2021年10月24日日曜日

器用貧乏

 「器用貧乏」という言葉を聞くと、どうにも反応してしまう。「器用貧乏」とは、「なまじ器用であるために、あちこちに手を出し、どれも中途半端となって大成しないこと」というような意味として知られている言葉である。なぜそんな言葉に反応してしまうのかと言うと、なんとなく自分の事のように思えてしまうからである。私はかなり器用な方であると思う。比較的なんでもそれなりの程度ではあるがこなせてしまうところはある。だが、「突出してできる」というものがない。

 小中学校の頃は、勉強といえば、「オール3+α」と言う感じであった。どの教科もそれなりにできるが、学年一番とか、そこまでいかなくてもトップクラスというような尖ったものがない。スポーツも大概のものは何となく上手くできるが、トップレベルとまではいかない。少年野球のチームに所属していたが、ポジションはファーストで打順は2番。当時「ライパチくん(ライトで打順は8番)」と呼ばれた「おミソ」ほどではないが、「エースで4番」とも遠い。そんな感じである。

 高校に入ってラグビーを始めたが、弱小チーム内では中心にいたが、大学に入って競争が激しくなると3年になるまでレギュラーにはなれなかった。レギュラーになっても、ちょっと強いチームと対戦すると、自分より上かもしれないと思われる選手がゴロゴロいた。銀行に入った時はそれが顕著で、とうとうレギュラーにはなれなかった。ただ、社会人は出席率が悪く、フォワードからバックスまでどこのポジションでもそれなりにこなせた私は、いろいろなポジションで試合には出られたのである。

 ラグビーは16歳から初めてもう40年以上であるが、今だに自分がうまいとの確信が持てずにいる。ただでさえ、肉体的な衰えを感じ始めているから尚更である。うまいという確信が持てない理由は、「コーチができない」という事と、「プレーの解説ができない」という2点で特に感じる。両方とも煎じ詰めれば同じことかもしれないが、ラグビーに対する理解度が足りないから、プレーの解説ができず、人に教えることもできないのである。

 就職した銀行でも出世できなかったのは、1つには人付き合いが下手だったということもあるが、突出したものがなかったということもあるのではないかと思ってみたりする。されど、能力がないというわけではないので、転職した中小企業のような人材層の薄いフィールドでは活躍できるのである。チームレベルが下がれば(高校時代のチームのように)、そこそこ中心として活躍できるが、上がれば途端に埋もれてしまうといったところなのかもしれない。

 私の父は、かつて中学校時代、なぜかローマ字が得意だったそうである。そのレベルは学年一番のレベルで、学年で一番成績の良かった同級生がローマ字だけは父に聞きに来たそうである。今でも当時を懐かしみながら、そして得意げに語る父であるが、私にはそういうものがない。大学時代も1コマ90分の講義を週12コマ出席していたが、「A」は数えるほどしかなかった。週にせいぜい5コマくらいしか出席せず、あとは情報を駆使して出席率だけで評価してくれる優しい教授の講義を取り、「出席したことにして」、Aを集めていた同期からは今だに笑われる私である。

 いろいろなものをそつなくこなすが、突出した得意分野も持つ「器用富豪」には憧れを感じざるを得ない。ただ、それはなかなか叶わぬ夢的なところがある。だとすると、何がいいかと考えると、器用貧乏もそれなりに良いように思う。どこのポジションでもそつなくこなせたから、レギュラーメンバーが来られない試合では代わりに出場できたのである。それはそれで面白い経験である。人によっては「ここしかできない」という人もいるわけで、それはそれで良いのではないかと思う。

 「鶏口となるも牛後となるなかれ」ではないが、小さな組織ではどこでも卒なくこなせるのは1つの特技かもしれないと思う。今は財務兼人事兼総務部であるが、「財務のスペシャリストだが人事はダメ」よりも組織の役には立っていると思う。「そこそここなせる」というのも大きな持ち味だとも言える。何よりも自分はそうであるのであり、嘆くよりも慣れろで良いのではないかと思う。本当の貧乏になってはかなわないが、器用な自分をこれからも愛していこうと思うのである・・・


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【本日の読書】
 「時間」を哲学する (講談社現代新書) - 中島 義道 殺人現場は雲の上 新装版 (光文社文庫 ひ 6-20) - 東野圭吾




2021年10月21日木曜日

老化か練習不足か

 この頃、「老い」というものを考える。と言ってもまだ50代。還暦には若干、間がある。昨今の高齢化社会でいけば、まだまだ「若い」と言われてしまう。週末に参加しているシニア・ラグビーのチームは60代が中心であり、そこでは「中堅」である。さすがに会社ではもう上から数えた方が早いが、それでも定年後に嘱託に転じた方からは「若い」と言われている。そういう環境だからか、「自分が歳をとった」という実感はほとんどない。気持ちの上では20代の頃とそれほど変わらない。

 しかし、写真を見ると確実に歳を取っているのがわかる。特に結婚したばかりの20年くらい前のものだと、髪は黒々としているし、肌艶も生き生きとしている。写真の中の自分と鏡の中の自分を比べれば、確実に老化現象が見て取れる。当たり前と言えば当たり前である。さらに先日、それをグラウンドで実感させられた。ボールを持って相手のディフェンスを抜いた後、何と後ろから走ってきた学生に捕まえられたのである。足の速さには自信がある私には、後ろから走ってきた相手に追いつかれるということは、記憶の限りない経験である。

 他の場面でもその学生の足の速さにはついていけなかった。ちょっとショックであった。実は、私はまだ息子と駆け足で競争しても勝てる自信がある。高校生の息子は中学の時には学年一番になった俊足であるにも関わらず、である。しかし、この経験でそれも心許ない気がしてきた。負けたところで16歳と57歳では恥ずかしくはない。それでも「まだまだ」と思うのである。毎週走っているし・・・

 追いつかれたのは、自分が歳を取って衰えたのか、そもそもその学生が私より早かったのかは定かではない。歳と言っても、みんな一律に衰えるわけではない。マスターズ陸上では、65歳で100mを12秒台で走る人がいる一方、20代でも12秒を切れない人はざらにいる。時速100キロで走る新車のポルシェ911と、時速110キロで走る中古の日産マーチとではどちらが早いかと言えば、マーチである。57歳であっても50mを6秒6で走れれば、50mを7秒かかる20代には勝てる。歳は関係ないとどうしても思う。

 しかし、100m走の90歳の世界記録は16秒86だというし、105歳の世界記録は42秒22だというから、確実に老化は人の身体能力を奪うことは間違いない。私もいつまでも50mを6秒台で走れるわけでもないだろう。それは自分が出場しているラグビーの試合のビデオを見れば実感する。自分では20代の頃と変わらぬ意識で動いているが、画面の中の自分の動きは明らかに遅い。ただ、周りもみんな遅いから特段遅さが目立たないだけで(むしろ中では早い方だと言える)、学生同士の試合と比べると、試合展開の遅さは格段のものがある。

 こうした客観的事実を突きつけられると、鏡の中の自分は、確実に写真の中の自分よりも肉体的にも衰えているのだろう。当たり前ではあるが、そう思う一方で、「それは単なる練習不足だろう」という別の自分の声も聞こえる。昔は1週間で4日練習し、1日試合というペースでラグビーをやっていた。それが社会人になってから週2日になり、シニアの今は1日である。この練習量の差に他ならないというのも真実である。果たして年齢と練習量との要素のうち、どちらが主であろうか。

 社会人の今は、週4日の練習などとても無理である。仕事があるし、仕事から帰ってきて寮で筋トレをやったり走ったりしていた20代の頃のような気力は確実にない。となれば、たとえ練習量が主要因だとしても、取り返すのは難しいと言える。いずれ肉体的に老化の影響は避けられず、どう頑張っても20代どころか40代の相手にも追いつけなくなる日が来るのだろう。それは仕方のないことではあるが、今はまだ追い抜く方が多いわけであり、風を切って走れる自分を楽しむゆとりがある。

 いつまでも若ぶるつもりはないが、それでもまだまだ体を動かしたいと思う。いずれ満足に動けなくなる日まで、グラウンドでボールを追いかけたいと思うのである・・・



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【本日の読書】
 「時間」を哲学する (講談社現代新書) - 中島 義道 殺人現場は雲の上 新装版 (光文社文庫 ひ 6-20) - 東野圭吾



2021年10月18日月曜日

論語雑感 雍也第六(その3)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子華使於齊。冉子爲其母請粟。子曰。與之釜。請益。曰。與之廋。冉子與之粟五秉。子曰。赤之適齊也。乗肥馬。衣輕裘。吾聞之也。君子周急不繼富。原思爲之宰。與之粟九百。辭。子曰。毋。以與爾鄰里郷黨乎。
【読み下し】
子華しか、斉せいに使つかいす。冉ぜん子し其その母ははの為ために粟ぞくを請こう。子し曰いわく、之これに釜ふを与あたえよ。益まさんことを請こう。曰いわく、之これに庾ゆを与あたえよ。冉ぜん子し之これに粟ぞく五ご秉へいを与あたう。子し曰いわく、赤せきの斉せいに適ゆくや、肥馬ひばに乗のり、軽けい裘きゅうを衣きる。吾われ之これを聞きく。君くん子しは急きゅうなるを周すくうて富とめるに継つがず。原げん思し、之これが宰さいと為なる。之これに粟ぞく九百きゅうひゃくを与あたう。辞じす。子し曰いわく、毋なかれ。以もって爾なんじの隣りん里り郷きょう党とうに与あたえんか。
【訳】
子華が先師の使者として斉に行った。彼の友人の冉先生が、留守居の母のために飯米を先師に乞うた。先師はいわれた。
「五、六升もやれば結構だ」
冉先生はそれではあんまりだと思ったので、もう少し増してもらうようにお願いした。すると、先師はいわれた。
「では、一斗四、五升もやったらいいだろう」
冉先生は、それでも少ないと思ったのか、自分のはからいで七石あまりもやってしまった。先師はそれを知るといわれた。
「赤は斉に行くのに、肥馬に乗り軽い毛衣を着ていたくらいだ。まさか留守宅が飯米にこまることもあるまい。私のきいているところでは、君子は貧しい者にはその不足を補ってやるが、富める者にその富のつぎ足しをしてやるようなことはしないものだそうだ。少し考えるがいい」
原思が先師の領地の代官になった時に、先師は彼に俸禄米九百を与えられた。原思は多過ぎるといって辞退した。すると先師はいわれた。
「遠慮しないがいい。もし多過ぎるようだったら、近所の人たちにわけてやってもいいのだから」
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 東北の震災時、被災地に救援物資を運んだ米軍ヘリパイロットの話を何かで読んだ記憶がある。着陸の時、そのパイロット(女性パイロットだったと記憶している)は、非常に緊張したらしい。というのも、多くの場合、着陸後に救援物資に人々が殺到して大混乱になるからである。ところが、パイロットの予想に反し、被災地の人々は礼儀正しく列を作り、必要な分だけ受け取ると次の人と変わり、混乱はかけらも生じることなく物資の配布を終えたと言う。その女性パイロットは非常に感銘を受けたらしいが、日本人的には特に不思議なエピソードではない。

 「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」とは相田みつをの名言であるが、まさにその通り。我々日本人の持つ美徳を世界に自慢したくなるエピソードであるが、現実には醜い事例もある。私の前勤務先の社長は、M&Aで会社を売却した。水面下で単独で話を進め、社員には突然「2ヶ月後に解雇」が通知された。退職金規定はなく、せめて支給しろと交渉し、何とか1人50万円の退職金を確保した。M&Aによって社長が手にした資産は数億円。大半の社員が勤続10年超であったが、そんな事情は一切考慮されなかった。もちろん、違法ではなくモラルの問題であるが、人目につかないところではそんなものである。

 他人のことよりも自分のことの方が大事なのは、ある意味当たり前である。そして人間は「もっともっと」という動物である。国際的なNGOオックスファムが2020年1月20日、ダボス会議に合わせて発表した最新の報告書では、「世界の富裕層の上位2100人の資産が世界の総人口の6割にあたる46億人分の資産を上回る」とされたそうである。富める者が、「もう十分」と言うことなく、「もっともっと」と追求した結果であろうが、それが人間の本性なのだろう。むしろ、持たざる者の方が他人の不足を補おうとするところがあるのかもしれない。

 人間はもらう時にはおおらかになり、渡す時には渋くなる。「そんなにたくさんいただかなくても結構です」と言いつつ、「ではいらないものは他の人に」と言われて受け取ったとしても、一旦受け取ると今度はそれを手放すのが惜しくなる。かく言う私も、先輩にはよく奢ってもらうが、次の機会に友人との飲み会で割り勘負けすると何となく損した気分が抜けきれない。「奢ってもらった分を返したと思えばいいじゃないか」と無理やり自分を納得させるのだが、その都度、自分自身を「小さいな」と思ってしまう。

 地獄では亡者たちが鍋を囲んで食べ物を食べようとするが、箸が長すぎてなかなか食べられないのだと言う。天国でも同じように鍋を囲んで長い箸を与えられているが、人々は皆満腹だと言う。それは、天国ではお互いに食べさせ合っているからで、自分で食べようとする地獄との違いはそれだけなのであるが、それができずに食べ物を前にして飢えに苦しんでいるのだと言う。なるほど、よく考えたものであるが、こういうことは現実世界ではよくあるのだろうと思う。

 商売では「利他」の心と言われるが、まずはお客様を喜ばせ、そうすると利益は後からついてくるとされる。それで大成功をしているところがあるのであるが、現実的には目先の利益に走ってしまうことが多い。「利益が得られるなら奉仕しましょう」というわけである。「背に腹は変えられない」という事情もある。足元赤字で火を吹いていたら、とてもそんな余裕などないかもしれない。余裕のあるところはいいが、そうでないところが同じようにできるかは難しい。

 岸田新総理は、「成長と分配の好循環」を経済政策の柱に掲げて船出した。「社員の給与引き上げなどに取り組んだ企業への税制優遇」という話が伝わってきたが、はっきり言って我が社ではとてもそんなゆとりはない。そもそも税制優遇などと言われても、赤字企業には税負担はないので意味がない。「わけ合えばあまる」のはわかっているが、そもそもわけ合うものがあって初めて成り立つ話である。社員が、「では、わけてもらえるように頑張ろう」と思ってくれればいいが、そうでなければ不満だけが残るだろう。

 自分あるいは自分の身内がハッピーになることを望むのは、人間の本能的なところであり、それ自体非難すべきことではないと思う。ただし、それが「自分たちだけ」となると話が変わる。周囲にも目を配り、「バランスのとれたハッピー」であることが必要であろう。そんなことはみんな頭ではわかっていると思うが、実践できるかが難しい。よほど日頃から意識していないと無理であろう。そこで支えとなるのが、「賞賛」であるように思う。

 先の例で挙げた被災地の人たちの行動が、米軍ヘリパイロットの感動を呼んだように、利他の心は人の賞賛を招く。それは浴びれば心地良いであろう。現金とは違ってそれでモノは買えないが、その心地良さに価値を見出したらいいと思う。現状の自分の才覚では、残りの人生で億単位の資産を残すのはかなり難しい。しかしながら「賞賛」はいくらでも集められる。お金の足りない分は、この「賞賛」で代用すればかなりハッピーな人生を送れると思う。

 多額の報酬を得た時に、「多過ぎる」と言って周りと分かち合うような心のあり方をこれからは意識したいと思うのである・・・



【今週の読書】

 「人に迷惑をかけるな」と言ってはいけない (SB新書) - 坪田 信貴 「時間」を哲学する (講談社現代新書) - 中島 義道




2021年10月15日金曜日

意識の差

能力の差は5倍、意識の差は100倍

日本電産 永守重信

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 何事につけ、どういう意識で取り組むかというのは、その結果を左右する需要なファクターであると思う。スポーツや趣味などにおいては、そもそもやる気があってやっているから問題はないが、仕事や学校の勉強のように(人によっては)「やりたくなくてもやらざるを得ない」ものになると、意識の差によって途端に大きな差がつくものである。つまり、「どういう気持ちでそれをやるか」ということである。

 人は社会に出れば生活していくために仕事をしなければならない。それをどうのようにやるかということについては、人によって大きな差が出る。その差は、能力の差もあるが、主として「意識の差」が大半を占める。実際、我が社にも残念な人がいる。仕事に対しては、嫌々ながらということはなく、それなりに真面目にやっている。しかし、どうしても周りに評価されない。観察していると、その理由は「責任転嫁」である。

 その人がやっているのは、会社でも地味な仕事。裏方の仕事であるが、内容を問われるとどうしても不十分なところがある。それはそれで仕方ないところもある。その漏れを重箱の隅をつつくように指摘するつもりはなくても、その人からはすぐに言い訳がでてくる。「これは私の責任ではない」という内容である。たとえば、その人が担当になる前のものだとかである。だが、例えそうだとしても今はその人が担当なわけである。本来はその仕事を引き受けた時点ですべて精査して漏れがないかチェックしておくべきなのである。

 仕事というのは人が変わっても続けて誰かがやらなければならない。だとすれば、「私以前の人の責任」という言い訳はいかがなものかである。仮にその通りであるとしても、「すみません」と一こと言っておけばそこで終わる話である。しかし、その人にとっては、自分の責任にされるのが嫌なのであろうか、常にいろいろと言い訳をする。それを繰り返すとどうなるか。答えは簡単で、「信用を失う」のである。「あの人の仕事はどうも信用がならない」と。そうなると、あらゆる場面で疑惑の目で見られるから、アラも見つかりやすくなる。そしてまた言い訳となると、もう悪循環である。

 私は、仕事をやる以上は常に「給料以上の仕事」をしようという意識でいる。「これで十分」ということはない。指摘されれば、その時点で自分が至らなかったわけであり、素直に認めて次から指摘されないようにすればいい。言い訳などしている暇はない。その繰り返しが信頼を生み、そうすると少々アラがあってもサラリと流してもらえることになる。「あの人のやっていることは大丈夫」と思われたらそういう風になる。

 また、部下に相談を受けたら必ず自分の責任で決定を下す。社長や役員に許可を取らなければならないことであれば、自分が動いてとる。自分で解決できなければ、誰を動かせばいいのかを考えて動く。相談してくれた部下はその姿を見れば、たとえ結果的にできなかったとしても、少なくとも「頼りない上司」とは思わないであろう。同僚からの相談にしても社長からの相談にしても、必ず動いて自分なりの何らかの成果を示す。そういう心掛けでいる。

 そうしていくうちに、何となく周囲の信頼を得られているような実感を得られるようになる。面倒なことでも敢えて火中の栗を拾うことにしているが、そうするとやることが増えていく。今までより良くなったり、今まで誰もやっていなかった仕事が増えていくことは、すなわちそれが自分の存在意義であると思う。そうして「いないと困る人」になれれば、組織で存在感のある人間になれると思うし、仕事も楽しいものになるだろう。

 私の先輩の中には、80を超えてもまだ現役でいろいろな肩書きを持って請われて仕事を続けている人がいる。自分には遠い存在ではあるが、今の仕事に対する意識を維持し続ければ、定年になって嘱託になり、65歳でご苦労さんということにはならないだろう。70歳まで住宅ローンは続くし、まだまだ長く働きたいし、いつまでも必要とされていればそれも可能だろう。そうすれば大先輩の足元くらいには及ぶかもしれない。どうせやるなら楽しく働きたい。嫌々ながら働くよりも、その過ぎ行く時は幸いであると思う。

 「仕事は仕方なく嫌々ながらやらざるを得ないものである」と言う人がやっぱりいるが、そう言う人の気持ちはまったく理解できない。常に怒られていたら仕事が楽しいなんてことにはならないであろう。楽しく働くには何よりもやはり「意識の差」が重要なのではないかとつくづく思うのである・・・


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【本日の読書】
 息子のトリセツ (扶桑社BOOKS新書) - 黒川伊保子 人生論 (新潮文庫) - トルストイ, 卓也, 原




2021年10月10日日曜日

親と子

 親と子は、時として対立する。その理由は、根底に「親の心子知らず」ということがあると思う。よく親の決めた路線を子が反発して拒否するというのは、ドラマなどでも当たり前のように出てくるシーンである。親の決めた進路に反発し、結婚を反対されて駆け落ちするなどもよくあるパターンである。なぜそんな対立が生じるかと言うと、逆説的ではあるが、それは親の子に対する深い愛情である。愛情があるゆえなのにも関わらず、それが親子の対立へとつながり、親子関係の断絶などという事態になるのは、大きな悲劇であると思う。

 子の幸せを願う親の気持ちとしては、何よりもまず自分の人生経験から得た(あるいは得ることができたかもしれない)「成功の方程式」を子にも与えようと思う。医師になって成功した者は、当然それが「成功の方程式」であるから子も医者にしようとする。それにはある程度勉強もできないといけないから、塾へ行かせ、進学校に進ませようとする。思い入れがある人は、自分の母校に進ませるかもしれない。成功した自分の医院を継がせれば子どもの人生も安泰だろう。子供の幸せを確保できれば、後顧の憂いなく自分の人生を終えられるわけである。

 学歴がなくて苦労した人は、子供に大学まで進学させようとするだろう。給料が安くて苦労した人は、大企業に就職するように勧めるかもしれないし、失業経験があったりすると公務員を勧めるかもしれない。子供に公務員になるように勧める親は、明確な「成功の方程式」を持っていない人で、何がいいかわからないからとにかく安定をと考えてかもしれない。娘が売れないミュージシャンと結婚したいと言ってきたら、当然親は反対するだろう。恋愛はとにかく周りが見えなくなる。生活の苦労を知っている親としては、当然娘の不幸を見たくはないから反対する。

 それなのに子供が反発して親子の対立になるのはどういうわけなのかと言えば、それこそが「親の心子知らず」であろう。それと、「子供には子供の考えがある」ということであると思う。親はなぜ自分に進路を示すのか。その理由をきちんと語っていれば、あるいは子供の理解を得られたかもしれない。それでもなお、「子どもの考え」として、その進路を拒否することだってあるだろう。そもそも親と子供は、育ってきた時代や環境がまるで違うわけである。親と同じ考え方に育つわけがない。親とは違って、医者にはなりたくないと思っても不思議ではない。

 そんな考え方があるせいか、私はあまり我が子に道を強要しようと思ったことはない。私は高校からラグビーを続けているが、子供をラグビースクールに入れるようなことはなかった。もちろん、何もわからないうちにラグビーをやらせて「洗脳してしまう」というのも一つの考え方だったが、野球の方が身近な友達と一緒にできるだろうと思って近所の少年野球チームに入るのに反対はしなかったし、むしろ一緒にキャッチボールをしたりして後押しをした。高校に入った息子は、私の一縷の願い虚しく、部活動ではラグビーではなく野球を選んだ。残念だが、仕方がない。

 今は大学生の娘も、いずれ卒業し(卒業してもらわないと困る)、就職し(就職してもらわないとやはり困る)、そして誰かと結婚するかもしれない。そしてその時、私の前に連れてくるのは売れないミュージシャンかもしれないし、売れない役者かもしれない。その時は、反対の言葉が喉まで出かかるだろうが、それでもたぶん反対しないだろうなと思う。恋は盲目だから反対しても一層意固地になるだけだろうし、それよりも「ダメだと思ったらいつでも戻ってきなさい」と言って送り出す方を選ぶだろう。

 親は子供に対してある程度の影響力を持っているのも事実。警察官の子は警察官になるケースが多いと聞いたことがあるが、それもその一つ。もちろん、すべての子供が親に反発するわけではなく、素直に従う子供もいるだろう。政治家や芸能人に二世が多いのは、職業としての魅力があるのかもしれない。歌舞伎などの伝統芸能などでは、嫌が応にも幼少期から「洗脳」してしまって、疑問にすら思わせないという方法を取っているが、それも一つの方法であると思う。

 我が家では、すでに「洗脳」方法は取らないことにし、子供たちに過度な干渉はしない方針である。高校一年の息子に言っているのは、「文武両道」。すなわち野球で構わないからしっかり3年間全力を尽くすことと、勉強もしっかりやることである。ただ、放任する気はなく、やはり自分の知識や経験から子供たちに適切だと思えるアドバイスはしたいと思う。大学2年で特にサークル活動もやっていない娘に対しては、将来のために簿記のような資格を取ったらと勧めている。こういうアドバイスは、しっかりと続けていくつもりである。

 振り返ってみれば、私は親の意見はあまり聞かない方だったと思う。よく言えば、「自分の道を歩んできた」と言えるし、自由にさせてもらったという意味ではむしろありがたかったと思う。子供たちにも同じように自由に生きていって欲しいと思うが、それでもやはり放任よりは有益なアドバイスは伝えたいと思う。有益かどうかは本人の感じ方次第であるが、選択肢を与えるという意味では、うるさがられない程度に、自分の経験から得た考えを伝えたいと思うのである・・・



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【今週の読書】
 混迷の国ベネズエラ潜入記 (わたしの旅ブックス) - 北澤 豊雄 人生論 (新潮文庫) - トルストイ, 卓也, 原




2021年10月7日木曜日

仕事は楽しいかね

「今日の仕事は、楽しみですか」品川駅の大量広告、「出勤時に見ると傷つく」と批判→1日で取り下げ 
NewsPicks関連企業10/6(水) 7:03配信

4日に掲示されていた広告(アルファドライブ麻生要一社長のTwitterより)「今日の仕事は、楽しみですか。」――品川駅コンコースにある数十台のディスプレイに10月4日、一斉にこんなメッセージが掲げられた。その写真がTwitterで広がると、「見た人を傷つける」「楽しみでなくても、しなくてはならない仕事はあるのに」などとTwitterで批判が集まった。この広告を掲示したのは、ユーザーベース傘下で人材育成やNewsPicks法人事業などを展開するアルファドライブ。同社は批判を受けて1日で広告を取り下げ。「利用者の方々への配慮に欠く表現だった」と謝罪している。
Yahoo!Japanニュース
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 朝のニュースで目にしたものであるが、読んだ瞬間写真を二度見してしまった。何が問題なのか理解できなかったからである。もちろん、人それぞれ考え方は違うから批判もいいと思うが、そもそもみんなそんなに仕事が嫌なのだろうかと疑問に思う。そういう自分は、仕事に楽しみを見出すタイプであり、嫌だなどと思うことなく毎日通勤している。そして仕事が好きか嫌いかと二者択一で問われたならば、迷うことなく「好き」だと答えるだろう。

 「仕事は好きでやっているわけではない」という言い分もよくわかる。仕事は第一に「生活のため」すなわち「金のため」である。かく言う私もそこは同じである。ただ、当然ながら「それだけではない」。仕事をする中でも楽しみというのはある。8月に転職し、すっかり今の仕事にも慣れたが、日々仕事の中に楽しみを見出している。「今日の仕事は楽しみですか」と問われたのなら、「楽しみです」と答えるだろう。もちろん、すべての人がそうだとか、そうあるべきだとは思わないが、そうでないなら気の毒だなと思うだけである。

 考えてみると、このディスプレイを見て傷つく人というのは、仕事が嫌いな人なのだろう。「仕事が嫌い」にも「仕事そのものが嫌い」というのと、「一緒に働く同僚が嫌い」というのに分かれるのではないかと思う。私も社会へ出て早や33年、銀行業界、不動産業界でそれぞれ仕事をしてきて、「仕事そのものが嫌い」だという経験はあまりない。むしろ、大概の仕事は面白かったと思っている。ただ、上司や同僚が嫌だというのは多々あった。昇進や昇格などで差がついたりするのも嫌な経験である。私にとっては、仕事の嫌な部分というのは「人間関係」であると言える。

 今の仕事も面白いと思う。小さな会社の総務部であるが、小さいがゆえに、総務部と言っても、経理部も人事部も兼ねている。やることは多い。今まではむしろやり切れていない方なので、自分がやり切れていない部分を開拓していこうと思っている。そもそもであるが、自分は常に「存在感」を出したいと思っている。
「自分が来る前と来た後で何が違うのか」。
それがすなわち自分の存在感であり、違いが大きければ大きいほど、なくてはならない人財になっていると思う。

 それを教えてくれたのは、新人の頃の先輩。その先輩は、新人の頃、自分の足跡をその支店に残したいと考え、書庫を徹底的に整理したと言う。新人だから大きな仕事ができるわけではない。だが、書庫の整理ならできる。そこで誰もやらずに乱雑になっていた書庫を整理して褒められたと言う。たかが書庫の整理であるが、その発想がすべてだと思う。以来、私も自分の存在感にこだわっている。そういうことをあれこれと考えると、やるべきことは次々に目の前に出てくる。「前任者とは違うな」と思わせるのは簡単である。

 今は総務部の部長という立場であるが、経理部門の責任者でもあり、そうすると会社全体の収支計画に携わるので、当然営業や現場の各部署にも首を突っ込む機会ができる。そうすると、そちらの方面にも意見を言えるし、人事の立場からも社員教育などについて意見を言うようになる。あっという間にそれなりの存在感は出せていると思う。当然、日々の仕事は楽しい。33年のキャリアで人間関係もそつなくこなせるし、「仕事は楽しい」と胸を張れる。

 物事は何でも「考え方」であるように思う。「我がものと思えば軽し傘の雪」なのである。「嫌だ」と思う原因は何なのか。仕事であれば、仕事のどの部分なのか。それを楽しくやる工夫はできないのか。不平不満も当然出てくると思うが、それを解消する術はないのか。そしてどうしてもダメなら他の仕事に道を求めるという手もあるだろう。自分はそんなふうに考えてきたから、今も仕事が楽しいと思えるのだろうと思う。社会人になれば人生の大半を仕事をして過ごすわけであり、その時間をストレスと共に過ごすよりも、楽しく過ごしたいと思う。

 更に言えば、そうした批判を浴びてすぐに広告を撤回した対応にも如何なものかという思いがある。少なくともこれは良いと思ったからこそ広告として採用したのであろう。それに対し、異論反論があったとしても、きちんと広告を出した意図を説明すればよかったのではないかと思う。ちょっとばかりの炎上にすごすごと自分たちの考えを取り下げるのは、「事なかれ主義」の現れでしかないと思う。もっと堂々と、意見を主張してもらいたいと思う。そしてそれでこそ、仕事が楽しくなるのではないだろうか。

 失業経験者の私としては、仕事があって、そこそこの収入があるというのはありがたいこと。そういう仕事があることに感謝しつつ、これからも楽しく働きたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 混迷の国ベネズエラ潜入記 (わたしの旅ブックス) - 北澤 豊雄 両利きの経営(増補改訂版)―「二兎を追う」戦略が未来を切り拓く - チャールズ・A・オライリー, マイケル・L・タッシュマン, 入山 章栄, 渡部 典子, 冨山 和彦








2021年10月3日日曜日

論語雑感 雍也第六(その2)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
哀公問。弟子孰爲好學。孔子對曰。有顔回者好學。不遷怒。不貳過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好學者也。
【読み下し】
哀公あいこう問とう、弟てい子し、孰たれか学がくを好このむと為なす。孔こう子し対こたえて曰いわく、顔回がんかいなる者もの有あり、学がくを好このむ。怒いかりを遷うつさず、過あやまちを弐ふたたびせず。不ふ幸こう短命たんめいにして死しせり。今いまや則すなわち亡なし。未いまだ学がくを好このむ者ものを聞きかざるなり。
【訳】
哀公が先師にたずねられた。
「門人中で誰が一番学問が好きかな」
先師がこたえられた。
「顔回と申すものがおりまして、たいへん学問が好きでありました。怒りをうつさない、過ちをくりかえさない、ということは、なかなかできることではありませんが、それが顔回にはできたのでございます。しかし、不幸にして短命でなくなりました。もうこの世にはおりません。顔回なきあとには、残念ながら、ほんとうに学問が好きだといえるほどの者はいないようでございます」

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 勉強は好きかと問われたのならば、「好きだ」と迷わず答える。いつの頃からかは覚えていないが、これまで勉強が嫌いだと思ったことはない。そう言うと何やら優等生的であるが、嘘偽らざる気持ちである。それは「良い子しよう」というあざとい考えではなく、「純粋に学ぶことが好きだ」ということである。ここで勉強とは何かと定義するならば、それは学校の教科に限らず、広く「自分の知らないもの一般」ということになる。とどのつまり、勉強好きとは、「知らないものを知りたいという好奇心」と言える。

 学校の勉強もすべてが好きというわけではなかった。音楽は苦手だったし(いまだに音符は読めない♪)、高校時代は唯一化学で赤点を取った。しかし、それ以外は概ね好奇心を元に抵抗感なく取り組めていた。もっとも、受験勉強だけは苦痛で、1日10時間のノルマを己に課した宅浪時代は、終わった瞬間「もう二度と浪人は無理だ」と思ったほどである。受験というのは(資格試験も含めて)、勉強の本質とはちょっと違うような気がする。純粋に学びたいという気持ちをそれは満たすものではない。

 娘が高校を卒業した時、いらなくなった教科書を譲り受けた。もう一度高校の勉強をやり直してみたいと思ったからである。譲り受けた教科書は、「国語(古典を含む)」「数学(A・B、I〜III)」「物理」である。歴史や地理など社会科系はもう十分という感じだし、それ以外はあまり触手が動かなかったのである。以来、暇を見つけては(なかなかその暇がないのであるが)少しずつ読んだり問題を解いたりしているが、面白いなと改めて思う。この「面白い」というのが学びたいという気持ちと裏表なのだと思う。

 大学は法学部に進んだが、専門教科の法律以外にもいろいろと講義に顔を出した。教養課程では他学部の科目も取らなくてはならなかったこともあって、変わったところでは「文化人類学」などという講義も取っていた。内容は忘れてしまったが、もう一度取ってみたいという気持ちは今でもある。今、もう一度大学に入ることができるのであれば、迷うことなく「哲学」を選択すると思う。これは今でも好きでよく本を読んでいるが、やはり本格的に理解するには、独学では無理があり、専門的に教えてもらう必要があると思うのである。

 哲学は難しいが、その難しさの向こう側にちらほら見えているものに非常に興味をそそられるのである。先日『善の研究』を読んだが、やはり通り一遍だとよくわからない。解説書などを片手に持ちながら読む必要があると感じている。さらに今は『意志と表彰としての世界』に挑戦中であるが、読みこなせるかはちょっと不安である。日本語だから表面上書いてあることはわかるのであるが、そこに込められた本当の意味を理解しているかと問われると心もとないのである。これも「面白い」という気持ちがすべてである。

 学生時代、勉強するのはそれが義務だからという点を除いては、卒業資格を得るためだけに、突き詰めると試験のために勉強しているようなものである。中間、期末と試験があり、小中学はともかく、高校では一定の成績を収めないと進級または卒業ができない。入試に受からなければ高校にも大学にも入学ができない。その後も社内資格や国家資格などのために人は勉強する。およそ勉強とは「試験のため」であると言える。だが、それでは(それだからこそ)勉強なんて楽しくはないと思う。勉強とは己の知的好奇心を満たす遊びだと思う。

 学生時代は、試験のために勉強せざるを得ない。そこでは好きなことだけやっていればいいというわけではない。つまらない授業にも出ないといけないし、一定の成績を取らなければいけない。卒業しても、昇格のためにあるいは仕事を有利に進めるべく、社内外の資格を取るために勉強する。それは純粋なる好奇心とは程遠く、義務感に狩られたものである。だから面白くない。「勉強が好き」などと言うと、好奇な目で見られたりする。だが、本来勉強というものは、己の知的好奇心を満たすためにやるものだと思う。車の速度を算出するのに微分積分が利用されていると知った時の感動は、映画や小説を読んで感動するのと変わらない。

 今、何か資格を取る必要に追われているわけでもなく、時間さえあれば(これがネックである)好きなことを学ぶことができる。これは実に幸せなことである。「しなければならない」ものはなく、「することができる」幸せ。数学も娘からもらった教科書(なぜかどれもきれいなのが良いのか悪いのか複雑な気持ちではある)を終えたら、その上の純粋数学を学んでみたい気もするし、『スミルノフ高等数学教程』シリーズにも手を出してみたい気もする。朝からスタバに行ってコーヒーを飲みながら、数学の世界に没頭するなんて贅沢な日々を送れたらこの上なく幸せ感に浸れると思う。

 勉強とは、本来かくあるべきものだと思う。それを義務化するから苦痛に感じる。勉強と言うと大半の人は反射的に顔を背けたくなると思うが、それはとても残念なことだと思う。おそらく、顔回という人は、そういう学問好きだったのではないかと思う。自分も顔回ほどとはいわないが、そこそこの勉強好きである。社会人として自分と家族の生活を支えていくために仕事を優先しなければならないのは当然であるが、余った時間を映画や読書やスポーツやその他諸々の「やりたいこと」に振り分け、少しでも勉強に割きたいと思う。「勉強できる幸せ」を味わいたいと思うのである・・・


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【今週の読書】

 混迷の国ベネズエラ潜入記 (わたしの旅ブックス) - 北澤 豊雄 両利きの経営(増補改訂版)―「二兎を追う」戦略が未来を切り拓く - チャールズ・A・オライリー, マイケル・L・タッシュマン, 入山 章栄, 渡部 典子, 冨山 和彦




2021年9月30日木曜日

献血をするわけ

 今年2回目の献血をした。人生で12回目の献血である。初めての献血は高校生の時。以来、献血などしようという気にもならなかったが、10年前に職場で実施してからというもの、たびたびするようになったのである。なぜ献血などするのかと言うと、それは自分自身、「禍福は糾える縄の如し」という考え方があるためである。人間、幸せにばかり囲まれていることはできず、不幸まみれのままでいることもない。必ず禍福は入り乱れて自分に降りかかってくると信じている。それが根底にあるのである。

 良いことがあれば悪いこともある。だから良いことが続いたら悪いことが起こるかもしれないと警戒しないといけない。しかし、悪いことが起きるのをビクビクしながら待っているのもバカらしい。そこで自ら不快(=自分にとって悪いこと)を作り出して不幸の代わりにしてしまおうという魂胆である。献血は実に不快な経験である。針を刺されるのも不快なら、機械で血液を吸い上げる際に針を通して微妙に伝わってくる振動も実に不快である。そういう不快感は、自分にとっての幸福と釣り合わせるのにちょうど良い気がするのである。

 こういう考え方は、いつの頃からか漠然とあったのであるが、欽ちゃんの『負けるが勝ち、勝ち、勝ち! 「運のいい人」になる絶対法則』(読書日記№626) を読んだ時に確信した。欽ちゃんは、かつて『欽ドン!』が視聴率30%を超えるたびに、運を使うために馬券を300万円買っていたという(もちろん、当たり狙いではなく、損してそこで悪運を使ってしまうのである)。残念ながら私にはそんな資金力はないから、自ら不快に身を委ねる方を選んでいるのである。

 献血を終えると、少し休憩するように求められ、お菓子や飲み物や、最近ではいろいろと小物をプレゼントしてくれる。飲み物は失った水分を補給するという意味で、医学的観点から飲むように言われるからそれはいいとして、いろいろもらってしまうとせっかく運を減らしにきているのにその効果が薄れてしまうような気がする。なるべくお菓子は食べないようにし、今回もらった歯磨き粉(なぜこんなモノをくれるのかはわからない)は家族に渡した。今回に限らず、献血は別途行なっているユニセフへの寄付と併せて定例化しようと思っていることである。

 毎回400ml。血液検査もしてくれるのでその数値も参考になる。前々回基準値を超えて医師の診断を勧められ、前回はギリギリ基準内だったコレステロール値が、今回は一気に下がっていた。どうやら『LIFESPAN-老いなき世界-』(読書日記№1243) を読んで感化されて始めた「一日二食」の生活の効果が現れてきたのかもしれない。これも「空腹」という不快を毎日味わうという目的もあったのだが、体重も春から7㎏落ちて腹回りもスッキリし、ズボンも緩くなった。コレステロール値の改善は想定外だったが、運を減らすつもりがいい結果につながってしまうと、良いのか悪いのか複雑な気分である。

 また、今年は町内会の班長役が当番で回ってきている。これも面倒だしやりたくないのは本心だが、こういう面倒ごとを引き受けるのも「運減らし」の効果があるかもしれないと考えている。だからなるべく積極的に参加している。妻はこれ幸いとばかりに私にすべてを押し付けてくるが、「少しはお前もやれよ」とは決して言わないのはそういう考え方があるからである。仕事でも、やらなくても誰にも何も言われないことをわざわざ引き受けたり、何かあれば二つ返事で引き受けたりしているが、それもこういう「運減らし」の考え方である。

 この世は不条理であり理不尽であり不公平である。心正しき者が必ず幸せになるとは限らず、憎まれっ子は世に憚る。それを嘆いても仕方がない。この世に神様がいたとしても、とても全人類を公平に見ることなんて不可能だろうから期待はしない方がいい。であれば個々人が不条理な世の中で心安らかに暮らしていく術を身につけるしかない。普段から運減らしをしていれば、大きな不運には襲われないと信じて平穏に暮らせるのであればそれでいいではないかと思う。

 今年に入って突然理不尽な失職を味わった。とは言え、再就職の相談に乗ってもらった人たちは皆真摯に対応してくれた。それほど人付き合いがうまいとは思えぬ自分であるが、まだまだ友人知人には恵まれている。そして縁あって再々就職した今の会社も、いい雰囲気で楽しく仕事ができている。収入が減ってしまったのは難事であるが、あっちで減った運、減らした運の分だけ良いことがこっちでちゃんと起こっているように思う。少なくとも今の職場はストレスとは無縁である。

 献血した400mlもどこかで誰かの役に立っているかもしれない。もしかしたらアマのジャッキーな血が混じって迷惑しているかもしれないが、それは笑って許してもらおう。個人のささやかな思い込みであるが、それで日々穏やかに暮らせて、少しだけ誰かの役に立っているとしたら、まぁいいだろうと思う。これからも少しの不快と面倒とを自分のために引き受けていこうと思うのである・・・


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【本日の読書】
 混迷の国ベネズエラ潜入記 (わたしの旅ブックス) - 北澤 豊雄 かたちだけの愛 (中公文庫 ひ 30-1) - 平野 啓一郎



2021年9月27日月曜日

メンタルヘルス

 不動産会社からシステム開発会社に転職してはや2ヶ月弱。業種的にはまったく異なるが、「総務」という観点からはあまり関係がない。銀行に入った時は、お金のことに詳しくなれば銀行を辞めてもどこかの企業で財務部長くらいになって食っていけるだろうという漠然とした思いがあったが、財務を専門にしていると、業種に捉われなくてもいいという利点があると改めて思う。とは言え、中小企業ゆえに財務部などと独立したものはなく、財務兼人事兼の総務である。

 そんな総務部に着任して、本業の財務の把握が落ち着いたところで個人的に問題意識を感じているのが「メンタルヘルス」である。既に社員が3人も休んでいる。医師の診断はみんな同じ「適応障害」。適応するのに障害があるというなんともよくわからないようで、適したような診断である。調べてみたら、実はIT関連業界は適応障害に罹る比率が高いようなのである。在宅勤務や客先常駐などの勤務形態がそれを助長しているらしい。1日パソコンに向かい、人との交流が少なくなりがちな環境が良くないのであろう。

 なんとかしたいと思うのはいいが、まず困るのは「症状について想像がつかない」ということ。頭が痛いだとか熱があるとかならわかるが、「適応障害」という症状については想像がつかない。その昔、銀行の敬愛する先輩が過去に鬱になって銀行に行けなくなったという話を聞いたことがある。その時にも思ったのだが、自分にはそういう経験がない。冬の朝、布団から出たくないといった類の「会社に行きたくない」という感情ならわかるが、家を出て会社に向かう途中で苦しくなってしまうというのはもう理解の範囲外である。

 その昔、私も大失敗をして何千万円という損害を出してしまったことがある。さすがにその時は堪え、周りの視線も痛かったし、出勤すればその瞬間から針のむしろであった。しかしながら、そんな針のむしろであったが、「行きたくないな」と思いつつ毎日きちんと出勤した。休んだ方が精神的には楽だったが、休めば当然「そういう目」で見られるし、それよりもむしろ針のむしろの方がマシだという感覚が働いたのである。その時、「会社にいけなくなるのってこういう気持ちなんだろうか」とは思ったが、結局出勤できていたのでそれが本当にそうであったかどうかはわからない。

 銀行を辞める時も実はゴタゴタがあって、夜眠れないという経験をした。食欲もなくなり、寝ても夜中に何度も目が覚めてしまう。1日中、心ここに在らずという状態で、家族との会話も上の空であった。また、一昨年は会社の借り入れの連帯保証をし、会社がダメになったら自己破産というプレッシャーからやはり眠れなくなった。会社の状態も不安定だっただけに、恐怖感溢れていた。不安なまま眠ると夜中に夢を見て目が覚めてしまう。経営者であればそういう経験をしている人も多いだろうが、実に嫌なものである。それでも会社に行けなくなるというところまではいかなかった。

 思うになんとなく自分には心のヒューズみたいなものがあって、ストレスが一定の限度を越えてしまうとそれが飛んでそれ以上のストレスを感じなくなる何かがあるようである。「なんとでもなれ」というような感覚になってしまい、ストレスを感じなくなるのである。見方によっては責任の放棄ともとれるかもしれないし、開き直りなのかもしれない。人の輪の中にいるよりもむしろ1人でいたいと思うから、孤独なエンジニアの気持ちなど想像しようもないが、自分なら耐性があるようにも感じる。

 外部からのストレスに対する耐性は人それぞれである。血を見て卒倒する人もいれば平気な人もいる。痛みに大げさに反応する人もいればそうでない人もいる。「覚悟」もそれには影響するだろう。体の大きさが人それぞれであるように、心の耐性もまた人それぞれである。それに「慎重」の裏返しは「優柔不断」であるように、「メンタルの弱さ」は「責任感の強さ」かもしれない。自分は割とストレス耐性が強いと思うが、だからと言って弱い人を「軟弱だ」とは思いたくないと思う。

 人事部も兼ねる総務部としては、社員のメンタル問題について考えないといけないと思っているが、自分自身想像がつかない領域なだけに苦手意識があるのも事実。さてどうしたらいいのだろうと思案しているところである。想像がつかないと言い訳する一方、それに反してなんとなく医者に対する不信感のようなものもある。心の不調を訴えて医者に行けばまず間違いなく「適応障害」などと診断を下すように思う。それは心の中という見えない世界である以上、医者としては「なんでもない」とは診断し難いだろうと思うのである。必然的に診断を下した方が無難であることは想像に難くないわけであり、返ってそう感じてしまうところがある。

 そんなことを言い出せば、問題解決から遠くなってしまうので、その疑惑はとりあえず封印して考えようと思う。自分はメンタル耐性があってよかったと思う一方、なんで耐性があるのかはよくわからない。それはもともとの脳の働きなのか、それとも「考え方」なのかもしれない。少年時代に松本零士の漫画を読んで感化された影響かもしれないし、その両方なのかもしれない。それはともかくとして、自分は大丈夫だからという上から目線ではなく、同じ視線の高さで真摯にこの問題を考えてみたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 IT技術者が病まない会社をつくる - 浅賀 桃子 かたちだけの愛 (中公文庫 ひ 30-1) - 平野 啓一郎




2021年9月23日木曜日

文学の道

 『文学入門』という本を読んだ。70年前の古い本であるが、手に取ったのは自分の中に文学とやらを学んでみたかったという思いがあったからである。高校生の頃、将来の進路の候補として頭に浮かんだのが「法学部」と「文学部」(文系選択は迷いがなかった)。「法学部」は、なんとなく将来の職業として(映画の影響から)弁護士というのがあったのであるが、「文学部」はただ単に本が好きだったからというだけのことである。どちらにすべきかは、(文学部を出て食べていけるのかという)現実的な考えから迷うことなく法学部を選んだのであるが、なんとなくその時のやり残し感が残っているとも言える。

 その時、漠然と思ったのは、「文学ならいつでも学べる」という感覚があったのも事実。この本を手に取ったのも、それを思い出したからとも言える。一読してそれなりになるほどとは思ったが、もう少し幅広く学んでみたいという物足りなさ感があったのも事実である。しかしながら、そもそも感じたのは、「文学とは何を学ぶのか」ということ。大学の文学部では、我が娘が文学部の心理学科に行っている通り「心理学」もあり、「哲学」もある。「哲学」は本当に大学に入って学んでみたいと今でも思うが、純粋に「文学」というとよくわからない。

 古今東西の文学作品を研究するのだろうか、それとも「読み方」なのか「書き方」なのか。いくつかの大学のホームページを見てみたが、正直言ってあんまりよくわからない。ただ、『文学入門』にも書かれていたが、「読み方」などは特にあるわけではなく、そこからの「感じ方」は人それぞれによるところが大きく、「学ぶ」などという大げさなものではないように思う。それが証拠に、「直木賞受賞作品」「芥川賞受賞作品」などという謳い文句に惹かれて読んではみたものの、何がいいのかよくわからないという作品は数多くある。

 この直木賞だとか芥川賞だとかという選考基準も素人にはよくわからない。表現なのか、ストーリーなのか、そのトータルなのか。『容疑者Xの献身』が直木賞を受賞したのはわかるが、なぜ『永遠のゼロ』ではないのかはわからない。同じ作家でも『暗殺の年輪』よりも『蝉しぐれ』の方が面白いと思うのに、なぜ『暗殺の年輪』だけなのか(タイミングももちろんあると思うが)。およそ「賞」となると素人の私には良し悪しは区別できない。

 それは実は私の大好きな映画の世界にも言える。コッポラや黒澤明などの巨匠が創った名作を否定する気は無いが、では平凡な監督が同じ作品を撮ったらどうなるのかよくわからない。『地獄の黙示録』は確かに深い作品だと思うが、それはコッポラ監督によるものなのか、それとも脚本なのか、それともマーティン・シーンやマーロン・ブランドという出演者なのかよくわからない。『パラサイト半地下の家族』がアカデミー作品賞に輝いたが、同じ韓国映画でも『アシュラ』の方が断然面白かった。ハリウッド映画でも、「アカデミー賞受賞作品」などと言われても最近は鵜呑みにしないことにしている。

 いわゆる玄人受けというのはあるだろう。スポーツでもサッカーはあまり観ても面白いとは思わないが、ラグビーはメチャクチャ面白い。それはプレーの意図がわかることもあり、簡単なようでいて実は難しいプレーというものがわかるというのもある。そうした一つ一つがよくわかるので、観て面白いと思うのかもしれない。文学も映画も、そんな玄人が観たら、実はすごいということもあっての受賞なのかもしれない。深く学べば深く学ぶほど、より深く味わえるというものなのかもしれない。

 いずれにせよ、これで終わりというわけではない。学んでみたいという気持ちは強くあるし、「求めよ、されば得られん」ということもある。今後も折に触れ、文学そのものに興味を持って手を出してみたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 ジャパナビリティ 世界で生き抜く力 ――私の履歴書 (日本経済新聞出版) - 福川 伸次 かたちだけの愛 (中公文庫 ひ 30-1) - 平野 啓一郎




2021年9月19日日曜日

論語雑感 雍也第六(その1)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。雍也可使南面。仲弓問子桑伯子。子曰。可也簡。仲弓曰。居敬而行簡。以臨其民。不亦可乎。居簡而行簡。無乃大簡乎。子曰。雍之言然。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、雍(よう)や南面(なんめん)せしむべし。仲弓(ちゅうきゅう)、子(し)桑(そう)伯(はく)子(し)を問(と)う。子(し)曰(いわ)く、可(か)なり、簡(かん)なり。仲弓(ちゅうきゅう)曰(いわ)く、敬(けい)に居(い)て簡(かん)を行(おこな)い、以(もっ)て其(そ)の民(たみ)に臨(のぞ)まば、亦(ま)た可(か)ならずや。簡(かん)に居(い)て簡(かん)を行(おこな)わば、乃(すなわ)ち大簡(たいかん)なること無(な)からんや。子(し)曰(いわ)く、雍(よう)の言(げん)然(しか)り。
【訳】
先師がいわれた。
「雍には人君の風がある。南面して政を見ることができよう」
仲弓が先師に子桑伯子の人物についてたずねた。
先師がこたえられた。
「よい人物だ。大まかでこせこせしない」
すると仲弓がまたたずねた。
「日常あくまでも敬慎の心を以って万事を裁量しつつ、政治の実際にあたっては、大まかな態度で人民にのぞむ、これが為政の要道ではありますまいか。もし、日常の執務も大まかであり、政治の実際面でも大まかであると、放漫になりがちだと思いますが」
先師がいわれた。
「おまえのいうとおりだ」
************************************************************************************

 大学を卒業し、銀行に入ったのは1988年の春であった。同期は330人くらいいたと記憶している。その中でも同期のKは、一見すると遊び人風で(実際もそうなのであるが)、行動はどこか破茶滅茶的なところがあって、お世辞にも銀行員的とは言えない人物であった。しかし、天下のW大学ラグビー部でレギュラーを取った男でもあり、それだけでも尊敬に値する男である。そんな同期の彼が、一部上場企業の社長になったと報じられた。同じ同期ながら、ずいぶん差がついてしまったものである。

 彼の持ち味は明るくて、破茶滅茶なところはあるが、その実友人知人を大事にするところがある。どちらかと言えば、1人でいることを好む私とは対照的で、彼は人が集まるところの中心にいるような人物である。銀行に入った頃の彼は、とても社長になるような男には見えなかったが、おそらく社会人経験を積む中でそれなりのものを身につけ、そして持ち前の人柄で人脈を得て今の地位を築いたのだろうと思う。大まかなところは銀行員ぽくはないが、こせこせしない親分肌の気質は、人の上に立つに相応しいものだろうと思う。

 最後に彼に会ってからもう10年以上会っていないが、Facebookでその活躍は知っていたが、私にはないものをことごとく持っている男である。「日常あくまでも敬慎の心を以って万事を裁量しつつ、政治(=経営)の実際にあたっては、大まかな態度で人民にのぞむ」という言葉通りの男であると思う。一方、社長とは言え、「日常の執務も大まかであり、政治(=経営)の実際面でも大まかである」人物も知り合いにはいる。その人の会社はまさに迷走状態であった。政治も経営も核にあるのは同じなのだろう。

 ずいぶんと会っていないが、会えば彼はあの頃のように接してくれるだろう。銀行チームの同じジャージを着てともに試合に出ていたあの頃のようにである。同じチームではありながら、一流チームのトップでプレーしていた彼に遅れじと張り合っていた気持ちは今も私にはある。立場では雲泥の差がついてしまったが、私は私で今の立場で恥ずかしくない行動を取りたいと考えている。方や東証1部上場企業のトップ、方や中小企業の1事業部長ではあるが、自分の立場で胸を張って彼に自分の仕事の説明をしたいと思う。それにはそれなりのものがないといけない。

 先日、新入社員向けの研修では、「どんな事があっても『言われてません』、『指示されていません』とは言ってはいけない」という話をした。それを言った瞬間、「自分は指示待ち族である」と公言することになる。いい年したサラリーマンでも、結構平気でこの言葉を使っている。仕事は自ら考え、自ら動く事が大事。1人でいることを好む性分ではあるが、仕事ではどうしても人と関わり合わないといけない。であればそれなりに人の輪の中で影響力を発揮したいと思う。自分より経験の浅い人には、大らかに接しつつ、影響力を持てるようにしたい。

 人はやはり大まかな態度で接してくれるリーダーについて行きたいと思うものだと思う。自分の経験を振り返ってみても、小さなミスや漏れをネチネチと詰める上司には嫌悪感しか抱けなかった。自分もそうならないようにしないといけない。彼はきっとそんな態度は微塵も見せないだろう。こせこせしないのもその通り。仕事は1人ではできない以上、信頼して任せつつ、上手く行くように心配りをし、いざとなれば己の責任を全うする。それが人君の風を備えた彼に対する対抗策であるように思う。

 たとえ差があったとしても、彼に対しては常に恥ずかしくない自分でいたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング) - 近内悠太 ジャパナビリティ 世界で生き抜く力 ――私の履歴書 (日本経済新聞出版) - 福川 伸次 文学入門 (岩波新書) - 桑原 武夫




2021年9月16日木曜日

新人教育

 転職して1ヶ月。なんでもありの総務部であるが、会社の将来を見据えた上で「人材育成」が必要であると考えている。技術的なことには手は出せないが、それ以外なら何かできるかもしれないと考えて色々と調べていたら、新人向けの教材を借りられることが判明した。取引銀行が提供しているサービスである。そこで早速、DVDを取り寄せた。それは「会社の常識・非常識」をテーマにしたものである。そこでは、新人と上司との「常識ギャップ」が採り上げられていた。

 2時から会議と言われ、2時ぴったりに会議室の席に着く新人。それを見ていた上司は「せめて5分前には来い」と言う。「それならそうと言ってくれればいいのに」と思う新人。ここんな調子でいろいろな「会社(社会)の常識」が採り上げられる。そこで奇異に描かれるのは、「常識」を知らない新人たち。我々世代から見ると「今時の若い者は」と言いたくなる若者たち。いつの世も若者はおじさんたちの頭を抱えさせるものという姿。

 どうして世の新人たちはこうも常識知らずなのだろうかと考えてみる。
しかし、考えてみれば私も新人の頃は日々ムカムカしていたのを思い出す。「そんなこと言ってくれないとわからないだろう」ということは結構あった。「仕事は盗むものだ」と教えられ、「そんなの非効率だろう」と腹の中では思っていた。「新人類」という言葉が世に広まったのは、私のすぐ後の世代である。だが考えてみればそれは当然だとわかる。

 新人たちはそもそも会社の常識など知らずに入ってくる。おじさんたちにとっては「常識」であっても、それを知らない新人たちにとっては「常識」ではない。以前、イギリス王室に食事に招かれた外国の賓客がディナーの席でフィンガーボールの水を飲んでしまったと言う。女王はその賓客に恥をかかせないように自らフィンガーボールの水を飲んだというエピソードである。しかし、フィンガーボールを使う習慣(常識)のない外国人には何の水だかわからないだろう。そしてそれを「常識知らず」というのは間違いである。

 新しい環境に入れば「常識」を知らないのも当たり前。みんなそこから教えられて「常識」が身に付いていくのである。今の世のその「常識」を支えているのは、かつての「新人類」である。ではどうするか。「常識」人であれば、非常識人である新人に面倒でも気がついたら教えるべきだろう。「休暇を取りなさい」と部長に指示された新人が忙しい年度末に休暇を取ろうとして上司に呆れられるが、そういう常識を知らなければそういうことになる。「今の若い者」はという前に、休暇はあらかじめ忙しい時期を避けて取るものだと教えるしかない。もっとも、ちょっと気が効く新人なら「いつ取ればいいのか」と聞くかもしれない。

 新人からすれば、こうした「常識ギャップ」を乗り越えるためには、とにかく聞くしかない。コピーを取れと言われたら、「どのように取れば喜ばれますか」とでも聞いてみればいい。新人のうちはトンチンカンなことを聞いても大目に見てもらえる。それは新人ならではの免罪符である。始めは一々聞くのも気が重いかもしれない。それに対して必要なのはマメにコミュニケーションを取ることだろう。上の人に話しかけ難かったら、とにかく始めは挨拶からすればいい。1日に1回でも目を見て挨拶していれば、おじさんたちの方から話しかけてくるかもしれない。

 DVDでは「報連相」も採り上げられていた。「報連相」は新人に限らず大事であるが、新人にとっても大事である。良くありがちなのが、「報連相」しようと思っているが、上司が忙しそうでついつい気後れして黙っている。DVDでは「3時までに仕上げろ」と言われていた資料作成で、新人くんがわからないことがあって手が止まり、3時を過ぎて上司から怒られるというシーンがあった。「わからないならなぜ聞かない」と怒られるのだが、新人くんの気持ちもよくわかる。

 我々ぐらいのベテランになれば、相手の様子を伺って話しかけるというのは何の抵抗もない。緊急性が高ければ、忙しそうな相手でも「ちょっとすみません」と遠慮なく言える。だが、新人くんにはそういう感覚はわからない。私が上司であれば、3時になってできたかと聞くのではなく、途中で様子をチラ見しながら「わからないことはないか」ぐらいは聞くだろう。あるいは余裕のある資料ならわざと放置して様子を見るかもしれないが、そういうケースを除いては、やはり上司の方が気にかけるべきであろう。

 それはさておき、新人のうちは報連相のタイミングなどわからなくても当然である。コツはとにかく怒られても気にせずに話しかけることに尽きる。そのうち聞くべき内容の重要度と相手の様子とのバランスを見て話しかけるタイミングをつかめるようになってくる。私からすれば、新人相手に怒る方がおかしいと思う。それと怒られたとしても、「怒られた」と取るのではなく、「教えてもらった」と捉えるメンタリティも必要だろう。

 自分もそういうノウハウを教えられていたら、新人の頃の職場をもう少し気持ちよく過ごせていたと思う。まぁ、みんな自分の仕事が忙しかっただろうし、それで給料がもらえるわけでもないし、仕方がなかったのだろう。新人の研修も誰から言われたものではないが、会社の将来のためにはなるだろうし、自分の経験にもなるだろうから、半分楽しみながらやっているところもある。第2回目も予定しているので、今度はもう少しブラッシュアップしてやりたいと思う。

 会社の将来を背負う新人たちに何か残せるものがあるといいなと思うのである・・・



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【本日の読書】
 世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング) - 近内悠太 ジャパナビリティ 世界で生き抜く力 ――私の履歴書 (日本経済新聞出版) - 福川 伸次




2021年9月12日日曜日

仕事のやり方

 転職して1ヶ月。ほぼ社内の様子には慣れ、仕事の内容も概ね把握し、自分のペースで仕事をこなしている。当然ではあるが社内にはいろいろな人がいる。これまで銀行に26 年半、不動産会社に6年半勤めていたが、今度の会社はまた違う人たちがいて面白い。仕事の内容が変われば当然とも言えるが、そうは言っても仕事の「やり方」というものはそう変わらない。仕事のできる人、できない人というのもそれぞれいて、しかしながらそれぞれ共通しているものだと改めて思わされる。

今度の会社の部下の1人は、若手の3年目。言われた事はそつなくこなす。直属の上司曰く、
「一つ仕事を頼むとプラスαを乗せてやってくれる」。
これはなかなかいい傾向である。仕事は、たとえコピー一つにしても考えてやれば違いをもたらすことができる。ただ、コピー機のボタンを押すだけではなく、どういう資料でどういう状況で使うのか、どういう風にコピーを取れば使いやすいのかと考えて取るだけで大違いである。私がサラリーマンの「三種の神器」の一つと考える「創意工夫」である。頼もしい部下を持ててありがたいと思う。

 一方、あまりできのよろしくない人もいる。あちこちで怒られている声が聞こえてくる人がいて、耳をすませてみると「なぜやっていないのか」と問われて、「(やるように)指示されていません」と答えていた。これはサラリーマンとしては最悪に近い回答である。典型的な「指示待ち族」である。しかもその仕事の担当者はその人なのである。自分の担当であればなおさら「やらなくてもいいのだろうか」と思わなければいけない。自分が担当で一番よくわかっているわけであるから、「何を成すべきか」を考えていないといけない。指示されていないのなら(指示がないと動けないと思うのなら)、「やらなくてもいいのですか」とか、「やってもいいですか」と自ら指示を出してもらうよう働きかけるぐらいでないといけない。

 そもそもなぜそういう回答をするかと言えば、おそらくその人は常に「やらされ仕事」をしているのだろう。仕事は自ら作り出すものである。たとえ最初は指示されたことからスタートするにしても、どこかで自分主体にならないといけない。ところがいつまでも受け身のままだと「言われるまでやらない」という事が身に染みつき、それは思考レベルで浸透するから、言われるまで自分で考えるということをしなくなる。言われて初めてスイッチが入るから(=自分がやらなければいけないとわかるから)、慌てて「聞いていません」、「指示されていません」となってしまうのだろう。

 そういう人は、A=Bだと教えられると、A=Bだと理解する。B=Cだと教えられると、B=Cだと理解する。しかし、そこで思考停止してしまい、それではつまりC=Aなんだなというところまで気がつかないのである。先日もある役所への申請について、疑問に思い調べてみたのだが、担当しているその人に聞けばあるケースAをピックアップして申請しているとのこと。しかし、ちょっと考えてみたところ、その趣旨からするとBというケースでも申請していいのではと疑問が湧いた。そこで役所に確認したところ、申請可との回答が得られた。それに該当するケースがかなり見つかったのである。

 私も初めての業務であるが、ちょっと「考えて」みればわかることなのである。少なくとも疑問には思えるだろう。そうしたら聞くなりなんなりして調べてみればいい。それだけでその仕事をより深く理解する事ができる。しかし、「言われたことだけ」やっていてはそういう疑問すら持てない。あるいは疑問にぐらいは思ったのかもしれないが、「言われてもいないことはやらなくてもいい」と考えたのかもしれない。そういう思考習慣が根付くと大変である。

 たとえば経理の仕事についたら、言われるがままに伝票を切ったりという作業から入るかもしれない。慣れてきたら、これはどうしてこういう勘定科目でどうしてこういう記帳をするのだろうと疑問に思うべきである。そしてそれを一つ一つ確認していけば、「ではこういう場合は」という疑問が次々に湧いてくる。やがてもっと詳しく知ろうと思えば、本を買って簿記の勉強を始めることもできるし、長じて簿記の資格を取ろうとすることもできる。自分の担当する仕事をそうして極めようとすれば、やがてその道のプロとなれる。それは決して「指示されていないから(やらない)」という思考回路からは出てこない。

「給料以上の仕事をするのは損」という考えがあるが、それは極めて害のある考え方である。給料以上の仕事をしたら損というのは目先のことしか考えていない。それではいつまでたってもその給料しかもらえないということに気づいていない。
「下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そしたら誰も君を下足番になどしておかぬ」(小林一三)
なのである。日本一になるには指示を待っていてはなれない。とても大事な思考習慣である。かの人はもう大ベテランであり、残念ながら長年の思考習慣はもう変えられないであろう。

 人の振り見てではないが、他人の様子はよくわかるもの。自分は大丈夫だとは思うが、今一度油断がないかは意識したいところ。新しい環境であるがゆえにいい緊張感もあるし、そのあたりを改めて自分も強く意識したいと思うのである・・・


Erik SteinによるPixabayからの画像 


【今週の読書】
 冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか (ハヤカワ文庫NF) - 管賀 江留郎 大名倒産 下 (文春文庫) - 浅田 次郎 文学入門 (岩波新書) - 桑原 武夫





2021年9月9日木曜日

島耕作と菅総理

菅首相、退陣へ 自民総裁選に不出馬―政権運営行き詰まり
2021年09月03日13時38分
菅義偉首相(自民党総裁)は3日の党臨時役員会で、17日告示、29日投開票の総裁選に立候補しないと表明した。新型コロナウイルス対応への世論の不満などから内閣支持率が下落する中、党内で「菅離れ」の動きが広がり、総裁再選は困難と判断した。首相は後継の選出を待って退陣する見通しだ。
時事ドットコム
ヤング 島耕作(1) (イブニングコミックス) - 弘兼憲史
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ネットで無料漫画をよく読んでいるが、最近気に入っているのが『島耕作』シリーズである。これも面白いもので、学生から始まってヤング、主任、係長と出世していき、最後は会長、相談役にまでなるサラリーマンの出世物語である。それぞれに面白いのだが、先日読んだのは、『ヤング島耕作』のある話。それはまだ島耕作が3年目の若手の頃の物語で、島耕作は会社の寮に住んでおり、同じ部屋の2年目の若手の相談に乗るという内容である。

 その若手は、学生時代からコツコツ努力せよと教わり、それを実践して高卒ながら大企業である初芝電産に入社する。ところが入ってみれば真面目に働いた人が必ず報いられていないということに気づく。むしろ調子よくやっている者の方が上司から可愛がられている。そういう者は、上司の見ていないところでは手を抜き、それでも評価されているが、一生懸命コツコツ努力し続けている自分は評価されていない。そんな悩みを島耕作に打ち明けるのである。

 そんなエピソードを読んでいて、自分もまさに同じように感じていた若い頃を思い出していた。私もどちらかと言えばコツコツ努力するタイプである。上司に媚を売る暇があったらその分努力する。上司が見ていようといまいと仕事に対するスタンスは変えない。それを良しとしていたのである。ところがお調子よくやっている同期が評価され、自分はそれ以上に努力しているのに評価されない。上司に誘われて飲みに行っては楽しく過ごす同期の男は「頑張っている」と評価され、自分も負けずにやらないとダメだと叱咤される。おかしいだろうと不満を抱えていた。

 私の同期の男も頑張ってはいた。だから評価されるのは当然だと思うが、その「頑張る方向」が私とは違っていたのである。取引先係のその同期と融資係の私とでは仕事の内容も違うから、ある程度は仕方がない。スポーツで言えば攻撃側は華々しく見えるが、守備側は地味である。そんな違いもあったが、上司に誘われても基本的に飲みに行かなかった私のスタンスもまずかったと思う(もちろん、喜んで行きたくなる上司は別である)。今振り返ってみても、サラリーマンとしては間違いなく世渡りはうまくなかったと思う。仕事だけきちんとやっていればそれでいいという考え方であったのである。

 正しく実力だけで評価して欲しいと思うのが人情だが、会社というところは残念ながらそうではない。結局、「愛いやつ」、「覚えめでたいやつ」の方が出世したりする。サラリーマンとして最も大事なものは、間違いなく「コミュニケーション能力」だと思う。実力は二の次である(もちろん、実力がなければそもそもダメであるが、「ある程度の実力」で十分である)。今でこそそう理解できるが、当時はそれがまだ理解できず、理不尽さに憤り続けていたものである。そんな経験があるからこそ、この場面に心惹かれるところ大であったのである。

 長期政権であった安倍晋三前首相の後を受けて総理になった菅首相が総裁選の出馬断念を表明した。支持率低下に歯止めがかからず、地方選挙でも負けが続いている状況であり、やむを得ないのかもしれないが、ちょっと残念に感じたニュースである。確かに話をしている姿とかに、どうも覇気のなさを感じさせるし、人気が出るタイプでは間違いなくない。イメージでだいぶ損をするタイプだと思う。しかし、伝わってくる評価では、ずいぶん仕事のできる人だと言う。評価はされていないが、実績も上げている。なんの後ろ盾もなく総理大臣にまで登りつめたのだから、考えてみるまでもなく、その通りの実力者なのだろうと思う。だが、それだけではダメなのだろう。

 国民の立場からすると、政治家は一様に何をやっているのかはよくわからない。わかるのは、テレビに出て話をしているところだけである。よほど興味を持ってその発言や功績をフォローしていないと、一般人には政治家の実力なんてよくわからないだろう。支持率なんていい加減で、その時々の雰囲気でコロコロ変わったりする。マスコミの報道も偏っているし、よほど意識しないと報道されるイメージに惑わされてしまう。コツコツ努力していたって、目につかなければそれまでだし、暗いガリ勉タイプより明るい性格のやつの方が上司には好かれるものである。それはサラリーマンでも政治家でも同じなのだろう。

 悩む若手に、島耕作は世の中は理不尽なものだと思った方がいいとアドバイスする。ものごとはあまりこうだと決めて考えない方が楽だとアドバイスする。そして寮の4人部屋仲間と麻雀をやれと勧める。禁止されているからと抵抗する若手に「だからやれ」とアドバイスするのである。今の私から見れば、いいアドバイスだと思うが、私もあの頃こういうアドバイスが欲しかったなとつくづく思う。さすれば、その後の銀行員人生もずいぶん変わっていただろうと思わざるを得ない。

 菅総理も忸怩たる思いをしているのかもしれない。私は別に自民党支持者でも菅総理支持者でもないが、政治家は根暗でも力強く話せなくても、何をやっているのかわからなくても、実はしっかり仕事をしてくれているというタイプが私はいいと思う。次の総裁には誰がなるのかわからないが、これで引退するわけではないし、菅さんには引き続き国会議員として国民のために働いていただきたいと思う。自民党支持者ではないが、共産党や立憲民主党などの「なんでも反対」野党よりは自民党の方がはるかにマシだし、そういう意味では自民党の「消極的支持者」であるとも言えるので、頑張っていただきたいと思うところである。

 世の中は理不尽である。
それはもう十分理解している。それでも、とあえて思う。イケメンでテレビ映えがするとか、コミュニケーション巧みで「愛いやつ」であるとか、そういうことではなくて、純粋に「仕事ができるか」という実力本位で評価して欲しいものだとつくづく思う。政治家であってもサラリーマンであっても。コミュニケーションが大事であることは否定しない。私も今では仕事で必要なコミュニケーション力はそこそこついたと思うが、それでもやはりコツコツと努力してやった仕事の内容に対して100%評価される世の中であって欲しいと思う。

 そういう世の中で私は働いてみたかったとつくづく思うのである・・・


Maryam62によるPixabayからの画像


【本日の読書】

  冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか (ハヤカワ文庫NF) - 管賀 江留郎 大名倒産 下 (文春文庫) - 浅田 次郎




2021年9月5日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その27)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。十室之邑。必有忠信如丘者焉。不如丘之好學也。
【読み下し】
子し曰いわく、十室じっしつの邑ゆう、必かならず忠ちゅう信しん丘きゅうの如ごとき者もの有あらん。丘きゅうの学がくを好このむに如しかざるなり。
【訳】
先師がいわれた。「十戸ほどの小村にも、まじめで偽りがないというだけのことなら、私ぐらいな人はきっといるだろう。だが、学問を愛して道に精進している点では、私以上の人はめったにあるまい」
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 銀行に入り、初めて持った部下はどうにもできの悪い男だった。頭は悪くなかったが、それが故にか理屈先行のところがあり、物事を自分勝手に解釈して行動するところが多々あった。それまでにも随分怒られていたようであるが、私が着任してからは何とかしたいと指導していた。ある時、その男が私に言った。「仕事は真面目にやります」と。それがさも自分の得意なこと、自信を持って言える唯一のことであるかのようにである。私も自分自身そういう気持ちがあったから彼の気持ちはよく理解できた。だが、違うのである。

 仕事を誠実にこなすこと。真面目にこなすことは大切なことである。その裏には、「真面目にやっていない者がいるが私は違う」という意識があるのだろう。それはそれでよくわかるが、それでも違う。なぜなら、真面目に働くことは「当たり前」のことであるからである。小学生が「毎日学校に行っています」というようなものである。もっとも、大学生であれば、「毎日学校へ行っている」のは真面目だと自慢してもいいかもしれない。しかし、それは普通、当たり前のことであり、わざわざ強調することではない。

 サラリーマンであれば、毎日会社へ行くことは当たり前であり、真面目に仕事をするのも当たり前である。もっとも、社員の質が下がればその当たり前が当たり前でなくなることもありうることであろう。ブルーワーカー系だとそういう社員の比率は高いと思う。父が中学を卒業して田舎から出てきて住み込みで働いていた時、その真面目な働きぶりに感心した社長の奥さんがこっそりと小遣いをくれたと言う。真面目な父らしいエピソードだが、おそらくみんながみんな父のような真面目さだったらそうはならなかっただろう。

 真面目というのは一つの取り柄であるのは確かである。しかし、取り柄になるというのは、それが希少価値を持っていることが必要である。つまり誰もがみんな持っていたらそれは取り柄にはならない。銀行のように真面目な人間がたくさんいる会社では、それは取り柄にならない。彼はそれに気づいていなかったのだが、一方で真面目に働いていればそれで免責されると勘違いしていたのかもしれない。「いろいろと怒られてはいるが、仕事は真面目にやっている」という言い訳だったのだろうと思う。

 そうして「自分は真面目に働いている」ということが自分自身に対する評価になるのはいいのであるが、問題はそれが「当たり前」の会社の中ではどうなるかということである。社員の質が高くなれば、みんなが真面目に働いているから、当然ながら真面目に働くのは大前提で取り立てて言うほどのものでは無くなる。そうなると、もう一歩必要になってくる。孔子はそれを「学問」としたが、我々サラリーマンでは、それは「仕事」であろう。「愛して精通」などと言えばワーカホリックのようなイメージであるが、単純に一生懸命やっているかということであろう。

 かつて「24時間戦えますか」という言葉が流行ったが、今はそういう世の中ではない。さしづめワークライフバランスというところであるが、これは「仕事も生活も緩やかに」ということではないと私は思う。あえて言えば、「仕事も生活も一生懸命に」だろう。当たり前だが、人間は毎日1日ずつ死に向かっている。1日1日が大切な日々のはずである。
「あなたが虚しく生きた今日は、昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日」(『カシコギ』)という言葉があるが、せっかくであれば自分も平凡な毎日を一生懸命生きたいと思う。

 転勤によって別の職場になって以来、あの時の部下とは一度も会っていないが、今どうしているのだろうかとふと思う。今も「真面目に」働いているのだろうか。考え方が変わっていないとしたら、銀行では残念な境遇にいるかもしれない。あの頃の私には大して指導力もなかったから、それはそれで申し訳なかったと思う。まあ、ほどほどにワークライフバランスしているのかもしれない。

 また明日から新しい1週間が始まる。かく言う自分もしっかりと一生懸命、ワークライフバランスしようと思うのである・・・



Gerhard G.によるPixabayからの画像 


 【今週の読書】
  冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか (ハヤカワ文庫NF) - 管賀 江留郎 大名倒産 下 (文春文庫) - 浅田 次郎




2021年9月2日木曜日

紙か電子版か

 趣味でもあって本はよく読む。本を読むのは主に電車の中。いつの頃からか通勤電車は私の貴重な読書タイムである。であるからここ10年来、通勤が苦だと思ったことはない。むしろ7年前に転職した際、通勤時間が過去最長の1時間半になった時も、むしろ喜びを覚えたくらいである。そして今回、二度目の転職に際し残念だったのが通勤時間が半分になったことである。まぁ、物は考えようという典型かもしれない。そんな読書タイムに読む本はいまだ紙の本である。

 近年は電子書籍が幅を利かせてきている。確かに電子書籍はかさ張らないし、スマホで読めるので便利である。パラパラめくるのは面倒だが、後から戻って読み直すことも、「付箋」をチェックしておけば紙の本と同じように後から簡単に読み返すこともできる。みんなスマホに入ってしまうから何十冊、何百冊という蔵書を持ち歩くこともできる。私のように行きと帰りとでそれぞれ別の本を読む人間にとっては、大きさもまちまちな本を少なくとも2冊以上持ち歩く必要もなく、便利この上ない。ただ、なんとなくの抵抗感を除いては、であるが・・・

 最近、新聞も紙の新聞から電子版に切り替えた。値段が安いというのもあるが、パソコンでもスマホでも読めるという手軽さが良さそうに思えてである。ただ、やはり紙の新聞の優位性は動かない。電子版でも確かに紙面と同じ記事を読むことはできる。しかし、パラパラとめくっていって、ふと目についた記事を読むというのが電子版では少ない。紙面であればまず一通り目を通すことができるが、電子版だとその頻度が落ちてしまう。「目に入ってくる」のと「探しに行く」の違いと言える。そしてこの違いは大きい。

 日経新聞の場合、電子版の良さは記事の保存とかこの記事の読み返しであろう。あとであの記事を読み返したいとなった場合、紙の新聞だとガサゴソと古新聞を漁らないといけないが、電子版だと検索できる。保存しておけば検索の手間もいらない。また、私の履歴書など過去の特集も読むことができる。新聞の場合、「目に入ってくる」ことが少ないというデメリットはあるが、メリットがそれを上回る。

 電子版は漫画も同様である。こちらは一長一短だろうか。かつて漫画小僧だった私は今でも漫画を愛する。最近はもう紙のコミックを買うこともないが、無料漫画を楽しむか、『鬼滅の刃』など最近のものはKindleで購入している。昔の漫画は見開き両ページを使った場面があったが、電子版だと半分に割れてしまう。両ページであれば迫力だったものが、半分ずつだと半減してしまう。ただし、最近の電子版を意識した漫画だと、「縦読み(縦にスクロールする)」というものもあり、横に読んで行くタイプと異なる画面構成が可能になっている。これはこれで面白い。

 電子版の最大のメリットはやはり「保管」だろう。私の部屋の本棚はなるべく増やさないようにしようと思っても、やむなく溜まっていく本や漫画がかなりのスペースを占めている。これがすべて電子書籍であったらさぞかし部屋も広くなると思う。紙の本を買うのをやめれば、「スペース」のメリットは果てしなく大きい。とは思うものの、まだどうしても紙の本に心が残ってしまう。新しいテクノロジーが登場した時、どうしてもついていけない人がいる。老人が最たる者であるが、紙の本に執着が残るのは「そういうことか」と思う気持ちもある。

 紙には紙の良さがあるとは思う。ただ、だからと言ってそれに固執するべきであろうか。「スマホは画面が小さい」というデメリットを挙げてみる。それは確かにその通りであるが、よくよく文字の大きさを比べてみると、大して違わない。それにタブレットなら大きさの問題はない。立ち読みでパラパラと本をめくり、読むか読まないかを決める場合は、紙に軍杯が上がる。だが、実はそうやって読む本を選択するケースは私の場合ほとんどない。書評から選ぶのが大半だからである。

 購入ということを考えてみると、電子版の方が若干安い。ただ、古本ということになれば紙に軍配が挙がる。電子版では読み終わった本を売ることはできないし、買うこともできない。電子版には「古書」という概念がない。さらに「借りる」ということが電子版にはできない。私がKindleで購入した場合、紙の本であれば子供に簡単に読ませることができるが、電子版だとアカウントを共有する必要がある。幸い子供に知られて困る類のものはないが、読書のプライバシーは守れない。(今のところ、かもしれないが)図書館で借りることもできない。

 紙の本がいいのか電子版がいいのかという議論は不毛であると思う。電子版は一つの形態であり、好きな方を選べば良いと思うからである。実際、電子版では無料で読めるものも多く、古い本が公開されていることもある。たまたま目について読んだものでも、『遠野物語』、『善の研究』、『堕落論』等多数ある。本屋でブラブラするのと同じように、オススメとして表示されるのは電子版ならではである。どちらがいいかとあれこれ考えるよりも、あれもこれもと考えたいところである。

 それにしても便利になってきたものだと思う。かつては立派な本棚がステイタスだったが、これからは不要となるのだろう。あるいは「見栄え」で必要とされるのかもしれないが、私個人としてはスペースのメリットに魅力を感じる。先行きのところはわからないが、とりあえず漫画はすべて電子版になるだろう。小説やビジネス書の類は都度判断だ。今の段階でどちらがいいというのではなく、柔軟に使い分けていきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか (ハヤカワ文庫NF) - 管賀 江留郎 大名倒産 上 (文春文庫) - 浅田 次郎