張っているなと感じた。もちろん前回からは大幅に議席を減らし、「惨敗」と書かれていたが、自民から大きく引き離されたとは言え、それでも自民65に次いで2番目の議席数17である。まだ支持する人がいるわけで、この逆風下でも当選する人は、確固たる地盤を築いているというわけであるから、また自民が悪くなった時に備えていただきたいものだと思う。

 もうひとつ意外だったのが、共産党の奮闘。今回地味に議席数を増やしている。自民も民主も嫌だという有権者の票を地味に集めているのだと思う。私も若い頃は共産党に気持ちが行っていた事もあるから、そういう有権者の気持ちはわからないでもない。だが、誰かが言っていたように、若い頃の共産党支持は麻疹みたいなもので、社会人になってからは非現実的な理想論に愛想を尽かし、きっぱりと断ち切っている。人それぞれだから、批判するつもりはないが、「反自民」や「反民主」の受け皿がないというのも現実なのかもしれない。

 今回投票こそしなかったものの、その政策に大いに共感しているのが「みんなの党」である。主要政策はほぼ完全に同意できる。それに対し、自民党は原発政策推進という点で共感できないところがある。みんな「喉元過ぎれば」、というところがあるようで、「あの時の恐怖心」をすっかり忘れてしまっているようだ。シェールガス革命が本格化すれば、原発よりも低コストの発電が可能になるという意見も耳にするし、日本が「本気になれば」道は簡単に開けると思うのである。

 そんなみんなの党であるが、結党以来地味に勢力を伸ばしている。特に「電力団体」「医療団体」「農業団体」を既得権益3兄弟として敵視しているところは大いに共感できる。今回は見送ったものの、次回からはまた支持しようと思うところである。嘆かわしい投票率であるが、やれる事はやっている。

 妻を毎回懲りもせず、ふられるのを覚悟で誘っているし、将来のタネまきもしている。家庭では常に子供の視線を意識して、選挙のたびにきちんと投票に行く姿は見せている。本当は会場まで連れて行って、投票するところまで見せたいのだが、現状はなぜかそれが禁止されている。だからせめて行く姿勢だけでも見せたいのである。未来の「権利を行使する」有権者をきちんと育てたいと思うのである。

 願わくばこれでしばらくは選挙の必要性がない状態が続いてほしいものである。そして次回はみんなの党にすべきか、多大な成果を上げた自民にすべきか、死ぬほど迷わせてほしいと思うところである・・・


2013年7月20日土曜日

日本経済はアベノミクスで復活するのだろうか

 明日はいよいよ参院選である。ここまでのところ、安倍政権は安定しており、どうやら自民党は公明党とあわせて参院でも過半数を獲得しそうな感じである。別にそれはそれで不満はないし、ねじれ解消後のお手並み拝見という気分もあるから応援したいとさえ考えている。だが、本当に大丈夫なんだろうかと言う気持ちも、正直言ってある。

 すでにアベノミクスで日銀は大胆な金融緩和を実施。物価を2年間で2%上げると息巻いている。過去失われた20年と言われ、その元凶はデフレだと言われているから、2%の物価上昇でデフレ脱却し、日本経済大復活という狙いなのだろう。だが、本当にそれが正しい処方箋なのだろうか。

 私は経済理論に詳しいわけではないから、それに対して明確に語れる意見など持ち合わせていない。おそらく世の中の大半の人がそうだろうと思う。しかし、何となく「それでホントに大丈夫なのか」と漠然と思う。

 例えばデフレの正体だが、これは簡単で、一言で言えば内外価格差だ。つまりそれまで国内で高く作っていたものを、海外で安く作れるようになった事によるものだ。私が1988年に大学を卒業し、卒業旅行で中国経由オーストラリアへ行った時、中国の物価が日本に比べて恐ろしく安かったのに驚いたものである。

 コーラだけはそんなに差がなかったが、タクシーをチャーターして半日天安門広場を見学し、ランチして3,000円くらいだった(実はタクシーの運ちゃんに吹っかけられているのはわかっていたが、あまりにも安くて断る気になれなかったのだ)。

 その頃、「製造」→「1次卸」→「2次卸」→「小売」と商品は流れ、最終消費者である我々が買っていたものを、今はユニクロなどが「製造→小売」となっている。しかも「製造」は中国だから、「製造→1次卸→2次卸」の部分が国内からなくなってしまったのである。ここの部分を占めていた人たちが職を失い、それで価格が下がったのがデフレである。元に戻すならここの人たちを復活させないといけないのではないか、と単純に思うわけである。2%物価が上がっても、それが「小売価格」なら、潤うのはユニクロだけだ。

 例えばスーパーの物価が2%上がるなら、スーパーの仕入価格も2%上がるとする。するとスーパーに卸す農家や漁民や中小製造業者も2%収入が増える。だが、それが給料に還元されないと、消費者はスーパーで上がった値段でモノを買えない。収入が増えるまでは、相変わらず安いところを探すか、必要最低限に財布のひもを益々固く締める事になる。そうなるとモノは売れないのではないかと思うのである。

 例えば100万円の商品を売る会社がある。原価率40%、経費率50%、利益率10%だとする。2%物価が上がると商品価格は102万円となる。上がった2万円の内訳は、原価部分が8,000円、経費は10,000円、利益は2,000円だ。このうち人件費は経費に含まれる。経費の内10%が人件費だとすると、1,000円。従業員が100人いたら、一人当たり10円。理屈でいけば、売っている商品の価格が20,000円上がっても、給料は10円しか上がらない。

 もちろん、1,000万円、1億円と売っている会社もあるから、それぞれであるが、イメージとして物価が上がるほどには給料は上がらないと言えると思う。企業の論理として、給料を上げるのは最後だ。ギリギリまで据え置いて、上げてもやっていけると判断して初めて賃上げとなる。つまり物価の上昇が先行するわけだ。

 我が家で言えば聖域である家計費は不動だから、物価の上昇→家計費値上げ→こずかい減少となる。これは実に恐ろしいシナリオだ。個人的にはデフレの方がマシではないかと思ってしまうが、これは間違っているのだろうか。デフレを脱却して、その先に豊かな生活が、果たして待っているのだろうか。

 誰か、上の理屈のどこが間違いで、アベノミクスによってデフレを脱却し、日本経済大復活となる理屈を説明してくれないだろうか。日曜日は、おっかなびっくり選挙に行く事にしようと思うのである・・・

2013年7月15日月曜日

ミレー

 中学1年の娘が夏休みに美術館へ行きたいと言い出した。何でも早くも夏休みの宿題が出て、それは「美術館へ行って絵画を鑑賞しレポートを書いて提出せよ」というものであるらしい。それを聞いて真っ先に思い浮かべたのは、山梨県立美術館である。

「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」 
 実は私は昔から絵画が好きで、確か中学の頃だったと思うのだが、山梨県立美術館へミレーの絵を見に行った記憶がある。その時いたく気に入って、ポストカードか何かを買って帰ってきた。たぶん、「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」だったと思う。そんな経緯から、それなら娘にもミレーを見せようと思った次第である。

 幸い、この週末は毎年恒例の桃狩りに行く予定を組んであった。調べてみると、いつも行くイチフル農園から山梨県立美術館はわりと近い位置にある。もう娘も桃狩りのあとは近くの公園で水遊びというわけにもいかない。桃狩りの後、どうするかと思っていたのでちょうど良かった。それにいつもほうとうを食べる「小作」の支店も美術館の目の前にあると言う事もあり、スケジュールが決まったのである。


山梨県立美術館 
 さて、訪れてみると非常にきれいな美術館で、私の記憶にはまったくない建物。建て替えたのかもしれないし、そもそも忘れてしまったのかもしれない。ミレーの絵は、山梨県立美術館所有という事で常設展として展示されている。

 パリ近郊のバルビゾン村という農村に住み、生涯にわたって働く農夫たちを描いたミレー。
「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」を始めとして、有名な「種をまく人」や「落ち穂拾い」の「夏」版などが展示されていた。静かな館内に展示されているミレーの作品を前にじっとたたずむ娘。

 小学校2年の息子はさすがに退屈そうで、「冬、凍えるキューピッド」の前で、そこに描かれたキューピッドを見て、「おちんちん!」と喜んでいる有り様だった。宿題では好きな絵を3点選んでレポートを書くことになっているが、娘は「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」、「冬、凍えるキューピッド」とモンティセリの婦人像を選んでいた。

冬、凍えるキューピッド
モンティセリ「婦人の肖像」 
 若干、好みは違ったものの、良い選択だと思う。個人的には、ミレーだと「晩鐘」が一番好きであるが、残念ながら本物はパリのオルセー博物館に行かないと観る事はできない。いつかパリに行くか、向こうから来るか、いずれにせよ本物を拝む機会はすぐにはありそうもない。

 絵を見ていると、本当に飽きない。いつまででも眺めていられる気がするから不思議である。なぜかと問われても答える事は難しい。もちろん、当時の貧しいフランスの農民たちの暮らしぶりが珍しいという事あるだろうが、それだけではない。才能ある画家によって切り取られた一瞬、一瞬に目が行くとでも言えるのだろうか。それはある面で写真にも通じているのかもしれないと思う。

 自分でも絵を描きたいとその昔思った。しかし、どう考えてみても自分にはその才能がない。ならば学ぼうと高校に入った時に決意。美術部の門を叩いたが、同時に入ったラグビー部の練習が忙しくて、一度も参加しないまま幽霊部員にもなれなかった。いまでもその気持ちがなくなったわけでもなく、「いつかそのうちに」と思う気持ちはまだ残っている。

 「いつかそのうち」という日は永遠にやってこないとわかっているが、子供の教育・教養という意味では、本物を見せるという事は必要なのかもしれない、と改めて思う。自分の趣味はともかくとして、また機会を作って行くのも良いかもしれないと思うのである・・・



晩鐘

落ち穂拾い




2013年7月10日水曜日

航空自衛隊

 先週末、いつも参加している勉強会で空自の幹部の方にお話を伺う機会があった。私も伯父が航空自衛隊に勤務していたし、11月には入間基地に何度も航空ショーを見に行っているし、そんなわけでただ講演を聞くだけでなく、直接あれこれ質問できる機会はありがたかった。

 意外だったのは、航空自衛隊の主力戦闘機であるF-15の話。入間基地で見た時は、もの凄い爆音で驚いたものであるが、もう機体自体は30年以上前のものだし、日本の航空戦力は遅れているのだろうという認識だった。なにせ中学の頃、空軍のF-15、海軍のF―14と比較されていて、どっちが凄いと友達と言い合っていたものである。その海軍のF―14(愛称トムキャット)は既に引退しているのであるから、尚更である。

 ところが、機体は古くとも、中味の電子装備は格段にグレードアップされ、衛星と連動したシステムはいまだに世界最先端の“新鋭機”なのだという。しかも導入国は、米国以外ではイスラエルと日本とサウジ、そしてつい最近韓国が加わったものの、世界で5カ国だけだという。F-15に対抗し得る戦闘機はロシアのスホーイで、配備されているのがロシア、中国、インドで、以上8カ国が、「装備面でみた」世界の空軍強国らしい。

 イスラエルはアメリカが防衛に肩入れしている国だから、実践的な意味が大きいと思うが、実践とは程遠いサウジと日本には“無用の長物”と言えなくもない。導入国が少ないのも価格が高いからという理由もあるだろう。アメリカだってバカじゃない。「売っても安心」で、「買う事ができる国」という条件からすると、日本もサウジも「良いお客さん」なのだろう。

 自衛隊が必要かどうかと問われれば、迷わず「必要」と答えるだろう。だから憲法改正だって、96条改正には賛成できないが、第9条改正には賛成だし、「国防軍」という名前は別として、堂々と軍隊を保有するべきだと思う。だが、だからと言って武力で領土分捕り合戦をするべきだなんて、当然思わない。ただ備えとしては必要だろうと思うのである。

 共産党や社民党などの政治家は、何も考えず「軍隊反対」と唱えているが、災害救助面で果たす役割は疑問の余地はない。それに海外で紛争・災害となった場合、すばやく移動して国民保護に当たるなどの可能性を考えれば、適役だと思う。イラン・イラク戦争時に、イランから出国できなくなった日本人を脱出させる事ができず、トルコに助けてもらった例を挙げたってそれは明らかだ。

 それに例えば朝鮮半島で北が崩壊し、武装難民が日本海沿岸に押し寄せてくる事だって考えられなくはない。その時、田舎の駐在さんで対応できるかと言えば、無理に決まっている。当然、軍隊が出ていけば、それだけで静かに指示に従うかもしれない。
いわゆる"抑止力"というやつである。それは空の上にも言えるだろう。

 ただそれが高額な装備である必要性があるかどうかは、今の私の知識ではなんとも言えない。“抑止力”という意味で、効果が大きいなら仕方ないのかもしれないが、もっと価格の安いユーロファイターあたりで代用できそうな気はする。とは言え現実的には、アメリカが“好いカモ”を手放すとも思えないから、難しいのだろう。

 しかし、と思う。“抑止力”としてどうかなんて事よりも、やっぱり戦闘機はカッコいいと男の子としては思う。ブルーインパルスは、戦闘機とは言い難いところだが、F-15あたりはモロ戦闘機という匂いでいい。ただし、実際の空戦となると、もはや電子技術の世界で、人間には対応できない世界らしい。

 それはそれとして、もはや衰えた視力で自ら操縦桿を握ってみたいなどという夢を見ようとは思わないが、後部座席に座って飛ぶという夢なら持っていたいと思う。いつかそんな夢は実現できないだろうか。密かに夢見て、そしてチャンスを伺ってみたいと思うのである・・・


【本日の読書】

ビジョナリー・カンパニー4 自分の意志で偉大になる - ジム・コリンズ, モートン・ハンセン, モートン・ハンセン共著, 牧野洋   



  

 

2013年7月5日金曜日

宇宙戦艦ヤマト2199


 最近、日曜日の夕方に「宇宙戦艦ヤマト」のアニメが放映されている。「宇宙戦艦ヤマト」と言えば、私も小学生から確か中学頃にかけてまで、夢中になって観ていた記憶がある。最初のテレビシリーズは再放送で何度も観たし、映画も観に行ったし、夜中にラジオでやっていたのを布団の中でこっそり聞いた事もある。

 しかし、そんなに好きだったにも関わらず、実は映画版の2作目までしか観ていない。映画版は、最初のテレビシリーズの映画化から5作くらい続いたと思うが、3作目以降は観ていないのである。というのも2作目の映画版で、ヤマトは最後に敵艦に体当たりして果てるのであるが、テレビシリーズではしっかり生き残って、3作目以降に続いたのである。

 2作目の映画版で、せっかく子供心に大感動したのにそうしたやり方は何だか興醒めで、2匹目のドジョウどころか3匹目、4匹目を狙った商業主義に違和感を感じたのである。その後原作者の地位を巡って、漫画家の松本零士とプロデューサーの西崎義輝氏が訴訟騒動を起こしたのも興醒め+αだった。いずれにせよ2作目の映画をもって私のヤマトは終わっている。

 今回復活したヤマトは、「宇宙戦艦ヤマト2199」と称して、最初のテレビシリーズをベースに、オリジナルストーリーも交えて作られている。何となく観始めたが、これが実に面白い。まず目についたのが、宇宙空間での戦闘シーン。実にリアリティに富んでいる。最近はCGの登場によって実写の映像技術が格段に優れているが、最新のアニメもあわせて進歩が著しい。

 例えばヤマトにしても、3年前に公開された実写版「SPACEBATTLE SHIP ヤマト」なんかは、映像の迫力は嬉しくなるほどだった。それに比べると、昔のアニメは子供の絵みたいに思えてしまう。アニメはかつては実写で表現できない世界を描くのに適していたが、今は立場が逆転してしまっている。

 そんな中で登場したこの「2199版」だが、「子供の絵」からは大きく進歩している。戦艦というと、図体がでかくて動きがトロいというイメージがあるが、それは地球上の話。宇宙空間では重さがないから、例え戦艦でも戦闘機のように動けるわけであるが、一方無重力であるがゆえに、飛行機が旋回するように簡単に向きは変えられない。右へ行きたければ左へ噴射して向きを変える必要がある。そんなディテールにも配慮を加えながら、迫力ある映像が楽しめる。

 合わせてストーリーも厚みを増している。ガミラスに最初に攻撃を仕掛けたのは実は地球だったとか、旧作では語られなかったエピソードが加わり、物語がよりリアルに描かれている。また、ガミラス人同士の会話では、わけのわからないガミラス語を話させたり、地球を「テロン」と呼ばせてガミラス側からの視点も加えている。

 もちろん、旧作の名場面もそのまま生かされている。第1話では、降伏を呼び掛けるガミラス艦隊に対し、劣勢装備の最後の地球防衛軍を率いる沖田艦長は、「『バカめ』と言ってやれ」と渋く命じる。最後まで敵と戦う事を主張する古代守に対し、沖田艦長は「明日のために今日の屈辱に耐えるのだ」と諭す。ストーリーの最初の見所であるがゆえに、きちんと描かれていたのは嬉しい限りだ。

 一方新しい新キャラクターも何人か加わっているが、ほとんどが女性だ。戦う男の物語であり、男中心のキャラクター陣だったのに、これも時代の反映なのだろうか。その職務も旧作は「生活班」という「非戦闘部門」だったのが、新キャラクターは艦載機のパイロットに情報部門まで進出している。舞台となる22世紀にはもっと進んでいてもおかしくないような気もするが・・・

 それにしてもよくわからないのが「日曜夕方5時」という放映時間。一体誰をターゲットに考えているのだろう。昔夢中になっていた「かつての子供たち」だろうか。翌日仕事を控え、のんびりくつろぐお父さんたちと言うことなら、私もぴったり当てはまる。

 物語はこれからいよいよ後半戦。既に動画サイトでは観ようと思えば観られる。だが、せっかくなので毎週1本、慌てずゆっくり楽しみたいと思う。オリジナルのストーリーも随分あるようだし、アニメだからと言って「今の子供」だけに楽しませるのももったいない。幸い、チャンネル競争のない時間帯でもあるし、その点でも一人で堪能したいと思うのである・・・


【今週の読書】

天才数学者、株にハマる 数字オンチのための投資の考え方 - ジョン・アレン・パウロス, 望月 衛, 林 康史





2013年6月29日土曜日

田舎暮らし

 先日久しぶり出張に行った。
行く先は高崎。新幹線で1時間ほどだから、それほど大げさな出張ではない。本を読んでの往路はあっという間。ちょっと疲れた復路は、ぼうっと外の景色を眺めていた。

外には田畑を中心に田園風景が広がる。
水田には水が満ち溢れている。
川には何やら網を持った人が入っていたが、魚でも採ろうとしていたのだろうか。
のんびりとした時間が流れていそうな景色が、熊谷の市街地が見えるまで続いていた。

 子供の頃遊んだ御代田での楽しい思い出があるせいか、私は田舎暮らしに憧れているところがある。将来仕事を引退したら、本気で田舎暮らしをしようかと思うところもある。先輩Hの生活に憧れるのも、そういう背景がある。

 どの家も敷地はゆったりしている。キャッチボールをやる場所を求めて、あっちこっちうろうろする必要なんてまったくないだろう。いたるところに墓地がある。たぶん、昔は何もないところだったのだろうが、今では周りが切り開かれて周囲から浮いてしまっている感がある。ただこういう環境下なら、子供たちにも自然と祖先を敬うという事を教えられる気がする。

 その昔読んだ「都会のネズミ、田舎のネズミ」という童話を思い出した。
田舎のネズミが都会のネズミを訪ねてくる。都会のネズミはごちそうをして田舎のネズミをもてなす。田舎のネズミは豪華な食べ物などの都会の暮らしに驚くが、一方で車や人間などの危険にも気付く。田舎のネズミは質素でも安全で快適な田舎暮らしの良さを実感して帰るという内容だったと記憶している。

 確かに都会は便利だ。どこへ行くにも交通機関を利用して行ける。実は出張先では最寄りの駅まで相手の担当者に迎えに来てもらったのだが、その理由は「駅でタクシーが拾えないから」というものだった。都会ではまずありえない。

 田舎とは言っても最近はバカにできない。ちょっと車を走らせれば、車窓から見えたベイシアなど郊外型のスーパーセンターがあるし、高崎など大きな駅の周辺にはヤマダ電機だってあるし、吉野家もあって都会と変わらない。映画館だってオンデマンドの世の中だし、今くらいのペースで映画館に行くくらいなら十分満足できる。

 本気で考えたいところだが、妻は絶対に嫌だと冗談でも「いいわね」とは言わない。確かに車がないと不便だし、年寄りになって運転できるかというと、そろそろ運転をやめろと日頃から父に言っている手前、大丈夫だとは言いかねる。亡くなった祖父などはよく耕運機を車代わりに乗り回していたが、そういう不安は確かにあるだろう。結局はどちらが良いかという問題ではなく、好みの問題なのだろうが、個人的には田舎で暮らしたいと思うところだ。

 新幹線はすぐに東京駅のホームに入る。降りて10分後にはオフィスの自分のデスクに座ってパソコンを立ち上げていた。田舎暮らしの将来的な実現可否はわからないが、日々の仕事はどちらにせよ大事な事には変わりない。のんびり週末を過ごしたら、また頑張って働こうと思うのである・・・


【今週の読書】

天才数学者、株にハマる 数字オンチのための投資の考え方 - ジョン・アレン・パウロス, 望月 衛, 林 康史  マスカレード・ホテル (集英社文庫) - 東野 圭吾 とんび (角川文庫) - 重松 清







2013年6月22日土曜日

お酒の話

 今週は、同僚の送別会があった。もともとそんなに酒が飲める方ではない私は、たいていの場合、ジョッキでビール一杯+サワー一杯程度しか飲まないのであるが、去りゆく人に半ば無理に勧められるまま日本酒を飲んだらすっかり調子が狂ってしまった。この頃ではちょっと珍しい事だった。

 職場でも飲むのが好きな人は、毎日のように飲みに行っているようである。そこまでとはいかなくとも、家で晩酌が欠かせないという者も多い。私はと言えば、晩酌はしないし、飲みに行くのも歓送迎会+αくらいだし、せいぜいが週末の夜に一人映画を観る時にバーボンを少し飲むくらいだ。それで十分不満はない。

 初めてビールを飲んだのは中学生の時だった。お盆に田舎で近所から集まって来たおじさんたちに飲まされたのであるが、たいがいの人と同様、「こんな苦いものを大人たちはよくうまそうに飲むな」というのが感想だった。ビールの味に慣れたのは大学生の頃だったと思う。その他の酒についても同様だ。

 初めは自分が酒に強いか弱いかなんてわからない。ただ、そこは体育会系。「できない」とは言いたくない性分なので、それこそ吐くまで飲む。それで次第に限界がわかってくる。「ひょっとしたら自分はそんなに強くないな」と、学生時代を通して気がついたと言えるだろう。

 酒に対する耐性は遺伝なのだろうか。親父はやはり飲めない方で、飲めば顔が真っ赤になる。だが、祖父は飲ん兵衛で、顔には出ないタイプだった。私はと言えば、目の周りだけが赤くなる。遺伝であるようなないような気がするが、祖父と父と半々ずつ受け継いだとは言えるだろう。

 そんな程度なのでこれまで酒で失敗したという事はあまりない。でもやはり酒で失敗する人はいるもので、銀行に入って最初に配属になった支店には、飲むと見事に180度人が変わるという酒乱の人がいた。日中は穏やかで冗談を言っては周囲を和ませ、仕事も得意分野の個人ローンでは知識豊富でみんなに頼られていた。ところが飲むと酷い絡み酒。同僚からも、飲みに行った先々の店の人からも嫌われていた。誘われる時はジキル博士状態なので、のちのハイドの姿を想像し複雑な気分であった。

 幸い自分はそんなにおかしくなる性質ではなかったが、ただ困ったのはすぐに眠くなる事だ。特に接待の時は困った。注がれて飲まないのは失礼だし、飲んで寝るのは尚失礼。これでよくあとで上司に怒られた。今でもそうだが、こればかりは意識でコントロールできるものではない。「気がついたら落ちている」状態だから性質が悪い。それで自然とそんなに飲んでいなくても飲んでいる雰囲気を出す事ができるようになったと思う。

 ただ、プライベートでは時としていつの間にか限界オーバーしていた時もあった。自分でも危ないと思ったのは線路に落ちた時だ。日本酒を飲み過ぎて、なぜか途中下車した駅でフラフラ歩いていたらもの凄い衝撃があり、気がついたら目の高さにホームがあったのだ。すぐにホームに上ったが、電車が来ていなくて良かったと思う。しかしながらそれでもきちんと“着地”した自分の運動神経には、改めて関心した次第である(そのあと駅からの帰り道に電信柱に正面衝突もしてしまったなぁ・・・)。

 そんな程度の失敗はご愛嬌だ。これまでやけ酒というものは飲んだ事がないし、これからもそれはないだろう。その点では、楽しく上手に飲んでいると言えるのではないだろうか。
いずれ子供たちが大きくなったら酒を飲むようになるだろうか。妻の家系は徹底して下戸だし、父親もそんな状態だから、たぶん強くはならないのではないだろうか。

 事実、息子がまだ赤ん坊の頃、試しにバーボンを舐めさせたら真っ赤になった(あの時は妻にばれたら大変だとこっちは青くなった・・・)くらいだから、たぶん飲めない遺伝子は受け継いでいると思う。まあ飲めないなりに、飲み方はレクチャーしてあげたいと思うし、ちびちび一緒に楽しみたいとも思う。

 あるかないかどっちがいいかと問われれば、やっぱり酒はあった方がいい。そんなに飲めなくとも、まったく飲まないのはつまらないし、これからは特にビールのおいしい季節である。友達と会う時はやっぱり飲んだ方が楽しい。これからも付かず離れず、楽しく酒とは付き合っていきたいと思うのである・・・


【今週の読書】

逆説の日本史 19 幕末年代史編2 井伊直弼と尊王攘夷の謎 (小学館文庫 い 1-34) - 井沢 元彦 人生と財産―私の財産告白 - 本多 静六 マスカレード・ホテル (集英社文庫) - 東野 圭吾







     

2013年6月16日日曜日

父の日に思う

自分自身に欠けていたものが
息子に実現されるのを見ようとするのは、
すべての父親の敬虔な願いである

ゲーテ
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 今日は父の日。実家の父には昨日、ワインを渡してきた。ここのところ、甘口フルーティなワインを嗜んでいるとの事で、まぁ何にしようか選ぶのも大変なので、手っ取り早く決めてしまった感もある。

 自宅に帰れば今度は自分が父親。されど子供たちからは何もなく、ごく普通の週末であった。中学生の娘は午前中から友達とカラオケに行き、小学校2年の息子こそ家にいたものの、取り立てて何をするという事もなかった。

 幼稚園の頃は、子供たちも幼稚園でお父さんの絵を描かされたりしていたから、それをプレゼントしてくれていたが、小学校はさすがにそんなものはない。そのためには、わざわざ何かをしないといけない。さすがに娘は5年生までは絵を描いてコメント付でプレゼントしてくれたが、息子はもうしてくれない。

 もっとも息子に言わせれば、学校の宿題や子供チャレンジの課題や、週末に録画してママと観る「八重の桜」や、レゴで遊ぶので「とても忙しい」らしい。まぁ仕方ないのだろう。子供たちからの絵のプレゼントは2011年でストップという事になりそうだ。

 そもそも父という漢字は、手に斧を持った男性を指すそうで、家族を守り、養い、率いる役割の象徴という事らしい。「母なる大地 父なる太陽」という言葉があるが、父親には近寄り難く、それでいて必要な時には必要な光を授け、時には雷も落とす存在という事らしい。我が身を振り返ると、だいぶ違うようである。

 自分の父親と比較すれば、子供たちと接触する頻度は遥かに高いと思う。父が私の授業参観に来た記憶はないし、わずかにサイクリングをしたり、海に連れて行ってもらったりした記憶がある程度である。時代も「男は仕事」の雰囲気に満ち溢れていたし、裸一貫で田舎から出てきた両親は、それだけで生活も大変だっただろうから仕方がないと思う。

 その点、今の自分は時代にも恵まれ、子供たちとより多くの接点を持てるのはありがたい事である。そんな現代において父の役割とは何だろうかと考えてみる。やはり自分の経験から、「自立して生きていける力」、「考え方」を身に付けさせたいと思う。その鍵は、勉強する事とコミュニケーションだ。

 勉強は学校の勉強だけに留まらない。社会人になっても、その時その時必要な勉強を継続できる力だ。帰りの電車で漫画を読み、帰宅しても晩酌をしながらお笑い番組を観て寝るだけというような社会人にはなってほしくない。

 コミュニケーションも重要だ。これは友達との関係でも、今から実践で十分学べる。社会へ出ても恋人や上司や同僚たちとうまくやっていくには、コミュニケーション力が必要である。自分が初めに躓いた所でもあるし、しっかり教えてあげたいところだ。

 そしてそんな教えを素直に聞いてもらうためにも、まさにコミュニケーションが大事だろう。今でこそ実家の父には何の遠慮もなく話ができるが、子供の頃はやはり何かあればまず母親だった。父に何かを相談すると言う事がなかったのは、やっぱり接点が少なかった事が大きい。自分としては、あまり「近寄り難い存在」にはなりたくないと思う。

 これから子供たちもますます大きくなる。話題もより大人の話題になっていくだろう。人生の岐路に悩む事もあるだろう。そんな時に、「必要な光」を与えられる父親でありたいと思う。そのためには、まだまだ日々是修行だと思うのである・・・

2013年6月13日木曜日

性格

 最近仕事である僚友店の担当者と頻繁にやり取りをするようになった。こちらから事務対応をお願いするのだが、その担当者は実に気持ちよく引き受けてくれる。モノによっては面倒なものもあり、担当者によっては電話口から面倒だという気持ちが伝わってくる人もいるのだが、この人はまったくそんな事もない。いつも気持ちよく仕事を引き受けてくれてありがたいのだが、自分は果たしてどうだろうかと我が身を振り返ってみる。

 なるべく、頼まれれば気持ちよく引き受けているつもりではある。仕事を頼む時は丁寧にお願いし、相手がミスした時も、最終自分がチェックしているのであなたの責任ではないと言うようにしている。事実、自分のミスなら許せるが、他人のミスだとやはりい
い気がしない。ならみんな自分のミスにしてしまうようにすればいいと考えている。

 そんな風に考えられるようになったのも、社会人になってからだ。学生時代から比べると、随分成長したものだと我ながら思う。「性格は変えられないが、対応は変えられる」とは、いつだったか研修で教えてもらった言葉だが、それを聞いて随分楽になった記憶がある。

 自分の元々の性格はと言えば、人と関わり合うのがあまり好きではなく、どちらかと言えば孤独を好む方だ。真面目だが明るくバカになりきれないところがある。一人で音楽を聞いて鼻歌を歌うのは好きだが、みんなでカラオケに行くのはゴメンだ。大勢でワイワイやるより、数人で静かに語り合うのが好きだ。そんな自分の性格は親父譲りだと思う。

 子供たちを見ていると、そんな私の性格を長女は多少受け継いでいる。群れる事を良しとせず、自分の好きな世界がある。孤独にも耐えられる。傍から見ていると、心配になる部分はあるが、カラオケは好きらしく、よく友達とつるんで行っているようだから、少しは安心できるかもしれない。

 息子はと言えば、誰の性格を受け継いだのか、クラスではひょうきん者で通っているらしい。「面白いのよ」と担任の先生のお墨付きも得ている。お姉ちゃんに比べたらだいぶズボラなのであるが、家族内でもずっとしゃべり続けているし、愛すべきキャラクターだ。友達にも愛されるのではないかと期待している。

 どちらが良いとは思わないが、やっぱり息子のように明るい性格の方が苦労しない気がするし、それは間違いないだろう。「笑う門には福来る」とも言うし、仕事をしていても、明るい人にはモノを頼みやすいし、ミスしても許してもらいやすいだろう。従兄弟にもそんな明るい性格の者がいるが、やっぱり友達は自分よりたくさんいるようだ。

 それはそれで羨ましい限りだが、ではこれからそんな明るい性格になれるかと言えば、確実に無理だ。やっぱり性格は変えられない。娘も100%私の性格を受け継いでいるわけではないから、多少は安心だ。だが、やっぱりこの世は人と人との関係で成り立っている。時によっては対応は変えていかないといけない。相手が気分良く自分と付き合ってくれるような対応を心掛けないといけない。いずれそんな事も子供たちには教えたいものである。

 とは言え、自分のこの性格を愛する事ができるのも自分だけ。ずっと付き合ってきたし、これからもずっとこれでやっていく。周りの人に対する対応には気をつけながら、愛すべきこの自分の性格と末永く付き合っていきたいと思うのである・・・


2013年6月6日木曜日

ゴースト~天国からのささやき~

 今ちょっとある海外ドラマにハマっている。それは、『ゴースト~天国からのささやき~』というドラマである。と言ってももう本場アメリカでは、シーズン5くらいまでやって放送も終わっているようだし、日本でも既に民法で放映されたようである。ふとしたきっかけで観始めたら、面白くてやめられなくなってしまったのである。

 主人公のメリンダ・ゴードンは霊能力者。子供の頃から代々受け継いだ能力を持ち、人には見えない霊が見え、そして話ができる。結婚して小さな町に住み、そしてアンティーク・ショップを経営しているのだが、その片手間に人助けならぬ“霊助け”をしている。

 ドラマの設定では、人は死ぬとみなあの世へと行く。しかし、何かこの世に想いを残すと、あの世へ行かずこの世に留まってしまう。メリンダが話をするのはこういうこの世に留まってしまっている霊たち。メリンダは、彼ら彼女らの心の内を聞き、その心残りを取り除いてやる。そうする事によって、霊たちは無事「光の中=天国?」へと旅立って行ける。

 踏切事故で亡くなった男の子が、その踏切で母親を待ちつづけている。古い屋敷に留まる火事で焼け死んだ子供たち。ベトナム戦争で死んだ男が、故郷に残してきた妻と幼い子供を案じる。自分の死後、反目する父と息子に心を痛める母親。そんな霊たちを助けるメリンダ。気がつくと毎回のようにウルウルしてしまっている。

 ドラマの設定は、映画「ゴースト~ニューヨークの幻」や「シックス・センス」などと似ている。だいたい日本でも同じだろうか。よく霊能力者だとか、霊感が強くて「見える」などという人の話を聞くが、実際のところはどうなんだろうと考えてみる。

 実は個人的には、幽霊というものはまったく信じていない。子供の頃は、田舎へ行くと、夜トイレまでの暗い廊下を歩けないなんて事もあったが、今ではまったく信じていないから、幽霊屋敷でも平気で一人で泊まれる(たぶん)。それでも古今東西、幽霊の話はあちこちにあるから、何らかのものはあるのかもしれないとも思う。

 たぶん、それは人間の生体エネルギーのようなもので、それが死後も残ったりして、いわゆる霊感の強い人はそれが見えるという事なら、あるのかもしれないと思う。それなら心霊写真だって説明がつく。誰もいないエレベーターに乗り込んだり、誰かが入っていたトイレに入った時に、香水やその他の残り香が漂っていたりするようなものだ。

 ただ、もしそうだとしても、それは残留物であって、それが思考するなどという事はありえないだろう。写真がモノを考えないのと同じだ。思考はあくまでも脳細胞の活動の結果だからだ。だからこそボケるのだ。死んでしまった人間が、生きている時のようにあれこれ思考する事は、どう逆立ちしたところで想像できない。「我思う、ゆえに我あり(COGITO ERGO SUM)」である。

 なんでも理屈で考えてしまう私は、人間の霊魂をそんな風に考えている。それはそれとして、もしもドラマのようだったとして、果たして自分は素直に昇天できるだろうかと考えてみる。この世に想いを残す事なく、あの世に旅立てるだろうかとなると、少々心もとない。というか、今は完全に無理だろうと思う。まだまだ責任の残っているものがたくさんあり過ぎる。それらを放り出すのは、あまりにも無責任だ。間違いなく、成仏できずに残るだろう。

 ではあと30年くらいしたらどうだろう。その時までには、あらかたの責任はきちんと果たし、穏やかな心境でいたいと思う。老後は午前中は毎日喫茶店に行って本を読み、午後は映画館へ行き、夜はブログを更新し、フェイスブックにも投稿しと、そんな老後を送っていたいがどうだろう。そんな老後まで、まだまだ人生長いし、楽しみはあるし、責任もあるし苦悩もあるが、そんな諸々も生きる証と考えていきたいものだ。

 メリンダの活躍はドラマの中だけで楽しみたいし、もしもドラマのような世界があるとしても、残された家族やお世話になった人たちにお礼のメッセージを託けるくらいで済むようにしたいと思うのである・・・


【本日の読書】

日本経済大消失 生き残りと復活の新戦略 - 中原圭介  真夏の方程式 (文春文庫 ひ 13-10) - 東野 圭吾





2013年6月1日土曜日

誕生日に思う

49回目の誕生日を迎えた。
今回は週末とあって、ゆっくり朝寝坊。
いつもと変わらぬ朝を迎えられて何よりである。

突然49という意味を考えてみた。
日本人的には、ついつい「4始終9苦労する」とか「四苦八苦」などと考えてしまう。
アメリカ式だと49ersだろうか。フットボールのチーム的にはカッコイイが、一攫千金を夢見たゴールドラッシュの元祖49ersはみな夢破れた人たちだと考えると、どうやら今年もまだまだ一苦労しないといけないのだろうかなどと思ってみたりする。

心配のタネは既に出ていて、母親がまた入院している。
検査入院とは言うものの、薬で症状を抑えられなくなってきているのかもしれず、心配なところである。原因の一つにストレスがあると考えているが、その最大なものは我が妻との悪関係であり、私の力ではどうしようもない。

先日も見舞いに行った際、ついつい議論してしまい、また母親を論理でねじ伏せてしまった。それがまたストレスになるかもしれないと考え、自己嫌悪の日々である。
そんなパパの心とは関係なく、娘は朝から学校の試験勉強だ。
中間試験、期末試験と、そう言えば自分も中高生の時はあったなぁと懐かしく思う。
娘からは、成績が良かったら臨時こずかいをくれと要求されている。中学に入ってから友達と遊びに行ってお金を使うようになり、毎月のこずかいでは足りないようだ。
まぁそんな目標もあって良いかもしれないと思う。

せっかくの好天気に息子を誘いだして石神井公園へと出掛けていく。
我が家からだとちょっとしたサイクリングだ。
適当なところで自転車を止め、あらかじめ持参したグローブを取り出してさっそくキャッチボール。初めの頃は固い軟式ボールを怖がっていたが、この頃では普通にキャッチボールができるようになった。

キャッチボールで大切な事は、相手が取れるボールを投げる事だと息子に説く。
自分の投げたい球を投げる事ではない。
相手が取りやすいように、胸元へ向けて投げる。
取れないボールを投げれば、相手は取り損なってボールを体にぶつけて痛い思いをするかもしれない。後逸すれば、ボールを取りに行く時間が無駄になる。

そして何よりも、きちんと投げる事は自分のコントロールの練習にもなる。
それはそのまま言葉のキャッチボールにも当てはまる、とふと思う。
論理と感情のボールを互いに投げ合って、相手のボールを受けとめようとしない。
だから母親とのコミュニケーションがうまく取れていない。
にもかかわらず、母親からは誕生日を祝うメールが届いた。

「11時42分(原文では1142分となっている)に生まれた ただ嬉しかった」
そんな言葉が綴られていた。嫁姑問題はもう解決は無理かもしれないが、自分と母親との関係改善はまだまだ十分可能だ。せめてそのくらいの「苦労」はしないといけないだろう。

始終苦労しても良いじゃないかと思う。
四苦八苦も避けられるものではないというのが仏の教え。
ならば、ラグビーをやっていた者として、「倒れる時は前へ」という気概で迎えなければなるまい。親や家族の想いをすべて受け止めよう。

そんな49erでありたいと思うのである・・・


【今週の読書】

これから世界で起こること - 中原 圭介  真夏の方程式 (文春文庫 ひ 13-10) - 東野 圭吾





2013年5月26日日曜日

コミュニケーション・ギャップ

橋下氏、米軍司令官に「風俗業活用を」 沖縄・普天間
(朝日新聞) 2013年05月13日 21時12分

 日本維新の会の橋下徹共同代表は13日夕、今月初めに沖縄県の米軍普天間飛行場を訪問した際、司令官に「もっと風俗業を活用してほしい」と進言した、と明らかにした。市役所で記者団に語った。

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 先週は橋下さんの発言を巡っての騒動があった。橋下さんについては、特段どうこうという感情はないものの、いろいろな事を感じさせた騒動であった。そもそもであるが、米軍の普天間基地を訪問した際、司令官に「もっと風俗業を活用してほしい」と進言したそうであるが、もの凄く大胆な発言だ。風俗と言えば、明るい所で語るには相応しくない話題。政治家が、米軍の司令官に向かって言うなんてなかなか度胸があるところだ。

 沖縄駐留の米兵が乱暴狼藉を働く事はしばしばニュースになっている。聞くところによると、沖縄に限らず、米軍内での強姦等の事件は山のように起こっているらしい。自衛隊ならともかく、いつ死ぬかわからない米軍の場合、そもそも兵隊になろうなんて志願してくる人は、お金に困った若者が多いそうで、とてもではないが紳士とは言えない荒くれ男たちばかりなのだそうで、それは当然の帰結なのだろう。

 そんな男たちを命令で押さえつけようとするより、発散させた方が良いというのは、実はもの凄く合理的な考え方だ。ツイッターで橋下さんの弁明を読んでいたが、さすが弁護士だけあって、その主張にはきちんと筋が通っていた。それに対する反論はと言えば、概ね感情論が強かったようである。

 「理論」と「感情」が衝突した場合、双方ともに噛み合う事はなく、当然きれいな解決などあり得ない。ロジックでいくら正しくとも、やはり白日のもとに晒す内容ではない。風俗を「性的なエネルギーを合法的に解消できる場所」と橋本さんは説明していたが、そもそも例えばソープランドが合法的かと言えば、明らかに違法だ。

 売春が違法行為である事は自明の事だし、ソープランドで行われているサービスは男ならみんな知っている通りであるから、改めて議論するまでもない。言ってみれば、憲法上の都合で軍隊を自衛隊と言っているのと同じ事である。必要悪と認められているから、警察なども暗黙の了解で目を瞑っているだけなのだ。それを“合法”だと堂々と言うのはおかしな事だし、そもそも良識ある人なら、フォーマルな食事の席で下ネタなど持ちださない。内容は正しくとも、公の場で言う事ではなかったという意味で、橋下さんの負けだろう。

 それにしても、それに対する感情論には辟易するのも確か。橋下さんも「慰安婦制度じゃなくても風俗業は必要だと思う」なんて、「慰安婦」などという禁断の言葉を使うから、よけいなところからの反発も招いていた。慰安婦問題こそ、理論対感情論の衝突の見本のような問題。いくらロジックを重ねてみたところで、感情論には通用しない。

 「お前には理屈ではかなわない」と親に匙を投げられている私。親と議論をし、いくら丁寧に順を追って自らの考えを主張しても、両親は納得しない。「理屈ではかなわない」という事は、「筋が通って正しいから」と考える私に対し、両親は「頭が悪いから正しい自分の考えを説明できないだけ」と考える。橋本さんの怒涛のようなツイッターの主張を読んでいて、いくら正論を吐いたところで通用しないだろうなと感じてしまったのも、そんな自らの体験からくるものである。

 そう感じるなら、自分も親に対する接し方を変えれば良いと、頭では理解できる。だが、そのためにはどうしたらよいのだろうかと、「筋道を立てて」考え始めている。だからなのだろう、いつも両親は私に対して不満気だ。「理解してから理解してもらう」というスタンスが必要なのだろうが、まだまだ修行が足りないようである。

 今日もまた不毛な議論をしてしまい、自己嫌悪に陥っている。コミュニケーションって本当に難しいと思うのである・・・

【今週の読書】

星野リゾートの教科書 : サービスと利益両立の法則 マーケティングの教科書  天空の蜂 (講談社文庫 ひ 17-19) - 東野 圭吾





2013年5月19日日曜日

結婚の形

 いつも拝見しているブログ「Chikirinの日記」に、<婚外子の比率の変化>という数字が示されていた。これは、「全出生数に占める、婚外子の出生数比率」、すなわち「結婚していない母親から生まれた子供の比率」の国際比較である。「Chikirinの日記」の趣旨とは離れてしまうが、この数字を見ていていろいろと考えてしまった。

スウェーデン  39.7% → 54.7%
フランス    11.4% → 52.6%
------------------------------------------------
イギリス    11.5% → 43.7%
オランダ    4.1% → 41.2%
米国      18.4% → 40.5%
ドイツ     15.1% → 32.1%
スペイン    3.9% → 31.7%
------------------------------------------------
カナダ     12.8% → 27.3%
イタリア    4.3% → 17.7%
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日本      0.8% → 2.1%

 この表を単純に見ると、スウェーデンやフランスでは、子供二人のうち一人は未婚の母、今風に言えばシングルマザーの子供であるという事である。日本の感覚から言うと、想像するのは難しい。

 もっともよくよく定義を確認すると、「結婚していない母親」とあるだけで、「未婚の母」ではあるけれど、「シングルマザー」ではないかもしれないと気がつく。「両親とも揃って家族で暮らしているが、両親は(法的に)結婚していない」という状況も含まれているだろうからである。そうなると感覚的には少し近くなる。

 日本でも同棲は珍しくないが、それでも同棲していて子供が出来たら、自然と結婚となるだろう。「デキ婚」という言葉がある通り、日本的感覚では、「子供ができたら結婚する」というのは若い世代でも同じだと思う。それはなんでなのだろうかと言えば、やっぱり「世間の目」と「現実の生活」なのだろう。

 今でこそ、女性の社会進出もかつてよりは進んで、「女性の幸福は結婚して子供を生んで幸せな家庭を築くこと」なんて言う人は少なくなっているだろうが、それでも「結婚しないのに子供を生んで働いている女」が良いイメージでとらえられる事はない。

 それと現実的に子供を預けて働いて、男と遜色ない収入を得ていくという事を考えると、女性には限りなくハンディがある。スウェーデンを始めとした欧米諸国には、そうした社会的・経済的ハンディがないからこその、上記の結果なのだろう。それはまた離婚率という形でも表れてくる問題だと思う。

 日本では結婚して子供ができてしまうと、女性は離婚しにくくなる。それは世間体というより、今度は経済的事情が大きくなるだろう。「子供のために我慢している」という「家庭内離婚」の話はよく聞くし、ひょっとしたら我が家もそうなのかもしれないなどと青くなってみたりもする。

 婚外子の比率が低いから、あるいは離婚率が低いから、我が国は欧米よりも夫婦仲がよい幸福な社会だなどとは言えない。「子はかすがい」という言葉が我が国にはあるが、それも古くから家庭内離婚が存在していた事を表している証拠だと思う。

 女性の社会進出が進んでより一層の経済力をつけた時、欧米のように婚外子が増えるかどうかはわからないが、子供の成長によって「かすがい効果」を喪失し、離婚率が増える事は間違いない気がする。

 動物界を見まわした時、つがいが生涯添い遂げるという種は少ないようである。人類も子孫を残す時だけつがいになり、役目を終えればそれぞれ離れ離れになるという時代が来るのであろうか。それとも法律的な結婚は意味を喪失し、単に事実婚が増えていくだけの事なのだろうか。

 自分の先行きと合わせて考えてみると、何だか複雑な気分になるのは、私だけだろうかと思うのである・・・


2013年5月15日水曜日

安倍政権に思う

 政権誕生以来、アベノミクスで世の中は湧きたっている。政権支持率も高く、民主党の反動だけでなく、安部総理自身2度目の正直ともいうべきか、船出以来順調に航海を続けている。そして憲法改正にも言及し、どうやら夏の参院選のテーマの1つにもなってきそうである。

 もともと個人的には憲法改正論者だし、それはそれで悪くない。何といっても第9条は早く第2項を削除すべきだし、専門家によると89条なんかは私立大学への助成金など違憲になりそうであるらしいし、その他にもあるかもしれないし、一度現代にあった形に修正すべきである。

 だが、安倍さんの掲げている憲法改正のターゲットは第96条。最初は何かわからなかったが、憲法改正の要件を定めた条項だ。「議員の2/3以上の賛成」が必要とされるところを「1/2」に変えるのだとか。いきなり“本丸”第9条にかかるよりも、まずは外堀から埋める「冬の陣」作戦なのだろうか。たぶん、2/3を取るという事が、相当ハードだと考えているのだろう。

 世論も今では憲法改正賛成派が過半数を越えていると言われているから、国会さえ通せば「イケル」と考えているのだろう。まあこの程度は良いんじゃないかと思う人も多いだろうし、最後は国民投票というハードルがあるし、問題は多くはなさそうな気がする。

 共産党系のように、「一文字でも変えるのはダメ」という雰囲気の人は認めないだろうが、これで絶対反対の野党を除き、ゆるやかな野党を仲間に入れて2/3をクリアしようというのだろう。「将を射んとすれば馬より」といったところだ。

 それはそれそれで理解はできるのだが、どうも個人的に諸手を挙げて賛成という気分にはなれない。確かに、家康は大阪冬の陣でうまく立ち回って外堀を埋めさせ、そして夏の陣で無敵の大阪城を落とした。そのやり方は、正面突破方式よりも、被害も少なく効率的に豊臣家を滅ぼせたのかもしれない。しかし、どうせなら錦の御旗を掲げ、堂々と正面突破してほしいものだと個人的には思う。

 そもそもであるが、ここまで順調に来て今やるべき事が憲法改正なのだろうか。私が総理大臣だったら、まずは「国会議員削減」と「公務員削減」だ。「0増5減」なんてお茶を濁している場合ではない。このテーマは「嘘つき民主党」が堂々と掲げてやらなかった「人気政策」だ。今こそ100議席ぐらい減らすと掲げて衆参ダブル選挙に打って出るだろう。「公務員削減」とセットにして、「自民党は民主党と違って言った事はやる」「いつやるか、今でしょ!」とやるのだ。

 消費税を上げたって国家財政は改善しないし、崖に向かって突っ走っている状況には変わりない。国民誰もがやれと思っていて、誰もやらなかった事をやると堂々と掲げたら、それは国民は支持するだろう。選挙対策なんて何もしなくても圧勝できるはずだ。第96条なんて言う前に、2/3の議席確保だって夢ではないだろう。そうしたら、ゆっくりコーヒーを飲みながら憲法改正議論ができるはずだ。

 民主党は、小沢さんが本来党を支えなければならない時に、自我を優先して崩壊の道を辿った。チームが勝たなければならない時に、個人記録を優先したようなものだ。荒れ狂う波間に漂う船中で、船長の座を争って民主党は坂を転げ落ちた。今自民党は順風満帆で追い風が吹いている。ならば先を急ぐ前に、もっと帆を広く張る事が、結局は早く遠くへ行く事に繋がると思うのは私だけだろうか。

 なんとももどかしく感じるのである・・・

【本日の読書】

情報調査力のプロフェッショナル―ビジネスの質を高める「調べる力」 - 上野 佳恵  舟を編む





2013年5月12日日曜日

国民栄誉賞

 先日、長嶋と松井が国民栄誉賞に輝き、ジャイアンツファンとして、そして何よりも長嶋ファンとしてそのニュースを喜んでいた。その後、ミスターは多摩川グラウンドを訪れたとニュースでやっていた。そのニュースを見て、小学生の頃、はるばる自転車を飛ばして同所へ行き、ミスターにサインをもらった事を懐かしく思いだした。

 それはそれで良いのだが、興奮が冷めてくると何だか疑問に思う事がでてきた。受賞そのものには何の異論もないし大賛成なのだが、なんでこの時期なんだろうとか、他にはいないのだろうかとか、諸々である。たぶん、時期としては松井が引退した事が大きいのだろう。だが、ミスターは何で今まで放っておかれたのかわからない。

 ONコンビの王さんは、ホームランの世界記録というタイミングだったが、ミスターは相応しいタイミングがなかったのだろう。たまたま時期に巡り合った松井が候補に上がり、「松井がもらうのにミスターがもらわないのがおかしい」となったのだろう。たぶんそれがなければ、ミスターの受賞は死んだ時だったに違いない。

 事実、過去の受賞者22人+1団体のうち12人が没後受賞だ。死んではじめて“思い出された”と言える。そういう意味では、タイミングがすべてのようだ。亡くなってから「あぁそうだ」って思いだしてもらえるか、オリンピックなどで活躍して話題になるか。

 松井は謙虚な人だから、受賞を恐縮していたようだが、プロ野球界だってふさわしい人はたくさんいる。神様稲尾、カネやん金田、野村監督、安打製造機張本、世界記録だったら金本もそうだ。野球以外でもたぶんふさわしい人はたくさんいるだろう。

 受賞にあたっては何かルールがあるのかと言えばそうでもないようだ。時期もバラバラ。2000年に高橋尚子がシドニーオリンピックで金メダルを取ってもらっているが、そのあとは9年後だ。しかもその2009年は遠藤実(1月)、森光子(7月)、森繁久爾(12月)と連発。まぁもともとルールなんてないようだし、時の政権がその時々で選んでいる。だから、「政権の人気取り」なんて声も聞こえてくる。

 もう少しルールを明確にして、毎年表彰するようにしても良いのではないかという気がする。没後受賞もいいけれど、できれば生前受賞の方が良いに決まっている。「政権の人気取り」と陰口を叩かれるようなものでない事が良いだろう。毎年大晦日に発表したりしても良いのではないだろうか。

 長嶋さんが没後受賞なんて寂しい事にならなかったのは実に幸いであるが、そんな風に思った国民栄誉賞なのである・・・


2013年5月6日月曜日

GW

GWも早や最終日である。
今年は前半3日、3日間おいて後半4日という構成であった。
もっとも1日休みをもらったので、3-2-5という構成となった。
世間もまだまだ厳しいところが多い中、ありがたいことだと思う。

 考えてみれば、私が社会人になった26年前は銀行はまだ土曜日の営業をしていた。振替休日の制度はもっと早く始ったような記憶があるが、日本人の働き過ぎが海外で批判を浴び、休日が増えていったように記憶している。5月4日は、いつもカレンダーと睨めっこしてうまく休みと重ならないかと思っていたものだが、いまや堂々と祝日(みどりの日)となっている。そうした恩恵が、今回は後半の4日間に活きている。

 せっかくのまとまった休日ではあるものの、どこかに旅行に行こうなどという話は我が家では出てこない。それは金銭的な理由もあるが、一番大きな理由は渋滞・混雑だ。この時期、間違ってもディズニーランドに行こうとか、新幹線や高速を使って遠方に泊まりに行こうなどという話は、我が家では出てこない。事実、鉄道や高速道路の渋滞のニュースが、その判断に正当性を与えている。

 近場でも鉄道が繋がった横浜の中華街や川越、そしてスカイツリーなどの観光スポットも大変なにぎわいだったようだ。どうしてそうなるのかと言えば、やはり日本人の勤勉性のゆえだろうかと思う。例えばスカイツリーがオープンしたから、休みを取って行こうなどとは普通は思わないだろう。我が家も行くとしたら土日だし、それも混んでいるだろうからしばらく経ってからという有り様だ。まぁ子供の学校があるから、私が仮に休みを取ったとしても同じではあるのだが・・・

 だいぶ緩和されたとは言え、まだまだ「働く事は美徳、休むのは悪」という考え方は日本社会に広く浸透していると思う。それゆえに海外から「日本人は働き過ぎ」と批判されても休まず、わざわざ休ませるために祝日を作らないといけなかったのだと思う。祝日まで作って、ようやく“仕方なしに”“みんなが休むから”休むのであって、それゆえにみんなの休みが集中するから混雑するのであろう。

 今となっては「働き過ぎ」と批判の声は聞かないが、それはよく休むようになったためというよりも、日本の経済力が落ちてきたせいではないと思う。我が職場でも、実は休みはむしろ推奨されているが、仕事が残っていると別にそれが急ぎのものでなくとも、何となく休みを取る事に抵抗感がある。それは帰るにしても同じで、みんなが仕事をしている中、一人先に帰るのは何となく心苦しく感じる。日本人の平等意識もあるのだろうが、仲間が働いているのに休んだり先に帰ったりするのに抵抗感を覚える者は少なくないと思う。

 「働くのが美徳」という風潮は悪い事ではない。戦後の荒廃から日本が復活した原動力だと思うし、それが今でも経済大国を支えている要因だと思う。問題は、それが行き過ぎて「休むのは悪」となってしまっている事だろう。メーカーのように会社全体が休みになる所は問題ないだろうが、交代で休むとなると“実害”が出てくる。

 それは周りの同僚に休み中の対応をしてもらうという負担をかける事であるが、普通の感覚の持ち主であれば、「気兼ねなく」というのは難しい。ただそうした負担は「お互い様」と割り切れば、気兼ねがなくなるのも事実。それが証拠に、夏休みはみんな遠慮なく取れる雰囲気になっている。
それが普段にも及べば、休みも取りやすくなるだろう。

 夏休みだって、子供がいれば無理だろうが、そうでなければわざわざ夏に取る必要もない。そういう意識が我が職場だけでなく、日本人のDNAに刷り込まれれば、お盆や正月、連休にどこもかしこも混雑するという状況が少しは改善されるのではないかと思う。

 まあ現状でも工夫次第のところはある。遠くへ泊まりで行かなくても、我が家は江戸東京博物館へ行き、恒例の森林公園に行き、近所に新たにオープンしたイオンを買い物がてら見に行き、『夜更かしデー』と称した家族での映画鑑賞は子供たちに大好評であった。もともと天の邪鬼だから、人とは反対の行動を取りたがるところがあるのだが、おかげで渋滞や混雑のストレスはほとんどなかったし、これはこれで楽しい過ごし方だったと思う。

 子供たちももう少し大きくなってくると、またGWの過ごし方の変わっていくのかもしれない。子供たちが社会に出る頃には、働く事と休む事のバランスがどのようになっているのだろう。「働く事が美徳」というDNAは是非残していってもらいたいが、「休む時は(みんな一緒でなくても)休む」という賢い選択ができるようになっていればいいだろうにと思う。

 まあ定年まであと10数年。「毎日が日曜日」となるまでは、工夫をこらした休みを過ごしたいと思うのである・・・



2013年5月3日金曜日

ジパング

 以前は毎週金曜日に漫画喫茶に行くのを習慣としていた。一週間の仕事の対価に、リラックスして漫画を読むのが気に入っていたのだ。その習慣がここのところしばらく絶えていたのは、忙しいのもあったが、これといった漫画がなかった事もある。それが最近復活しつつある。その理由がこの漫画。

ジパング 超合本版(1) (モーニングコミックス) - かわぐちかいじ 実はかなり前に連載を終わっているものなのだが、その存在を知らないままでいたのである。偶然知るところとなり、読み始めたら面白そうだとなった次第である。

 ストーリーは、海上自衛隊のイージス艦「みらい」が、太平洋を航行中、なぞの気象現象により1942年6月にタイムスリップしてしまうというものである。何だか、その昔映画(『ファイナル・カウントダウン』)にあったようなストーリーである。『ファイナル・カウントダウン』は米海軍の原子力空母だったが、それがここではイージス艦である。

 太平洋戦争当時の軍事力と比べたら、原子力空母の威力は凄いが、イージス艦もまた然り。世の中の人がどのくらいイージス艦の事を知っているかわからないが、これがかなりのシロモノ。見かけは昔の軍艦などから比べると劣るものの、近代装備で武装した戦力は相当なものらしい。

 かつて韓国軍と日本軍が戦ったら、というシミュレーションがなされたらしいが、韓国海軍は1時間足らずで壊滅したという。その原動力となったのがイージス艦である。優れた電子装備とミサイルやら魚雷やらを搭載し、空からでも海の中からでも、「どこからでも来い」という感じらしい。

 その昔、『亡国のイージス』という映画化もされた本を読んだが、そこでもその優れた戦力は説明されていたし、だからこそ物語に取り上げられるのだろう。それは価格にも表れていて、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」クラスだと、1隻で1,244億円するらしい。それが今日本には6隻あるという・・・

 韓国海軍を1時間で壊滅させられるほどの戦力が果たして必要なのだろうかと考えると、それは必要なのだろう(「どこの国にとって」必要なのか、はあえて言うまい)。それだけの高性能の軍備となると、アメリカもやたらな国には売れないだろう。下手したら、自分の所の空母の脅威になる(ちなみにアメリカの原子力空母ニミッツは3兆円するらしい)。持たせても安心で、しかも黙ってポンと買ってくれる同盟国はそうそうないだろう。

 そんな破格な高装備なわけであるから、せめて映画や小説や漫画の中ぐらいでは活躍してもらわないといけない。第1巻では、さっそく米海軍(太平洋戦争時の、だ)の潜水艦と遭遇。その突出した能力で米潜水艦を手玉に取った。2巻、3巻と続き、いよいよ“現地の海軍将校”と接触したみらい。どんな展開になるのだろう。歴史のパラドックスは?

 この先、金曜日の夜がまたちょっと楽しみになりそうである・・・

    

2013年4月29日月曜日

浜松餃子ツアー

2年前は宇都宮。
昨年は月島もんじゃ。
我が家の
GW恒例となりつつあるグルメツアーであるが、今年は浜松餃子ツアーに決定。「やっぱり東の宇都宮を制したあとは西の浜松じゃない?」との我が家のグルメ族の意見に従った次第である。

 まあ新東名高速も一度利用してみたかったし、ちょっと遠いけどGWだし、ドライブを兼ねていいだろうと家族の意見も一致。その新東名であるが、渋滞は御殿場で解消したため、スイスイと快適なドライブ。道路がゆったりと作ってあるのだろうか、スピードを出している感覚がまるでなく、我が家の警報機である妻も珍しくスピードに何も言わない。それどころか、自ら110キロ以上出して運転していても平気な顔をしていたくらいだから、何か工夫がされているのかもしれない。

 現地に到着したのは昼過ぎ。渋滞でスケジュールが少し狂ってしまった。事前にグルメランキングをいくつかチェックして、全部で4店を回る。最初に訪れたのは“石松”。されど1時間半待ちという状況で、時間も惜しく、断念して“豚猿”へ向かう。


 「初代G1を制した店」という触れ込みであったが、残念ながらどうもパンチ力が弱い。おいしい事はおいしいのである。だけど、こちらはわざわざ東京からその為だけに来ているわけで、宇都宮レベルと比べてしまうと弱い。その昔は食べ物にあれこれ言わず何でも黙って食べていた私であるが、妻と結婚して以来舌が肥えたようで、こういう味感覚もいつのまにかついていると自覚。

 続いて“福みつ”へ移動。待つ事約40分。ここは皮が特徴的。さらに“むつぎく”。ここは小ぶりで、野菜中心。だんだんとレベルが上がっていく感じ。そして最後に訪れたのが、昼間断念した“石松”

 あちこちのグルメ大会を制している有名店だそうで、お待ちも半端ではない。最後だから腰を据えて待つ事1時間半。その甲斐あってか、ここが一番おいしかった。少し甘みがあって、「皮と中身とのバランスが一番良い」(我が家のグルメ大臣評)。宇都宮の名店に対抗しうるレベルだった。


 難を言えば、店舗運営だろうか。メニューが餃子だけの割には待ち時間が長すぎる。外の駐車場も3ヵ所の連絡がうまくできていないようだし、妻の観察によれば案内の手際も悪かったようである。まぁそれでも駐車場の誘導員をしていたおじいさんは、気の良い田舎のおじいさんという感じで悪い気はしなかったが、少しアドバイスをしたいところだった。

 東京でおいしい餃子というと王将くらいしか知らないし、それから比べると4店それぞれ個性があって良かったが、最後の石松はともかく、やっぱり「餃子は宇都宮」というのが我が家の結論。2年前の宇都宮では早々にギブアップした長男も、今回は最後までしっかり食べていた。家族4人で食べた餃子の総数は144個だった。

 さて、早くも「来年はどうしよう」という声が上がる。東名高速の途中で目にしたのは「富士宮」。まずは「富士宮焼きそばツアー」が候補に上がった。まあ来年までゆっくり議論をしていく事になるだろう。その前に、今年はもう少し走ってシェイプ・アップしようと思うのである・・・
   

 

 

2013年4月25日木曜日

アジアの友

 安倍晋三首相は24日午後の参院予算委員会で、中国や韓国が麻生太郎副総理ら閣僚の靖国参拝に反発していることに関し、「国のために尊い命を落とした英霊に対し、尊崇の念を表するのは当たり前だ」と強調した上で、「わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない。その自由は確保している」と述べた。今後も閣僚の靖国参拝を容認する考えを示唆した発言で、中韓両国が一段と反発する可能性がある。~略~
 麻生副総理も「世界中で祖国のために尊い命を投げ出した人たちに、政府が最高の栄誉で敬することを禁じている国はない」と主張。古屋圭司国家公安委員長は「国会議員として、国のために命をささげた英霊に哀悼の誠をささげるのは当然だ」と述べた。

(毎日新聞)
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 いや実にはっきりとしたモノ言いで痛快である。もともと安倍さんは、この手の発言を繰り返していたようだが、政権に返り咲いて、しかも高い支持率をバックによけい強気になっているのかもしれない。言っている事はまさに正論であって、一分の異論もないところである。問題は中韓に対する影響だろう。

 だが個人的にはそれを踏まえた上でも、堂々と主張すべきだと最近は思う。以前は相手と付き合う以上、相手の嫌がる事は避けるべきではないかと考えていた。だから意見は意見として、それを言うか言わぬかは別と考えていた。相手への配慮も必要だと思うからである。だが、最近はそう思わなくなってきた。


 一つは文化の違い。中韓とも強烈な「自己主張の文化」の国。一方日本は「謙譲の文化」。相手の事を慮って譲るのを美徳としている文化と、とにかく自分の意見を強烈に主張して欲しい物を獲得しようとする文化は、水と油。自分達のモノサシで相手を測るのは、正しくない。

 互いに自己主張をぶつけ合っている文化圏の人々だ。こちらが自己主張をぶつけたって怯まない逞しさは備えているだろう。それにいじめっ子が虐めるのは、相手が反撃しないからに他ならない。抵抗しないとわかっているから、嵩にかかって攻めるのである。そんな反撃は、100年前なら戦争になっていただろうが、現代ではその心配はない。恐れずに一度トコトン主張してみるべきだと思う。

 それにしても侵略の歴史は如何ともしがたいものがある。我が国にとっては、侵略もやむなきものであったとしても、相手にとってはそうではない。諸悪の根源は、帝国主義を振りかざして世界中を支配しようとした欧米列強なのであるが、我が国は最後にババを引いてしまった不運がある。中韓の人たちは、その恨みを欧米列強にはぶつけられず、大人しい我が国にぶつけてきているのである。我々にとってこの侵略問題は、キリスト教で言う原罪なのだと思う。

 しかし、ではずっとこの先も耐えていかなければならないのだろうかと思うと、それもどうかと思う。真っ向から自己主張して喧嘩をすべしとは思うものの、それもしんどいところがある。ではどうすべきか。答えは「他のアジアの国々と仲良くする」だと思う。

 何も自分を憎む相手と無理に仲良くしなくてもいいだろう。最低限度の付き合いだけ保って、あとは目を南に向けるのだ。目を地図の下に向ければ、何より親日国の台湾がある。震災の時に一番多くの援助を寄せてくれた国だ。同じ日本支配下にあってもなお、親日でいてくれる。それにタイもあるし、インドネシア、フィリピン、マレーシア、シンガポールと多くの国々がある。反日的な国はない。

 先の大戦では、日本が欧米列強を追い払い独立のきっかけを作ってくれたと認めてくれている。こういう国々ともっと親しくなるべきだ。最近、台湾映画を観る機会が増えて来たが、なかなかどうして面白い。韓流ドラマなんかやめて台湾の映画でもドラマでも観たらいいのだ。アジアの国々の映画やドラマをもっと観たら、さらに理解も進んで良いと思う。引け目を感じながらの付き合いなど、普段の人間関係をみても正常とは言えない。敬意をもって付き合えば、きっとお互い幸せな関係を築けると思うのである。

 それにしても、冒頭のニュースも何かいかがわしいものを感じる。中韓が反発する事がわかっていながら、靖国参拝を大きく報じ、国会答弁を取り上げる。これぞ国賊モノだと思えてならない。他の神社に参拝しても同じように報じるか?靖国神社参拝を報じるのは、「それがニュースになる」からだ。黙っていれば、中韓だって一々監視しているわけではないからわからないだろう。実は喧嘩を「煽っている」のはマスコミなのである。

 この国は政治家を一新する前に、マスコミを掃除するところから始めないとなかなか良い国にはなれないとつくづく思うのである・・・






2013年4月21日日曜日

将来の職業

 平日は家族と食事の時間が合わないが、週末は家族で食卓を囲む。テレビはつけず、みんなで会話するようにしている。と言っても、普段は妻と子供たちの食卓に週末私が加わるといった図式だろうか。ただ私からしてみると、子供たちの近況や考えを知る一つの機会となっている。

 今回は娘の職業観を聞く事となった。将来は薬剤師の資格を取るのだと言う。中学1年になったばかりで、どこから仕入れて来たのか、堅実な目標を掲げるものだと意外に思う。聞けば免許があれば食いっぱぐれないでしょうという返事。どこかでそう教えられたのだろうか。

 父親的には、もっと夢のある理由を語って欲しかったところである。例えば病気を治す手伝いをしたい、とか。研究職みたいなものに興味があるというから、新しい薬の開発をしてみたいとか。「資格があればお金になるんでしょ」という発言からすると、どうやら目的はお金のようである。

 子供らしい、と言うのだろうか言えないのだろうかは微妙なところだが、少々軌道修正が必要なようだと感じる。資格というものは、ただ「その仕事ができる」というものにしか過ぎない。問題はその資格を使って何をするか、だ。お金儲けなのか、人類への奉仕なのか、その目的はともかくとして、「資格を取れば安泰」と考えているなら親として正してやらねばなるまい。

 私も世間の親並みに、子供には安定して穏やかな人生を送ってほしいと思う。ただ、だから公務員になれとか、資格を取れというのは、そのためのアドバイスにはならないだろう。何のためにその仕事をするのか、したいのか。まずは目的意識からだろうか。「就職難の時代だから薬剤師の資格を取っておく」というのは、最終的には悪くはないが、中学1年生の語る理由には相応しくない。

 考えてみれば、ある程度現実を知る親の立場として、どんなアドバイスを送るのかは難しいところだ。例えば自分が卒業を控えた大学生に戻ったら、就職はどうするだろうか。また銀行員になるのだろうかと問われれば、答えはたぶんNoだ。別に嫌な職業だというのではなく、もう25年もやったから今度は別の仕事がしてみたいという単純な興味だ。では何が良いかと言うと、なかなか悩ましい。

 お金という要素も重要だ。やっぱり夢のある仕事をしたいと思うが、生活苦を抱えていては夢もしぼむだろう。「お金で幸せにはなれないが、不幸は追い払う事ができる」とは、私の好きな言葉でもあるが、ある程度の収入は必要だ。薬剤師の資格を取っても、薬局のオーナーか店員かでも収入は違うし、企業に勤めて研究するのもまた違う。娘にはそんな話をした。オーナーでも儲かっている店とそうでない店とでもだいぶ違う。

 目的と手段とをきちんと選択しないといけないだろう。理想的にはきちんとした目的(何がしたいか)があって、そのためにどうする(どんな職業に就く)と考えたいものである。そのためには、薬剤師も悪くはないが、そもそももっと目を広く向けて、いろいろな職業を知る事が大事な気がする。

 自分自身を思い返してみても、中学生の頃は「将来こんな職業に就きたい」なんて希望はあまりなかった気がする。それはそもそも視野が狭くてわからなかったというのが大きい。そこで、『新 13歳のハローワーク』をさっそくアマゾンでオーダーしてみた。今度娘と一緒に見て、いろいろと話をしてみようと思う。

 親でさえ悪戦苦闘中なのだ。あまり偉そうな事は言えない。ただ自分の足できちんと歩いて行ける大人になってもらうためには、歩く練習には真面目に付き合ってあげたいと思うのである・・・


【今週の読書】
影響力の武器[新版] 人を動かす七つの原理 - ロバート・B・チャルディーニ, 社会行動研究会  吾輩は猫である - 夏目 漱石






2013年4月18日木曜日

Amazonが便利

 その昔、長野県の御代田という町に住む従兄弟の家に、毎年春休みと夏休みに遊びに行っていた。かれこれ35年ほど前になるが、当時従兄弟の家の周辺はと言えば、買い物には不便なところだった。何か買おうと思っても、近所にあるのは小さな店が一軒だけ。

 今でもよく覚えているが、その小さな店の戸を開けて中に入ると畳の上に商品が並べてある。とりあえず日用雑貨やお菓子などが、売られているような店だった。もちろん、すべて定価である。それでも他はと言えば、30分ほど歩いて駅まで行かなければいけなかったから、大概はそこで済ませていたようである。

 翻って今は便利な世の中だ。特にネットショッピング。私もよく本を買うが、Amazonでオーダーしておけば、2~3日で家に届く。あちこちで手に入れたポイントをAmazonのギフトカードに交換して使っているから、お金もそんなにかからない。すっかり愛用している。

 私にとって便利な“本屋”だったが、最近遅ればせながら本以外にも品揃えがかなり多岐にわたっているのに気がついた。以前から何となく気付いてはいたが、「本屋に電球を買いに行く」ような違和感があって、あまり意識していなかったのである。
「本はAmazon、その他は楽天市場」
何となくそんな棲み分けをしていた。

 ところが、気がついてみると実にいろいろな品揃え。家電からファッション、なんとスイーツまでジャンルは多岐にわたっている。先週末にラグビーの練習に行き、25年前のジャージはさすがに古臭いので買い変えようと試しに検索したら、「あった」。娘が電子辞書が欲しいと言い出したから、どんなものかと試しに検索したら、「あった」。おじさんにグローブを買ってもらった息子に、軟式ボールを買ってやろうと思って検索したら、やっぱり「あった」。

 ネットショッピングも最初の頃は、直接手に取って見る事ができないから、ファッションなんかは向いていないなんて言われていたが、ジャージなんかはどんなものか大体わかるし、値段もそんなに高くないから「えいや!」で買っても後悔はしないだろう。電子辞書に至っては、「Amazon限定モデル」なんてのもあるから、下手に家電量販店に行くよりいいかもしれない。まぁさすがにボール1個なんてのは向いていないかもしれないが、モノと値段の参考にはなる。

 いつも行っていた1階の本屋だが、気がついたら2階から上は百貨店だったという感じである。これだと楽天もうかうかしていられないのではないだろうか。これからは、否が応でも両者を比較してから買う事になるだろう。同じものなら価格勝負になるが、やっぱりそう大して変わりない。

 するとポイントなどの付帯サービスになるが、この点では楽天カードのある楽天の方がちょっとお得感がある。買い物やアンケートで溜まったポイントが使えるから、若干有利だ。だが、先の電子辞書のように「限定商品」などがあると、Amazonも負けていない。モノによってあれこれと比較検討する事になるのだろう。

 それにしても、最近ではおもちゃを始めとして、家電以外でも“リアル店舗”では家電量販店が便利な事この上ない。ネットではAmazonか楽天か。欲しいものはまず“検索”。それから、「どこで買おうかな」だろうか。

 息子の軟式ボールは取りあえず近所の高田スポーツに見に行った。狭い店内に入ると、店主ご夫婦が揃ってお出迎え。他に客はいない。笑顔で要件を聞かれ、野球のボールと答えると、サイズの説明をしてくれた上で真新しいボールを箱から出してくれた。「400円です」と言われ、瞬間的に「高いな」と思ったものの、断れる状況にはなく1個買って帰ってきた。

まぁこういう商売も、まだまだあって良いと思うのである・・・


【本日の読書】

影響力の武器[新版] 人を動かす七つの原理 - ロバート・B・チャルディーニ, 社会行動研究会  吾輩は猫である - 夏目 漱石