2026年11月4日水曜日

モノの価値

 モノの価値とは何だろうとふと考えた。モノには大概価値がある。それは金銭的な価値というのが一般的だが、中には「心理的(精神的)価値」とでも言えそうなものもある。私の愛用の時計などはその最たるもの。この心理的価値は、限られたものであり、万人向けというものではない。それは金銭的な価値に置き換えることができないものが多いだろう。お金には換えられないというものはきっと誰にでもあるだろう。金銭的な価値も必ずしもそのモノと釣り合っていないという場合もある。

 例えば我が家の愛車はもう20年近く乗っている中古車である。別居してからは乗ることもなくなっているが、さすがに長年乗っていると愛着が湧いてくる。買い替えるとなると、多分心理的な抵抗感は大きいだろう。それは心理的価値が付加されているからでもあるが、それを除いたとして、金銭的な価値で考えると多分価格的にはほとんど値がつかないと思う。それでも例えばもらい事故か何かで廃車になり、その価値に見合う賠償金を査定額に基づいて例えば10万円もらったとすると、それで釣り合うだろうかと考える。

 答えは当然、NOである。なぜかと言うと、いくら査定が正しくとも10万円では車の代わりにならないからである。ちょっとした買い物に行ったり、旅行に行ったりで、自家用車は非常に便利である。それがなくなる不便は金額には表せない。10万円が愛車の価格といくら釣り合っていようが、車に乗ろうとすれば代わりの車を買わないといけない。もちろん、10万円の中古車を買えばいいだけの話だが、実は10万円では車は買えない。私が初めて買った中古車は車体価格13万円だったが、諸費用を入れると40万円近くになったものである。

 なので、10万円もらったところで決して公平感は得られないだろう。それどころか、10万円では足りないと感じるに違いない。しかし、払う方からすれば、20年近く乗った中古車の価格は、10万円でも高いと考えるかもしれない。その違いはどこから生まれるのかと考えてみると、それはつまりその査定額はあくまでも車体価格であって、その車に乗ることによって得られる「便益」が無視されているからに他ならない。ではその「便益」を金銭的価格に反映させたらと思うが、それは簡単ではない。買い物は1回ではないからである。

 我が家で20年近く愛車に乗り続けているのも、もともと私も妻もそれほど車に興味はなく、車を買う用途が「便益」だったということが大きい。よって我が愛車の価値はこの「便益」にこそあり、車体本体にはあまりない。もしも、何かの理由で車を失うことになった場合、その遺失利益はかなり大きい。それは例えば、私が今住んでいる実家の価値にも言える。前回考えたように、たとえ「負動産」になろうと、両親が生きている間に住むことができる「便益価値」はとてつもなく大きい。

 前回考えたダイヤモンド・オンラインの記事で、「家は資産になる」という持ち家派の考えを否定していたが、それは金銭的価値のみを採り上げたもので、この便益価値については無視されている。たとえ売れなくて金銭的な価値がゼロであったとしても、日々の暮らしをそこで行えるという便益価値はゼロどころか家賃並の価値をもたらしてくれている。これこそが持ち家の価値とも言える。持ち家か賃貸かの議論は別として、ダイヤモンド・オンラインの記事にはこの価値の視点が決定的に抜け落ちているのは確かである。

 モノには価値がある。しかし、それを測るメジャーは一つではない。金銭的価値、心理的価値、便益的価値とさまざまである。だから議論をする時には同じメジャーで測らないと議論は噛み合わなくなる。しかし、心理的価値と便益的価値は互いに共有できない。唯一共有できるのが金銭的価値であり、だからこれを使わざるを得ない。火災保険や自動車保険などの保険は、金銭的価値で考えてあるもので、ゆえにいざ事故となった時は、このメジャーの違いによるギャップがあると満足感が低くなってしまうだろう。

 金銭的価値が高いことに越したことはない。しかし、金銭的価値のあるものに加え、心理的価値のあるものも多く持ちたいと思う。何物にも換えられない価値は、たとえ金銭的な価値がなくても大きな満足感をもたらしてくれる。売れるか売れないかという金銭的価値ももちろん大事だと思うが、資力に限りある身としては、心理的価値や便益的価値も大事にせざるを得ない。あらためてモノの価値をそんな風に思うのである・・・




【本日の読書】
 西洋の敗北と日本の選択 (新書) / エマニュエル・トッド (著)+[販売店ノベルティー]2025年09月19日発売 国際情勢 政治学 評論 宇宙創成(上)(新潮文庫) - サイモン・シン, 青木薫




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