2018年11月28日水曜日

カルロス・ゴーンの逮捕に思う

日産自動車のCEOカルロス・ゴーンの逮捕はなかなか衝撃的であった。一時はV字回復の立役者とされ、日本人では決してできない業績回復をやってのけたということで、企業の業績回復の代名詞的存在だったからである。さらに逮捕容疑は「有価証券報告書虚偽記載罪」で、ただでさえ年間10億円の巨額報酬を得ていたと思っていたら、もっと多かったと知って驚くばかりである。

マスコミの報道を例によってそれほど熱心に見ているわけではないが、海外数か国で豪邸を日産に購入させて無償で使っていたとか、巨額報酬ばかりでなくその「私物化」振りも酷いものだと思う。ただ、海外の報道と国内のそれとの温度差やカルロス・ゴーンの行為とされることに、何となく我々日本人と欧米人との文化というかメンタリティの違いのようなものを感じるのも確かである。日本人的には許しがたく感じるが、欧米人的にはそうではないのかもしれない。

そもそもであるが、容疑の「有価証券報告書虚偽記載」と言っても、「巨額の報酬をもらってはいけない」というものではない。「もらったものを記載しないといけない」というものである。そのあたり微妙である。日本人には「巨額の報酬」はあまりいいイメージを残さない。かつて落合博満が日本人で初の1億円プレーヤーになった時も、球団に対して巨額の報酬を要求する姿勢が批判的に報じられたものである。今でもプロ野球では、日本人と外国人助っ人との間には、年俸に大きな開きがあるのもそういう下地があるからだと思う。

海外の豪邸を会社に買わせて無償で使用していたのだって、世の中そんな例はいくらでもある。中小企業でも、社長が会社名義で軽井沢あたりに別荘を買って自分で使用しているなんてよくあることだろう。そしてそれに対して誰も違和感を抱かないだろうし、社員だって文句は言わないだろう。ただ、金額が大きくなると、口には出さなくても心理的抵抗感は大きくなるかもしれない。それにしても、ご本人は一体いくらもらっていたんだろうと思うと興味深い。

報道によれば、2011年から5年間で実際には99億9,800万円の報酬を得ていたのに、49億8,700万円と記載していたとか。5年間で100億円だとすると、CEOに就任してから20年なので、単純にその4倍とはいかないかもしれないが、どちらにしても桁外れである。当然、税金はがっぽりと取られるだろうが、半分としてもすごい金額なわけで、そんなお金あっても使い切れるものでもない。墓場まで持っていけるわけではないのにと思ってしまう。

自分だったら、そんな夢のようなお金を手にしたら何に使うだろうと考えてみる。「まずは住宅ローンを完済して・・・」なんて考えている時点で小市民だなぁと自分でも思ってしまう。実際に手にしてみないとわからないが、ある程度自分の分を確保したら、世のため人のために使いたいと思う。何もきれい事を言うつもりはないが、お金に満足したら次は「名誉欲」を満たしたいと思うし、そんな風にお金を使う姿を見れば親も喜ぶのではないかと思うのである。息子を誇りに思ってもらえるなら、使いきれずに眺めているより、親孝行だと思って使ってしまいたいと思うのである(嘘だと思ったら試してもらってもいい)。

そもそもであるが、欧米はローマ帝国の時代から絶対王政の社会が長かった。絶対権力者が、「朕は国家なり」(太陽王ルイ14世)で好き放題にしてきた歴史がある。それに対し、我が国は万世一系の皇室が存在していたと言っても絶対君主制ではなかった。それどころか、「和をもって貴しとなす」精神が根底にあって、武家政権であっても戦国時代を除いては「良きにはからえ」の社会であったわけで、そんなところが「独り占め」に対する抵抗感の土壌となっているのかもしれない。そんな文化の違いもあるかもしれない。

カルロス・ゴーンの逮捕につながった内部告発が、表には出てこない日産とルノーとの関係を巡る水面下のバトルなのか、単なる一社員による義憤なのかはよくわからない。そんなこと知りようもないし、どうでもいいことだと思うが、市民革命に倒されたルイ16世のように、我が国で巨額の報酬を得るカルロス・ゴーンが絶対政権を追われたのも必然だったのかもしれない。

 いずれにせよ、自分には遠い世界の出来事。家族を支え、未だまだ結構残っている住宅ローンをチビチビ返済するため、子供の教育資金を稼ぐために、明日も楽しく仕事をしようと思うのである・・・




【本日の読書】
 寝ながら学べる構造主義 (文春新書) - 内田 樹 人間の条件 (ちくま学芸文庫) - ハンナ・アレント, 志水速雄






2018年11月25日日曜日

コツコツと積もり積もって1,027時間

転職以来、ちょうど4年。この4年間を振り返ってみると、コツコツと勉強の日々であった。初めの2年間は「宅建」。そしてこの2年間は「マンション管理士」である。宅建は、まぁ不動産業界に身を置く以上はタクシー運転手の運転免許みたいなものだと思うから当然として、「マンション管理士」は「イメージづくり」とも言える。使える資格でもない割りには、合格率8%の狭き門の資格である。

取ろうと思ったのは自分の意思であり、名刺の肩書にしかならない意味のない資格であるが、その名刺の肩書きが相手に対して一目置かせることにもなるかと思っての受験である。ちなみに、ほぼ内容が同じ「業務管理主任者」は合格率20%超である。なぜかと理由を想像してみると、おそらく合格率8%なんてしたらマンション管理会社が商売できなくなるからだろうと思う。つくづく、つまらない資格である。

そんなつまらない資格でも、取ると決めたら取らねばならない。「批判は受かってから」が信条の自分としては、受かってから文句を言ってやろうと思う。そんな狭き門の資格を前に、難敵は他でもない自分自身。難関国立大学を卒業したかつての「受験戦争の勝者」も年齢による記憶力の低下にはなすすべもなく、宅建もマンション管理士も思いがけぬ苦戦。宅建は2回目でクリアしたが、マンション管理士はどうであろうか。

私の勉強スタイルは、学生時代から変わらぬ「コツコツ型」。10時間の勉強が必要だとすると、前の晩に徹夜で10時間勉強するのではなく、10日前から毎日1時間ずつ勉強するタイプである。自分では、同じコツコツ型の親父の血を引いたのだと思っているが、我が娘は「徹夜型」であり、どうやら我が家系の血は引いていないのかと思ってみたりする。それはともかくとして、受験を決めた時から、「1日1時間、1週間で10時間(土日5時間)」を自らノルマとして課してやってきたのである。

いつからかこの「コツコツ型」になったのかはわからないが、昔から「1日1歩」が性に合っているのである。一気にやるのが嫌だというのもあるだろう。徹夜なんて今でもとんでもないと思っている。その一歩一歩の積み重ねの結果、1年目に費やした勉強時間は496時間であり、今回は531時間である。大事なのは「量より質」であるが、質を確保したらあとは量であり、量も大事な要因である。特に、「覚えては忘れ、忘れては覚える」という状態にあっては、量の要因は大きい。

昔であれば、500時間勉強すれば、400時間分くらいは身についていたと思うが、今はイメージとして250時間くらいである。テキストの前の方を見直すと、引いた覚えのないマーカーが引いてあって驚くことしばしば。その都度、「新たな発見」をしている。80を超える親父は同じ小説を何度も「読んだことがない」と思って読んでいるみたいだが、何度も楽しめる小説や映画ならともかく、資格試験ではシャレにならない。かつての栄光はかなぐり捨て、必死に忘れたものを覚え直す日々である。

今一つの信念は、「一点集中」である。アリの穴から堤も崩れるではないが、小さな力も一点に集中すれば大きな威力を持つという考えから、「マンション管理士」以外の勉強はしていない。実は先週、会社のみんなで「賃貸経営管理士」の試験を受験したのだが、こちらの方は応用が効くかもしれないと考えての受験で、そのための勉強は1秒たりともしていない。大学も1年目は志望校一校しか受けなかったし、2年目はさすがに滑り止めを受けたが、そのための(私大向け)勉強はしなかった。記憶力が情けない状態になっているのであれば、なおさらである。

そんな勉強の日々も本番を終え、あとは試験の結果待ち。結果はわからないが、正直言ってもう疲れてしまったのは確かである。記憶力とともに、加齢は耐久力も奪うものなのかもしれない。負けたら「もう1回」という気力が残っているかは怪しい。合格してればいいが、不合格の場合、再起動は厳しいかもしれないと感じている。果報は寝て待てとはいうが、「立って待つ気力がない」というのが正直なところである。コツコツと積み上げてきた1,027時間が結果となって現れるか。

 気力を使い果たした後でもあり、もう次の力があるかどうかわからないだけに、いい結果を期待したいと思うのである・・・




【今週の読書】
 大山健太郎: アイリスオーヤマの経営理念 - 大山 健太郎 人間の条件 (ちくま学芸文庫) - ハンナ・アレント, 志水速雄 日本一小さな航空会社の大きな奇跡の物語―――業界の常識を破った天草エアラインの「復活」 - 奥島 透





2018年11月21日水曜日

論語雑感 八佾第三(その13)


〔 原文 〕 
王孫賈問曰、與其媚於奧、寧媚於竈、何謂也。子曰、不然。獲罪於天、
無所祷也。
〔 読み下し 〕
王孫(おうそん)賈(か)問(と)うて曰(い)わく、其(そ)の奥(おう)に媚(こ)びんよりは、寧(むし)ろ竈(そう)に媚(こ)びよとは、何(なん)の謂(い)いぞや。子(し)曰(のたま)わく、然(しか)らず。罪(つみ)を天(てん)に獲(う)れば、祷(いの)る所(ところ)無(な)きなり。
【訳】
衛の王孫賈が先師にたずねた。
「奥の神様にこびるよりは、むしろ竈の神様にこびよ、ということわざがございますが、どうお考えになりますか」
先師がこたえられた。
「いけませぬ。大切なことは罪を天に得ないように心がけることです。罪を天に得たら、どんな神様に祈っても甲斐がありませぬ」
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論語も人によって微妙に解釈やニュアンスが異なる。中国の、それも2,500年も前の言葉だからいろいろと言葉も変わるだろうし、本当の意味がどうなのかはわからないのかもしれない。ここでは「罪を天に得る」と解釈しているが(それもわかるようなわからないような解釈だ)、別の解釈では奥の神様を王(皇帝)とし、竈の神を陪臣として、名目上の実権者(王)よりも実質上の実権者(陪臣)に媚びを売るとしているものもある。どちらが正しいと言えるほど知識もないので好きなように考えるとする。

いずれの解釈に対しても、王孫賈の問いかけに対し、孔子は「そんなこと考える必要もない」と答えている。それはそうだろうと思う。神様なのか、陪臣なのかはともかくとして、「どちらがいいのか」と選択する時、そこには「計算」が潜んでいる。「どちらの神様の方が願いを叶えてくれるのか(奥に鎮座する偉い神様か食事を司る現実的な神様か)」、「名目上と実質上とどちらの実権者についた方が得なのか」、計算とも打算とも言えるが、その根底にあるのは損得勘定である。

質問した王孫賈も、ひょっとしたら「どっちにつくか」で迷っていたのかもしれない。よく企業ドラマなどで、「専務派」と「常務派」に分かれて権力闘争をし、敗れた方が一掃されるというようなことをやっていたりする。子分にとっては、どっちにつくかが死活問題なのであるが、幸いにしてそんな子分の立場の悩みを味わうこともなくこれまでやってこれたが、世の中的にはそういうのも結構あるのだろうかと思ってみたりする。政治家の派閥なんかでは今でもありそうな気がする。

 もしも自分が子分の立場だったらどうするだろうと考えてみる。個人的にそういう考え方は好きではないから、「専務派」にも「常務派」にも組しないと思う。そういう考え方自体、否定したいと思うクチである。まぁ、そういう議論をすれば誰でもそうかもしれない。そして実際、そういうケースでどちらかを選ぶ人というのは、「選ばざるを得ない」状況に置かれているのかもしれない。では、選ばざるを得ない立場になったら自分はどうするだろう。

もしも選ばなければならないとすれば、その基準は「人柄」だろうか。どちらについた方が将来的にメリットがあるだろうかとか、本当の打算的な基準では選びたくないと思う。なぜなら打算で選んだ場合、どちらにつくにせよ、それが「ハズレくじ」であった場合には、あとには後悔しか残らないからである。ところが「人柄」で選んだ場合なら、「ハズレくじ」でも「まぁいいや」と思えるだろう。そういえば自分も就職の時、万が一会社が潰れたとしても誘ってくれた先輩と一緒ならいいや思ったし、転職の時もこの社長と一緒ならもしも潰れてもいいやと思って決断したものである。

逆に自分がボス猿の立場だったらどうだろうかと考えてみると、やはりライバルに打ち勝った後は、自分についてきた者を優遇しようと自然に思うだろう。ライバルを支持していた者たちに恨みは持たないと思うが、どちらかを昇進させるか選べる立場となった時はやっぱり自分の派閥から選ぶと思う。そう考えれば、子分たちがどちらにつくかで必死になるのも分かる気がする。

ただ一方でもしも中立を守った者がいたらとしたら、自分なら敢えて彼(彼女)を選ぶかもしれない。もしかしたら普通の人は選ばないかもしれないが、自分としてはそういう反骨精神を持っている者は基本的に好きである。何れにしても、理想論はともかく、人は奥の神様か竈の神様かと悩むものなのかもしれない。悩むのは良いと思うが、自分としては一度これと決めたら腹を括って信じ切り、ハズレたらサバサバと諦めるのが潔くていいように思う。そういう確固とした信念を持っていたいと思うのである。

打算など打ち捨て、自分の揺るぎない信念でこの人と選び、選んだら何があっても動じず迷わず行く。かくありたいと思うのである・・・ 


                     


【本日の読書】
 大山健太郎: アイリスオーヤマの経営理念 - 大山 健太郎 人間の条件 (ちくま学芸文庫) - ハンナ・アレント, 志水速雄





2018年11月14日水曜日

日大悪質タックル事件に思うこと(その2)

日大・内田前監督ら立件見送りへ 警視庁、危険タックル指示なしと判断

11/13(火) 5:00配信 産経新聞
 日本大アメリカンフットボール部の悪質反則問題で、警視庁が、傷害罪で刑事告訴されていた日大の内田正人前監督と井上奨(つとむ)前コーチについて、宮川泰介選手に対し相手を負傷させる危険なタックルをするよう指示した事実は認められないと判断したことが12日、関係者への取材で分かった。警視庁は近く刑事告訴に基づき傷害容疑で2人を書類送検するが、東京地検立川支部は2人の立件を見送るとみられる。
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この問題、当初から私も関心を持っていたが、一応公的にはこれで決着がついたということなのだと思う。「立件見送り」は「裁判になっても有罪にできるだけの証拠がない」という意味で、「やっていない(悪質タックルの指示はしていない)」という意味ではない。真相は本人(監督)にしかわからないので、依然として藪の中である。

裁判の原則は、「疑わしきは罰せず」。黒であれば有罪だが、グレー(疑わしい)では有罪にはならない。グレーにも「限りなく黒に近いグレー」と「限りなく白に近いグレー」があるが、白であるかどうかは、本人の心の中がわからない以上わからない。今回警視庁は、「捜査1課の殺人事件担当や課内のアメフト経験者、競技場を管轄する調布署員らからなる特別捜査チームを編成。アメフト部の関係者や競技の専門家ら約200人から事情聴取したほか、試合を複数の角度から撮影した動画を解析。記者会見などでの関係者の発言についても裏付け捜査を行った。」とあるからかなり調べたようである。その結果、「限りなく白に近いグレー」と判断したというわけである。

監督本人の心の内はわからないから、限りなく状況証拠を集めるようとしたであろう。日頃の言動や試合当日のチーム内の雰囲気など、約200人もの人に話を聞けば事件の真相も浮かび上がってくるのではないかと思う。その結果、「潰せ」という監督の指示は、「ルール内で潰せ」という意味だったと判断されたのだと思う。学生時代からラグビーをやってきた身としては、その結論の方が納得できるものであり、しっくりとくる。ルールを越えた意図的な反則は、試合崩壊も覚悟しないと指示できないだろうし、そこまでやる意味があったとは思えない。その感覚は、ラグビーやアメフトをやったことのない人にはわからないのかもしれない。

それにしても、よくわからないのがタックルした選手本人の胸の内。聞けば日本代表候補にもなっている優秀な選手。そんな優秀な選手が、監督の指示の真意がわからなかったのかという疑問。私も若い頃は相手を怪我させてやろうと思ってプレーしたこともあるが、一度として「ルールを越えてやってやろう」などと思ったことはない。たぶん、それはすべてのプレーヤーに共通した感覚だと思う。相手から文句を言われたとしても、「プレーの中でなら」自分を正当化できるし、そもそも相手も文句をぐっとこらえるだろう。そういうものだと思っていたので、安易にルールを越えてしまったその思考回路が理解できないのである。今の若者ってそれほど理解力が衰えているのだろうかと思ってしまう。

それにしても、事件当時のマスコミ報道で、監督はすっかり悪人扱い。冒頭のニュースを見ても、「裏で圧力をかけたのではないか」とか、証拠が出てこなかっただけ(「限りなく黒に近いグレー」)というイメージを語る人が私の周りにもいた。たかだか日大のアメフトの監督が警視庁に手など回せるはずもなく、やっぱりこれらはマスコミ報道の悪影響だと思う。別にこの監督と知り合いでも何でもないから肩を持つつもりなどないが、やっぱりマスコミ報道って酷いなと改めて思う。

事実、いつ自分がこうした「悪質報道」の犠牲者になるかわからないわけである。一旦、「黒」と判断されたら(あるいはその方がネタになると判断されたら)、それに沿って報道されるわけである。今回も監督を支持する人たちが実はいたようであるが、そんな声はほとんど聞こえてこなかった。弁明しても言い訳としか解釈されないだろうし、説明すればするほど泥沼にハマる気がする。今に始まったことではないが、まったく恐ろしいことである。

マスコミには、両サイドからの報道が望ましいと思う。すなわち、選手側からの報道と監督側からの報道である。そうすれば、見ている方も公平に判断できるだろう。だが、今のマスコミを見ていると、そんなことは欠片も期待できそうもない。コメンテーターもみんな右へ倣えだ。せめて自分だけは冷静に判断できるようにしたいと思うが、その場合は「悪役側」に立って見ることが必要であろう。悪役側から見て言い訳の余地がなければ、本当に悪役なわけで、言い訳の余地があるならその可能性も考えて批判のブレーキを踏む必要があるだろう。

今の日本の「集団としては無能なマスコミ」に多くは期待できないから、せめて自分だけでもそういう冷静な目を持っていたいと思わされた一件である・・・




【本日の読書】
 逃げる力 (PHP新書) - 百田 尚樹 史上最強の哲学入門 - 飲茶




2018年11月12日月曜日

静かなるリーダーシップ

ネットの記事で、『【なるほど、納得】的確に表した「ボスとリーダーの違い」に考えさせられる』というのを読んだ。なるほど、イメージ図を見るとリーダーとボスの違いが一目瞭然であり、うまく表現したものだと思わされる。これを読めば、だれでも自分ならリーダー・タイプになりたいと思うだろうし、リーダー・タイプの人の下で働きたいと思うだろう。実際はボス・タイプなのに自分はリーダー・タイプだと勘違いしている人も多いと思う。

しかしながら、世の中にはリーダー・タイプでもボス・タイプでもないタイプの人がいることも確かである。過去の銀行員時代にも、「この人よく昇進できたな」というタイプの上司はいた。どちらのタイプでもないタイプの上司である。部下を持ってもやたら威張るほど狭量ではないが、自ら先頭に立つほど自信もない。でも部下を持ってしまったから上司をやらないといけない・・・ご本人はそんなつもりなどないかもしれないが、そう見えてしまう「自信のないタイプ」とでもいうタイプである。こういうタイプの上司は、決断も遅いしはっきりとした考えもわからなくて部下も困惑してしまう。

そういうタイプの上司はどうしたらいいのだろうかと考えてみる。自分が先頭に立つのが無理なら、部下を先頭に立たせればいいだろう。つまり、こういうタイプは「人をうまく使う」に尽きる。そうすれば、苦手な「先頭に立つ」こともないし、権威主義のボスとして威張る必要もない。有望な部下を選んで、適度に励まして先頭に立って走ってもらえば良いわけである。それで上司としての権威が失墜するものでもないし、職務怠慢を問われることもない。上司は自分の課のパフォーマンスを結果として上げることが大事なのであり、自分で先頭に立つパフォーマンスは必ずしも必要がない。

さらにこの方法だと、同時に「部下の育成」もできることになる。人材育成の一番の方法は、OJTであり、責任ある仕事を任されることである。上司から期待されて先頭に立つことを覚えれば、それは次世代のリーダー育成にも繋がるし、人材育成の実績として、自分の成績にもなる。「自信のないタイプ」を自覚しているなら、こうした方法が適していると思う。

さらにこの時、注意しないといけないのは、「任せっぱなし」にしないことだ。仕事を任されたのはいいが、上司が無関心だといずれ当人のやる気も萎んでしまう。マズローの「欲求五段階説」を出すまでもなく、人間には「承認欲求」がある。自分の仕事を見ていてもらって、褒められればさらなる力を発揮するだろうが、無関心ではやがて意欲も消失する。折に触れて、進捗を尋ねたり、やり方に対する途中評価を適宜加えて、「いつもしっかり見ている」という印象を与えることが大切である。

実際、私もプロジェクトを任されたはいいが、上司はまったく無関心ということがあった。途中で「あれどうなった?」と一言でも聞かれればともかく、ひょっとしたら忘れてしまったのではないかと思う有様になったことがあった。こうなるとこちらのやる気も失せてくるというもの。やってもやらなくても同じなら、人間やらない方に流れるものではないかと思う。ちょっとでも関心を示していれば、ある種の緊張感も持続して継続することができると思うのである。

リーダーシップのタイプはリーダー・タイプとボス・タイプの2種類ということはないだろう。無理にどちらかと考える事にあまり意味はない。ただ、どちらにせよ楽していていいことはないのは事実。体を動かすか、脳みそをフル稼働させるか。自分に合ったやり方で、かつ部下を手下ではなくチームメンバーとして考えるのが良いのではないかと思う。私だったら、部下に先頭を任せることを選ぶと思う(その方が楽だし・・・)。

ふと目にした記事からあれこれとそんなことを考えてみた次第である・・・




【本日の読書】
 できる人の人を動かす方法 The Rules of People Rulesシリーズ - リチャード・テンプラー 史上最強の哲学入門 - 飲茶




2018年11月3日土曜日

サプリメント

最近、ネット上の広告でサプリメントに関するものを多く目にするようになった。テレビのコマーシャルと同様、最近ではさまざまなネット広告を目にする。多種多様なネット広告でも、意識してみれば割とジャンルが固まっているような気がする。「保険」「クレジットカード」などとともに、「サプリメント」も数多いジャンルの一つである。そしてそんなサプリメントのネット広告が気になったのも、ちょっと意識しているからにほかならない。

最近は、毎週シニアラグビーに参加し、試合にも出るようになっている。当然、体力の衰えは否応なし意識させられるところであり、昔のようにとはいかないまでもある程度の体力をつける必要性を感じている。それには食べることが一番であるが、練習が週一回程度ではメタボまっしぐらの危険性もある。そこでそこそこの栄養補給となると、サプリメントがいいのだろうかと思い始めているのである。ところが、なかなかすんなりと手を出せない。

実は、私自身は大の「薬嫌い」である。なにせ「風邪は気合で治る」というポリシーを持つくらいなので、サプリメントは薬ではないとわかっていても、なんとなく得も言われぬ抵抗感を感じてしまうところがある。ちなみに昨日整形外科に行って薬を処方されたが、聞けばその成分はビタミン剤だということで納得して服用することにした。これがそうでなかったら、考えるところである。

以前、(滅多にないことだが)熱を出して内科の医者に行ったことがある。その時は子供も小さかったし、インフルエンザだとまずいと妻に言われて渋々出掛けて行ったのである(そうでなかったら行かなかったのは言うまでもない)。診察の結果、幸いなことにインフルエンザではなく、ただの風邪であった。その場でたくさんの薬を処方されたが、一粒も飲まなかった。ならもらわなければいいと思うところだが、熱もあったし、先生との不毛な議論も面倒だったので黙ってもらうだけもらってきたのである。私はそういう人間なのである。

そうは言っても、例外はある。その筆頭は「正露丸」である。これは過去の経験から効果てきめんなのを知っているという部分が大きい。やはり「効き目」ほど効果的なものはないと思う。そういう意味では、(薬ではないが)リップスティックとニベアはこれからの季節重宝している。リップスティックも効果抜群だし、ニベア(クリームを塗るタイプのものである)もかつて学生時代にラグビーの練習中腿のあたりが赤くなった時に、勧められて塗ったら効果てきめんであったことから、折に触れて愛用しているのである。

そんなわけだから、サプリメントも効果てきめんなら問題ないが、そうはいかない。サプリメントの類は、ほとんど効果など実感できないものであろろう。少し前まで実家から朝鮮人参をもらって飲んでいたが、こちらは効果があるのかないのかさっぱりであった。妻のダイエットの例を取るまでもなく、「暖簾に腕押し」ほど継続する心をくじくモノはない。ただ、考えてみれば毎日の食事だって効果が実感できるものではない。と言っても取らなければ死んでしまうわけで、また栄養の偏りも長い時間をかければ悪影響が表面化するわけで、サプリメントの効果も長い目でみなければならないのも理解できる。

それに加えて不安をあおるのは、ネットにしろテレビにしろ広告というものはどうも針小棒大の怖さがある。さらには、最近自動車メーカーや免震メーカーの検査数値偽造のニュースにもあるように、謳われた効果が本当にあるのかという疑問もある。「研究ではこれこれの効果が認められた」「〇〇の成分配合」「元気満々です!(あくまでも個人の感想です)」などと見せられても、部外者にはわからない。ごまかされていても効果がすぐに出ないこともあってわからないわけである。そうなると、やっぱり躊躇してしまうというのが本音のところである。

学生時代、公式戦の前などにリポビタンDをよく飲んだものである。試合中にバテたくなかったし、少しでもエネルギーになればと思ってのものであった。それがここ大一番の試合ではリポビタンDスーパーになったりした。今思えば気休め程度の効果だっただろうと笑ってしまうが、その「気休め効果」は抜群であった。サプリメントも「気休め効果」なら、即実感できるかもしれない。

まぁ、その現実的な効果の有無はともかく、もうしばらく様子見しつつ、せいぜい「食欲の秋」本番を迎え、しっかり食べてしっかり体を動かすという基本は実行していきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 日本の国難 2020年からの賃金・雇用・企業 (講談社現代新書) - 中原 圭介 オリジン 上 (角川文庫) - ダン・ブラウン, 越前 敏弥 史上最強の哲学入門 - 飲茶






2018年10月25日木曜日

我が子に望むもの

結婚してしばらく夫婦2人の生活を楽しんでいたが、やがて子供を授かったとわかった時、得も言われぬ喜びを感じたことを覚えている。その喜びは我が子の誕生の知らせによって頂点に達したと言って良い(もちろん、その後も我が子の成長に伴う喜びは多々あった)。出産までの間、だんだん大きくなる妻のお腹を眺めては、とにかく無事に生まれてきて欲しいと願い、それこそが唯一最大の願いであった。それは誰もがそうであろうと思う。

しかしながら、その願いは我が子の成長に伴って日々変化していく。妻などはやれアトピーだ、ハイハイの時期が遅いかもしれないとか、歩くのはいつ頃かと、とにかくいろいろ心配していたようである。その時期が来れば、希望の幼稚園に入れるか否かとか、小学校に入れば将来のために勉強をさせた方がいいだろうと通信教育を始めたり・・・まぁ世間の親は(特に母親は)みんなそうなのであろう。

妻との教育方針の違いは既に中学受験の時に表面化し、「公立中学校で十分」とする私と受験派の妻とが対立、結局妻に凱歌が上がる。世間の親もみんなそうだろうと思うが、我が子の幸せを願う気持ちは一緒だが、その方法論が私には受け入れ難い。それはともかく、「良い高校」「良い大学」「良い企業」という旧態依然とした人生設計を良しとするもので、そのために目を血眼にして我が子に勉強させようとする。

しかし、私などは自分の経験(公立高校→一流国立大学→大手都市銀行→中小企業)に基づいて考えてみると、やっぱり小学校、中学校で「受験、受験」というのはバカげていると思う。それはたとえればマラソンにおいて最初から先頭集団で飛ばせというようなものである。まだ成長途中の子供がそんなに勉強できるわけがないし、勉強したとしても途中で息切れするものだと思うのである。やらせる親は自分でやったことがあるのかと疑問に思う。

事実、私の小学校時代のある友人も、早くから塾通いをしていて成績も良かったが、私立の中学に進み、最終的に彼が入ったと聞いた大学は私など何の苦労もなく入れるところであった。それが悪いとは言わないが、要は受験勉強など中学3年からやれば十分だというのが私の考えである。もちろん、それで一流高校に入れないという意見があるかもしれないが、私の考えはそれで構わないというものである。敢えて言えば、2番手レベルくらいのところに入れるようにはしたいところである。

その際、間違っても付属高校には入れたくない。それは大学受験をさせたいと思うからである。受験はよりランクの上の学校へ入るためというより、1つの「試練」と考えている。人生いろいろなところで試練があるが、人はだれでも成長過程においてそれを体験すべきだと思う。受験など失敗したところで大したことはないし、それに対して本人にはプレッシャーがかかる。そのプレッシャーの中で、目標を決めて頑張れる機会としては受験はいいと思う。

大事なことは、幼児時代ならいざ知らず、「親は子供の面倒を途中までしかみれない」という事実である。いずれ子供は自立しなければならない。ならばその時に困らぬ様、親としては子供をトレーニングしておきたい。この先、どんなことがあっても自分で生きていけるように、である。それは一流企業に就職したらOKというものではない。大企業だって(JALのように)倒産もするし、リストラに遭うかもしれないし、仕事のプレッシャーに負けて鬱になるかもしれない。「大企業に入って安泰」とは言えないのは自明の理である。だが、世の母親たちはそれを理解していない・・・

就職しても勉強は必要である。それは社内の競争だったり、必要に迫られた資格の取得だったりするかもしれないが、学生時代とは違う仕事に必要な勉強である。そしてそれには終わりがない。なぜなら世の中は常に変化しているし、生き残っていくには油断できないと思うからである。そんな勉強をずっと続けていかれるかどうかは、その都度受験という試練をこなすことによって培われるノウハウと気力だろう。わけもわからぬまま勉強させられて、勉強することが嫌になってしまったら元も子もないと思う。

我が子については、無事生まれて来てくれただけで十分だと思う。あとは何があってもしっかり生きていかれる力をつける手助けをすることだ。一流企業に就職したら終わりというものではない。本人が望むなら大学に行かなくてもいいし、「役者になりたい」と言っても止めたりはしない(ただ、どれほど困難な道かは教えるだろう)。そう考えているから子供の進路について気になるのは、「何か迷ったり困ったりしていることはないか」だけである。

娘は来春高校を卒業するが、その先どうするかは未定だ。どうやら受験する気はなさそうだ。妻はヤキモキしているが、私は別に大学に行かなくても良いと思っている。それより中学1年の息子が今から大学受験を避けるため付属に行きたいとほざいているのを何とかしたい。妻も同調しているから手強いが、ここは時間をかけてじっくり考え方を変えさせたいと思っている。まぁそうは言っても最終的には本人次第だが・・・

無事生まれてくれれば何もいらないと思っていた事を考えると、無事に生まれてくれたからそれだけでも幸せである。それを肝に銘じて子供たちと接していたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 数学を使わない数学の講義 (WAC BUNKO 272) - 小室直樹 働くことがイヤな人のための本: 仕事とは何だろうか - 中島義道






2018年10月17日水曜日

論語雑感 八佾第三(その12)

〔 原文 〕                     
祭如在、祭神如神在。子曰、吾不與祭、如不祭。
〔 読み下し 〕
祭(まつ)ること在(いま)すが如(ごと)くし、神(かみ)を祭(まつ)ること神(かみ)在(いま)すが如(ごと)くす。子(し)曰(のたま)わく、吾(われ)祭(まつり)に與(あずか)らざれば、祭(まつ)らざるが如(ごと)し。
【訳】
孔子が先祖の祭りを執り行う際には、あたかもご先祖の魂がそこに臨在するかのように畏敬の念を捧げた。又、神様を祭る場合には、あたかも神様がそこに降臨されているかのように敬虔な態度を示した。そして、「祭りを執り行うのに、こうしないと祭った気がしないのだ」と云った。
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今は他のご家庭では仏壇があるのだろうかと、ふと思う。そういう我が家に仏壇はない。と言っても信仰心が薄いわけでもなく、多分まだ両親が健在ということも大きいと思う。実家へ行けばそこにはちゃんとした仏壇があり、両親それぞれの祖父と祖母がともに並んで微笑んでいる写真が飾ってある。最後まで存命だった父方の祖父が亡くなったのはもう25年前である。

実家では、ご飯の時に米を炊くと、まずは炊き上がった最初のご飯を仏壇に供える。私も実家へ行った時は進んでこの役割を引き受けるが、その時当然仏壇で手を合わせる。そして心の中で祖父と祖母たちに話しかける。内容はその時々であるが、「じいちゃんとばあちゃんの子供(つまりは私の両親だ)をお見守りください」というのが多い。その時は、「あたかもご先祖の魂がそこに臨在するかのように」しているなぁと改めて思う。

また、年に一度、近所の北野神社に初詣に行くが、その時も手を合わせながら心の中で神様に話しかけている。まぁ大抵は両親の健康と家族の健康祈願といったところで、自分のことは祈らない。しかし、これも「あたかも神様がそこに降臨されているかのように敬虔な態度」をとっている(つもり)。別にそれ自体は珍しいことではなく、ほとんど皆そうだろうと思う。神様が実際にいるかどうかは問題ではなく、「いるという態度」が大切だと思うのである。

そもそもであるが、神様や祖先に対する信仰というものは、「そういう態度」が大切なのだという気がする。私自身、よくよく突き詰めていけば、無神論者であり幽霊等の霊魂の存在は信じない人間である。人間はすべて己の脳みそで思考し、それによって存在している。神様も人間の思考の結果生み出されたものであるし、したがって死んでしまって脳の機能が停止したらそれでおしまいである。死んでまで幽霊になって思考するということはあり得ない。もちろん、悪霊やたたりの類や、天国や地獄すらも人間の空想である。

しかし、だからといって、神も仏もありはせぬという考えが正しいかというとそうは思わない。人間は生きていく上で何らかの信仰は必要だと思う。それが神様ならそれでいいし、仏様でも祖先でも良い。大事なのはスタンスである。信仰を持っている人間は傲慢を抑えられる。神様の前で頭を垂れる謙虚な瞬間が人間には必要であるし、それがあるかないかの差は大きい気がする。

神様の種類はキリスト教でもイスラム教でも何でもいいが、信じるならきちんと信じて欲しいと思う。神様は「汝殺すべからず」と教えているのだから、その教えを守ってほしいが、歴史はその神の名において異教徒を殺すことを是とした人々を記録している。今でもテロリストはみなアラーの熱心な信者であることは恐るべき皮肉だと思う。それに比べると、我が国の八百万の神々は実に穏やかである。生贄も聖戦も要求しないし、他の神々(異教徒)にも寛容である。信じるなら当然、神道だろう。

実際に神々や祖先(の霊)がいるかどうかは問題ではなく、大事なのは「いるという態度」だと思う。実家で仏壇に向かう時、穏やかにほほ笑む祖父母の写真をそれぞれ見ると、かつて小さかった頃に接した思い出が蘇ってくる。母方の祖父とは将棋を指したし(強くて全然勝てなかった)、父方の祖父とは一緒に酒を飲んだ。いい思い出だし、そんなことを思い出しながら心の中で語りかけると穏やかな気分になる。きっと、私の心の声も届いているだろうと思えてくる。

そう言えば会社には神棚があって、近所の氏神様からいただいたお札が飾られている。しかし、どうも日々の仕事に追われていると、「そこにいらっしゃる」という気持ちは抜け落ちている。それも改めないといけないかもしれない。商売繁盛を祈願したものだが、社員みんなが幸せに働けるならそれでいいと思うし、繁盛は人間の努力次第だ。それはそれとして、そこに「いるという態度」は完全に抜けてしまっている。これからは一日に一度くらいは首を垂れることもしないといけないだろうと思う。

自分自身を振り返ってみて、もう少し信仰のある生活を送ってみてもいいかもしれないと思うのである・・・




【本日の読書】
 大前研一 デジタル・ディスラプション時代の生き残り方 - 大前 研一 月と六ペンス (光文社古典新訳文庫) - モーム, 土屋 政雄





2018年10月15日月曜日

子供の教育に思うこと

 昨日のこと、最寄駅から電車に乗ったところ、一緒に乗ってきたお母さん方と遭遇した。騒がしく話をしていたが、その内容を聞くとはなしに聞いていると、どうやら学校の説明会に参加してきたようであった。我が地元にはレベルの高い中高一貫の公立高校がある。おそらくそこの説明会に連れ立って参加してきたのだろう。そう言えば、我が家もかつては妻がよく学校の説明会に足を運んでいた。どこの家庭もこういう役割は母親なのであろうか。

そういう熱心さは悪くはないと思うが、どうも昔から違和感を禁じ得ない。それは自分自身の経験から感じるものでもある。私は高校受験に際しては、自分で受験する高校を選んだものである(第一志望は都立高校、第二志望は同等レベルの私立校と滑り止め)。自分で調べ、自分で願書をもらいに行き、受験も合格発表も1人でこなした。親にはお金を出してもらっただけである。それがあるべき姿ではないかと思うのである。そのため長女の受験の時もアレコレ口出ししなかった。はっきり言って高校などどこでも良かったのである。

長女の場合、妻が積極的に受験に噛み込んでいた。塾へ行って勉強するように仕向け、学園祭にはあちこち顔を出し、もちろん学校説明会も東奔西走していた。そこまでする必要があるのか今でも疑問に思うが、反対はできなかった。それは私と妻との間の力関係である。残念ながらそこには圧倒的な差があって、私にはほとんど力がない。あれば当然放置していただろう。本人から助言を求められたら、もちろん精一杯力になってやるが、それ以外は本人に任せていただろうが、現実は上記の通りである。

だからと言って、我が子の教育に無関心というわけではない。むしろ逆である。子供は将来、親元を離れて生きて行かないといけない。そのための力をつけるには、少しずつ試練を与えてそれを乗り越える力をつけさせることが大事だと思う。親があれこれと世話を焼き、上げ膳据え膳でお膳立てすべきではないと思うのである。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」と言えば大げさかもしれないが、受験はその最適な試練だと、自分の経験からも言える。心配なのはわかるが、どうも世の中の母親達を見ていると、受験で鍛えられていない非力なままの子供達の先行きが心配になってくる。

レベルの高い高校に行くのは、よりレベルの高い大学に行くためでなく、受験という試練を乗り越えて自分自身一つ上にステップアップするためである。そしてレベルの高い大学に行くのは、大企業に就職するためではなく、将来必要な教養を身につけたり、自分が希望する仕事に必要な知識を身につけたり、あるいは知的好奇心を満たすためである。大学を選ぶにあたり、卒業生の就職先一覧なんかを見るのはまったくのピンボケである。

仮にそうして大企業に就職しても、そこからまた社内で競争があり、業績必達のためのプレッシャーがあり、人間関係に悩まされたりといろいろな試練がある。親は就職させたらそこで安心して終わりであるが、子供たちにとってはここからが本番である。大企業と言ってもグローバル化社会の中では、一部上場企業だって倒産するしリストラだってある。うつ病にならず、リストラされても生き残っていけるようにならないといけない。そのためには社会人になっても勉強は必要である。小学生、中学生の頃から毎日尻を叩かれて勉強して、大学に合格したら「もう勉強なんかしたくない」となったらどうするのだろうと思う。

高校に入ってラグビー部に入ったが、練習はそれなりにハードであった。それでもラグビーが面白かったから大学に入って迷わずラグビー部に入った。だが、同期で大学までラグビーを続けたのは他には1人だけだ。みんないろいろやりたいことがあったのだと思うが、ハードな練習に嫌気がさしたのかもしれない。大学に入ってまで苦しい練習なんかしたくないと思ったのかもしれない。勉強もそれに相通じるものがあるように思う。

また、ラグビー部の同期で、今それなりに元気なのは皮肉なことに大学に行かなかった2人だ。残りはみんな大学に行き、サラリーマンになっている。それはそれで家族を養い立派に自立しているが、ウィキペディアで検索しても名前は出てこないし、ジャガーを乗り回したりはしていない。大学に行かなかった2人にはそれができている。世の中ってそんなものである。高校受験で母親が熱心に学校説明会などに出ているのを見たりすると、違和感を覚えるのはそんな理由である。

今、妻の関心は中学1年の息子に移っている。早くも苦手教科だけ塾に行かせ、ダッシュの準備をしている。自分としては3年になるまで落ちこぼれない程度にやっていればいいと思う。それまで野球を熱心にやってほしいと思うが、果たして私の希望通りに行くかは難しい。それでも息子と日々会話を交わし、私の考えを伝えていこうと思う。草食系男子も軟弱系も、それを生み出すのは母親であるというのが私の考えである。

 せめて我が息子をたくましく育てたい。そのためには、妻との力関係の改善からはじめなければならない思う。この歳になってもまだまだ試練は続くのである・・・




【今週の読書】
 「不思議な会社」に不思議なんてない―――建設業をサービス業に変えて急成長! - 荒木恭司 世界史を変えた詐欺師たち (文春新書) - 東谷 暁 大前研一 デジタル・ディスラプション時代の生き残り方 - 大前 研一





2018年10月11日木曜日

人間とロボットが仕事を奪い合う

先日読んだ『世界を変えた14の密約』という本にちょっと恐ろしい記述があった。それはアメリカで自動洗車機が使われずに横に置かれ、代わりに人が洗車しているのだとか。それは実は自動洗車機はコストがかかる一方で、人は失業を恐れて洗車機より安い賃金で一生懸命働くからだという。「人の方が安い」となった結果、人の労働力が機械に置き替わっているのである。近い将来、AIが人の仕事を奪うと言われているが、それに抗う動きと歓迎することは、もちろんできない。

本の結びは、人間が安い賃金で働き、それをAIが「瞬きもせず」監視する様子を想像して終わっているが、空想話として笑い飛ばすにはちょっと背筋が寒くなる未来像である。人間の労働力を軽減するのが機械化であるが、ここでは機械はより高度な仕事を引き受け、人間がその下で単純労働に従事するという構図である。これはなかなか恐ろしい構図だと思う。考えてみれば、AIに奪われる仕事というのは単純労働とは限らない。むしろ、高度な判断業務かもしれない。

そういう高度な判断業務は、会社にあっては例えば「人事評価」かもしれない。これはサラリーマンにとって一番不満のタネになりそうなものであるが、AIに置き換えられたら「実績より人柄」などという世界は通用せず、容赦のない実力評価がバシバシ下されるかもしれない。もっとも逆にその方が文句が出ることがなくなるかもしれない。また、人事でいけば採用もAIが行うようになるかもしれない。あらゆるファクターを考慮して採用判断され、さわやかだけが取り柄の好青年は不利になるかもしれない。

さらに進めば経営判断もAIが行うようになるかもしれない。CEOがAIとなれば、機械が人間の役に立つのか、人間が機械の役に立つのかわからなくなる。そうなると、巨額の役員報酬を得るのは優れた経営者ではなく、そのAIを作る会社ということにになるのかもしれない(その会社のCEOもAIかもしれない)。人間が機械の下で、公平な人事評価を受けて働く世界。そんな未来像を想像してみると、その先にはどんな世界があるのだろうかと思う。

例えば、映画でいけばその先にある未来は『ターミネーター』型ではなく、『マトリックス』型に思える。『ターミネーター』の世界は、高度に発達した防御システム「スカイネット」が地球の存続にとって害をなすのは人間であるとして、人類抹殺のために動き出すというものであった。『マトリックス』の世界は、コンピューターが人間を完全に管理し、人間はカプセルの中で寝かされ、意識だけコンピューターが創り出した仮想世界で生きているというものであった。抹殺されないだけマシかもしれないが、どちらの未来像も現実化してほしくはない。

そんな未来に自分が生きることになるとしたら、やっぱり思うのはただこき使われるだけの社員にはなりたくないということである。それは誰しもそう思うだろう。それにはまず、日頃から「考えないで仕事をする」のは回避しないといけないと改めて思う。指示されたことを指示された通りにやるだけでは何の工夫もないし、それなら機械が指示を出しても結果を機械的に判断できるから、機械に管理させればいいとなるかもしれない。

そこで一工夫できる人間であれば、重宝されるであろう。私の常日頃信奉する「創意工夫」である。
「下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そうしたら誰も君を下足番にしておかぬ(小林一三)」
言われた事だけしかできない社員は、AI上司が登場したらたちまち機械に管理される人間になってしまうのであろう。

科学の発達は、人類の幸福に貢献すべきものだとは思うが、核兵器の例もあって必ずしもそうとは言い切れない。AIの進化が、果たして人間の幸福につながるのだろうかと考えてみるが、答えはわからない。AIの上司であっても、人間の理不尽な、ゴマスリだけで昇進したような無能力上司よりははるかにマシだとも言うこともできる。そんな来るべき未来に自分が労働者として参加していられるかどうかはわからない。もしかしたらギリギリで「逃げ切り世代」になるかもしれない。でも子供たちには関わることだし、無関心ではいたくない。

AI上司の方がひょっとしたらいいのかもしれないが、私の今の感覚だとやっぱりそこは機械には負けたくない気がする。合理的判断だけでは割り切れない機微の世界、機械には及ばない創意工夫の世界、それを持って余人ならぬ余AIに替えられぬサラリーマンとして評価されたいものである。AIであろうが人間であろうが、どちらにせよ「使われるよりも使う方」に回れるように意識していたいと思うのである・・・





【本日の読書】
 「不思議な会社」に不思議なんてない―――建設業をサービス業に変えて急成長! - 荒木恭司 世界史を変えた詐欺師たち (文春新書) - 東谷 暁






2018年10月8日月曜日

JALの不当解雇問題に思うこと

職場の帰り道、たまに駅前でJALの不当解雇を訴えるビラ配りに遭遇する。また、先日は知人が参加したコーラスの会場で、やっぱりJALの(パイロットと客室乗務員の)不当解雇を訴える人たちがいたと聞いた。どうやらあちこちで活動を続けているようである。また、ちょっとググってみてもホームページが開設されており、その主張するところもよくわかる。ただ、個人的にはこの訴えには違和感を禁じ得ない。

そもそもであるが、「不当解雇」というのは、まったくの会社都合で、例えば特定個人を「気に入らない」というような理由で解雇するようなケースではないかと思えてしまう。そんなことで解雇されていたら堪らないので保護されるべきなのは当然であろう。しかし、会社が倒産したら社員は当然路頭に迷うのものであり、それをもって「不当解雇」とは言わない。また民事再生などの法的な再生においても、「経営上の必要性」が認められれば解雇が認められることになっているのも頷ける。

日本の法律では、雇用はかなり守られており、会社もやたらに解雇はできない。しかし、会社の存続が危ぶまれるようなケースでは解雇も認められるのである。解雇される個々人の利益と、解雇によって存続する会社(と雇用が継続される社員)の利益とを比較衡量すればやむを得ないという判断であろう。それは解雇される立場からすれば許されざることだろうが、「全体の利益」という観点からすれば真っ当な判断である。

JALのケースも上記のケースである。放漫経営からJALが会社更生法の適用を受けたのは2010年で、もう8年も前のことである。会社存続のため、大幅な債権カットが行われ、あわせて人員整理が行われたわけである。債権カットは所詮銀行だから世間の同情は集まらないだろうが、人員整理については当人たちにとってはまことに気の毒なことである。ただ、「倒産させて全員を解雇する」のと「存続させて一部の雇用を守る」のとどちらを選ぶかで、後者が選択されたわけである。

解雇された人は気の毒であるものの、それは全体の利益を優先させたやむなき判断で、当然ながらそれを「不当解雇」とは言わない。問題になるとすれば、解雇の基準であろうが、「高齢と病歴」というのもやむを得ないと思う。若い人の方が概して生活は大変だろうし、高齢の人は定年までより近いし、「それまでたくさんもらったでしょう」という感情も働く。病歴だって「顧客の安全」ということを考えればやむを得まい。どんな基準を設けたところで、解雇される人からは不満が出るだろうし、そう考えるとこの基準に問題があるというより、「よりマシな基準」を選んだ結果だと言えるだろう。

それにそもそもの考え方が私には受け入れられない。日本では労働者は守られているが、それに甘えてはいけないと私は常々考えている。いつ会社が倒産するかわからないし、解雇されるかもわからない。そういう気持ちで己自身を鍛えていないといけないと思う。「大企業に入ったら後はつつがなく過ごしてそこそこの給料をもらっていればいい」という「ブラ下がり社員」にはなりたくない。明日首だと言われても次の日から別の会社で生きていける心構えで働くべきだろう。「解雇できるならしてみろ」という気概を持って会社に貢献していれば、「残ってくれ」と言われる社員になれるだろうと思う。

不当解雇を訴える元パイロットや客室乗務員たちは、「ただ言われた通り飛んでいただけ」という気持ちもあるだろう。実際、経営破綻した責任は過去の経営者たちにあるのだろうが、だから無罪放免とはいかない。責任はなくても仕事と給料は消えてしまったのだから、他で生きて行く道を探すしかない。不当解雇と訴えている暇があったら、他で働けばいいだけである。パイロットがやりたいなら全世界の航空会社で雇用を探せばいいのだし、そういう働き口がないなら諦めて別の道を探すしかない。私だったら、たとえコンビニのアルバイトしかなかったとしても、働く手段を見つける方に労力を使うだろう。

JAL以外にも外資系の企業からクビにされたと不当解雇を訴える人たちを見たことはあるが、同じである。言いたいことはいろいろとあるのだろうが、会社側から「いらない」と判断されたのなら、私であれば笑って「あばよ」と言うだろう。「いらない」と言われた会社の足に「クビにしないで!」とすがりつく真似は、私には頼まれてもできない。そういう気概は自分自身常に持っていたいと思う。

私などの吹けば飛ぶような中小企業に勤務している身としては、会社が倒産すれば民事再生もクソもなく、一発で倒産であろう。そういう意味では会社とは運命共同体であり、会社を支えることは自分を支えることでもある。JALのような守られた大企業とは根本的には大違いであり、覚悟が違うと言えるのかもしれない(まぁもっとも私自身、大銀行に勤務していた時代からそういう覚悟は持っていたけど・・・)。世の中で生きて行くメンタリティが甘いとしか言えない。したがって「不当解雇」を訴える声を聞いても同情心はかけらも湧いてこない。

人は人、自分は自分。人のことより大事なのは明日の会社の存続。それは己自身の未来でもあるし、高い気概を持って明日も働こうと改めて思うのである・・・




【今週の読書】
 ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望 - トーマス・ラッポルト, 赤坂桃子 SOLO TIME (ソロタイム)「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略である (夜間飛行) - 名越康文, 伊藤美樹





2018年10月3日水曜日

論語雑感 八佾第三(その11)

【原文】          
或問禘之説、子曰、不知也。知其説者之於天下也、其如示諸斯乎。指其掌。
【読み下し】
或(ある)るひと禘(てい)の説(せつ)を問(と)う。子(し)曰(のたま)わく、知(し)らざるなり。其(そ)の説(せつ)を知(し)る者(もの)の天下(てんか)に於(お)けるや、其(そ)れ諸(これ)を斯(ここ)に示(み)るが如(ごと)きかと。其(そ)の掌(たなこごろ)を指(ゆびさ)す。
【訳】
或る人が帝祭の内容を質問した。孔子は、「私は知りません。もしそれを知っている人がいたら、天下をここに乗せて見るようなものでしょう」と云って掌(てのひら)を指差した。
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この時代、皇帝には独特の祭事があったようで、しかもその内容は一般には秘されていたようである。そしてその内容を知ることが、皇帝としての権威の一つであったのだろう。日本でも皇室の行事について、一般の人はほとんど知らないだろうし(別に皇室の行事は秘密ではないかもしれないが・・・)、どこの国のどこの時代でもそういう独自のものがあるものなのかもしれない。

考えてみると、「祭り事」については、それこそがすなわち「政(まつりごと)」という言葉でもあることを鑑みると、昔は「祭る」ことが(神様から国を治めることを認められたという)権力の正当性の証だったのかもしれない。そうであるならば、それは政権の秘密として厳重に守られていたであろうから、孔子といえどもその内容を知らなくて当然なのだろう。それに対し孔子も知ったかぶりをすることなく、素直に「知らない」と答えている。

「秘密」には、知っているかいないかで、ある種の優越性が生じる。秘密とは甘美な香りがするもので、人が知らないことを知っているというのは、誠に心くすぐられるものがある。そして「知っている」ことが権威に結びつくこともある。それは例えば会社なんかでもそうであり、会社の上層部の考え方や動きを知っていることが、上司の権威を支えていたりすることもある。

私も小さい会社とはいえ、一応役員であるから、一般社員に比べるとある程度経営事情に通じている。会社の方針なんかについては立案そのものに携わっていたりするから、なおさらである。ただ、私の場合、それを秘していていざという時に見せびらかすようなことはしない。むしろそういう情報は積極的にオープンにしている。会社の決算状況から始まり、その期の方針だったり、その時々において役員会議で議論されていることだったりである。そうした情報をオープンにすることにより、「権威」よりむしろ「モチベーションアップ」に比重を置いているのである。

人によっては会社のそうした情報には興味なんてないのかもしれない。当然、聞いていてもスルーしている人もいるだろう。それはそれで構わないし、興味のある人に伝えるだけでいいと思っている。その理由としては、自分がやっている仕事、目先の指示された仕事に対し、盲目的に従うよりも基本的な会社の方針がわかっていて、だからそれがこの指示につながっているのだとわかる方が仕事の成果としての質が上がると思うからである。

振り返ってみると、自分自身が盲目的に従うことについて反発心を持っていることが根底にはある。意味のないことをするのは嫌だし、だからよくわからない指示をされたりするとその理由を聞きたいし、指示された内容についてもっといいやり方があると思えばそれを提案せずにはいられない。考えずに動くということが嫌いだというのがある。だから「言われたことだけやる」のは嫌いだし、人にもそれを求めてしまうのかもしれない。

概ねサラリーマンと言えば、仕事帰りに赤ちょうちんで一杯やりながら仕事の愚痴をこぼすのが相場と言われているが、その背景にはこうした「情報不足」があるような気がする。自分の考えとは相いれない指示を受けた時、上司の置かれた立場や情報からすれば当然そういう指示になるということがあるだろう。知らないからこそ、「おかしい」となるわけで、それが愚痴になっていることも大いにあるだろう。

「今、会社はこういう状況にあって、よってこういうことに力をいれていかないといけないわけで、だからあなたにはこの仕事をしてもらいたい」という流れの中で指示を受ければ、誰でも納得するのではないかという気がするし、言われなくともそのくらい考えてわからなければ上司に聞くぐらいなのが「できるサラリーマン」ではないかと思う。我が社ではそこまでの自主性は期待できないが、そう思うからこそせめてこちらから手の内を見せるのである。

孔子の真意はともかく、現代に生きる我々について言えば、否、我が社について言えば、「もしそれを知っている人がいたら、会社の経営をここに乗せて見るようなものでしょう」などとは言われないようにしたいと思うし、むしろみんなが知っているようにしたいと思う。自分のやっている仕事が会社全体にどう生きているのか。みんな分かって働くのがいい結果につながると思う。
 そんなわけで、個人はともかくとして、会社の経営はなるべく透明な方がいいと思うのである・・・




【本日の読書】
 ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望 - トーマス・ラッポルト, 赤坂桃子 みかづき (集英社文庫) - 森絵都