そういう熱心さは悪くはないと思うが、どうも昔から違和感を禁じ得ない。それは自分自身の経験から感じるものでもある。私は高校受験に際しては、自分で受験する高校を選んだものである(第一志望は都立高校、第二志望は同等レベルの私立校と滑り止め)。自分で調べ、自分で願書をもらいに行き、受験も合格発表も1人でこなした。親にはお金を出してもらっただけである。それがあるべき姿ではないかと思うのである。そのため長女の受験の時もアレコレ口出ししなかった。はっきり言って高校などどこでも良かったのである。
長女の場合、妻が積極的に受験に噛み込んでいた。塾へ行って勉強するように仕向け、学園祭にはあちこち顔を出し、もちろん学校説明会も東奔西走していた。そこまでする必要があるのか今でも疑問に思うが、反対はできなかった。それは私と妻との間の力関係である。残念ながらそこには圧倒的な差があって、私にはほとんど力がない。あれば当然放置していただろう。本人から助言を求められたら、もちろん精一杯力になってやるが、それ以外は本人に任せていただろうが、現実は上記の通りである。
だからと言って、我が子の教育に無関心というわけではない。むしろ逆である。子供は将来、親元を離れて生きて行かないといけない。そのための力をつけるには、少しずつ試練を与えてそれを乗り越える力をつけさせることが大事だと思う。親があれこれと世話を焼き、上げ膳据え膳でお膳立てすべきではないと思うのである。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」と言えば大げさかもしれないが、受験はその最適な試練だと、自分の経験からも言える。心配なのはわかるが、どうも世の中の母親達を見ていると、受験で鍛えられていない非力なままの子供達の先行きが心配になってくる。
レベルの高い高校に行くのは、よりレベルの高い大学に行くためでなく、受験という試練を乗り越えて自分自身一つ上にステップアップするためである。そしてレベルの高い大学に行くのは、大企業に就職するためではなく、将来必要な教養を身につけたり、自分が希望する仕事に必要な知識を身につけたり、あるいは知的好奇心を満たすためである。大学を選ぶにあたり、卒業生の就職先一覧なんかを見るのはまったくのピンボケである。
仮にそうして大企業に就職しても、そこからまた社内で競争があり、業績必達のためのプレッシャーがあり、人間関係に悩まされたりといろいろな試練がある。親は就職させたらそこで安心して終わりであるが、子供たちにとってはここからが本番である。大企業と言ってもグローバル化社会の中では、一部上場企業だって倒産するしリストラだってある。うつ病にならず、リストラされても生き残っていけるようにならないといけない。そのためには社会人になっても勉強は必要である。小学生、中学生の頃から毎日尻を叩かれて勉強して、大学に合格したら「もう勉強なんかしたくない」となったらどうするのだろうと思う。
高校に入ってラグビー部に入ったが、練習はそれなりにハードであった。それでもラグビーが面白かったから大学に入って迷わずラグビー部に入った。だが、同期で大学までラグビーを続けたのは他には1人だけだ。みんないろいろやりたいことがあったのだと思うが、ハードな練習に嫌気がさしたのかもしれない。大学に入ってまで苦しい練習なんかしたくないと思ったのかもしれない。勉強もそれに相通じるものがあるように思う。
また、ラグビー部の同期で、今それなりに元気なのは皮肉なことに大学に行かなかった2人だ。残りはみんな大学に行き、サラリーマンになっている。それはそれで家族を養い立派に自立しているが、ウィキペディアで検索しても名前は出てこないし、ジャガーを乗り回したりはしていない。大学に行かなかった2人にはそれができている。世の中ってそんなものである。高校受験で母親が熱心に学校説明会などに出ているのを見たりすると、違和感を覚えるのはそんな理由である。
今、妻の関心は中学1年の息子に移っている。早くも苦手教科だけ塾に行かせ、ダッシュの準備をしている。自分としては3年になるまで落ちこぼれない程度にやっていればいいと思う。それまで野球を熱心にやってほしいと思うが、果たして私の希望通りに行くかは難しい。それでも息子と日々会話を交わし、私の考えを伝えていこうと思う。草食系男子も軟弱系も、それを生み出すのは母親であるというのが私の考えである。
【今週の読書】
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