2018年11月12日月曜日

静かなるリーダーシップ

ネットの記事で、『【なるほど、納得】的確に表した「ボスとリーダーの違い」に考えさせられる』というのを読んだ。なるほど、イメージ図を見るとリーダーとボスの違いが一目瞭然であり、うまく表現したものだと思わされる。これを読めば、だれでも自分ならリーダー・タイプになりたいと思うだろうし、リーダー・タイプの人の下で働きたいと思うだろう。実際はボス・タイプなのに自分はリーダー・タイプだと勘違いしている人も多いと思う。

しかしながら、世の中にはリーダー・タイプでもボス・タイプでもないタイプの人がいることも確かである。過去の銀行員時代にも、「この人よく昇進できたな」というタイプの上司はいた。どちらのタイプでもないタイプの上司である。部下を持ってもやたら威張るほど狭量ではないが、自ら先頭に立つほど自信もない。でも部下を持ってしまったから上司をやらないといけない・・・ご本人はそんなつもりなどないかもしれないが、そう見えてしまう「自信のないタイプ」とでもいうタイプである。こういうタイプの上司は、決断も遅いしはっきりとした考えもわからなくて部下も困惑してしまう。

そういうタイプの上司はどうしたらいいのだろうかと考えてみる。自分が先頭に立つのが無理なら、部下を先頭に立たせればいいだろう。つまり、こういうタイプは「人をうまく使う」に尽きる。そうすれば、苦手な「先頭に立つ」こともないし、権威主義のボスとして威張る必要もない。有望な部下を選んで、適度に励まして先頭に立って走ってもらえば良いわけである。それで上司としての権威が失墜するものでもないし、職務怠慢を問われることもない。上司は自分の課のパフォーマンスを結果として上げることが大事なのであり、自分で先頭に立つパフォーマンスは必ずしも必要がない。

さらにこの方法だと、同時に「部下の育成」もできることになる。人材育成の一番の方法は、OJTであり、責任ある仕事を任されることである。上司から期待されて先頭に立つことを覚えれば、それは次世代のリーダー育成にも繋がるし、人材育成の実績として、自分の成績にもなる。「自信のないタイプ」を自覚しているなら、こうした方法が適していると思う。

さらにこの時、注意しないといけないのは、「任せっぱなし」にしないことだ。仕事を任されたのはいいが、上司が無関心だといずれ当人のやる気も萎んでしまう。マズローの「欲求五段階説」を出すまでもなく、人間には「承認欲求」がある。自分の仕事を見ていてもらって、褒められればさらなる力を発揮するだろうが、無関心ではやがて意欲も消失する。折に触れて、進捗を尋ねたり、やり方に対する途中評価を適宜加えて、「いつもしっかり見ている」という印象を与えることが大切である。

実際、私もプロジェクトを任されたはいいが、上司はまったく無関心ということがあった。途中で「あれどうなった?」と一言でも聞かれればともかく、ひょっとしたら忘れてしまったのではないかと思う有様になったことがあった。こうなるとこちらのやる気も失せてくるというもの。やってもやらなくても同じなら、人間やらない方に流れるものではないかと思う。ちょっとでも関心を示していれば、ある種の緊張感も持続して継続することができると思うのである。

リーダーシップのタイプはリーダー・タイプとボス・タイプの2種類ということはないだろう。無理にどちらかと考える事にあまり意味はない。ただ、どちらにせよ楽していていいことはないのは事実。体を動かすか、脳みそをフル稼働させるか。自分に合ったやり方で、かつ部下を手下ではなくチームメンバーとして考えるのが良いのではないかと思う。私だったら、部下に先頭を任せることを選ぶと思う(その方が楽だし・・・)。

ふと目にした記事からあれこれとそんなことを考えてみた次第である・・・




【本日の読書】
 できる人の人を動かす方法 The Rules of People Rulesシリーズ - リチャード・テンプラー 史上最強の哲学入門 - 飲茶




2018年11月3日土曜日

サプリメント

最近、ネット上の広告でサプリメントに関するものを多く目にするようになった。テレビのコマーシャルと同様、最近ではさまざまなネット広告を目にする。多種多様なネット広告でも、意識してみれば割とジャンルが固まっているような気がする。「保険」「クレジットカード」などとともに、「サプリメント」も数多いジャンルの一つである。そしてそんなサプリメントのネット広告が気になったのも、ちょっと意識しているからにほかならない。

最近は、毎週シニアラグビーに参加し、試合にも出るようになっている。当然、体力の衰えは否応なし意識させられるところであり、昔のようにとはいかないまでもある程度の体力をつける必要性を感じている。それには食べることが一番であるが、練習が週一回程度ではメタボまっしぐらの危険性もある。そこでそこそこの栄養補給となると、サプリメントがいいのだろうかと思い始めているのである。ところが、なかなかすんなりと手を出せない。

実は、私自身は大の「薬嫌い」である。なにせ「風邪は気合で治る」というポリシーを持つくらいなので、サプリメントは薬ではないとわかっていても、なんとなく得も言われぬ抵抗感を感じてしまうところがある。ちなみに昨日整形外科に行って薬を処方されたが、聞けばその成分はビタミン剤だということで納得して服用することにした。これがそうでなかったら、考えるところである。

以前、(滅多にないことだが)熱を出して内科の医者に行ったことがある。その時は子供も小さかったし、インフルエンザだとまずいと妻に言われて渋々出掛けて行ったのである(そうでなかったら行かなかったのは言うまでもない)。診察の結果、幸いなことにインフルエンザではなく、ただの風邪であった。その場でたくさんの薬を処方されたが、一粒も飲まなかった。ならもらわなければいいと思うところだが、熱もあったし、先生との不毛な議論も面倒だったので黙ってもらうだけもらってきたのである。私はそういう人間なのである。

そうは言っても、例外はある。その筆頭は「正露丸」である。これは過去の経験から効果てきめんなのを知っているという部分が大きい。やはり「効き目」ほど効果的なものはないと思う。そういう意味では、(薬ではないが)リップスティックとニベアはこれからの季節重宝している。リップスティックも効果抜群だし、ニベア(クリームを塗るタイプのものである)もかつて学生時代にラグビーの練習中腿のあたりが赤くなった時に、勧められて塗ったら効果てきめんであったことから、折に触れて愛用しているのである。

そんなわけだから、サプリメントも効果てきめんなら問題ないが、そうはいかない。サプリメントの類は、ほとんど効果など実感できないものであろろう。少し前まで実家から朝鮮人参をもらって飲んでいたが、こちらは効果があるのかないのかさっぱりであった。妻のダイエットの例を取るまでもなく、「暖簾に腕押し」ほど継続する心をくじくモノはない。ただ、考えてみれば毎日の食事だって効果が実感できるものではない。と言っても取らなければ死んでしまうわけで、また栄養の偏りも長い時間をかければ悪影響が表面化するわけで、サプリメントの効果も長い目でみなければならないのも理解できる。

それに加えて不安をあおるのは、ネットにしろテレビにしろ広告というものはどうも針小棒大の怖さがある。さらには、最近自動車メーカーや免震メーカーの検査数値偽造のニュースにもあるように、謳われた効果が本当にあるのかという疑問もある。「研究ではこれこれの効果が認められた」「〇〇の成分配合」「元気満々です!(あくまでも個人の感想です)」などと見せられても、部外者にはわからない。ごまかされていても効果がすぐに出ないこともあってわからないわけである。そうなると、やっぱり躊躇してしまうというのが本音のところである。

学生時代、公式戦の前などにリポビタンDをよく飲んだものである。試合中にバテたくなかったし、少しでもエネルギーになればと思ってのものであった。それがここ大一番の試合ではリポビタンDスーパーになったりした。今思えば気休め程度の効果だっただろうと笑ってしまうが、その「気休め効果」は抜群であった。サプリメントも「気休め効果」なら、即実感できるかもしれない。

まぁ、その現実的な効果の有無はともかく、もうしばらく様子見しつつ、せいぜい「食欲の秋」本番を迎え、しっかり食べてしっかり体を動かすという基本は実行していきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 日本の国難 2020年からの賃金・雇用・企業 (講談社現代新書) - 中原 圭介 オリジン 上 (角川文庫) - ダン・ブラウン, 越前 敏弥 史上最強の哲学入門 - 飲茶






2018年10月25日木曜日

我が子に望むもの

結婚してしばらく夫婦2人の生活を楽しんでいたが、やがて子供を授かったとわかった時、得も言われぬ喜びを感じたことを覚えている。その喜びは我が子の誕生の知らせによって頂点に達したと言って良い(もちろん、その後も我が子の成長に伴う喜びは多々あった)。出産までの間、だんだん大きくなる妻のお腹を眺めては、とにかく無事に生まれてきて欲しいと願い、それこそが唯一最大の願いであった。それは誰もがそうであろうと思う。

しかしながら、その願いは我が子の成長に伴って日々変化していく。妻などはやれアトピーだ、ハイハイの時期が遅いかもしれないとか、歩くのはいつ頃かと、とにかくいろいろ心配していたようである。その時期が来れば、希望の幼稚園に入れるか否かとか、小学校に入れば将来のために勉強をさせた方がいいだろうと通信教育を始めたり・・・まぁ世間の親は(特に母親は)みんなそうなのであろう。

妻との教育方針の違いは既に中学受験の時に表面化し、「公立中学校で十分」とする私と受験派の妻とが対立、結局妻に凱歌が上がる。世間の親もみんなそうだろうと思うが、我が子の幸せを願う気持ちは一緒だが、その方法論が私には受け入れ難い。それはともかく、「良い高校」「良い大学」「良い企業」という旧態依然とした人生設計を良しとするもので、そのために目を血眼にして我が子に勉強させようとする。

しかし、私などは自分の経験(公立高校→一流国立大学→大手都市銀行→中小企業)に基づいて考えてみると、やっぱり小学校、中学校で「受験、受験」というのはバカげていると思う。それはたとえればマラソンにおいて最初から先頭集団で飛ばせというようなものである。まだ成長途中の子供がそんなに勉強できるわけがないし、勉強したとしても途中で息切れするものだと思うのである。やらせる親は自分でやったことがあるのかと疑問に思う。

事実、私の小学校時代のある友人も、早くから塾通いをしていて成績も良かったが、私立の中学に進み、最終的に彼が入ったと聞いた大学は私など何の苦労もなく入れるところであった。それが悪いとは言わないが、要は受験勉強など中学3年からやれば十分だというのが私の考えである。もちろん、それで一流高校に入れないという意見があるかもしれないが、私の考えはそれで構わないというものである。敢えて言えば、2番手レベルくらいのところに入れるようにはしたいところである。

その際、間違っても付属高校には入れたくない。それは大学受験をさせたいと思うからである。受験はよりランクの上の学校へ入るためというより、1つの「試練」と考えている。人生いろいろなところで試練があるが、人はだれでも成長過程においてそれを体験すべきだと思う。受験など失敗したところで大したことはないし、それに対して本人にはプレッシャーがかかる。そのプレッシャーの中で、目標を決めて頑張れる機会としては受験はいいと思う。

大事なことは、幼児時代ならいざ知らず、「親は子供の面倒を途中までしかみれない」という事実である。いずれ子供は自立しなければならない。ならばその時に困らぬ様、親としては子供をトレーニングしておきたい。この先、どんなことがあっても自分で生きていけるように、である。それは一流企業に就職したらOKというものではない。大企業だって(JALのように)倒産もするし、リストラに遭うかもしれないし、仕事のプレッシャーに負けて鬱になるかもしれない。「大企業に入って安泰」とは言えないのは自明の理である。だが、世の母親たちはそれを理解していない・・・

就職しても勉強は必要である。それは社内の競争だったり、必要に迫られた資格の取得だったりするかもしれないが、学生時代とは違う仕事に必要な勉強である。そしてそれには終わりがない。なぜなら世の中は常に変化しているし、生き残っていくには油断できないと思うからである。そんな勉強をずっと続けていかれるかどうかは、その都度受験という試練をこなすことによって培われるノウハウと気力だろう。わけもわからぬまま勉強させられて、勉強することが嫌になってしまったら元も子もないと思う。

我が子については、無事生まれて来てくれただけで十分だと思う。あとは何があってもしっかり生きていかれる力をつける手助けをすることだ。一流企業に就職したら終わりというものではない。本人が望むなら大学に行かなくてもいいし、「役者になりたい」と言っても止めたりはしない(ただ、どれほど困難な道かは教えるだろう)。そう考えているから子供の進路について気になるのは、「何か迷ったり困ったりしていることはないか」だけである。

娘は来春高校を卒業するが、その先どうするかは未定だ。どうやら受験する気はなさそうだ。妻はヤキモキしているが、私は別に大学に行かなくても良いと思っている。それより中学1年の息子が今から大学受験を避けるため付属に行きたいとほざいているのを何とかしたい。妻も同調しているから手強いが、ここは時間をかけてじっくり考え方を変えさせたいと思っている。まぁそうは言っても最終的には本人次第だが・・・

無事生まれてくれれば何もいらないと思っていた事を考えると、無事に生まれてくれたからそれだけでも幸せである。それを肝に銘じて子供たちと接していたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 数学を使わない数学の講義 (WAC BUNKO 272) - 小室直樹 働くことがイヤな人のための本: 仕事とは何だろうか - 中島義道






2018年10月17日水曜日

論語雑感 八佾第三(その12)

〔 原文 〕                     
祭如在、祭神如神在。子曰、吾不與祭、如不祭。
〔 読み下し 〕
祭(まつ)ること在(いま)すが如(ごと)くし、神(かみ)を祭(まつ)ること神(かみ)在(いま)すが如(ごと)くす。子(し)曰(のたま)わく、吾(われ)祭(まつり)に與(あずか)らざれば、祭(まつ)らざるが如(ごと)し。
【訳】
孔子が先祖の祭りを執り行う際には、あたかもご先祖の魂がそこに臨在するかのように畏敬の念を捧げた。又、神様を祭る場合には、あたかも神様がそこに降臨されているかのように敬虔な態度を示した。そして、「祭りを執り行うのに、こうしないと祭った気がしないのだ」と云った。
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今は他のご家庭では仏壇があるのだろうかと、ふと思う。そういう我が家に仏壇はない。と言っても信仰心が薄いわけでもなく、多分まだ両親が健在ということも大きいと思う。実家へ行けばそこにはちゃんとした仏壇があり、両親それぞれの祖父と祖母がともに並んで微笑んでいる写真が飾ってある。最後まで存命だった父方の祖父が亡くなったのはもう25年前である。

実家では、ご飯の時に米を炊くと、まずは炊き上がった最初のご飯を仏壇に供える。私も実家へ行った時は進んでこの役割を引き受けるが、その時当然仏壇で手を合わせる。そして心の中で祖父と祖母たちに話しかける。内容はその時々であるが、「じいちゃんとばあちゃんの子供(つまりは私の両親だ)をお見守りください」というのが多い。その時は、「あたかもご先祖の魂がそこに臨在するかのように」しているなぁと改めて思う。

また、年に一度、近所の北野神社に初詣に行くが、その時も手を合わせながら心の中で神様に話しかけている。まぁ大抵は両親の健康と家族の健康祈願といったところで、自分のことは祈らない。しかし、これも「あたかも神様がそこに降臨されているかのように敬虔な態度」をとっている(つもり)。別にそれ自体は珍しいことではなく、ほとんど皆そうだろうと思う。神様が実際にいるかどうかは問題ではなく、「いるという態度」が大切だと思うのである。

そもそもであるが、神様や祖先に対する信仰というものは、「そういう態度」が大切なのだという気がする。私自身、よくよく突き詰めていけば、無神論者であり幽霊等の霊魂の存在は信じない人間である。人間はすべて己の脳みそで思考し、それによって存在している。神様も人間の思考の結果生み出されたものであるし、したがって死んでしまって脳の機能が停止したらそれでおしまいである。死んでまで幽霊になって思考するということはあり得ない。もちろん、悪霊やたたりの類や、天国や地獄すらも人間の空想である。

しかし、だからといって、神も仏もありはせぬという考えが正しいかというとそうは思わない。人間は生きていく上で何らかの信仰は必要だと思う。それが神様ならそれでいいし、仏様でも祖先でも良い。大事なのはスタンスである。信仰を持っている人間は傲慢を抑えられる。神様の前で頭を垂れる謙虚な瞬間が人間には必要であるし、それがあるかないかの差は大きい気がする。

神様の種類はキリスト教でもイスラム教でも何でもいいが、信じるならきちんと信じて欲しいと思う。神様は「汝殺すべからず」と教えているのだから、その教えを守ってほしいが、歴史はその神の名において異教徒を殺すことを是とした人々を記録している。今でもテロリストはみなアラーの熱心な信者であることは恐るべき皮肉だと思う。それに比べると、我が国の八百万の神々は実に穏やかである。生贄も聖戦も要求しないし、他の神々(異教徒)にも寛容である。信じるなら当然、神道だろう。

実際に神々や祖先(の霊)がいるかどうかは問題ではなく、大事なのは「いるという態度」だと思う。実家で仏壇に向かう時、穏やかにほほ笑む祖父母の写真をそれぞれ見ると、かつて小さかった頃に接した思い出が蘇ってくる。母方の祖父とは将棋を指したし(強くて全然勝てなかった)、父方の祖父とは一緒に酒を飲んだ。いい思い出だし、そんなことを思い出しながら心の中で語りかけると穏やかな気分になる。きっと、私の心の声も届いているだろうと思えてくる。

そう言えば会社には神棚があって、近所の氏神様からいただいたお札が飾られている。しかし、どうも日々の仕事に追われていると、「そこにいらっしゃる」という気持ちは抜け落ちている。それも改めないといけないかもしれない。商売繁盛を祈願したものだが、社員みんなが幸せに働けるならそれでいいと思うし、繁盛は人間の努力次第だ。それはそれとして、そこに「いるという態度」は完全に抜けてしまっている。これからは一日に一度くらいは首を垂れることもしないといけないだろうと思う。

自分自身を振り返ってみて、もう少し信仰のある生活を送ってみてもいいかもしれないと思うのである・・・




【本日の読書】
 大前研一 デジタル・ディスラプション時代の生き残り方 - 大前 研一 月と六ペンス (光文社古典新訳文庫) - モーム, 土屋 政雄





2018年10月15日月曜日

子供の教育に思うこと

 昨日のこと、最寄駅から電車に乗ったところ、一緒に乗ってきたお母さん方と遭遇した。騒がしく話をしていたが、その内容を聞くとはなしに聞いていると、どうやら学校の説明会に参加してきたようであった。我が地元にはレベルの高い中高一貫の公立高校がある。おそらくそこの説明会に連れ立って参加してきたのだろう。そう言えば、我が家もかつては妻がよく学校の説明会に足を運んでいた。どこの家庭もこういう役割は母親なのであろうか。

そういう熱心さは悪くはないと思うが、どうも昔から違和感を禁じ得ない。それは自分自身の経験から感じるものでもある。私は高校受験に際しては、自分で受験する高校を選んだものである(第一志望は都立高校、第二志望は同等レベルの私立校と滑り止め)。自分で調べ、自分で願書をもらいに行き、受験も合格発表も1人でこなした。親にはお金を出してもらっただけである。それがあるべき姿ではないかと思うのである。そのため長女の受験の時もアレコレ口出ししなかった。はっきり言って高校などどこでも良かったのである。

長女の場合、妻が積極的に受験に噛み込んでいた。塾へ行って勉強するように仕向け、学園祭にはあちこち顔を出し、もちろん学校説明会も東奔西走していた。そこまでする必要があるのか今でも疑問に思うが、反対はできなかった。それは私と妻との間の力関係である。残念ながらそこには圧倒的な差があって、私にはほとんど力がない。あれば当然放置していただろう。本人から助言を求められたら、もちろん精一杯力になってやるが、それ以外は本人に任せていただろうが、現実は上記の通りである。

だからと言って、我が子の教育に無関心というわけではない。むしろ逆である。子供は将来、親元を離れて生きて行かないといけない。そのための力をつけるには、少しずつ試練を与えてそれを乗り越える力をつけさせることが大事だと思う。親があれこれと世話を焼き、上げ膳据え膳でお膳立てすべきではないと思うのである。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」と言えば大げさかもしれないが、受験はその最適な試練だと、自分の経験からも言える。心配なのはわかるが、どうも世の中の母親達を見ていると、受験で鍛えられていない非力なままの子供達の先行きが心配になってくる。

レベルの高い高校に行くのは、よりレベルの高い大学に行くためでなく、受験という試練を乗り越えて自分自身一つ上にステップアップするためである。そしてレベルの高い大学に行くのは、大企業に就職するためではなく、将来必要な教養を身につけたり、自分が希望する仕事に必要な知識を身につけたり、あるいは知的好奇心を満たすためである。大学を選ぶにあたり、卒業生の就職先一覧なんかを見るのはまったくのピンボケである。

仮にそうして大企業に就職しても、そこからまた社内で競争があり、業績必達のためのプレッシャーがあり、人間関係に悩まされたりといろいろな試練がある。親は就職させたらそこで安心して終わりであるが、子供たちにとってはここからが本番である。大企業と言ってもグローバル化社会の中では、一部上場企業だって倒産するしリストラだってある。うつ病にならず、リストラされても生き残っていけるようにならないといけない。そのためには社会人になっても勉強は必要である。小学生、中学生の頃から毎日尻を叩かれて勉強して、大学に合格したら「もう勉強なんかしたくない」となったらどうするのだろうと思う。

高校に入ってラグビー部に入ったが、練習はそれなりにハードであった。それでもラグビーが面白かったから大学に入って迷わずラグビー部に入った。だが、同期で大学までラグビーを続けたのは他には1人だけだ。みんないろいろやりたいことがあったのだと思うが、ハードな練習に嫌気がさしたのかもしれない。大学に入ってまで苦しい練習なんかしたくないと思ったのかもしれない。勉強もそれに相通じるものがあるように思う。

また、ラグビー部の同期で、今それなりに元気なのは皮肉なことに大学に行かなかった2人だ。残りはみんな大学に行き、サラリーマンになっている。それはそれで家族を養い立派に自立しているが、ウィキペディアで検索しても名前は出てこないし、ジャガーを乗り回したりはしていない。大学に行かなかった2人にはそれができている。世の中ってそんなものである。高校受験で母親が熱心に学校説明会などに出ているのを見たりすると、違和感を覚えるのはそんな理由である。

今、妻の関心は中学1年の息子に移っている。早くも苦手教科だけ塾に行かせ、ダッシュの準備をしている。自分としては3年になるまで落ちこぼれない程度にやっていればいいと思う。それまで野球を熱心にやってほしいと思うが、果たして私の希望通りに行くかは難しい。それでも息子と日々会話を交わし、私の考えを伝えていこうと思う。草食系男子も軟弱系も、それを生み出すのは母親であるというのが私の考えである。

 せめて我が息子をたくましく育てたい。そのためには、妻との力関係の改善からはじめなければならない思う。この歳になってもまだまだ試練は続くのである・・・




【今週の読書】
 「不思議な会社」に不思議なんてない―――建設業をサービス業に変えて急成長! - 荒木恭司 世界史を変えた詐欺師たち (文春新書) - 東谷 暁 大前研一 デジタル・ディスラプション時代の生き残り方 - 大前 研一





2018年10月11日木曜日

人間とロボットが仕事を奪い合う

先日読んだ『世界を変えた14の密約』という本にちょっと恐ろしい記述があった。それはアメリカで自動洗車機が使われずに横に置かれ、代わりに人が洗車しているのだとか。それは実は自動洗車機はコストがかかる一方で、人は失業を恐れて洗車機より安い賃金で一生懸命働くからだという。「人の方が安い」となった結果、人の労働力が機械に置き替わっているのである。近い将来、AIが人の仕事を奪うと言われているが、それに抗う動きと歓迎することは、もちろんできない。

本の結びは、人間が安い賃金で働き、それをAIが「瞬きもせず」監視する様子を想像して終わっているが、空想話として笑い飛ばすにはちょっと背筋が寒くなる未来像である。人間の労働力を軽減するのが機械化であるが、ここでは機械はより高度な仕事を引き受け、人間がその下で単純労働に従事するという構図である。これはなかなか恐ろしい構図だと思う。考えてみれば、AIに奪われる仕事というのは単純労働とは限らない。むしろ、高度な判断業務かもしれない。

そういう高度な判断業務は、会社にあっては例えば「人事評価」かもしれない。これはサラリーマンにとって一番不満のタネになりそうなものであるが、AIに置き換えられたら「実績より人柄」などという世界は通用せず、容赦のない実力評価がバシバシ下されるかもしれない。もっとも逆にその方が文句が出ることがなくなるかもしれない。また、人事でいけば採用もAIが行うようになるかもしれない。あらゆるファクターを考慮して採用判断され、さわやかだけが取り柄の好青年は不利になるかもしれない。

さらに進めば経営判断もAIが行うようになるかもしれない。CEOがAIとなれば、機械が人間の役に立つのか、人間が機械の役に立つのかわからなくなる。そうなると、巨額の役員報酬を得るのは優れた経営者ではなく、そのAIを作る会社ということにになるのかもしれない(その会社のCEOもAIかもしれない)。人間が機械の下で、公平な人事評価を受けて働く世界。そんな未来像を想像してみると、その先にはどんな世界があるのだろうかと思う。

例えば、映画でいけばその先にある未来は『ターミネーター』型ではなく、『マトリックス』型に思える。『ターミネーター』の世界は、高度に発達した防御システム「スカイネット」が地球の存続にとって害をなすのは人間であるとして、人類抹殺のために動き出すというものであった。『マトリックス』の世界は、コンピューターが人間を完全に管理し、人間はカプセルの中で寝かされ、意識だけコンピューターが創り出した仮想世界で生きているというものであった。抹殺されないだけマシかもしれないが、どちらの未来像も現実化してほしくはない。

そんな未来に自分が生きることになるとしたら、やっぱり思うのはただこき使われるだけの社員にはなりたくないということである。それは誰しもそう思うだろう。それにはまず、日頃から「考えないで仕事をする」のは回避しないといけないと改めて思う。指示されたことを指示された通りにやるだけでは何の工夫もないし、それなら機械が指示を出しても結果を機械的に判断できるから、機械に管理させればいいとなるかもしれない。

そこで一工夫できる人間であれば、重宝されるであろう。私の常日頃信奉する「創意工夫」である。
「下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そうしたら誰も君を下足番にしておかぬ(小林一三)」
言われた事だけしかできない社員は、AI上司が登場したらたちまち機械に管理される人間になってしまうのであろう。

科学の発達は、人類の幸福に貢献すべきものだとは思うが、核兵器の例もあって必ずしもそうとは言い切れない。AIの進化が、果たして人間の幸福につながるのだろうかと考えてみるが、答えはわからない。AIの上司であっても、人間の理不尽な、ゴマスリだけで昇進したような無能力上司よりははるかにマシだとも言うこともできる。そんな来るべき未来に自分が労働者として参加していられるかどうかはわからない。もしかしたらギリギリで「逃げ切り世代」になるかもしれない。でも子供たちには関わることだし、無関心ではいたくない。

AI上司の方がひょっとしたらいいのかもしれないが、私の今の感覚だとやっぱりそこは機械には負けたくない気がする。合理的判断だけでは割り切れない機微の世界、機械には及ばない創意工夫の世界、それを持って余人ならぬ余AIに替えられぬサラリーマンとして評価されたいものである。AIであろうが人間であろうが、どちらにせよ「使われるよりも使う方」に回れるように意識していたいと思うのである・・・





【本日の読書】
 「不思議な会社」に不思議なんてない―――建設業をサービス業に変えて急成長! - 荒木恭司 世界史を変えた詐欺師たち (文春新書) - 東谷 暁






2018年10月8日月曜日

JALの不当解雇問題に思うこと

職場の帰り道、たまに駅前でJALの不当解雇を訴えるビラ配りに遭遇する。また、先日は知人が参加したコーラスの会場で、やっぱりJALの(パイロットと客室乗務員の)不当解雇を訴える人たちがいたと聞いた。どうやらあちこちで活動を続けているようである。また、ちょっとググってみてもホームページが開設されており、その主張するところもよくわかる。ただ、個人的にはこの訴えには違和感を禁じ得ない。

そもそもであるが、「不当解雇」というのは、まったくの会社都合で、例えば特定個人を「気に入らない」というような理由で解雇するようなケースではないかと思えてしまう。そんなことで解雇されていたら堪らないので保護されるべきなのは当然であろう。しかし、会社が倒産したら社員は当然路頭に迷うのものであり、それをもって「不当解雇」とは言わない。また民事再生などの法的な再生においても、「経営上の必要性」が認められれば解雇が認められることになっているのも頷ける。

日本の法律では、雇用はかなり守られており、会社もやたらに解雇はできない。しかし、会社の存続が危ぶまれるようなケースでは解雇も認められるのである。解雇される個々人の利益と、解雇によって存続する会社(と雇用が継続される社員)の利益とを比較衡量すればやむを得ないという判断であろう。それは解雇される立場からすれば許されざることだろうが、「全体の利益」という観点からすれば真っ当な判断である。

JALのケースも上記のケースである。放漫経営からJALが会社更生法の適用を受けたのは2010年で、もう8年も前のことである。会社存続のため、大幅な債権カットが行われ、あわせて人員整理が行われたわけである。債権カットは所詮銀行だから世間の同情は集まらないだろうが、人員整理については当人たちにとってはまことに気の毒なことである。ただ、「倒産させて全員を解雇する」のと「存続させて一部の雇用を守る」のとどちらを選ぶかで、後者が選択されたわけである。

解雇された人は気の毒であるものの、それは全体の利益を優先させたやむなき判断で、当然ながらそれを「不当解雇」とは言わない。問題になるとすれば、解雇の基準であろうが、「高齢と病歴」というのもやむを得ないと思う。若い人の方が概して生活は大変だろうし、高齢の人は定年までより近いし、「それまでたくさんもらったでしょう」という感情も働く。病歴だって「顧客の安全」ということを考えればやむを得まい。どんな基準を設けたところで、解雇される人からは不満が出るだろうし、そう考えるとこの基準に問題があるというより、「よりマシな基準」を選んだ結果だと言えるだろう。

それにそもそもの考え方が私には受け入れられない。日本では労働者は守られているが、それに甘えてはいけないと私は常々考えている。いつ会社が倒産するかわからないし、解雇されるかもわからない。そういう気持ちで己自身を鍛えていないといけないと思う。「大企業に入ったら後はつつがなく過ごしてそこそこの給料をもらっていればいい」という「ブラ下がり社員」にはなりたくない。明日首だと言われても次の日から別の会社で生きていける心構えで働くべきだろう。「解雇できるならしてみろ」という気概を持って会社に貢献していれば、「残ってくれ」と言われる社員になれるだろうと思う。

不当解雇を訴える元パイロットや客室乗務員たちは、「ただ言われた通り飛んでいただけ」という気持ちもあるだろう。実際、経営破綻した責任は過去の経営者たちにあるのだろうが、だから無罪放免とはいかない。責任はなくても仕事と給料は消えてしまったのだから、他で生きて行く道を探すしかない。不当解雇と訴えている暇があったら、他で働けばいいだけである。パイロットがやりたいなら全世界の航空会社で雇用を探せばいいのだし、そういう働き口がないなら諦めて別の道を探すしかない。私だったら、たとえコンビニのアルバイトしかなかったとしても、働く手段を見つける方に労力を使うだろう。

JAL以外にも外資系の企業からクビにされたと不当解雇を訴える人たちを見たことはあるが、同じである。言いたいことはいろいろとあるのだろうが、会社側から「いらない」と判断されたのなら、私であれば笑って「あばよ」と言うだろう。「いらない」と言われた会社の足に「クビにしないで!」とすがりつく真似は、私には頼まれてもできない。そういう気概は自分自身常に持っていたいと思う。

私などの吹けば飛ぶような中小企業に勤務している身としては、会社が倒産すれば民事再生もクソもなく、一発で倒産であろう。そういう意味では会社とは運命共同体であり、会社を支えることは自分を支えることでもある。JALのような守られた大企業とは根本的には大違いであり、覚悟が違うと言えるのかもしれない(まぁもっとも私自身、大銀行に勤務していた時代からそういう覚悟は持っていたけど・・・)。世の中で生きて行くメンタリティが甘いとしか言えない。したがって「不当解雇」を訴える声を聞いても同情心はかけらも湧いてこない。

人は人、自分は自分。人のことより大事なのは明日の会社の存続。それは己自身の未来でもあるし、高い気概を持って明日も働こうと改めて思うのである・・・




【今週の読書】
 ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望 - トーマス・ラッポルト, 赤坂桃子 SOLO TIME (ソロタイム)「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略である (夜間飛行) - 名越康文, 伊藤美樹





2018年10月3日水曜日

論語雑感 八佾第三(その11)

【原文】          
或問禘之説、子曰、不知也。知其説者之於天下也、其如示諸斯乎。指其掌。
【読み下し】
或(ある)るひと禘(てい)の説(せつ)を問(と)う。子(し)曰(のたま)わく、知(し)らざるなり。其(そ)の説(せつ)を知(し)る者(もの)の天下(てんか)に於(お)けるや、其(そ)れ諸(これ)を斯(ここ)に示(み)るが如(ごと)きかと。其(そ)の掌(たなこごろ)を指(ゆびさ)す。
【訳】
或る人が帝祭の内容を質問した。孔子は、「私は知りません。もしそれを知っている人がいたら、天下をここに乗せて見るようなものでしょう」と云って掌(てのひら)を指差した。
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この時代、皇帝には独特の祭事があったようで、しかもその内容は一般には秘されていたようである。そしてその内容を知ることが、皇帝としての権威の一つであったのだろう。日本でも皇室の行事について、一般の人はほとんど知らないだろうし(別に皇室の行事は秘密ではないかもしれないが・・・)、どこの国のどこの時代でもそういう独自のものがあるものなのかもしれない。

考えてみると、「祭り事」については、それこそがすなわち「政(まつりごと)」という言葉でもあることを鑑みると、昔は「祭る」ことが(神様から国を治めることを認められたという)権力の正当性の証だったのかもしれない。そうであるならば、それは政権の秘密として厳重に守られていたであろうから、孔子といえどもその内容を知らなくて当然なのだろう。それに対し孔子も知ったかぶりをすることなく、素直に「知らない」と答えている。

「秘密」には、知っているかいないかで、ある種の優越性が生じる。秘密とは甘美な香りがするもので、人が知らないことを知っているというのは、誠に心くすぐられるものがある。そして「知っている」ことが権威に結びつくこともある。それは例えば会社なんかでもそうであり、会社の上層部の考え方や動きを知っていることが、上司の権威を支えていたりすることもある。

私も小さい会社とはいえ、一応役員であるから、一般社員に比べるとある程度経営事情に通じている。会社の方針なんかについては立案そのものに携わっていたりするから、なおさらである。ただ、私の場合、それを秘していていざという時に見せびらかすようなことはしない。むしろそういう情報は積極的にオープンにしている。会社の決算状況から始まり、その期の方針だったり、その時々において役員会議で議論されていることだったりである。そうした情報をオープンにすることにより、「権威」よりむしろ「モチベーションアップ」に比重を置いているのである。

人によっては会社のそうした情報には興味なんてないのかもしれない。当然、聞いていてもスルーしている人もいるだろう。それはそれで構わないし、興味のある人に伝えるだけでいいと思っている。その理由としては、自分がやっている仕事、目先の指示された仕事に対し、盲目的に従うよりも基本的な会社の方針がわかっていて、だからそれがこの指示につながっているのだとわかる方が仕事の成果としての質が上がると思うからである。

振り返ってみると、自分自身が盲目的に従うことについて反発心を持っていることが根底にはある。意味のないことをするのは嫌だし、だからよくわからない指示をされたりするとその理由を聞きたいし、指示された内容についてもっといいやり方があると思えばそれを提案せずにはいられない。考えずに動くということが嫌いだというのがある。だから「言われたことだけやる」のは嫌いだし、人にもそれを求めてしまうのかもしれない。

概ねサラリーマンと言えば、仕事帰りに赤ちょうちんで一杯やりながら仕事の愚痴をこぼすのが相場と言われているが、その背景にはこうした「情報不足」があるような気がする。自分の考えとは相いれない指示を受けた時、上司の置かれた立場や情報からすれば当然そういう指示になるということがあるだろう。知らないからこそ、「おかしい」となるわけで、それが愚痴になっていることも大いにあるだろう。

「今、会社はこういう状況にあって、よってこういうことに力をいれていかないといけないわけで、だからあなたにはこの仕事をしてもらいたい」という流れの中で指示を受ければ、誰でも納得するのではないかという気がするし、言われなくともそのくらい考えてわからなければ上司に聞くぐらいなのが「できるサラリーマン」ではないかと思う。我が社ではそこまでの自主性は期待できないが、そう思うからこそせめてこちらから手の内を見せるのである。

孔子の真意はともかく、現代に生きる我々について言えば、否、我が社について言えば、「もしそれを知っている人がいたら、会社の経営をここに乗せて見るようなものでしょう」などとは言われないようにしたいと思うし、むしろみんなが知っているようにしたいと思う。自分のやっている仕事が会社全体にどう生きているのか。みんな分かって働くのがいい結果につながると思う。
 そんなわけで、個人はともかくとして、会社の経営はなるべく透明な方がいいと思うのである・・・




【本日の読書】
 ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望 - トーマス・ラッポルト, 赤坂桃子 みかづき (集英社文庫) - 森絵都




2018年9月30日日曜日

意地は大事

先日のこと、仕事でちょっとした不手際があった。性格的にあまり人の細かい失敗を責めるのは合っていないのであるが、下手をするとお客さんにも迷惑をかける話なので、責任者に厳重注意を申し入れた。それと合わせて、その元となった仕事を翌日中に終わらせるように依頼した。2日あれば十分終わるだろうとの読みであり、それで十分だったからである。

その責任者は、たぶん腹を立てたのだと思う。と言っても私の言うことのほうが正論なので文句も言えない。渋々と頭を下げて承知してくれた。そしてその日のうちに残業してその仕事を終わらせてしまった。残業すれば余計なコストがかかるということは抜きにして、その日のうちに終わらせたというのは、その人の「意地」だろう。「反骨心」とも言えるかもしれない。こういう「意地」は個人的に大好きである。

もしも立場が違い、私がその責任者の立場だったら同じことをしただろうと思う。その仕事は、実はその人の部下のしたことであったのだが、責任者としてはそれを言い訳にはできない。その日のうちに残業して終わらせたのは、自分の腹立ち紛れということもあるし、原因を作った部下に対する教育的指導の意味もあるだろう。いずれにせよ、翌日まで使ってゆっくり仕上げるのと比べると、その意味は大きいと思う。

こういう「意地」ってとても大事だと個人的には思う。それは「悔しい」という気持ちの現れであり、そしてそういう「悔しい」気持ちこそが進歩をもたらすものだと思うからである。それはスポーツでも仕事でも相通じるものだと思う。逆にそういう悔しいという気持ちや反骨心とも言える「意地」を持たない人は、迫力に欠けるし、スポーツにおいても仕事においても何かを成し遂げるということもない気がする。

これまでの人生を振り返ってみると、そういう「意地」のない人というものは確かにいる。そういう人は挑戦をしない。私は高校3年時、担任の先生との進路面談で、志望大学には受からないと言われた。それは結果的にその通りであったが、私は自分の意思を通して浪人し、猛勉強して再度受験し、そして合格した。「意地」を持たない人は、合格しないと言われればそうかと挑戦をやめてしまうだろう。

女性を口説くのだって、ちょっと声をかけてうまくいきそうなら告白するというのでは、(よほどのイケメンであれば別だが)女性なんて口説けないだろう。断られても再アタックできるのは「意地(この場合は意気地か)」があるからだろう。最近、独身比率が高いのは、男の側にこの意地のある男が少なくなっているからというのも一因であるような気がする。そんな人は、先の仕事の例でいけばたっぷり期限まで時間をかけてゆっくり仕上げるに違いない。

一緒に仕事をする立場としては、そういう意地のある人に対しては絶対的な信頼感を置ける。なぜなら意地でも自分の仕事には責任を持って仕上げるからである。しかし、言われてものほほんとしている(ように見える人も含む)人には絶対的な信頼感は置けない。仕事をお願いしても最後まできちんとやってくれるか目を離さずにいないといけない。その信頼感の差は比較できないほど大きい。当然、責任ある仕事など任せられないであろう。

そういう意地の話になると、高校生の時のラグビーの夏合宿を思い出す。午前午後とハードな練習を課される日々。ある時、グラウンドを何周もランパス(パスしながらのランニング)で回らされた時のこと、コーチがキャプテンであった私に「もう無理か?」と聞いてきた。正直言ってその時点までいつストップの声をかけてくれるかと待っていたのだが、それを聞いた瞬間、私は「まだまだです」と答えていた(後でチームメイトに大ブーイングを浴びたのは言うまでもない)。そういう「意地」がもうその時の私には存在していたのである。

そういう意地は、いつどのようにして身につくのであろうか。意地の片鱗もあるように見えない人を見ていてそう思う。そういう人は、気力の点においても流されやすい無気力さを感じる。困難に際しても「仕方ないんじゃない」で終わらせてしまうし、ちょっとハードルが高そうだと思うと諦めてしまう。実際にそういう人を見ていると、つくづく意地のあるなしで人生は大きく変わってしまうだろうなと思ってしまう。

自分には(変な意地かもしれないが)、そんな意地があってよかったと思うのである・・・




【今週の読書】
 SOLO TIME (ソロタイム)「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略である (夜間飛行) - 名越康文, 伊藤美樹 みかづき (集英社文庫) - 森絵都




2018年9月27日木曜日

就職協定は必要だろうか

経団連の会長が、2021年春入社の学生から就活ルールの「廃止」を表明した問題が波紋を広げている。考えてみれば、もう長年の慣習である。私が就活(当時は「就活」などという言葉はなかったが)をしたのはもうかれこれ30年前であるが、当時は「8月1日解禁」というルールであった。と言っても、それ以前にOB訪問によって水面下で実質的な企業訪問は行っており、「8月1日」は大っぴらにそれができるというだけのものであった。したがって、解禁日を過ぎると、すぐに正式な内定をもらったものである。

当時の状況を思い出してみると、8月1日以前に早々とラグビー部の先輩から連絡をもらい、いそいそとOB訪問と称して出掛けて行ったものである。当のOBはと言えば、それも立派な「業務」で、いわゆる「リクルーター」という形で企業からは後輩に対してコンタクトを取るようにという使命を帯びてのもの。それは事実上の就活ではあるものの、傍から見れば同じ部の先輩が後輩に飯を食わせているだけであり、仮に就職協定を監視する人(そんな人はいなかっただろうが)に現場を押さえられても十分言い訳ができるものであった。
 
 我々より以前は解禁日が10月1日だった時期もあり、だんだんと解禁日が早まっていくことが懸念される空気もあった。各企業が採用に対して血眼になっており、フライングを相互に監視し合っている感じであった。そして一旦、内定をもらうと今度は囲い込みであった。すなわち、企業が内定学生を旅行などに連れて行き、他の企業を回って乗り換えられるのを防止したものである。私は残念ながらすぐに菅平にラグビー部の合宿に行き、この「接待」を受けられなかったのであるが、当時の私はそんな「接待」より何より秋のシーズンの方が重要であったのでなんとも思わなかったものである。
 
 そんなことどもをつらつらと思い起こしてみる。そうした採用合戦はその後も続き、一時は就職氷河期なんて時もあったが、最近また過熱化してきているということであろう。たぶん、こうした慣習は何事につけ「公平」を旨とする日本人の気質によるもので、日本独自のもののような気がする。こうした就職協定がいいのか悪いのかと考えると、もう関係ない身としては誠に自由勝手ながらなくてもいいような気がする。

新聞各紙などは「学生の学業に悪影響が出る」「中小企業の人材確保が難しくなる」という批判があるようである。このうち「中小企業の人材確保が難しくなる」については、もともと難しいから変わらないんじゃないかと思うが、「学生の学業に悪影響が出る」というのはある程度当たると思う。というのも、いつから始めたらいいのかという戸惑いから、周りを見ながら3年くらいから企業回りを始めたりするだろうからである。ただ、早く始めればいいというものでは当然ない。

学生によっては早く始めたとしてもなかなか内定もらえないこともあるだろう。そうすると、ずるずると就活を続けないといけない。そうなると学業どころではないだろう。しかし、やっぱりすぐに内定をもらえる学生はすぐにもらえるだろうし、そうすると早々にもらってゆっくり遊べるだろう。ただ、その場合、内定企業を「滑り止め」として、さらにいいところを探すかもしれない。そうなると困るのは、釣ったと思って安心していたら、逃げられてしまったという企業だろう。まさかずっと長く拘束旅行に連れて行くわけにもいかないし、安心してもいられないだろう。結局のところ、どちらにせよ最後は力関係だ。

確かに「学業に影響が出る」のは事実だと思うが(理系はともかく、文系の学生はそもそもそれほど学業に精を出しているのかという疑問はある)、だからと言ってなんでもお膳立てしてもらわなくても良いように思う。もう社会人になるわけだし、そこで競争社会の洗礼を受けてみるのもいいんじゃないかと、個人的には思う。逆に企業の方だって、あまり早くから内定を出すと、逃げられるリスクやあとからもっと取りたい学生が出てきた時に予定数以上に採用しなければならないリスクにさらされることになるわけである。

我が身を振り返ってみると、やはり就職の時は随分と悩んだものである。解禁日前はいろいろなOBに会ってご馳走してもらっていい気分になっていたが、解禁日以降はぼやぼやしていたら各企業の採用枠は埋まってしまうという焦りが出てきて、一生の事(とその時は思ったのである)なのにゆっくり考えて決められないという理不尽さを恨めしく思ったものである。でももしあの頃に就職協定がなかったとしても、4月なのか8月なのかという時期の違いだけで、結局同じだったかもしれないと思ってもみる。

もう新卒一括就職戦線に参入することはないが、これから社会に出る我が子にアドバイスするとしたら、どうするだろうか。それはやっぱり「採用されやすい人間になる」ことの一言に尽きる。いくら早く就活を始めても、結局そのスキルがない学生は数を撃っても当たらないだろう。それは学業という意味だけでなく、スポーツ(部活)かもしれないし、コミュニケーション力を含めた人間力かもしれない。そしてそれさえ備えていれば、最後は「何とかなる」だろう。

我が子たちには、就活ルールがどうであろうと動揺することなく、しっかり必要なものを身につけるべしと教えたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 世界を変えた14の密約 (文春文庫) - ジャック・ペレッティ, 関 美和 みかづき (集英社文庫) - 森絵都






2018年9月23日日曜日

懐かしき人々

銀行員時代の若かりし頃、2年目に初めての転勤で配属となった支店の集まりがこの週末にあった。当時の支店のメンバーが約20人ほど集まり、私も声をかけてもらって参加したのである。その支店にいたのはもうかれこれ30年ほど前のことになる。流石に30年も経つと、支店長をはじめとして上の方にいた方達はもう70代も後半。当時若手だった私も50代半ばであることを考えるとそれも当然である。世間的には、もうベテランの部類に入る私が、まだまだ「若手」の集まりである。

当時私は、銀行に入行して2年目のヒヨっ子。上司の指導を受けながら、銀行員としての基礎を学ぶ日々であった。そんな当時を懐かしく思いながら、参加した皆さんと歓談。当時はまだパソコンなどなく、融資の稟議書も手書きであった。当然、携帯もない。当時の支店は今はもう残っていない。金融危機を境とした銀行の合併の波の中で、支店統廃合により駅に近い合併した銀行の店舗に吸収されてしまったのである。我々が毎日通っていた店舗跡地には、今マンションが建っている。そんな話も当然ながら出る。

酔いが回ったのか、当時支店No.2だった次長が出席していた女性の隣に座り肩に手を回す。完全なセクハラであるが、当のご本人にはそんな意識はない。今だったら大問題になるだろうが、古き良き時代と言ったら女性に怒られるだろうが、次長の意識はまだあの頃のままなのだろう。でもまだそんなのは可愛い方で、お尻を触られるなんてのもよく見かけたものである(一応、当時であっても私には自尊心があって、お尻はさわれなかったし、肩にも手を回したことはないと記憶している)。

また、当時はまだ年功序列の色彩が強く、若手は上司に誘われたら黙ってお供をするものであった。当時の私の上司はいい方であって誘われても抵抗はなかったし、そもそもそれほど誘われた記憶はないが、取引先係などは連日係全員で係長に率いられて繰り出していた。それはアフターファイブの宴会と言うより、仕事の延長というものであった。私などは当時既にへそ曲がりであったから、仕事の延長の飲み会などというものは基本的に断っていたものである(それも出世できなかった遠因だろうと思う)。

いろいろと腹の立つこともあって、随分ストレスもあったと記憶しているのであるが、そんなことはもうみんな忘れてしまっている。覚えているのは、若手だけでみんなで旅行に行ったりした楽しい思い出である。取引先との楽しい交流も然り。係内で夕方、シャッターが降りると後輩に飲み物を買いに行かせたりしていた(もちろん、後輩の分はオゴリである)。飲み会と行っても、若手だけで行くのは楽しかったから、よく上の人たちの目を盗んで行ったものである。カラオケ店なんてまだなくて、カラオケ目当てに行ったのはいわゆるスナックだった。

嫌な思い出は昇華され、残っているのはいい思い出ばかりである。考えてみれば、みんなそうなのかもしれない。参加した人たちの近況を聞くと、あちこち具合が悪くなっている人たちもいて、次に会うのは何年先かわからないが、もしかしたらもう会えない人もいるかもしれない。そんなことすら感じさせられるが、「嫌な人」というイメージの人はいなくて、また次回も呼んでいただきたいと幹事の方にお願いして帰路についたのである。

我々が働いていたあの店舗はもう記憶の中にしか存在しない。いずれそこに銀行の店舗があったことなんて記憶している人もいなくなるのであろう。それは我が家のある場所にしても、100年前にはどうだったかなんて知る由もないのと同じである(まぁたぶん田んぼだったのだと思うが・・・)。また次回もぜひ参加したいと思う。クラス会にしろこうした集まりにしろ、これからも積極的に参加していきたいと思う。それは自らの存在証明みたいなものなのかもしれない。

行けば、「おぉ、元気か」と声をかけてくれる人たちがいるというのはありがたいと思う。呼んでくれるということは、「あいつには会いたくない」と少なくとも思われていない証だと思う。それはありがたいことだし、同じ記憶を持つ者同士、これからもそれを共有していたいと思う。次は高校のクラス会。こちらも楽しみにしたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 逆転交渉術 まずは「ノー」を引き出せ (早川書房) - クリス ヴォス, タール ラズ, 佐藤 桂 世界を変えた14の密約 (文春文庫) - ジャック・ペレッティ, 関 美和





2018年9月19日水曜日

論語雑感 八佾第三(その10)

〔 原文 〕
子曰、禘自既灌而往者、吾不欲觀之矣。
〔 読み下し 〕
子(し)曰(のたま)わく、禘(てい)、既(すで)に灌(かん)してより往(のち)は、吾(われ)之(これ)を観(み)ることを欲(ほっ)せず。
【訳】
孔子云う、「帝の祭は、潅の儀式(欝鬯・うつちょうの酒を地に注いで祖先の降霊を行なう儀式)が済めば、後は私は見る気がしない」と。
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論語に残されている孔子の言葉が、すべて何か教訓めいたものかというとそういうわけでもない。今となっては時代に合わなかったり、意味が良くわからなくなっているものも多い。今回のこの言葉もその一つ。何か皇帝の祭事のようなものがあって、その過程の一つを終えるともう見るべきところがないということのようである。私はといえば、割と何でも最後まで見る方なので孔子様とはちょっと違う(孔子様も最後まで見ないとまでは言っていないが・・・)。

たとえば映画を観に行った場合、映画が終わってエンドロールが流れ始めると席を立つ人たちがいるが、私はすべて終わって明るくなってから席を立つ方である。エンドロールなど眺めていたってなんの意味もないと言われればその通り。あえて言えば、「たった今観終えた映画の余韻に浸っている」ということだろう。もっとも、最近はマーベルの映画などでは、エンドロールの最後に次回作等につながるワンシーンが登場したりするからうっかり席を立つと損をする。そんな映画に当たったりすると、席を立ってしまった人たちにちょっと優越感を感じたりする(実に小市民的だ)。

また、野球場に行ったりすると、私はしっかり試合終了まで見届けるタイプである。時間があればヒーローインタビューなんかも見ていったりする。人によっては、例えば7回あたりに早々に席を立ってしまう人たちもいる。贔屓チームの敗色が濃厚で面白くないのか、もしかしたら次の日が早かったり家が遠かったり何か事情があるのかもしれない。試合終了後にみんな一斉に駅に殺到したりするから、それを避けたいのかもしれない。されど私は最後までしっかり見届ける派である。

そう考えてみれば、本を読めば大概読み切るし(途中でやめるのは本当に稀である)、なんでも最後までというのは性分なのかもしれない。そういう性分ではあるものの、では最後まで堪能しているのかと言えばそうでもなく、何となく席を立ちたいけど我慢しているというケースもある。その典型的なのは、コンサートと演劇(もっぱら劇団四季である)であろうか。これらは、どうしても最後のアンコールやカーテンコールにしっくりとこないものを感じるのである。

これこそ私がへそ曲がりのへそ曲がりたるゆえんかもしれないが、最初から用意してある「アンコール」というものに違和感を覚えるのである。そもそもアンコールとは、演奏に感激したお客さんの拍手が鳴りやまず、それに謝意を表したい演奏者が予定になかったもう一曲をサービスでやるというものであろう。いわば即興なわけで、初めから用意しておいて、「演奏予定のラスト曲」としてやるものではないと思うのである。

カーテンコールも本来はそうだろう。だが、これはファンの責任でもあるかもしれないが、大して感動したわけでもないのにやたらといつまでも拍手をやめない。それはパフォーマンスに感動したというよりも、むしろ「お約束」としてやっているようにしか思えない。それだから俳優たちも何度も何度も舞台に出て来ては同じようなお辞儀をして去って行く。早く帰りたいと思うのに、その長い時間はとてつもない苦痛である。せっかく、いいパフォーマンスだったと思っていても、最後の最後でケチがつく。

そんなアンコールやカーテンコールは、私にとっては孔子のように「見る気がしない」モノであると言える。誰にとっても、そんなものの一つや二つはあるものなのだろう。そんなことを鑑みると、孔子の今回の言葉にも頷けるものがあると思うのである・・・




【本日の読書】
 逆転交渉術 まずは「ノー」を引き出せ (早川書房) - クリス ヴォス, タール ラズ, 佐藤 桂 世界を変えた14の密約 (文春文庫) - ジャック・ペレッティ, 関 美和




2018年9月17日月曜日

これから金利は上がるのだろうか

金融緩和「出口」道筋 3年以内に 首相、出口戦略に初言及
 安倍晋三首相は14日開かれた日本記者クラブ主催の自民党総裁選の討論会で、日本銀行が進めてきた「異次元」の大規模な金融緩和策について「ずっとやっていいとは全く思っていない。任期のうちにやり遂げたい」と述べ、次期総裁任期の3年以内に金融緩和を縮小する「出口戦略」へ道筋をつける考えを示した。安倍首相が出口戦略に言及するのは初めて。時期や手法は日銀の黒田東彦(はるひこ)総裁に「任せている」とした。
産経ニュース2018.9.14
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リーマン・ショック以来、世界中で金融緩和策が取られ、我が国も日銀バズーカによってゼロ金利どころかマイナス金利政策がとられている。これを受けて銀行(特に地銀)の収益悪化が止まらず、ここのところ金融緩和政策の見直しを求めるという内容のニュースを目にする。安倍総理も総裁選の中で、上記の通り金融緩和の出口に道筋をつけるという意向を示したと報じられた。

確かに、「銀行に預けていてもほとんど利息がつかない」という状態は長く続いているし、実際今の銀行の金利は、一番高い金利でも0.01%(三菱UFJ銀行10年物定期預金)となっているからほとんど無いに等しい。ちなみに0.01%とは1,000万円預けても一年間で付く利息は1,000円である。かつては5%なんて時もあったのだから(5%だと50万円である)、大きな違いである。かつてはお年寄りが毎年利息で孫に好きなものを買ってあげられたが、今ではケーキでも買ったら終わりである。

ではこれから金融緩和策が終わって、金利が上がってかつてのようになればいいかと言うと、これは難しい。と言うか、個人的にはそうなってほしくない。なぜなら低金利には大きなメリットがあるからである。それは預金者にとっては悪でも、住宅ローン利用者にとっては善であるからである。事実、私が現在借りている住宅ローンの金利は、変動金利で1.475%である。今、ネットバンクなんかだとさらに1%近く低い金利のものもあるから、かつてを知る者としては驚きである。

金利が上がれば、ローンの金利が上がったとしても預金金利が上がるからいいじゃないかというと、そんなことはない。それは簡単なことだが、預金残高とローン残高を比較すれば明らかである(残念ながらローン残高の方がずっと多い)。ローン残高はこのまま順調にいけばあと16年でゼロになるが、それはまだまだはるかに先だし、預金残高がローンが減るのと同じペースで増えるかというと、そんなことはない(子供が成人するまでまだまだお金はかかる)。どちらがいいかと問われれば、「低金利!」と迷わず即答する。

個人のそんなささやかな事情はさておき、日本経済のためには金利を上げるべきかと問われれば、そこまではわからない。銀行の収益力の回復が日本経済に波及して全体の景気が良くなるのかもしれないが、一方でローン利用者の生活は苦しくなるだろう。その分給料が増えるとは思えないし、そもそも金融緩和で企業業績も回復しているが、その恩恵がどこまで個人に普及しているのか不透明だ。確たる確証もなく、日本経済のためと言われても金利の上昇につながることには賛成しにくい。

この先、金利はどうなるのかはとても興味があるところではあるが、個人的には「上がらない」という感じがする。私は経済学部の出身ではないし、専門的な議論にはついていけないが、ただ感覚としてそう思うだけである。なぜなら、莫大な国債残高を抱えた上で、金利が上がればそれこそ我が国の収支はますます悪化する。今でも財政均衡目標も危うい中で、金利が上がったら大変である。そして何よりも「金利を決めているのは日銀」なわけである。消費税を上げるのは大変だが、金利は抑えられる。となれば、自ら首を絞めることに他ならない金利を上げるという判断ができるかと言うと、そんなことできるわけがないと素人的には思う。

我が社も多大なる借入金を抱えながら事業をしている。低金利は我が社が存続して行くためには必須の条件である。当面、この低金利を生かして収益を計上し、元金返済を進めていきたいと考えている。低金利も追い風の会社と向かい風の会社があるわけである。それは仕方のないことであって、この資本主義社会ではそれぞれ置かれた環境で努力するしかない。銀行の人たちには気の毒だが、この環境下で創意工夫して利益を上げてもらうしかないのである。

今後、私の考えている通りになるのかどうかはわからないが、一庶民としてはやっぱり日々の仕事に精を出し、会社をより成長させ、それによって自分自身の給料を確保し、1日でも長く働けるように頑張るしかない。一気にできることではないから「日々確実に」である。それこそ「重荷を負うて遠き道を行くが如し」である。焦らず、急がず、歩んで行きたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 対立の世紀: グローバリズムの破綻 - イアン ブレマー, 奥村 準 世界を変えた14の密約 (文春文庫) - ジャック・ペレッティ, 関 美和