仕事で賃貸用の部屋を案内したが、残念ながら申し込みには至らなかった。それはよくあることなのだが、初めてだったのはその断りの理由。なんと霊感の強い奥様に「見えてしまったから」だという。当然、霊感など欠片もない私にはまったく見えない。いったいどんな風に見えるのかと興味は尽きないが、人間は死んだら終わりと考える私にはたぶん一生見ることはできないのだろうと思う。残念だが仕方ない。
私の父はかねてより自分で体験した不思議な経験を2つほど折に触れて語ってくれる。1つは子供の頃の話。ある時、祖母(父にとっては母親)が突然苦しみだしたとのこと。医者に見せても原因は不明。困って祖父が神主だか何だかその道の霊験あらたかの方に相談に行ったところ、「家のある方向に最近何かしなかったか?」と聞かれたそうである。たまたまその方向に便所を増設したばかりであり、それを説明したところ原因はそれだと即断されたという。半信半疑で便所を取り壊したところ、祖母は何事もなかったかのように回復したという。
今1つは父自身が若い頃旅行に行き、河原でちょっと変わった石を拾ったところから始まる。帰宅後、翌日から原因不明の腹痛に悩まされる。しかも、毎日決まった時間。医者に行っても原因はわからない。異常事態に苦しみながら、父はふと原因はあの石ではないかと思い至ったという。毎日決まった時間に七転八倒しながら週末を待ち、慌てて石を拾った河原に返しに行ったらしい。そうしたところ、不思議なことに腹痛は翌日からピタリと収まったという。
個人的には、「そんなバカな」と思う。しかし、父は大真面目で、世の中には不思議なことがあると信じて疑わない。父はいまでも建物については方角を気にしていて、私が家を建てる時も「見てもらえ」とこだわっていた。その気持ちをバカにするつもりはないが、納得のいく説明が得られるのなら信用したいと思う。我が家は方角など気にしていたら狭いだけに家など建てられなくなる。そこで新築時に氏神様の神主さんにお祓いをしてもらった。そういう気持ちは大事にしたいと思うが、すべて悪しきことをそれが原因とは思いたくない。
私としてはこれまでの半世紀以上の人生でそんな不思議な経験をしたことがない。けっしてバカにするつもりはないが、何でも合理的理性的に考えて納得できるか否かを重視した考え方で生きており、ある方角に便所を作ったから、あるいは石を拾ったから具合が悪くなったということがあり得るとも思えない。ただ、意識もしないのに心臓が動き、呼吸もして新陳代謝が行われている我々生物は、生きていることが奇跡的な不思議とも言えることであり、そんな不思議があってもおかしくはないのではないかとも思う。
もっとも父の不思議な体験も実はきちんと説明できるのかもしれない。それは、たとえば祖母の場合、何らかの原因があって苦しんだが、どうしたのかと騒いでるうちに時間が経過し、自然とトイレを閉鎖したタイミングで治ったのかもしれない。父の場合は、「石が原因だ」と思い込み、「返しに行けば治る」と強く信じたがために、「プラシーボ効果」によって治ったのかもしれない。はっきりした原因がわからないからと言って、「不思議な現象」とも言い切れないだろう。
菅原道真公は、生前陰謀によって左遷され憤死したとされる。それが神様に祭り上げられたのは、死後に都で災いが続出し人々が菅原道真の祟りと恐れ、鎮魂のために祭ったのだという。今であれば気象現象で説明してしまうのだろうが、当時はそれが祟りだったわけである。まだまだ日本中に不思議が溢れ、だから八百万の神様が敬われたのだろう。それはそれで良かったのだと思う。何でも合理的理性的に判断して「不合理だから」とバカにするのもよくないだろう。
【本日の読書】
0 件のコメント:
コメントを投稿