2011年3月28日月曜日

原発問題について考える

さてまた一週間が始った。
相変わらずの節電で、朝の西武線も間引き運転が続いているが、さすがにもう慣れてきた。
以前よりも少し早く家を出て、以前よりも少しだけ時間をかけて、以前よりもかなり混んだ電車での通勤となっている。心配な原発もまだまだ収束の兆しが見えない。
一体どういう結末を迎える事になるのだろうか。
そしていつ元の生活に戻れるのだろうか。

そういう事を考えていくと、原発は今後どうなるのだろうかと思う。
日本の電力の3割は原発が担っているらしい。と言う事は、首都東京が以前と変わらぬ姿に戻るには、原発の稼働なくしてはあり得ないように思う。原発の近くに住んでいる人たちは、たぶん不安を抱えて暮らして行く事になるのだろうし、東京の人間は元に戻れば電気の源など気にもしなくなるだろう。いったいどうやって原発と付き合うべきなのだろうか。

東京の人間にとってみれば、今のような不便な生活を考えればやむなしとなるのではないかと思う。
しかしながら、宮城県の角田に住む 先輩Hは明らかに反対の立場だ。
たぶん原発に賛成か反対かを問うたなら、地元の人たちは反対し、東京の人たちは仕方なく賛成と答えるのだろう。それはどうかという気がする。

今の東京での豊かな生活を維持したければ、地方の人たちに原発を押し付けるのはいかがなものかという気がする。例えば先ほどの同じ質問でも、「では東京に原発を作りましょう」となったら、賛成に手を上げた人は同じ答えを口にするだろうか。
場所にもよるが、東京湾の埋め立て地に原発を作れば、環七道路の内側がほぼ半径20キロ圏内に入る事になる。みんな賛成するだろうか。
たぶん、東京電力なのになぜ福島県に原発があるのかという理由がそこにあるのだろう。

それだといけないだろうなという気がする。
普天間の基地の時もそうだったが、国のために我慢すべきだというのなら、自分がそれを受け入れる立場に立って発言しないといけない。
「東京には原発が必要だ」と発言するなら、自ら原発の近くに住む覚悟が必要だろう。
それが嫌なら賛成すべきではない。東京電力の役員になったなら、全員原発の近くに住むべきなのだ。

それが嫌なら節電にも停電にも文句は言うべきではないし、甘んじて不自由は受け入れないといけないだろう。私は、と聞かれたらやっぱり原発の近くには住みたくない。
「安全だ」という言葉に根拠がないのは今回よくわかったし、一度事が起これば被害は桁はずれだ。
住み慣れた家を、思い出の品々をすべて置いて、取るモノも取りあえず避難しろなどと突然言われるのなんて考えただけでも耐えがたい。

さてそうすると、今の不便な生活を受け入れるべきかとなるが、そもそも東京は贅沢すぎるくらい何でもそろい過ぎている気がする。
7割の発電量でも暮らしていけるように工夫しても良い気がする。
首都への一極集中是正をこの機会に本格的に検討するのもいいだろう。
電気料金を消費量に比例して加速度的に課金すれば、合理的な企業は対応を考えるだろう。

「足りなければ作る」という考え方は良いと思うのだが、ある程度まで行ったなら、「あるもので間に合わせる」という考え方に切り替える必要もあると思う。
それは国の財政にも当てはまる。打ち出の小槌などどこにもないのである。
福島の原発問題にどのような結末が待っているのかはまだわからないが、いずれ起こるかもしれない議論に際し、人に犠牲を押し付けるような考え方だけはすべきではないと思うのである・・・



【本日の読書】
「フリーター家を買う」有川 浩
「ロスト・シンボル(下)」ダン・ブラウン
     

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