2011年3月24日木曜日

非日常の日々雑感

何とも落ち着かない日々が続いている。それでも人間は慣れるものだとつくづく思う。
相変わらず必要以上の混乱を避けるため朝早く家を出ているが、それでも最初の頃の1時間早くから、今朝は40分早くとだんだんと家を出る時間も元に近付いている。
明日は以前より30分早くともう少し縮めてみようと思う。
地震がきて震度5と聞いても何とも思わなくなってしまった。
慣れとは恐ろしい。

そんなところに東京都の浄水場で基準値以上の放射線を検知というニュースが飛び出て来た。
ついに来たかと思うも、「健康にまったく問題ないレベル」という専門家の意見がきちんと付されている。「基準値以上の放射線検知」という事実を報道しなければならないという義務と、混乱を回避しなければという思惑とが入り混じったニュースだ。

しかし、よくよく考えてみれば、ではこの基準値っていったい何なのだと思う。
健康に影響のないレベルの基準値を決めて、何の意味があるのだろう。
本来なら、「ここを越えたらダメ」というのが限界線たる基準値なのではないかと思う。
決めたからには何らかの理由と意味があるはずなのに、それには触れられず、「健康に影響はない」というだけで済ますのもどうかと思う。

娘の小学校のクラスにこの時期に転校生が来たという。福島からと聞いて納得。
聞けば家は第一原発から10キロ以内の圏内にあるらしい。
もう帰れない、帰らないという思いから両親も転校させたのだろう。
同時に関西のおじいちゃんの家に行って戻って来ない友達もいるという。
身近なところでも様々な思いが行き交っている。

米軍はすでに80キロ圏内から退避しているし、横須賀の米軍も佐世保に移動するとかしないとかやっている。各国大使館でも似たような動きが出ていて、「裏でヤバイという情報を掴んでいるのではないか」という噂もある。逆の立場で考えれば日本人を避難させるだろうと思うから、そうした動きも個人的には気にならないが、疑心暗鬼の人からすればそうは思わないだろう。

政府も東京電力も信用できないと言う人は多い。
私も完全に信用できるとは思わないが、それでも「疑うのもほどほどに」という感覚だ。
ある在日ロシア人の人は、避難を勧める本国の家族に対し、日本は(チェルノブイリの時のソ連政府より)はるかに安心と回答したらしい。
放射線はあちこちで測定して公表しているし、(ロシア人)2億人のために(原発作業員)2,000人を平気で(危険性を伏して)作業させるような政府ではないからだそうだ。
風に揺らめく柳に怯えるようなものかもしれない。

ただそうは言っても不安は不安だ。
その原因はと言えば、「最悪のケースがわからないから」だ。
最悪こうなるとわかれば、その時自分はどうすべきかという判断ができる。
そこが決まれば、ではそこに至らぬ段階ではどうしようと想定できる。
私の場合はそれが安心の源になる。

心配したところで、事態はなるようにしかならない。
私にできる事と言えば、多少の不便には目を瞑り、節電を心がけながら日常生活を普段通りに送る事くらいだ。こういう事態になると、平凡なる日常生活というものが如何に尊いかがよくわかる。
そんな日常生活に早く戻りたいものである。

震度5の地震にびっくりするような日々を、早く取り戻したいとつくづく思うのである・・・


【本日の読書】
「大前健一の資本主義の論点」大前健一ほか
「ロスト・シンボル(上)」ダン・ブラウン
     

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