2020年3月8日日曜日

論語雑感 里仁第四(その16)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。
〔 原文 〕
子曰。君子喩於義。小人喩於利。
〔 読み下し 〕
子し曰いわく、君くん子しは義ぎに喩さとり、小しょう人じんは利りに喩さとる。
【訳】
先生いわく、
「君子は正義に敏感であり、小人は利益に敏感である」
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 君子か小人かはともかく、物事を判断するのにお金で考える人と「お金以外」で考える人がいるのは現代でも同じである。たとえば、我々の仕事は不動産賃貸である。自分たちの所有物件を貸す場合と、他のオーナーが所有する物件を貸す手伝い(賃貸管理)をする場合と二通りある。自分たちの所有物件を貸す場合は自分たちで判断できるが、賃貸管理の場合はオーナーの意向に従わないといけない。そしてオーナーも見事にこの二通りに分かれるのである。

 「お金」を優先して考えるお金基準オーナーは、入金が遅れることと出費が増えることに敏感である。例えば滞納の場合、我々も当然遅れた段階で督促するし、それがうっかりミスなのか何か深刻な前兆なのか早い段階で確認する。もちろん、「しばらく待って欲しい」という要望があれば事情を伺って静観する。しかし、お金基準のオーナーは「大丈夫なのか」「責任は取れるのか」と追及してくる。一方、お金以外基準のオーナーは「よく事情を伺って下さい」と言って、基本的にこちらに任せてくれる。

 そのほかにもお金以外基準のオーナーは、契約更新してくれたらプレゼントをしますとか、部屋の設備に不具合があれば出費を厭わず対応してくれるし、「快適に住んでもらって下さい」と住む人のことをよく考えてくれる。しかし、お金基準のオーナーは、エアコンの交換にしても「修理ではダメなのか、交換せざるを得ないとしてももっと安くできないのか」となんとか出費を抑えようと躍起になってくる。どちらが対応しやすいかと言われれば圧倒的に前者であり、我々にとってはお金以外基準のオーナーの方がありがたい存在である。

 もちろん、お金は大事である。綺麗事を言っていてもお金があってこそ生活を維持できるわけである。オーナーさんとてそれは同じであり、入出金に目を光らせるのは当然である。お金以外基準のオーナーさんに関して言えば、今のところ生活に余裕がある方も多く、だからこそあくせくしていないとも言える。もっとも、お金基準のオーナーも同様の方が多く、基準の違いは「生活に余裕があるか否か」というわけではないと思う。単にお金に厳しいか否かの違いだろう。

 ここで「住む人のことを優先して考える」というのは、孔子の言う「正義」に当てはまるのだろうし、お金基準はそのまま「利益」である。基準の違いは、自分か他者かとも言える。つまり、自分の利益が先か他者の利益が先かということである。そう考えれば、二つのオーナーのタイプの説明もつく。考えてみれば世の中の「正義」とは他者の利益とも言える。他人のことを考えられることは、人の尊敬を集める要素であり、それが孔子の言う「君子」なのかもしれない。

 では、お金以外基準のオーナーがみんな君子かと言えば、それはその通りであるが、でも本当にそうだろうかとも思う。みんな自分には余裕がある(だからアパートを持っていて貸せるのである)。自分は安泰であり、その上で他者を思いやっている。もしも、自分に余裕がなかったら、それでも他者の利益を考えられるだろうか。例えば先日『ガイアの夜明け』で、経営危機に陥った会社の社長が銀行から辞任と自己破産を迫られ、従業員の雇用を守るため株を無償譲渡し、自己破産したと紹介されていた。こういう他者を優先する行為こそが本物だろうと思う。

 「お金に汚い人間」にはなりたくないとは誰もが思うだろう。ただ、現実的にはお金優先思考の人はかなり多い。自分の身が危うい時にも尚正義を考えられる人こそ君子であると思うが、凡人としてはまず「自分が安泰の時は」正義を考えられる人でありたいものだろう。「ノブレス・オブリージュ」とはいかなくても、自分が困窮していない限りはそうありたいと思う。お金は欲しいが、すぐに手を出す前にじっくりとまわりを見回すことができる人間でありたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える - アビジット・V・バナジー, エスター・デュフロ, 山形浩生 東京貧困女子。―彼女たちはなぜ躓いたのか - 中村 淳彦





2020年3月5日木曜日

世の中の不思議は不思議なのだろうか

 仕事で賃貸用の部屋を案内したが、残念ながら申し込みには至らなかった。それはよくあることなのだが、初めてだったのはその断りの理由。なんと霊感の強い奥様に「見えてしまったから」だという。当然、霊感など欠片もない私にはまったく見えない。いったいどんな風に見えるのかと興味は尽きないが、人間は死んだら終わりと考える私にはたぶん一生見ることはできないのだろうと思う。残念だが仕方ない。
 
私の父はかねてより自分で体験した不思議な経験を2つほど折に触れて語ってくれる。1つは子供の頃の話。ある時、祖母(父にとっては母親)が突然苦しみだしたとのこと。医者に見せても原因は不明。困って祖父が神主だか何だかその道の霊験あらたかの方に相談に行ったところ、「家のある方向に最近何かしなかったか?」と聞かれたそうである。たまたまその方向に便所を増設したばかりであり、それを説明したところ原因はそれだと即断されたという。半信半疑で便所を取り壊したところ、祖母は何事もなかったかのように回復したという。

今1つは父自身が若い頃旅行に行き、河原でちょっと変わった石を拾ったところから始まる。帰宅後、翌日から原因不明の腹痛に悩まされる。しかも、毎日決まった時間にである。医者に行っても原因はわからない。異常事態に苦しみながら、父はふと原因はあの石ではないかと思い至ったという。毎日決まった時間に七転八倒しながら週末を待ち、慌てて石を拾った河原に返しに行ったらしい。そうしたところ、不思議なことに腹痛は翌日からピタリと収まったという。

個人的には、「そんなバカな」と思う。しかし、父は大真面目で、世の中には不思議なことがあると信じて疑わない。父はいまでも建物については方角を気にしていて、私が家を建てる時も「見てもらえ」とこだわっていた。その気持ちをバカにするつもりはないが、納得のいく説明が得られるのなら信用したいと思う。我が家は方角など気にしていたら狭いだけに家など建てられなくなる。そこで新築時に氏神様の神主さんにお祓いをしてもらった。そういう気持ちは大事にしたいと思うが、すべて悪しきことをそれが原因とは思いたくない。

私としてはこれまでの半世紀以上の人生でそんな不思議な経験をしたことがない。けっしてバカにするつもりはないが、何でも合理的理性的に考えて納得できるか否かを重視した考え方で生きており、ある方角に便所を作ったから、あるいは石を拾ったから具合が悪くなったということがあり得るとも思えない。ただ、意識もしないのに心臓が動き、呼吸もして新陳代謝が行われている我々生物は、生きていることが奇跡的な不思議とも言えることであり、そんな不思議があってもおかしくはないのではないかとも思う。

もっとも父の不思議な体験も実はきちんと説明できるのかもしれない。それは、たとえば祖母の場合、何らかの原因があって苦しんだが、どうしたのかと騒いでるうちに時間が経過し、自然とトイレを閉鎖したタイミングで治ったのかもしれない。父の場合は、「石が原因だ」と思い込み、「返しに行けば治る」と強く信じたがために、「プラシーボ効果」によって治ったのかもしれない。はっきりした原因がわからないからと言って、「不思議な現象」とも言い切れないだろう。

菅原道真公は、生前陰謀によって左遷され憤死したとされる。それが神様に祭り上げられたのは、死後に都で災いが続出し人々が菅原道真の祟りと恐れ、鎮魂のために祭ったのだという。今であれば気象現象で説明してしまうのだろうが、当時はそれが祟りだったわけである。まだまだ日本中に不思議が溢れ、だから八百万の神様が敬われたのだろう。それはそれで良かったのだと思う。何でも合理的理性的に判断して「不合理だから」とバカにするのもよくないだろう。

私が神様を信じなくとも敬うのはそういう理由からだが、同じ理由で父の経験をバカにするつもりもない。見えている人には本当に見えているのだろうし、人が大事に信じているものにはそれなりの価値があるのだろう。私もいつかそんな不思議な体験をすることがあるだろうか。幽霊の姿を見ることはできるだろうか。願わくばそんな体験の1つや2つは経験してみたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える - アビジット・V・バナジー, エスター・デュフロ, 山形浩生 FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣 - ハンス・ロスリング, オーラ・ロスリング, アンナ・ロスリング・ロンランド, 上杉 周作, 関 美和




2020年3月1日日曜日

学問の境界線

 普段、興味の向くまま手当たり次第本を読んでいるが、先日読んだ『ホーキング、宇宙を語る』についてはいろいろと考えさせられた(今更感のある古い本であるが、それでも読まないよりは読んでおこうと思ったのである)。宇宙の始まりはビッグバンとされているが、それ以前はどうなっていたのだろう。時間の観念はなかったようであるが、それは実際どんなものなのか。その昔、宇宙の始まりについては形而上学あるいは神学の世界の話だったというが、それも良くわかる。

 そもそもビッグバンも、ハッブルが観測データから「膨張する宇宙」という事実を発見したことから推測されているわけで、誰も見たわけではない。それに100億年単位の時間感覚も途方も無い。ビッグバン説はキリスト教会からは「神の存在と一致する」ということで歓迎されたという。なぜビッグバンが起こって宇宙が始まり、その中で太陽が生まれ、地球が誕生し、生物が生まれ、人間に進化したのか。考えてみれば不思議だし、考えていくうちになんだか哲学の世界に足を踏み入れた気分になってくる。

 そこでふと気がついたのであるが、ホーキング博士は確かに物理学者であるし、宇宙に関する議論は物理学の世界の話かもしれないが、それは哲学の世界とも紙一重なような気がする。神学のことはよくわからないが、ビッグバンを起こした原因=神と定義すれば、それもまた紙一重の世界に思う。その境界線は曖昧である。そう考えると、学問の境界というのもみんな曖昧なのかもしれないと思う。物理学と言っても数式公式が出てくるし、日本史と世界史はともに学んでこそより深く理解できる。歴史という括りではそもそも同一である。

 大学受験の時、第一志望の大学は文系大学だったが、二次試験の科目は英語、数学、小論文、世界史であった。しかも英語と数学のウエイトが3/4くらいを占めていた。「なぜ文系の大学なのに数学?」と訝しく思ったが、思えば論理的思考等の数学的思考が求められていたのだと思う。そうした数学的思考は論理学とも結びついている。戦後の哲学の大きな流れとなった構造主義は数学の影響を受け、構造主義を生み出したレヴィ・ストロースは文化人類学者であり、ソシュールは言語学者であった。

 子供が小学生となる頃、教育に興味を持ってそれに関する本を読んだが、中でも国語が大事だと強調されていた(『ほんとうの国語力が驚くほど伸びる本』、『本当の学力は作文で劇的に伸びる』)。国語力こそがすべての学科に通じるのだと。それは確かにその通りなのだと思う。そう考えてみると、学問に境界線を引くことはあまり意味がない気がする。もっともそれだと範囲が広すぎて学びきれないということもあるから、いったんの線引きは必要なのかもしれない。ただ「そこで終わり」という境界ではないということを理解しないといけない。

  そう考えてくると、文系、理系という分け方も意味がないものなのかもしれない。計算が得意だから理系、不得意だから文系という区別もおかしい。数学も解を求めていくには論理的な思考が必要だし、見たこともない宇宙やミクロの世界の法則を理解するには想像力が必要だし、それは見えない人生の法則を考えるのにも通じている。そしてそこに境界線はない。

 昔から星空を眺めるのが好きだったし、宇宙に対する興味もそのままである。そして広大な宇宙に浮かぶちっぽけな地球に住む人類がどこから来てどこへ行くのかと考えてみるのも面白い。そんなちっぽけな世界でいかに生きるかを考える哲学も面白いし、相対性理論や量子論の世界も面白い。それによくよく考えてみると、哲学も物理も実はそんなには大きく違わない気もしてくる。

 今、自分の机の上には娘の高校時代の数学の教科書があって、一から学び直したいと思っている。もう文系・理系もなく、興味という羅針盤の針の指し示すまま境界線を自由に行きつ戻りつしながら学んで行くのも面白そうである。それがこれからの趣味の一つになるなと思うのである・・・


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【今週の読書】
 「おもろい」働き方で社員も会社も急上昇する Peachのやりくり - 井上 慎一 夏の騎士 (新潮文庫) - 百田 尚樹




2020年2月27日木曜日

ルールを守る人

取引先の総務課長さんについては、その人となりをよく知っているというわけではないが、仕事上のおつきあいで伺い知る限りの範囲内で言えばとても真面目な方である。取引事項についても一つ一つじっくり確認しながら進めていく。私なぞはついつい大きな枠の中で間違っていなければいいとザックリ考えてしまうタイプだが、課長さんは一つ一つ丁寧に確認し、契約と照らし合わせて進めていく。社内での仕事ぶりも多分しっかりとこなされているのだと思う。

そんな真面目な仕事ぶりは、元銀行員である私にとっては別に珍しいものではない。銀行員にはそういうタイプの人が数多くいる。それはそれで悪いことではないが、そういうタイプの人は、時としてルールを重視するあまりその中から抜けられなくなることがある。そもそもそのルールが作られたのには理由があるはずであり、その理由が忘れ去られ、いつの間にかルールを守ることが絶対化してしまうことがある。なんとかルールに合わせようと四苦八苦するのである。

そんな時、そもそも「ルールがおかしくないか?」と発想を変えられないかということをよく思う。あるいは「ルールの方を変えたらどうか?」という発想である。日本人は真面目な民族だからルールの中で最大限の成果を上げようと努力する。しかし、それゆえに「ルールを変えよう」という発想に至らないということは何かで聞いたことがある。スキーのノルディック複合競技でかつて日本人が上位を独占したことがあったが、それを良しとしない欧米勢が日本人に不利なようにルールを変えてしまったというが、こういう発想である。

日本人はそういう発想が確かに苦手なのではないかと思う。平等意識が強いから、自分の意見を通そうと思ったら、「大義名分」に頼る。自分の意見がいかに大義名分に沿っているかが拠り所になるわけで、それが言ってみればルールとなる。仕事も間違えないようにするためにはルールにきちんと従っていることが必要なのであり、それがすべてとなる。もちろん、ルールは守られるためにあるわけであるから、それを守ることは大事なのであるが、要は目的を達することとルールを守ることのどちらが大事なのか、である。

例えば深夜の路上で赤信号を渡るべきか否か。もちろん赤信号では止まれがルールであるが、車も通らない深夜に真面目に赤信号を守る必要があるのか。「安全」という目的であれば、赤信号を渡っても問題はない。むしろ赤信号で待つ意味は限りなくない。この時、「渡っても大丈夫」と判断できるかどうかである。赤信号を守るのは簡単であるが、安易にルールに逃げてはいないか。状況に応じては、目的(この場合は「安全」)を逸脱しない限りで柔軟に対応できる人間かどうかを私は考えてしまう。

どんな場合でもルールを守るというのは一見、正しい。だが、所詮それはルールの中でしか考えられないことを意味する。与えられた環境の中で生きる。それがひいては「言われたことだけをやる」=「言われたことしかやらない」=「指示待ち族」を生むのだと思う。ここで言いたいことは、都合に応じてルールを逸脱すればいいということではない。「こういうルールだから」というのではなく、「このルールなんとかならないのだろうか」と考えることである。あくまでも「考え方」である。

身近なところでもこうした真面目な指示待ち族の人がいる。「こうなっています」とは言ってくれるが、ではどうすればいいかという意見がない。「弱りましたね」と言ってお終いである。もっともルールもそう簡単に変えられるものばかりでもない。役所や銀行などという組織であればなおさらである。ただ、「ルールを変える気があるかどうか」だけでも大きく異なるところがある。ルールの中の思考だけになってしまうと、ちょっとスケールが小さくなってしまうだろう。

微妙なところではあるが、真面目な課長さんの真面目さゆえに、ちょっと気になってしまい、そんなことを考えてみたのである・・・


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【本日の読書】
 「おもろい」働き方で社員も会社も急上昇する Peachのやりくり - 井上 慎一 夏の騎士 (新潮文庫) - 百田 尚樹




2020年2月23日日曜日

論語雑感 里仁第四(その15)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感
〔 原文 〕
子曰。參乎。吾道一以貫之。曾子曰。唯。子出。門人問曰。何謂也。曾子曰。夫子之道。忠恕而已矣。
〔 読み下し 〕
子し曰いわく、参しんや、吾わが道みちは一いつ以もって之これを貫つらぬく。曾そう子し曰いわく、唯い。子し出いず。門人もんじん、問といて曰いわく、何なんの謂いいぞや。曾そう子し曰いわく、夫ふう子しの道みちは、忠恕ちゅうじょのみ。
【訳】
先師がいわれた。「参よ、私の道はただ一つの原理で貫かれているのだ」
曾先生がこたえられた。「さようでございます」
先師はそういって室を出て行かれた。すると、ほかの門人たちが曾先生にたずねた。「今のはなんのことでしょう」
曾先生はこたえていわれた。「先生の道は忠恕の一語につきるのです」
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 最近では「ブレる」という言葉を使うが、何か1つの行動指針にしたがって行動するのではなく、その都度その都度一貫していない行動を取るというのはよくあること。むしろ本人はその都度その都度「最適」と思う判断をしているつもりなのであろうが、それを1つの流れとしてみると一貫していないということである。政治の世界では「ブーメラン」という言葉が使われているが、旧民主党系の政治家などがかつて自分たちがやっていたことと同じことなのに今の政権批判をしているのはまさにそんないい例である(【「ブーメラン」恐れず攻勢 桜を見る会、民主党政権も開催】)。

 首尾一貫していないというのは、人の上に立つに至っては誠に具合が悪い。1人だけのことならまだしも、「言っていることとやっていることが違う」というのは、人心を失うには最適の態度であろう。我が家の専制君主も「自分のことは棚に上げる」のが得意技である。ではなぜそんなことになるのかと言えば、それは「日頃から考えていない」からだと思う。深く考えずにその場その場でその時の都合に応じて本能的に判断しているからに他ならない。

 「自分たちは何を求めて行動するのか」ということは、組織になれば人心を束ねるという意味でも大事である。経済合理性を優先するのか、それとも顧客満足を優先するのかはビジネスではなかなか難しい。「お客様第一」なんて掲げていながら、実態は「収益一番」というのはよくあること。経営者はそんな人心を束ねる術として「経営理念」を掲げたりするが、得てして下の方にいくとそれが薄れてしまうのもよくあること。「経営理念はなんですか」と尋ねられた時に果たして会社組織のどこまでの人が答えられるだろうか。

 高校生の頃、三年生が引退して我々の新チームが発足した時、コーチから何を求めてやっていくかと我々みんなに尋ねられた。「勝つこと」を求めるのか「楽しさ」を求めるのか。勝つためにはハードな練習をしないといけないし、楽しさを求めるならそこまでする必要はない。コーチもどこまで指導するか、適度に楽しみたいと思っている高校生にハードな練習を課していいものか考えての問いだったのかもしれない。我々の出した答えは「勝ちたい」であった。結局、あまり勝てなかったが、それは結果論。ただ自分たちは「勝つためにラグビーをやった」という事実は残った。それはそれでいいと思う。

 今の仕事でも、基本的にお客さんの満足を優先させようと、そういう理念を掲げている。だが、現場に浸透しているかというと心もとない。先日もお客さんから貸している部屋の設備についての不満表明があった。それに対し、現場の担当者から「契約では問題ない」という意見が出てきた。それはその通りの事実であり、こちらに落ち度はない。しかし、大事なのは落ち度があるかないかではない。なぜなら、「お客さんの満足」という点に関してはできていないからである。これを「問題なし」としてしまっては、「言っていることとやっていることが違う」ということになる。

 会社やスポーツのチームのように、みんなが集まって1つの目標に向かうような場合、価値観が違う者たちが集まってくる中ではその拠り所をしっかりさせておく必要がある。会社で言えばそれは「経営理念」であろう。個人においても、「あの人ならどうする?」となった時に参考にされるのは、やはり日頃から考え方がはっきりしていて、「吾道一以貫之」という人であろう。そういう人こそ人にも信頼されるものだと思う。中にはそれが「金」という人もいるだろうが、やっぱり人に共感を呼ぶようなものだとより信頼性も高まるだろう。

 「忠恕」とは「真心と思いやり」だそうである。そんな考え方を貫ければ素晴らしいと思う。なかなか難しいが、自分も何かそんな価値観を自分の中心に置けたらいいなと思うのである・・・


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【今週の読書】
 麹町中学校の型破り校長 非常識な教え (SB新書) - 工藤 勇一 まち(祥伝社文庫お25-4) (祥伝社文庫 お 25-4) - 小野寺史宜




2020年2月19日水曜日

サラリーマン金太郎

サラリーマン金太郎 第1巻 - 本宮 ひろ志
 小中学生の頃、マンガ小僧だった私は今でもマンガ好きである。最近はスマホで読めるということもあって、帰宅後の食後のコーヒーとともに楽しんでいる。新しいマンガはもちろんだが、古いマンガを読み返すのもまた楽しみである。そんな中で、古くてもまだ読んだことがなかったのが、本宮ひろ志の『サラリーマン金太郎』である。本宮ひろ志と言えば、『俺の空』を筆頭に『さわやか万太郎』、『硬派銀次郎』、『男樹』等々読んだ記憶があるが、どれも熱い男が主人公の物語である。

 そんな本宮マンガの例にもれず、この金太郎も実に熱い男である。元暴走族のヘッドであるが、ある時ヤマト建設会長の命を助ける。これをきっかけにヤマト建設に入社してサラリーマンになる。最初はえんぴつを削っているだけだったが、やがて頭角を現す。アラブの失敗しかけたプロジェクトに派遣されたり、吹き溜まりのような関連会社に出向させられたりするものの、そこで奇跡的な実績を挙げる。その間、会長、社長はもとより富豪のお婆さんやその道の実力者を味方につけていく。

 もちろん、そこはマンガなので予定調和ではあるのだが、だからといってバカにするものでもない。金太郎は普通にいけば入社はできない。何と言っても大学も出ていない工業高校中退の元暴走族のヘッドである(ただ1万人のヘッドではある)。しかしながら人間的な魅力でまわりの人たちを引きつけていく。特にパチンコ屋で知り合った薄汚い婆さんにも金太郎は偏見を持つことなく接し、それがゆえにあとで実は富豪だとわかるお婆さんに気に入られる。アラブでの危機を救ったのも人間力である。

 その金太郎の人間力とは、すなわち「筋の通った生き方」とも言える。学歴がないからこそ、人を見かけで判断しない。「この人と付き合ったら有利」などと損得で考えない。怒る時は怒る。他人の子どもであっても間違っていたら遠慮なく怒る。それが偉い人間であっても同じように怒る。マンガであることを差し引いても、そういう姿勢は誰でも持っていたいものだろう。

やがて社内で頭角を現すと、それに目を付けた目ざとい連中の策略によって組合の委員長になるが、その途端に会社は500人のリストラ計画を打ち上げる。経営陣のお気に入りであることから利用されたのである。指名解雇方式で名前の挙がらなかった者はみな逃げ出していく。金太郎も経営幹部から逃げ出せと指示される。ところが、解雇される人を見捨てるのは金太郎の生き方に反する。

 誰もが我が身大事。「家族がいるから」という大義名分の下、安全な道を選ぶものである。家を建て、子どもが生まれればよけいに筋を通した生き方などできなくなる。もちろん、この窮地に死ぬほど悩んだ金太郎はやっぱり己の信念を通し、最後は大逆転勝利を収めて留飲を下げてくれる。こんなに筋を通して働けたらさぞかし痛快であろう。現実にはなかなか家族に迷惑をかけるような冒険はできない。もちろん、金太郎の奥さんのように美人で良くできた奥さんの心強いサポートがあれば話は別であるが・・・

 本宮マンガを読むとやっぱり「かくありたい」と思うようになる。少年の頃の私の人格形成にもかなり影響を与えてもらったと思う。そしてそれは今でも変わらない。「マンガだから」と言って終わりにするのではなく、自分も少しでもそんな風に筋を通して生きるカッコいい男でありたいと思う。そしてそれは程度の差はあると思うが、難しいことでもないと思う。「それって変じゃないですか」とひと言言えるかどうかで、世の中の会社の不祥事のいくつかは減るような気がする。

 基本的に小説もマンガも映画も表現方法が変わるだけで、その本質は変わらないと思う。文豪の小説ならいいが、マンガはダメということもない。特に考え方に影響を与えてくれるようなマンガなら、自分の子どもにも大いに読ませたいと思う。本宮ひろ志のマンガはそんな子どもに読ませたいマンガであると思うし、改めて自分も金太郎のように生きてみたいと思うのである・・・


【本日の読書】
 麹町中学校の型破り校長 非常識な教え (SB新書) - 工藤 勇一 ジョン・ハンケ 世界をめぐる冒険 グーグルアースからイングレス、そしてポケモンGOへ - ジョン・ハンケ




2020年2月16日日曜日

スマホ進化論

世の中にスマホはだいぶ定着してきたと思う。使いこなせれば便利この上ないし、費用も格安スマホが登場したこともあり、もはや「贅沢品」とはいえず、身近なツールになっている。普及率も2019年では85.1%に達しているという。もはや当たり前というより、20代の普及率(91.0%)が100%でないのがむしろ不思議なくらいである(4%はガラケーらしい)。そういう私は、2014年にiPhone6を購入して以来、今はiPhoneXSとDignoと公私2台を使い分けている。

そんな中、いまだに頑なにガラケーを使っている人がかなりいる。イノベーター理論によると、新しいサービスや商品の受け入れる人について、以下の5つに分類できるそうである。
1.   イノベーター(Innovators):革新者
2.   アーリーアダプター(Early Adopters):初期採用層
3.   アーリーマジョリティ(Early Majority):前期追随層
4.   レイトマジョリティ(Late Majority):後期追随層
5.   ラガード(Laggards):遅滞層
これに従えば、私は「アーリーマジョリティ」あたりだろうか。そして今ガラケーを使っている人は、「ラガード」に分類されるのだろう(ラガードの割合は市場全体の16%程度らしいのでちょうど一致している)。

 高齢者はともかく、若手や中高年でガラケーを使用しているという人は、どういう理由によるのだろうか。会社から支給されているのがガラケーというのならわかる。その逆に会社からスマホを支給されているので、プライベートはガラケーのままという人も然り。「値段」といっても、今や選択次第で月額3,000円未満で利用できるのでそれも当たらない。「必要ないから」というのがたぶん一番ありうる理由なのかもしれないと思ってみる。

 個人的にスマホにおけるラガードの人をどうこういうつもりはない。スマホが良くてガラケーがダメということもない。ただ、仮にもビジネスマンであれば、いまだにガラケーにしがみついている人は、ビジネスマンとして成功するのは難しいだろうと思う。成功とは何を指してということもあるが、簡単に言えば「使えない人物」である可能性が高いということである。なぜかというと、それはやっぱり「好奇心の欠如」に他ならない。

 およそビジネスマンであれば、好奇心の欠如は致命的であると思う。仕事をしていく上で、「創意工夫」は三種の神器の1つだと思っている(残りは「マインド」と「情熱」である)。その「創意工夫」は何にも増して好奇心が原動力だと思う。何事につけ「めんどくさい」と言っている人物には好奇心もないだろうし、仕事上の創意工夫など思いもよらないだろう。そういう人物は言われたことをすることぐらいはするだろうが、言われないことまで先回りしてやるような気の利いたことはできないだろう。

 今、世の中でどんなものが流行っているのか。それは自分の仕事に関係するのか、得意先の仕事に関係するのか、ビジネスマンであればそんなアンテナは持っていないといけない。これだけスマホが出回れば、自分の仕事のお客さんだって当然使っているだろうし、ならば自分たちはどうそれを活かすか。そんなことを考えないといけないだろう。それに新しいものに手を出すということは自分の世界を広げることでもある。そんな好奇心がないビジネスマンが「使えるビジネスマン」になろうはずがないと思う。

もっとも「持っていればいい」というものでも当然ない。スマホでゲームばかりしていたり、漫画ばかり読んでいたり、帰るコールをLINEでしているだけというだけでもダメだろう。それはただゲーム機や漫画本がただスマホに変わっただけであり、家族に言われて仕方なくメールから切り替えただけとも言えるからである。それでも少なくとも「必要ない」と言ってガラケーにしがみついているよりはいいだろう。

たかがスマホという気もするが、そういう部分に現れてくるものもある。高齢者であっても「自分でも使ってみよう」という好奇心を持っている人は精神的な若者であるが、いまだガラケーで満足している人は精神の後期高齢者と言える。それをダメとは言わないけれど、ビジネスマンとしては致命傷と言える。これからもテクノロジーは進化していくだろうが、いくつになっても「精神の後期高齢者」にはなりたくないと思うのである・・・


Jan VašekによるPixabayからの画像 


【今週の読書】
 ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫 NF 190) - スティーヴン・W. ホーキング, Hawking,Stephen W., 一, 林 危険な弁護士 (下) (新潮文庫) - グリシャム,ジョン, 朗, 白石




2020年2月12日水曜日

安倍政権の外交は良いのではないだろうか

安倍晋三首相の通算の在職日数が2019年11月20日で2887日となり、桂太郎氏を抜き単独で憲政史上最長となっている。これは現在も更新し続けているので、どこまで伸びるのか興味のあるところである。そんな長期政権の成果だろうか、外交面においてはかなりの成果が上がっているのではないかと個人的には思う。基本的に私は安倍総理に対しては是々非々の立場であり、外交面は支持、経済政策と憲法改正は中立、原発政策は不支持といったところである。

安倍総理を批判する声はかなりあり、その代表的な声は何と言っても「右傾化」だろう。今般、中東に自衛隊の駆逐艦を派遣することになったが、今回も「安倍さんが憲法を無視して、米軍と協力できるよう安全保障の在り方を勝手に変えてしまった。それに基づき大事な自衛隊員を中東に派遣する、しかも国会で彼らの安全性などをしっかり確認・議論もせずに。そのように自衛隊が中東に派遣されることが憲法違反なのであり、安倍さんのこれまでの存在ややり方が憲法違反だ」という批判を目にした。本当にそうだろうかと思ってみる。

同じものを見ても違う景色に見えるというのはよくあること。同じ円柱でも上から見れば円だし、横から見れば四角である。物事は見方によって随分と異なる。「色眼鏡」とは言わないが、安倍政権批判にはそんなところを感じることが多々ある。特に軍事面に関して反対する気持ちはよくわかるし、私も基本的に戦争反対である。しかし、戦争反対と軍隊反対は別物である。そのいい例が映画『海難1890』で描かれていた通り、「国民保護の視点」であり、軍隊の「良い使い方」である。批判派にはこの視点がゼロである。

我が国は戦争に負けて以来、アメリカの事実上の支配下にある。現在でもそれは同じであるが、一方で恩恵もある。たとえば虎視眈々と尖閣諸島と周辺の海洋資源を狙う中国を押しとどめているのは間違いなく日米安保の存在だろう。アメリカの事実上の支配下を脱するのが一番であるが、アメリカの傘の下だからこそ、中国との余計な衝突を避けられているのも事実である。したがって、アメリカの機嫌をうまく取らないといけない。そういう意味で、いまや「危険な大統領」であるトランプさんと安倍総理はうまく付き合っていると思う。

しかし、ご機嫌取り一辺倒ではなく、うまく立ち回っているのも事実である。批判はあるものの、今年習近平国家主席を国賓待遇で迎えようとしているが、あえて「国賓待遇」とすることで、中国の顔を立てているとも言える。安保だけに頼るのではなく、善隣外交こそが平和への道であり、中国の圧力がなくなればアメリカの支配から脱する道も開ける。いがみ合う米中二つの「暴力団」の間に立地する我が国の立場としては、どちらを敵に回してもうまくない。舵取りが非常に難しいと思うが、それをやろうとしているのだと思う。

そんな中での中東への自衛艦派遣は、アメリカが進めているイランに対する圧力への協力である。しかし、我が国は歴史的にイランとは友好関係にある(『海賊と呼ばれた男』に描かれている感動的な歴史がある通りである)。「あちらを立てればこちらが立たず」の中にあって、アメリカの求めに応じて自衛艦を派遣することでアメリカの顔を立てつつ、それはアメリカ主催の「有志連合」への参加ではなく、微妙に派遣海域をずらすことでイランの顔をも立てるという芸当である。

「憲法を無視して、米軍と協力できるよう安全保障の在り方を勝手に変えてしまった」「自衛隊員の安全性などを確認・議論もせずに」「安倍さんのこれまでの存在ややり方が憲法違反だ」という先の批判意見について言えば、上記のような視点が決定的に抜け落ちている。円柱を横からしか見ないで「四角だ」と言っているのと同じである。あるべき姿を目指すのはいいとして、今現在自分が置かれた状況がどういうものなのか、そこへ至るにはどういう方法がいいのか、様々な角度から考えていく必要があるだろう。一面的なものの見方だけでは、物事の本質に迫れないし、解決策も導けないと思う。

安倍さんは、さらにロシアのプーチン大統領とも平和条約の話を勧めているし、中国が支配拡大を狙っているアフリカ諸国とも訪問、首脳会談等を通じて我が国の存在感を醸し出している。それらは新聞等で報道されているニュースの扱いも小さく、私もすべて掌握しているとは思わないが、目立たない中で歴代政権に比べかなり積極的に動いていると感じている。長期政権の成果と言えるかもしれないが、いずれ安倍さんが交代した時、この外交がどうなるのかちょっと不安である。

退陣まで残りどのくらいなのかわからないが、安倍総理の外交政策には特に注目し続けたいと考えている。この点において、安倍総理には頑張っていただきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫 NF 190) - スティーヴン・W. ホーキング, Hawking,Stephen W., 一, 林  危険な弁護士 (下) (新潮文庫) - グリシャム,ジョン, 朗, 白石




2020年2月9日日曜日

論語雑感 里仁第四(その14)

〔 原文 〕
子曰。不患無位。患所以立。不患莫己知。求爲可知也。
〔 読み下し 〕
子(し)曰(いわ)く、位(くらい)無(な)きを患(うれ)えず、立(た)つ所以(ゆえん)を患(うれ)う。己(おのれ)を知(し)ること莫(な)きを患(うれ)えず、知(し)らるべきを為(な)すを求(もと)むるなり。
【訳】
先師がいわれた。――
「地位のないのを心配するより、自分にそれだけの資格があるかどうかを心配するがいい。また、自分が世間に認められないのを気にやむより、認められるだけの価値のある人間になるように努力するがいい」
************************************************************************************

もともと孔子の説く言葉に意を唱えるつもりはないが、今回の言葉はまったくその通りの真実であると思う。これに反対する者などいないのではないだろうか。でも実際には地位のないのを気にやみ、世間に認められないのを気にやむものだと思う。そしてだからこそ、孔子はこのような言葉を残したのだと言えるだろう。マズローの欲求五段階説でも「社会的欲求」と「承認欲求」が3段階目と4段階目の欲求として挙げられている。これこそが人の本能とでも言えるのではないかと思う。

地位と言ってもいろいろとあるが、身近なところではやはり会社の中の地位がある。入社した時は、「出世なんてどうでもいい」と思っていても、だんだんと年次を経て同期がそれなりの地位を与えられるようになると、どうしても心中穏やかにはいられなくなる。ましてや自分の方が優秀なんじゃないかと思っていたりすると(そして大概そう思っているものである)、不平不満が出てくる。「なぜ自分は認められないのか」と。自分こそ認められてそれなりの地位に就くのが当然なのに、と思うものだろう。

しかし、野村監督もなんども語っているが、「評価は他人が下したものが正しい」のだろうと思う。そういう不満は抑え、「自分にそれだけの資格があるかどうかを心配する」べきだと孔子は説く。拗ねていても事態はよくならない。ならば気持ちを切り替えて前向きに進むしかない。そういう姿勢が、次に自分が評価されることになるのかもしれない。しかし、現実には会社の出世ともなると、「実力(実績)」は当然として、それ以外に「人格的要素」というものがある。評価は当然、上司がするものであり、「覚えめでたき者」が評価される。したがって、「仕事だけ頑張ってもダメ」なのも真実である。

世の中、実力はあるのに、上司の覚が悪いばかりに埋もれている人材などいくらでもいると思う。逆に「なんでこの人出世できたのだろう」と思わざるを得ない人もいる。それもまた仕方ないことである(もちろん、当の本人は「実力」だと思っているだろう)。銀行員時代、自分自身の判断基準はなく、常に「部長がどう判断されるか」だけが自分の判断基準になっている上司もいた。きっとそんなスタンスでずっとやってきて、「愛いやつ」と思われたのだろう。それも1つの「実力」とも言える。

そんな上司を見るにつけ、自分は影で笑われないようにしっかりと実力をつけようと思ってやってきたが、それが必ずしも報われるとは限らないのが世の中である。スポーツの世界では「覚めでたき」は「実力」の前に霧消してしまうが、会社はそうはいかない。そんな中で腐ることなく努力し続けるには、「評価よりも自分の価値をあげることが大事」と思い込んで頑張るしかない。孔子の言葉は、そんな「埋もれた人」へのメッセージとも言える。

人は誰しも周りが気になるもの。みんなが貧しい社会では貧乏も気にならないが、豊かな社会になるとそうはいかない。同期が出世して自分が遅れると引け目を感じるものだし、「なんでだ?」という疑問も湧いてくる。だが、だからといって抗議してみても文句を言ってみても始まらない。結局、諦めて実力をつけていくしかない。しかし、その実力がつけば、いつかは役に立つものだと思う。少なくとも、文句を言っているよりもはるかにいい。そういう人は、地位がなくても、見ている人にはわかるもので、銀行員時代にも出世街道からは外れてしまったものの下の者の尊敬を勝ち得ていた人がいたなぁと改めて思う。

今になっても、「部長の腰巾着」としてよりも「隠れた実力者」として部下の記憶に残るような人にこそなりたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫 NF 190) - スティーヴン・W. ホーキング, Hawking,Stephen W., 一, 林 危険な弁護士 (下) (新潮文庫) - グリシャム,ジョン, 朗, 白石






2020年2月6日木曜日

むなしい理想

 親として子どもが生まれた時に考えたことの一つとして、「読書習慣をつけてあげる」というのがある。これは息子が中学生になった現在も続いていて、適宜親からの「推薦図書」を読ませている。娘は離れてしまったが、息子はいまのところ素直にそれに従って読んでくれている。しかし、さすがに中学生になると好みの問題も出てきて、モノによっては「なかなか読まない」こともある。そんな時は諦めて別の推薦図書を渡すのである。そして今回渡したのが、O・ヘンリーの『賢者の贈り物』と『最後のひと葉』である。

もう有名すぎるくらいの定番であるが、やっぱり早いうちに読ませたいと思ってのことである。懐かしさもあって、ついでにサラサラッと読んでみる。短編だけにすぐ読めてしまう。物語はニューヨークに住む若い夫婦の話。貧しくてクリスマスなのに相手にプレゼントを買うお金もない。思いあぐねて、妻のデラは自慢の長い髪を売って夫のジムのために懐中時計につける鎖を買う。それはジムの唯一の自慢の時計だったが、鎖がなくて人前で時計を見るのを躊躇しているのを知っていたからである。ところが、帰ってきたジムにそれを見せると、ジムはジムでデラへのプレゼントとして以前からデラが欲しそうにしていた櫛を買うために時計を売ってしまったというもの。

お互いに相手のことを考え、自分の大切なものを手放したが、それが結局役に立たなかった(デラの場合は髪が伸びるまでの間)という話。これを最初に読んだのはたぶん中学生の頃だったと思うが、当時は(今もだが)「こんな夫婦になりたいな」と思ったものである。冷たい現実の前にはただただ愕然とするだけだが、今でも限りない理想として、果たせぬ夢として心の中にある。もっとも、今の恵まれた時代でこういう理想を追求する方が無理なのかもしれないと、とっくに諦めてはいるのだが・・・・

結婚した当初、2LDKのマンションで新婚生活を始めたが、ある時近所を散歩していて昔懐かしい古アパートを見つけた。若くてお金がないうちは、六畳一間のアパートでもお互いの存在があれば満足だと思っていたからそんな話を妻にしたのだが、妻には「いややわこんなカンカンアパート」と一蹴されてしまった(階段を歩く時の音から妻はこう表現したのである)。もちろん、それなりに収入はあったからずっといいマンションで生活を始めたが、気持ち的には正直なところだっただけに、己の理想とする愛の姿に冷水を浴びせかけられた最初である。

所詮、布施明の『積み木の部屋』を聞いて育った私とは価値観が合わなかったのだろうが、それはやっぱり桃源郷なのかもしれないとも思う。恋愛結婚した当初は、相手のためには「あれもこれもしてあげたい」と思うのだろうが、それがだんだんと「あれもこれもしてくれない」に変わる。結婚相手に求める条件として「三高」なんてことが言われた時代があったが、本当に悲しい気持ちがしたものである。ちなみに昨今は「四低(低姿勢・低依存・低リスク・低燃費)」だそうであるが、どちらにしても「なんだかなぁ」と思わざるを得ない。ケネディの言葉ではないが、「相手が自分に何をしてくれるではなく、自分が相手に何ができるか」を問うてほしいものである。

自分は理想を掲げ、あくまでもそれを目指して生きたいと思うタイプである。「理想は理想、現実は現実」と割り切って考えるのも悪くはないと思うが、理想主義者の私としては、やっぱり「愛こそすべて」と思うし、その通りに生きたいと思う。だが、それはむなしい理想に過ぎないのだろう。娘もいつか結婚すると思うが、その時には純粋に相手の男に対し、勤務先だとか年収だとかを考慮することなく決めて欲しいと思う(とは言っても私の気に入る相手にしてほしいとだけは思うのだが・・・)。

さて、息子は『賢者の贈り物』を読んでどんな感想を持つのだろうか。願わくば、それを読ませた親父の意図を少しでも汲んでくれたらと思うのである・・・


 最後のひと葉: O・ヘンリー傑作選II (新潮文庫) - O・ヘンリー, 高義, 小川 賢者の贈り物 - O・ヘンリー, P.J.リンチ, 齊藤昇

【本日の読書】
 世界「倒産」図鑑 波乱万丈25社でわかる失敗の理由 - 荒木 博行 危険な弁護士 (下) (新潮文庫) - グリシャム,ジョン, 朗, 白石





2020年2月2日日曜日

発想力

 自分で言うのもなんだが、私は比較的問題解決のためのアイディアを考えるのが得意な方なのではないかと思う。もちろん、世の中には優れたコンサルタントや問題解決人がいるから上を見ればきりがないが、あくまでも「身の回りの範囲内で」ということである。仕事上の問題ということもあるし、プライベートなこともある。最後は当事者の決断によるから必ずしも実際に問題が解決してきたわけではないが、少なくとも「人があまり思いつかない」解決策を提案したことは何度もある。つい最近も取引先との間で生じた問題で、「それは考えもしなかった」と相手に言わしめた提案をしたところである。

 そうした解決策を思いつく方法はなんだろうかと考えてみる。整理できて人に説明できれば、一つのノウハウとして子供たちに教えたいと思う。一つの要因としては、その問題について考え続けることである。考えなければ思いつかないのだからそれは当然なのであるが、いつも頭の片隅に置いておいて、風呂に入った時など湯船に浸りながらツラツラと考えていると、ふと思い浮かんだりする。24時間考え続けるというわけではないが「何かないかな」と頭の中の見えない深い部分に問いを投げかけておくイメージだろうか。そうすると、ふわりと回答が浮かび上がるのである。

 そうしたアイディアはふと思いつくことが多い。私は割と物事を理論的に考える方であるが、数学の公式を解いていくように、順番に筋道立てて考えていって最後に思いつくというのではなく、突然どこからともなく思いつくイメージである。そうしてそれを検証していくと、なぜか理屈の上でも筋が通ったいいアイディア(すなわち人に理論立てて説明しやすい)だったりすることが多い。元々の才能なんて言うわけではなく、知識の積み重ねということもあるかもしれない。それらを溜め込んでブレンドしていく中で、ふと飛び出てくるイメージであろうか。

 また、「角度を変えた発想」というのもある。例えば銀行員時代、借金でどうにもならない社長に自己破産を勧めたことがある。その話の中で、「銀行からの借り入れはいいが、恩のある人からの借り入れは踏み倒したくない」と言われた。それに対して私は、「それなら踏み倒さなければいい」と回答した。相手はキョトンとしていたが、自己破産は法律上借金をチャラにしてくれるものである。「借金を返さなくていい」とするもので、「返してはいけない」ものではない。破産宣告を受けたあとでこっそり返せばいいのである。返すのがマズければ、借りた分だけ「お金を渡せばいい」のである。

 「これはこういうもの」という固定観念は、何より発想を阻害する。不動産業界ではサブリースという制度がある。大家さんからサブリース会社が部屋を借り、それを第三者に貸すのである。サブリース会社は、満額家賃からリース料を引いて大家さんに賃料を払う。大家さんはその分収入が減るが、空室時も保証家賃が入ってくる。「空室保証」が一つのメリットであるが、別に空室保証がなくて家賃満額を払うサブリースでもいいのである。要は何か別に目的があって双方が合意すれば、サブリースという形を利用することもできる。これも「サブリースは空室保証する」という固定観念にとらわれていた同僚を驚かせた案である。

 思うに、「何をしたいのか」という目的があって、「そのためにはどうなればいいのか」を考えていくと、答えに行き着きやすくなる。その時、固定観念にとらわれずに知識を総動員して頭の中の奥底に問い掛ければ、答えは出てきやすい。自分の知識が不足していたりする時は、周りの人に質問を投げかけてみるのも効果的だと思う。その時、聞いた話を鵜呑みにしないことも大事で、「それは無理だ」と言われたら、「なんで無理なのか」をとことん突き詰めていくことも効果的である。得てして、みんな固定観念にとらわれているからである。

 いい解決策が思いつけば気分がいい。あとはそれを実現できる実行力だろうか。何か問題が起こっても、意外な方法で解決してしまったら楽しいだろう。そう考えると、問題が生じるのも悪くはない。今、目の前には厄介な仕事上の大問題が起こっている。これもそんな気持ちで乗り越えていきたいと思うのである・・・


Arek SochaによるPixabayからの画像 


【今週の読書】
 世界「倒産」図鑑 波乱万丈25社でわかる失敗の理由 - 荒木 博行 逆説の世界史 3 ギリシア神話と多神教文明の衝突 - 井沢 元彦



2020年1月29日水曜日

学生時代はロシア語を学んでいた

先日のこと、ふとした会話の流れで、「大学では第二外国語は何を選択していたか」という話になった。ドイツ語やフランス語という回答が多かったが、私の回答はロシア語であった。「なんでまたロシア語?」とちょっと驚かれたが、私としてはごく自然な選択としてロシア語を選んだのである。そもそもは二次試験の願書を出願するときに選ぶようになっていたのであるが、そこには「ドイツ語」、「フランス語」、「中国語」、そして「ロシア語」となっていたのである。

大学の学部は法学部であったが、学部生として法律の勉強も楽しみな一方、もう1つ楽しみだったのが「第二外国語」である。それまで英語の授業はあったが、それ以外の言語についてはほとんど知らず(「ジュテーム」“Je t'aime”くらい程度だっただろうか)、英語以外の言語はどんなものだろうかと、それだけでも興味津々であったのである。選択肢は4つしかなかったから「ロシア語」を選択したのであるが、もしなんでもいいとなっていたら、たぶんアラビア語を選んでいたと思う。それはやっぱり映画『アラビアのロレンス』の影響である。

それでもなぜ4つの中からロシア語だったのか。深い意味はなかったが、当時は英語以外というと、ドイツ語かフランス語がメジャーで、中国語とロシア語がマイナーという感じであった(今であれば中国語を選択する学生も結構増えているかもしれない)。そんな雰囲気の中でロシア語を選択したのは、やっぱりアマノジャッキーな性格から「人の行かない道」を選んだと言える。当時(1985年)は、まだ東西冷戦下のソ連の時代。そんな中でロシア語を選ぶ学生は超マイナーな存在であった。

始まったロシア語の授業は二種類。一つは文法系で日本人の講師、もう一つは会話系でロシア人が講師であった。ロシア語は、文字がアルファベットと同じものを使うものもあるが、基本的には異なる。“Спасибо”(スパシーバ=ありがとう)のようにアルファベットではない文字を使うので、まずはその文字を覚えないといけない。さらには同じでも読み方が違ったりする。ロシア語のСは、アルファベットではSといった具合である。「おはよう」とか「こんにちは」とか基本的な挨拶があり、やっぱり語学はこんな感じで学び始めるんだなと新鮮に思えたものである。

日本人の講師の方には、一度ロシア料理の店に連れて行ってもらったことがある。ピロシキなんかを食べたが、語学を学ぶことは文化を学ぶことでもあり、文化を学ぶには食は一つの手段である。ドイツ語やフランス語だったら、多分学生数も多かっただろうから、こんなことはなかっただろう。また、ロシア人講師の時は、しばし喫茶店に場所を移したものである。ただでさえ少ないのに、授業に出てこない者も多かったのでそんなこともできたのだろうと思う。

ロシア人講師は年配の女性。どういう背景があるのか、授業ではほとんど日本語を話さず、したがって雑談もできなかったからよくわからなかったが、今でも興味がある。もう名前も忘れてしまったが、恰幅のいい女性だったのは覚えている。ちなみに誰かが言っていたが、ロシアの女性は若い頃はみんな細くて美人だが、年を取るとみんな関取のようになるとか。あの講師の女性も若い頃はどんなだったのか、とクラスメイトと想像していたものである。

そんなロシア語の授業は面白かったが、一般教養課程の2年間でおしまい。授業には真面目に出席していたから、3歳児くらいのレベルにはなったと思うが、いかんせんその後全くやっていないので、今となって1歳児くらいになってしまっていると思う。それでも聞けばそれがロシア語だというのはわかるし、映画を観ていればロシア訛りの英語だというくらいはわかる。語学は使えるようになるには、ある程度集中して覚え込まないとダメだと思うが、週1、2回のレッスンではそんなものかもしれない。

言葉は英語でもそうだが、わかれば楽しい。未知のものを学ぶにしても、言語はそれによって意思の疎通もできるわけであるし、ただ学んで終わりというものではなく、そこから始まるものと言える。そう考えてみると、なんだかもう一度学び直してみたくなった。まだ当時のテキストやなんかが物置の奥にあると思う。今度の休みにでも引っ張り出してみようか。でもその前に英語か。それもまだ中途半端である。資格試験の勉強も終わり、時間もできたことなので、改めて挑戦してみるのもいいかもしれないなどと思うのである・・・




【本日の読書】
 ウケる人、スベる人の話し方 - 渡辺龍太 逆説の世界史 3 ギリシア神話と多神教文明の衝突 - 井沢 元彦