2026年6月18日木曜日

論語雑感 子罕第九 (その1)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
孔子於鄉黨、恂恂如也。似不能言者。其在宗廟朝廷、便便言。唯謹爾。
【読み下し】
こうきょうとういては、恂恂じゅんじゅんじょたり。うことあたわざるものたり。そうびょうちょうているや、便便べんべんとしてう。つつしめるのみ。
【訳】
孔子先生は、自宅に引きこもっておいでの時には、単純素樸なご態度で、お話などまるでおできにならないかのように見える。ところが、宗廟や朝廷においでになると、いうべきことは堂々といわれる。ただ慎みだけは決してお忘れにならない。
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 小説家平野啓一郎が提唱している概念に『分人』というのがある(『私とは何か-「個人」から「分人」へ-』)。これは1人の人間は複数の対人関係のネットワークであり、「本当の自分」という中心はないという概念である。つまり、誰でも「会社での顔」、「家庭内での顔」、「友人に対する顔」、「恋人に対する顔」というように様々な顔があるということ。個人的にはまさにその通りだと思っている。そのどれもが「本当の自分」であり、そうするとある一面をもって「自分はこういう人間」と定義することはできない。

 大学時代、ラグビー部に所属していた私は、4年次に「対外交渉」担当になった。そこで知り合ったラグビー協会のレフリーの方と仲良くなった。そこである練習試合のレフリーをお願いした。公式戦はラグビー協会からレフリーが派遣されるが、当時の我々にとって練習試合はレフリー(それも一定レベル以上の方)の確保が難しかったのである。快く試合の笛を吹いていただいたが、試合後に「(試合中の)顔が全然違ったね」と言われた。私は普段は穏やかだが、試合となれば闘志をむき出しにしていたのである。

 それは別に珍しい事ではない。当時の我々のキャプテンも、普段はいじられキャラだったが、試合ではみんなを鼓舞する立派なリーダーだった。どれが本当のその人の姿かと言えば、そのどれもがその人であると言える。また、私の父は典型的な「内弁慶」である。家の中ではわりと強いことを言っているが、外に出ればほとんど自己主張をしない。まるで「借りてきた猫」である。その両方の顔を見ていると面白いくらいである。たぶん、父は自己主張が強い人は苦手なのだと思うのである。

 そうした人は多いと思うし、むしろほとんどの人がそうであろう。相手や場面によって自分の中にある顔が入れ替わるのだろうが、元は一つである。また、状況によっても違うだろう。子供の頃、ドリフが好きで「全員集合」をよく見ていたが、ある時別の番組でドリフの面々がインタビューを受けていた。その時、みんな真面目に答えていたが、私にとっては違和感があり、思わず母に「いつもと違う!」と訴えた。母はドリフもいつもふざけているわけではないのだと答えてくれたが、子供の私には新鮮な驚きであった。カトちゃんはいつもズッコケているわけではないのだと初めて知ったのである。

 さらに酒で変わる人もいる。忘れられないのが、銀行に就職して最初に配属になった支店で一緒になった人だ。もうベテランのローン担当者だったが、酒が入ると豹変するのである。仕事中は穏やかでいつも冗談ばかり言っている人だったし、仕事もよくできる人だったと思う。しかし、酒席になると人格が変わり、酷い絡み酒になった。支店長にもよく絡んでいた。飲み屋の店員さんともめることもしょっちゅうだったし、一緒に飲みたくはなかったが、同じ係で先輩となると断りにくいものもあって大変だった。

 人は誰でも相手や状況や環境によって態度が変わるものだろう。それは不思議なことではない。友達でも高校時代の友人と大学時代の友人とではまたこちらの態度も異なる。ある人の一面だけを見てその人をわかった気になっていると、違う場面で違う表情を見て驚いたりする。孔子も弟子から見れば自宅にいる姿と宗廟や朝廷にいる時の顔が違ったという事で、それはある意味不思議なことではない。家にいる時のくつろいだ顔と仕事での厳しい顔が違っていてもおかしくはない。ただ、そこにギャップがあって、弟子がそれを言葉に残したのだと思う。

 高校時代の友人たちと接する自分と大学時代、社会人になってからの友人たちと接する自分の違いはある意味自分の成長の証かもしれない。若い頃の方がバカなことをやっているもので、年を取ってからの友人知人に驚かれるのも無理はない。また、そんな友人たちは仕事中の私の姿を知らないから、もしかしたら驚くかもしれない。また、知り合いには内緒にしているこのブログのことも読んだら驚かれるかもしれない。

 どの顔も自分の中では同じである。それは怒っている時と笑っている時とまったく違うがどちらも自分であるのと同じである。いろいろな自分の顔を多く知っている人こそが私をよく理解している人という事になるのだろうが、そういう人はいないと思う。それがいいのか悪いのかはわからない。「自分を理解してくれる人がいない」と否定的に捉えるか、人に「知られざる自分」を楽しむのか。個人的には後者である。人にはいろいろな顔がある。ただそういうことだと思うのである・・・





【本日の読書】
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