もう有名すぎるくらいの定番であるが、やっぱり早いうちに読ませたいと思ってのことである。懐かしさもあって、ついでにサラサラッと読んでみる。短編だけにすぐ読めてしまう。物語はニューヨークに住む若い夫婦の話。貧しくてクリスマスなのに相手にプレゼントを買うお金もない。思いあぐねて、妻のデラは自慢の長い髪を売って夫のジムのために懐中時計につける鎖を買う。それはジムの唯一の自慢の時計だったが、鎖がなくて人前で時計を見るのを躊躇しているのを知っていたからである。ところが、帰ってきたジムにそれを見せると、ジムはジムでデラへのプレゼントとして以前からデラが欲しそうにしていた櫛を買うために時計を売ってしまったというもの。
お互いに相手のことを考え、自分の大切なものを手放したが、それが結局役に立たなかった(デラの場合は髪が伸びるまでの間)という話。これを最初に読んだのはたぶん中学生の頃だったと思うが、当時は(今もだが)「こんな夫婦になりたいな」と思ったものである。冷たい現実の前にはただただ愕然とするだけだが、今でも限りない理想として、果たせぬ夢として心の中にある。もっとも、今の恵まれた時代でこういう理想を追求する方が無理なのかもしれないと、とっくに諦めてはいるのだが・・・・
結婚した当初、2LDKのマンションで新婚生活を始めたが、ある時近所を散歩していて昔懐かしい古アパートを見つけた。若くてお金がないうちは、六畳一間のアパートでもお互いの存在があれば満足だと思っていたからそんな話を妻にしたのだが、妻には「いややわこんなカンカンアパート」と一蹴されてしまった(階段を歩く時の音から妻はこう表現したのである)。もちろん、それなりに収入はあったからずっといいマンションで生活を始めたが、気持ち的には正直なところだっただけに、己の理想とする愛の姿に冷水を浴びせかけられた最初である。
所詮、布施明の『積み木の部屋』を聞いて育った私とは価値観が合わなかったのだろうが、それはやっぱり桃源郷なのかもしれないとも思う。恋愛結婚した当初は、相手のためには「あれもこれもしてあげたい」と思うのだろうが、それがだんだんと「あれもこれもしてくれない」に変わる。結婚相手に求める条件として「三高」なんてことが言われた時代があったが、本当に悲しい気持ちがしたものである。ちなみに昨今は「四低(低姿勢・低依存・低リスク・低燃費)」だそうであるが、どちらにしても「なんだかなぁ」と思わざるを得ない。ケネディの言葉ではないが、「相手が自分に何をしてくれるではなく、自分が相手ができるか」を問うてほしいものである。
自分は理想を掲げ、あくまでもそれを目指して生きたいと思うタイプである。「理想は理想、現実は現実」と割り切って考えるのも悪くはないと思うが、理想主義者の私としては、やっぱり「愛こそすべて」と思うし、その通りに生きたいと思う。だが、それはむなしい理想に過ぎないのだろう。娘もいつか結婚すると思うが、その時には純粋に相手の男に対し、勤務先だとか年収だとかを考慮することなく決めて欲しいと思う(とは言っても私の気に入る相手にしてほしいとだけは思うのだが・・・)。
【本日の読書】
0 件のコメント:
コメントを投稿