2025年3月8日土曜日

論語雑感 泰伯第八 (その19)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、大哉、堯之爲君也。巍巍乎、唯天爲大。唯堯則之。蕩蕩乎、民無能名焉。巍巍乎、其有成功也。煥乎、其有文章。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、大(だい)なるかな、堯(ぎょう)の君(きみ)たるや。巍巍乎(ぎぎこ)として、唯(た)だ天(てん)を大(だい)なりと為(な)し、唯(た)だ堯(ぎょう)のみ之(これ)に則(のっと)る。蕩蕩(とうとう)乎(こ)として、民(たみ)能(よ)く名(な)づくること無(な)し。巍巍乎(ぎぎこ)として、其(そ)れ成功(せいこう)有(あ)り。煥(かん)乎(こ)として、其(そ)れ文(ぶん)章(しょう)有(あ)り。【訳】
先師がいわれた。「堯帝の君徳はなんと大きく、なんと荘厳なことであろう。世に真に偉大なものは天のみであるが、ひとり堯帝は天とその偉大さをともにしている。その徳の広大無辺さはなんと形容してよいかわからない。人はただその功業の荘厳さと文物制度の燦然さんぜんたるとに眼を見はるのみである」
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 孔子はしばしば過去の君子を褒めたたえる。しかし、それがどんな様子だったのかまでは明らかにされていないので、何がどれほど素晴らしかったのかわからない。「大きく荘厳な君徳」とはいったいどんな君主だったのかと興味深い。そもそも名君の条件とは何であろうか。前回も同様の話であったが、世の君主は誰もいい点と悪い点があり、無条件で名君とは決めかねるように思う。ある人にとっていい施策が別の人には不利益である事も珍しくないだろう。名君の条件とは何であろうか。現代に置き換えれば、さしずめ「良い政治家とは」という事になるのだろうか。

 先日、就活の学生に何気なく「日本の総理大臣は誰だか知っている?」と聞いたところ、驚いたことに答えられなかった。家に帰って恐る恐る息子に同じ質問をしたところ、「石破茂」と、なんでそんな当たり前の事を聞くのかと言いたげな怪訝な顔をして答えてくれた。ちょっと安堵したが、知らない方が悪いのか、知られていない方が悪いのか、微妙なところであるが、どちらにしろ日本の総理大臣は、日頃何をしているかよくわからないし、我々の生活に直接の影響を及ぼしているように思われないせいかもしれない。

 戦後の日本の総理大臣は何人もいるが、メジャーなところでは、吉田茂、岸伸介、佐藤栄作、田中角栄、中曽根康弘、小泉純一郎、安倍晋三といったところが挙げられる。みなそれぞれに功績があり、優れた宰相だとは思うが「名君」かと聞かれると答えに窮してしまう。そもそも「名君」の条件がよくわからないし、表に現れない人となりもわからない。ただ、日本のトップの地位に上り詰めたわけであるから、それなりに優れた人物であることは間違いない。民主主義のリーダーは独裁者ではないから、すべて1人で決めるわけでもない。名君かどうかはよくわからない。

 歴代の総理大臣の中には、女性問題でわずか3か月ほどで辞任せざるをえなかった人もいる。小沢一郎のように力があっても総理大臣になれなかった人と比べてどうなのかと思う。総理大臣がすべてではないが、「名君」を考えるなら総理大臣の立場にあった事が必要になるだろう。それにしても総理大臣になった時には得意絶頂だっただろうに、わずか3か月で辞任せざるをえなかった心境はいかばかりだっただろう。「英雄色を好む」ではないが、みんなそれぞれにそういう相手はいただろうにと思う。

 名君と言っても、人間である以上、完全無欠で非の打ちどころのない人物などいないだろう。であれば、女性問題くらいどうという事もないように思うが、「男には2種類しかいない。浮気をする男とそれがバレる男」(ドラマ『夫婦の世界』)という言葉を鑑みれば、バレる時点でダメとも言える。芸能人なら袋叩きにされる問題であるが、「名君」の条件はやはり政策面であるだろうし、浮気の有無は「する、しない」ではなく、「バレる、バレない」であるのだろう。

 政策面も後から評価されるという事もある。田中角栄など、金権政治で最後はロッキード問題で批判一色になったが、後に復権ともいうべき再評価がされている。安部総理も批判勢力がすごかったが、歴代最長の在任期間に現れているように、特に外交面で優れた実績があったと思う。想像でしかないが、総理大臣にまで登り詰めた人であれば、あと求めるのは名誉だけだろうから、善政を敷いて「名君」の評価を得られるようにするのではないかと思える。結果はともかく、みんなそれなりにいい政治を心掛けるのではないかと思える。

 現代の名君とはどんな政治家になるのであろうか。名君であるかどうかはともかく、みんなそういう名君を目指してほしいと思うのである・・・

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【本日の読書】

世界は経営でできている  傲慢と善良 (朝日文庫) - 辻村 深月






2025年3月2日日曜日

結局は「意識」の違いなのだろう

 人はみなそれぞれの考え方をもっていて、それに従って行動する。必ずしも同じように行動するのではなく、同じ現象を前にしても人によって違う。当たり前ではあるが、自分では当然のようにやる行動を同じ立場の人ができない、やらないと違和感を禁じ得ない。どうしてそうなのか。人によって考え方や行動が違うのは当たり前ではあるが、なぜそうなのかとよくよく考えてみれば不思議である。部下に仕事をやらせるにしても、同僚のTとはそのやり方が私とは違う。

 業務でとある社員の残業時間が月の上限の45時間を超過した。会社は従業員といわゆる「三六協定」を結んでいて、月間の上限を45時間としている。もちろん、一か月だけ超えたからといって直ちに問題となるわけではない。ただ、それが続くと問題になりうるものであり、管理者としては現状を把握し、場合によっては対策を指示しなければならない。Tがその対応について社長に問われていた。Tの答えは「部下(の管理職)に任せてある(のですぐには答えられない)」というものであった。

 当然、社長としてはその答えに納得はできない。当然ながらすぐに確認しろという事になった。私であればそもそも社長に言われる前に確認していただろう。一応、総務担当役員として全社員の残業については確認しているが、総務でなくても自分の部署の社員については確認するのが当然であり、言われなくてもやるのが当然な事である。認識が甘いと言えばその通り。おそらく、「サービス残業が当たり前」の「社会人昭和デビュー世代」の感覚が邪魔をしているのかもしれない。

 考え方の基には興味・関心の違いもあるのかもしれない。本業の責任者であるがゆえに業績推進の方に関心が行っていて、残業管理に対する関心が薄いのかもしれない(それではいけないのだけれど)。役員ともなれば幅広く目を向けなければならないわけであり、それは言われてやるものではなく、自ら関心を持ってやるものである。ただ、Tにはそこまで考えが及ばないのであろう。そういう関心の有る無しはどこからくるのだろうかと思うも、それはなかなかわかりにくいものである。

 週末、私はシニアのラグビーチームで汗を流している。練習時間は基本的に2時間であるが、私はたいてい、その前後30分くらいを自主練に当てている。本当はもっとやりたいのであるが、借りているグラウンドの時間の都合上の制約があってそれくらいしかできない。ただ、そういう自主練をやっているのはほぼ私1人で、みんなは全体練習だけである。自主練は個人的に強化したいところをやるのであるが、私の感覚では「もっと上手くなりたい」と思えば自然とそういう行動に出ると思うのだが、みんなにはそこまでの気持ちはないのだろう。

 趣味でさえそうなのだから、仕事となればもっと関心が低くなるのもやむを得ないのかもしれない。結局のところ、「どこまで気がつくか」の問題であり、それは興味関心の領域に入るものであり、それはとどのつまり、その事に関して「どれだけ気持ちが入っているか」になるのではないかと思う。学校の勉強ができなくても、ゲームなら得意という子供は五万といるだろう。それは学校の勉強よりもゲームの方が面白いからであり、「気持ちが入る」からのめり込む(だから得意になる)。

 この週末、『BLUE GIANT』という映画を観た。主人公は世界一のサックス奏者になる事を夢見る高校生。ジャズに魅せられ、自らサックスをやりたいと思い、毎日毎日地元仙台の河原で練習する。「一念岩をも通す」という諺があるが、人間そこまで入れ込んで夢中になると、自然と実力もついてくる。それは一般的に「才能」と呼ばれるものの正体であるが、そこまでやると、他の人には見えないものも見えてくるのかもしれない。「好きこそ物の上手なれ」という諺も同様である。

 人の事はとやかくいうものではないが、同僚のTを見ていると、一方で自分のやる事も見えてくる。Tは私にとって「他山の石」的な存在とも言える。住宅ローンを払い終え、年金をもらい始める70歳までは今の地位と給料を維持したい(と言うよりもっと上げたい)と思うが、それには実績も示さないといけない。人はともかく、自分は頑張らないといけない。仕事も趣味もやるならきっちりとやりたい。そういう心意気を維持したいと思うのである・・・

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【本日の読書】
「悩まない人」の考え方 ── 1日1つインストールする一生悩まない最強スキル30 - 木下勝寿 傲慢と善良 (朝日文庫) - 辻村 深月







2025年2月27日木曜日

紛争は終わるのか

 戦火の飛び交っていたガザ地区で停戦が実現し、ウクライナでも停戦の動きが出てきた。停戦の条件を巡っては当事者間でいろいろと思惑があるのかもしれないが、殺し合いが止まるという事はなによりも好ましいと思う。ガザでは世間的にはパレスチナ寄りの意見が多数であるように思う。ウクライナ戦争ではロシアよりもウクライナに対して同情的である。しかしながら、喧嘩には双方に理由があるものであり、どちらか一方にのみ肩入れするのはどうかと思う。トランプ大統領の誕生はいろいろと物議をかもしているが、停戦の気配が出てきたのはトランプ大統領の功績に間違いはないと思う。

 良し悪し別としていきなりプーチン大統領にコンタクトを取ったのは正解だったのだろう。もともとアメリカがロシアを追い込んだと思っているし、アメリカの支援で戦争が継続しているわけであり、そのアメリカがロシアに歩み寄れば停戦の話が出てくるのも当然だろう。これに対し、ウクライナが頭越しの交渉を批判するのもよくわかるし、ヨーロッパがアメリカが単独で動く事を警戒するのもよくわかる。要は「どこに視点を置くか」であるが、「停戦」というところに視点を置くなら、トランプ大統領の行動は正解だと言える。

 視点を「停戦の条件」に置くなら、ロシアに歩み寄る事はロシアに有利な停戦条件になる可能性があり、当事者のウクライナをはじめとして不満に思うところは多いだろう。あえて侵略に打って出たロシアの行動を正当化するものであり、今後の影響を考えたならまずいのかもしれない。1名でも多く救う事を考えて「停戦第一」に考えるか、今後の影響を考えここまで来たのだからさらなる死傷者が増えようと好ましい「停戦条件第一」に考えるか、どちらもそれなりに筋は通っており、あとは「考え方」次第であると思う。

 ガザの停戦も好ましい事だとは思う。世の中は「イスラエル=悪」に傾いているように思うが、そもそもの発端はハマスの暴挙であり、市民約1,200人を殺害し、240人以上を人質とした行動はどんな理屈をもってしても正当化はできないだろう。これに対するイスラエルの反撃により、パレスチナ市民4万人以上が亡くなっていて、イスラエルに囂々たる非難が寄せられているが、一方でハマスに対し、「直ちに人質を全員解放せよ」という声が聞こえてこないのはどういうわけかと思う。

 少し前に『ハマスの実像』という本を読んだが、これはハマスを取材して行くうちにハマスにシンパシーを感じてしまったジャーナリストの一方的なハマス寄りの偏った立場から書かれているものである。そもそもであるが、自らの要求を通すために武力でもってなそうというところが既に間違っている。それも私の個人的な考え方であるが、やはり武力ではなく平和裏に交渉によって勝ち取るべきものだと思う。「天井のない牢獄」と称されるイスラエルのガザへの圧力は確かにひどいのかもしれないが、それはハマスの武装闘争方針がもたらしているものと言える。

 ハマスもイスラエルが反撃する、そしてそれによって市民に死傷者が多数出るとわかっていてなぜ武力で攻撃を仕掛けるのだろうか。自らの信念を通すためなら自分たちの同胞に被害が出ても構わないと考えるのはなぜなのだろうか。『ハマスの実像』の著者はハマスこそがパレスチナの代表だとするが、本当にパレスチナの市民はハマスを自らの代表だと思っているのだろうか。もしそうだとすれば、自分たちに被害が出てもそれはそれで仕方がない、それにも増してイスラエル憎しの感情が上回っているという事になる。そしてそうだとすれば、「被害覚悟の闘争」と言える。

 被害覚悟の闘争であるなら、イスラエルのみを非難するのはやはり間違っていると思わざるを得ない。個人的にはパレスチナの人には非武装闘争をしてほしいと思う。すべての武器を捨ててガンジーのような非暴力の抵抗に出るなら、国際世論はパレスチナの方に傾くと思う。イスラエルも硬直的な態度を改めないといけなくなるし、その方が遥かにパレスチナ問題の解決に近づくと思う。そうした考えがパレスチナの人々の間に生まれてくるのは、まだまだ時間がかかるのだろうか。

 世の中話し合いだけですべて解決できるほど人間は人間ができているとは言い難い。しかしながら殺し合いよりは時間がかかっても話し合いで解決するスタンスは捨てて欲しくないと思う。我が国の近隣にもきな臭い煙が漂っているが、何とか賢明なる解決策を後世に残してほしいと思うのである・・・

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【本日の読書】
「悩まない人」の考え方 ── 1日1つインストールする一生悩まない最強スキル30 - 木下勝寿 刑事捜査の最前線 (講談社+α新書) - 甲斐竜一朗





2025年2月24日月曜日

論語雑感 泰伯第八 (その18)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】
子曰、巍巍乎、舜禹之有天下也、而不與焉。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、巍巍乎(ぎぎこ)たり、舜(しゅん)・禹(う)の天(てん)下(か)を有(たも)つや、而(しこう)して与(あずか)らず。
【訳】
先師がいわれた。「何という荘厳さだろう、舜帝と禹王が天下を治められたすがたは。しかも両者ともに政治にはなんのかかわりもないかのようにしていられたのだ」
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過去の統治者についての評価は難しいと思う。
「昔は良かった」とはしばしば聞かれる言葉であるが、私自身は実はこう思ったことがない。いろいろと問題はあるが、世の中は進歩していて、「今の方がいい」と考えているからである。孔子はしかし、古の政治を褒め称えている。「舜帝と禹王が天下を治められた」時代というのは、伝説の夏王朝の時代のようであるが、本当に孔子の言う通り優れた治世だったのかは極めて疑問であると思う。それは「世の中は常に進歩して良くなっていくもの」というのが、私の基本的な考え方でもあるからである。

たとえば、映画『三丁目の夕日』は非常に感動的ないい映画で、私のお気に入りの映画の一つでもある。この正月に一気に3作観て感動を新たにしたが、ここで描かれている昭和30年代と比べたらどうか。映画では貧しくとも人の人情あふれた時代として登場人物たちの様子が描かれる。テレビ一つでみんなが幸せな気持ちになれたのも事実だろう。しかし、時代としてはスマホ一つとってもいろいろなことが可能だし、海外旅行にも自由に気軽に行けるし、現代の方が比較にならないくらいいい時代である。

ちょっと前の時代を舞台にした映画では、登場人物たちは所構わずタバコに火をつける。非喫煙者にとっては煙たい時代だったと思うが、今は禁煙環境がスタンダードであり、喫煙者である私も今の環境の方がいい。セクハラ、パワハラといった事が問題になり、昔は我慢するしかなかった事が、今は我慢しなくてもいい。サービス残業も私の身の回りでは死後になりつつある。働くなら私が社会人デビューした昭和の終わりよりも、今の方が圧倒的にいい。

もっとも、現代と昔とでは時間の流れ、時代の変化が違うということもある。伝説の夏王朝の時代と孔子の時代とでは、ほとんど差はなかったのではないかと思う。現代では10年でも大きな差が出たりする。夏王朝もほとんど同時代の感覚だったかもしれない。それであれば、ただノスタルジーで古き良き時代の施政者を崇めているのではなく、同時代感覚で善政を評価していたのかもしれない。しかし、それでも両手を挙げて褒め称える前に意識すべき事もあると思う。

それはどんなに優れた統治者(政治家)であっても、いい部分と悪い部分があるという事。トランプ大統領にもプーチン大統領にも善政と悪政とがあるだろう。イメージだけでどちらか一方に決めてしまうのは、正しい評価スタイルとは言えまい。舜帝と禹王もそうであったと思うが、後世にはすべて伝わるものではないし、孔子には悪政の部分はわからなかったのだろうと思う。それゆえに、いい部分だけを見て舜帝と禹王の統治に荘厳さを感じたのかもしれない。

人には誰でもいい部分と悪い部分がある。お茶の間の人気者が実は不倫していましたとバッシングされるのは珍しいことではないし、爽やかなイメージの裏で実はそれに反した事をしていても不思議ではない。何よりも人間なのであるから、そういう部分を含めて人を判断しないといけない。もっとも、そうは言ってもその人のすべてがわかるわけではない。どうしても外からは窺い知れないその人の裏面はあるだろう。そこがわからなければ評価できないのか、とするとそれもまた窮屈であるし、それはそれとして「◯◯の部分だけは素晴らしい」とすればいいと思う。

きっと孔子もそんな事を踏まえた上で、舜帝と禹王の統治に荘厳さを感じたのかもしれない。「わからない部分があるから評価しない」とするのも味気ないし、「見えないところに尊敬できない部分があるとしても、それはそれとして」「◯◯は素晴らしい」と評価する方がいいと思う。そういう考え方で、人を評価したいと思うのである・・・


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【今週の読書】

ユニクロ - 杉本 貴司  イスラエル戦争の嘘 第三次世界大戦を回避せよ (中公新書ラクレ) - 手嶋龍一, 佐藤優  トヨトミの世襲~小説・巨大自動車企業~ - 梶山三郎





2025年2月21日金曜日

どうしたらできるだろうか

「どうしたらできるだろうか」という発想は、何かを成し遂げようとする場合にとても大事だと思う。私は仕事でもスポーツでも事を成すには「意識」「熱意」「創意工夫」の3つが必要だという信念を持っている。このうちの「創意工夫」にあたるのが、「どうしたらできるだろうか」という発想である。実に簡単であると思うが、できない人にはとことん難しい事のようである。そもそも「無理」と考える「意識」の問題もあるかもしれない。だから何よりもまず「意識」がないとダメなのであるが、意識だけでもダメである。「創意工夫」とそれを支える「熱意」がないと難しい。

初めてこの言葉を使うようになったのは、銀行員時代に初めて部下を持った時である。銀行員とは結構忙しい種族で、当時当たり前のように山のような仕事を抱えていた。私の部下はそれを目の前にし、「こんなにできるわけありません」と言い、毎日のように「人を増やさないとできるわけありません」と訴えてきた。それに対し、私は毎回「どうしたらできるかを考えろ」と答えていたのである。結局、新米上司の私に部下の行動を変えられるわけがなく、しびれを切らした支店長が優秀な男(しかもその部下の同期)を連れてきて交代させてしまった(そして仕事はスムーズに回るようになった)。

考えてみれば、私も「どうしたら部下の考え方を変えられるか」を考えれば良かったのであるが、そこまではできなかったのである。それ以来、「どうしたらできるだろうか」と考えるのは私にとって当たり前の思考になっていったのであるが、誰もがそう考えられるわけではないのだという事をその後も幾度も経験している。「どうしたらできるだろうか」と考える以前に「無理だ」「できない」という意識が働くのであろうか、考える以前で止まってしまうようなのである(だから「意識」がまたしても大事なのである)。

先日の事、とある案件の入札があった。私としては是非取りたいと思い、現場の担当者に相談を持ちかけた。もちろん、現場担当取締役にもである。ところが、しばらく検討してもらって出てきた回答が「リスクが高い」「採算が合わない」という否定的な意見であった。採算なら合うようにすればいいと私は考えるが、説明を聞いて感じたのは、「否定から入っている」という感覚であった。たぶん、「無理してまでやりたくない」という意識があったのだろう。私と現場との間では温度差があったのは間違いない。

否定から入っているから「できない理由」を探す。あるいはちょっとでも不安な要素を探す、目につく。今の仕事で充分だから何も無理して手間暇のかかる入札などに手を出す必要などないではないかという意識がおそらく働いている。しかし、経営の観点からすれば、今の仕事だけで満足していては、いずれ環境変化の中で淘汰されるかもしれず、事業の幅を広げておきたいという考えがある。そういう中での一つのチャンスであり、積極的にチャレンジしたいところである。リスクを無視しろというつもりはないが、「リスクがあるからやめる」ではなく、「取れるリスクは取る」というスタンスで臨みたいところである。

そこで必要なのが、「どうしたらできるか」という考えである。人の手配であれば、自社だけでなく外部の協力企業に頼む手もあるし、それは直接だけではなく他のプロジェクトから抜くのであればそこへの補充という間接的な方法もある。難しい仕事でなければ他の業務から抜いても影響の少ない新人を抜いて充てるという方法もある。コストは抑える考えも大事だが、相手からの要望にプラスアルファの提案を加えて価格に転嫁するという発想もある。それでも最終的にできないとなるなら、その理由は何なのか、どうしたらその理由を(次回は)克服できるのかを考えたい。

結局のところ、「創意工夫」は「意識」と「熱意」があってはじめて出てくるものなのかもしれない。一方、「どうしたらできるだろうか」という「創意工夫」の発想があって、そこから「意識」と「熱意」につながるものなのかもしれない。どうしても結論としてその「三位一体」があるかないかになってしまうのであるが、その「三位一体」も私の場合は「創意工夫」の考え方から辿り着いたように思う。まずは何事も「できない」と結論づけるまえに「どうしたらできるだろうか」と考えてみたいものである。

「断ったらプロではない」という言葉が好きであるが、「どうしたらできるだろうか」と常に考え続けたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
イスラエル戦争の嘘 第三次世界大戦を回避せよ (中公新書ラクレ) - 手嶋龍一, 佐藤優  トヨトミの世襲~小説・巨大自動車企業~ - 梶山三郎




2025年2月17日月曜日

『人間の証明』を読んで

人間の証明 勾留226日と私の生存権について - 角川歴彦

角川歴彦氏の『人間の証明 勾留226日と私の生存権について』を読んだ。あまり関心がなく、ほとんど知らなかったのだが、著者は元KADOKAWAの会長であり、会長時代に五輪汚職をめぐる贈収賄容疑で逮捕され226日間を拘置所で過ごしたという。それは誤認逮捕であり、氏は無実を訴えるが、その拘置所での扱いが人権を無視した「人質司法」であり、その理不尽を訴えたのが本書である。

そう言えば、不動産会社プレサンスコーポレーションの創業社長も無実の罪で逮捕され勾留された経験を綴った『負けへんで! 東証一部上場企業社長vs地検特捜部』(読書日記№1453) を出していて読んだが、どちらも勾留中の理不尽な扱いに怒りを込めて体験記を綴ったものになっている。一般の感覚では罪を犯していなければ逮捕されることもないのであるが、著者のように思いもかけないところから逮捕されるという事もあり得なくはない。そういう私も検察に任意で呼ばれて事情聴取を受けた経験がある。

それは前職時代の事、取引先である上場企業が金融商品取引法違反で罪に問われ、そのとばっちりを受けたのである。簡単に言えば粉飾決算だったのであるが、我が社もグルだと疑われたのである。取り調べで社長は20回以上も任意調査に呼ばれ、時に罵声まで浴びたらしい。取り調べは役職員にも及び、私も計2回呼び出された。我々には身に覚えのないことであり、特に不安には思わなかったが、身元調査では自分の預貯金の額まで書かされた。不安には思わなくとも、同じ事実でも見方によっては違う印象を与えるものであり、検事の尋問にはそういう危険性は感じたのである。

そういう経験があるので、なんとなく著者の取り調べの様子も実感を持って想像できるところがあった(もっとも「被疑者」と「参考人」ではだいぶ圧力も違うだろうが・・・)。世の中では時折冤罪事件が話題になるが、それもまんざらわからなくもない。当時、社長は完全にグルだという前提で、時に検事から怒鳴られたりしたそうである。最終的には起訴に至らずに終わったが、気の弱い社長は体調も崩し、だいぶ参ったようである。検察としては罪に問うためには自供を得て裁判に必要な証拠を揃えなければならないため、必死だったのだろう。

実際に罪を犯していても、裁判で有罪にするにはきちんとした証拠を揃えて罪を立証しないといけない。裁判には「疑わしきは罰せず」の原則があるから、そこは厳密に要求される。その苦労はわからなくもないが、問題は疑われる方が無実だった場合である。「無実であれば心配することはない」という事でもなく、事実、著者は持病を抱え、体調悪化を恐れて早期の保釈を認めてもらうために、意に反していくつかの主張を諦めたそうである。それが裁判にどの程度の影響があるのかはわからないが、せめて有罪が確定するまでは「犯人扱い」のような事は避けるべきであろう。

何事も一方的に判断するのは良くない。拘置所側には拘置所側の事情というものがあるだろう。著者が「人質司法」と呼ぶ実体にもそれなりに意味のある事情はあると思う。しかし、持病があって3度倒れ、体重も15キロ落ちるというのはやっぱり問題があるだろう。少なくとも未決勾留の間は「配慮ある対応」が必要だろうと思う。世の一般人にはなかなか知り得ない世界の話は興味深い。興味とともに問題点についても考えさせられた一冊である。当たり前であるが、自分では決して体験したくはないと思うのである・・・

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【本日の読書】
ユニクロ - 杉本 貴司  トヨトミの世襲~小説・巨大自動車企業~ - 梶山三郎







2025年2月13日木曜日

札幌出張

札幌へ出張に行った。私の主担当は財務であるが、人事も担当している。採用も大きなミッションの1つなのである。我が社のような中小企業は、新卒採用ではかなり不利である。知名度は圧倒的に劣り、首都圏の大学では(ゼロというわけではないが)コンスタントな採用はなかなか難しい。勢い、採用は地方中心になる。今回は札幌にある学校を定例訪問し、ついでに内定者との内定式(という名の懇親会)に札幌を訪れたというわけである。時に札幌は雪まつりの真っ最中。インバウンドもあって飛行機とホテルの予約を心配していたが(値段はちょっと高かったが)、何とか確保して札幌入りした次第である。

出張はどうしても効率が悪い。目的(面談)に比して移動時間が多すぎる。今回も先方との面談は約1時間。そのために丸2日間(まぁ、1日は祭日だったので実質1日とも言える)潰れた。仕方がないが、効率云々よりも成果に目を向けるようにするしかない。この時期の面談はさり気なく重要で、2026年の採用戦線への参戦根回しというところがある。それで密かに便宜を図ってくれたりする(例えば会社説明会の日程について優先的に第一希望を通してくれる)のでなおさらである。中小企業はそういう「寝技」も駆使して大手や同業他社に対抗していかないといけないのである。

出張は仕事であって遊びではない。当たり前であるが、以前銀行員時代、「ついでに仕事をする」ために出張する人たちを目の当たりにしていたのでよけいに意識している。その人たちは関連会社に片道切符で出向し、半分銀行員人生を終えたという意識だったからよけいにだったのかもしれないが、「どこに行く?」「何を食べる?」という話ばかりしていた。上に立つ立場の人間がそうだと、下の者はモチベーションが下がる。「ああいう上司になりたくない」というお手本としては良かったかもしれないが、大企業ゆえに遊びの出張費用も問題にはならなかったのだろう。

もちろん、ガチガチのお堅い頭で考えているわけでもない。やる事をきちんとやって、その上で余裕のできた時間で楽しむのは悪くないと思う。今回は、先方の都合でアポは午後も遅い時間になった。午前中に千歳空港に着き、市内に入ったのは昼前。少しゆとりもあったので、ラーメンを食べて雪まつりも見て行こうと考えた。ところが、雪まつりという北海道の観光の目玉ともいう時期。インバウンドと相まって、狙っていた札幌駅近くのラーメン屋は見た事のない長蛇の列。おいしいものは並んで食べるという関西文化に慣らされた私でもさすがに断念した。ラーメンはまたの機会にする事にした。

腹ごしらえだけして向かったのは大通り公園。雪まつり会場となっている場所である。休日の谷間の平日だったためか、覚悟していたほど混んではいない。ニュースで見た事のある雪像がさっそく出迎えてくれる。屋台も出ていて賑やかである。しかし、何か不思議な違和感がある。それは「こんなものなのか」という感覚であった。有名な観光スポットである札幌の時計台は「日本三大がっかり観光地」としても有名であるが、雪まつりにも同じものを感じた。札幌の雪まつりは、青森のねぶた祭り、仙台の七夕祭りと並んで個人的に行ってみたい日本の祭りの1つだったが、「こんなものなのか」であった。

確かに並んでいる雪像の様子はニュースで見た通りなのであったが、イメージはもっと圧倒的に大きなものであったが、実際はそれほど大きくない。もちろん、「北海道庁旧庁舎」などの迫力あるものもあったし、自衛隊の力作もあったが、それはほんの一部。大多数が背丈より少し大きい程度の雪像群で、それはそれでよくできているなと感心したが、そこまでである。何となくそれは近所の神社の夏祭りのような感覚であった。事前の期待が大きすぎたのかもしれない。仕事スタイルで行ったためか、革靴は足元も心もとない。それでもせっかくだからと雪像を1つ1つ見ていたら、見事に滑って転んでしまった。

出張時にはいつも会社と家族に土産を買う。会社はみんなで食べられるお菓子。家族はリクエストに応じるパターンが多い。以前は、「赤いサイロ」やかま栄のかまぼこだったが、今回は「生ノースマン」と「ほたてのスープ」であった。ともに空港で簡単に買えるのがありがたい。「赤いサイロ」は人気が凄くて買うのに苦労したので、簡単に買えるというのは重要なありがたい要素である。それにしてもよく次から次へと見つけてくるなと感心する。アンテナの張り方が違うのだろうが、自分ももう少し各地の名産品に興味を持ってもいいかもしれないと思ってみたりした。

夜は内定者との懇親会。他の企業は内定式なるものをやっているところがあるらしいが、我が社は実施せず。その代わりの懇親会である。4月から東京での新生活を控え、期待に溢れている感じがした。初々しくて好ましい感じを受けたのである。下手に格式ばった内定式よりもいいのではないかとこのスタイルを続けている。春から一緒に働ける事を頼もしく感じた次第である。学生時代、北海道へラグビー部の仲間と旅をした。その時は、最後の夜はすすきので大人の遊びをしたが、さすがに今はもう面倒でまっすぐホテルに帰って映画を観る方を選んだが、この過ごし方も出張時の楽しみの一つになっている。

これから、沖縄、新潟、鹿児島、そして再び札幌と採用活動の出張が続く。ビジネスは結果が大事なので、何より結果を求めたいと思う。「ついでに仕事をする」出張なら行きたくないというのが正直なところ。「成果を挙げたついでに」その土地の食べ物やお土産を買うことを楽しみたいと思う。採用活動に終わりはなく、成果とともにその旅を楽しみたいと思うのである・・・


【本日の読書】
ユニクロ - 杉本 貴司  トヨトミの世襲~小説・巨大自動車企業~ - 梶山三郎



2025年2月9日日曜日

会社目線で判断してほしい

 最近、会社では経営メンバーの育成を図っている。経営も社長1人でやるよりも複数の幹部でやる方がいい。取締役だけでなく、部長レベルまで含めたいと考えてのことである。そしてこの4月から、かねてから部長に昇格予定だった者の昇格について議論した。結論としては「見送り」であった。残念ながら期待値に達していないと。4人の取締役全員一致の結論であった。それぞれ見方は違ったかもしれないが、結論として異論が出なかったので、みんなそれぞれ物足りなさは感じていたのだろう。

私が感じたのは、「会社目線で行動できない」というところであった。以前、「経営者目線で働くということ」というところでも考えた事に似ているかもしれないが、要は「自分の都合でなく、会社の視点から考えられるか」という事である。例えばある仕事を頼まれたとする。個人的にはあまりやりたくない。難しいというところもあるし、できればプレッシャーのある仕事は避けたい。これが普通の「自分目線」である。それが会社目線だとどうなるか。

そこで会社の立場に身を置いて考えられるか。すなわち、その仕事をやる会社としての意義である。十分意義があり、社内を見回しても自分しかいない(あるいは自分に話があるのも無理はない)となれば、嫌だという感情を抑えてやるしかない。そういう判断ができるかというと、彼はまだできない。実際、最近そういう重要な仕事を固辞し、説得に時間がかかってしまった事があったのである。それ以外にも「自分はまだまだ」と後ろに下がるケースが散見されるのである。

よく言えば謙虚であるが、部長職を任せるには謙虚もほどほどでないといけない。会社としてはもう1人部長職を作りたかったのであるが、無理に昇格させても後が大変だと考え、泣く泣くの決断である。その彼もまったく会社目線で行動できないというわけではない。事実、別の機会に課長への昇格者を決めたところでは、きちんと会社目線で判断できているのである。自分より下位については鳥瞰できるが、問題が自分のレベルになると途端に自分目線になってしまうのである。

課長人事については、抜擢も含む人事であった。中小企業の悲しさゆえ、管理職となる課長候補がたくさんいるわけではない。どうしても限られた中から抜擢せざるを得なかったが、少し背伸びしてもらう必要があったという次第である。面白い事に、その1人は「自分はまだまだ、自信がない」と固辞したため、当の彼が「きちんとサポートするから」と説得に回っていたのである。もう少し視野を広くして自分にも当てはめてほしかったところである。

会社目線で考えられれば、社長すら一つの役割である。必要とあれば社長にも動いてほしいと要求できるようになる。現に営業担当の取締役は年初の挨拶に社長を連れ回していた。「今後のために一緒に挨拶に行ってくれ」と。そういう会社目線で見て判断できるメンバーが増えてきたら、経営の意思疎通、意思決定が早くなると思う。今後は管理職すべてが会社目線での判断力をつけてもらえるようにしていかないといけない。“For the team”の意識とでもいうのであろうか。そこに向けて尽力したいと思うのである・・・

Danny ChangによるPixabayからの画像

【本日の読書】

刑事捜査の最前線 (講談社+α新書) - 甲斐竜一朗  人間の証明 勾留226日と私の生存権について - 角川歴彦







2025年2月5日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その17)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、學如不及、猶恐失之。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、学(がく)は及(およ)ばざるが如(ごと)くするも、猶(な)お之(これ)を失(うしな)わんことを恐(おそ)る。
【訳】
先師がいわれた。「学問は追いかけて逃がすまいとするような気持でやっても、なお取りにがすおそれがあるものだ」
***********************************************************************************

この言葉の趣旨としては、「学問は幅広いのですべてを網羅しようと思っても網羅しきれるものではない」ということだろうか。それはそれで極めて当然の事のように思う。実はその昔、教師になる可能性について考えた事がある。「先生はどこまでわかっている必要があるのだろうか」と。歴史を教えるにはどこまで歴史を知っている必要があるのだろうか?生物は?国語は?数学は?英語は流ちょうに話せなければならないのだろうか?と。もちろん、すべてを理解するのは不可能だろうが、ならばどこまで理解できていればいいのだろうかと。

中学生の時、初めて教わった英語のY先生は発音も含めて流ちょうに英語が話せる先生だった。自分もあんな風に英語ができたらいいなと憧れたが、残念ながら3年の時に異動となってしまった。代わりに来たのはザ・ジャパニーズ・イングリッシュのお手本のような先生だった。あんなんでよく先生になれたなと中学生ながら思ったが、実際にどこまで英語ができたかわからない。それでも教師になれたからには一定の範囲で極められたからなのだろう。それがどの範囲かはわからないが、教師になるとしても英語の教師だけはやめようと思った。

数学の場合はどうだろうか。すべてを極めるわけにはいかないが、高校教師であれば、大学の入試問題くらいは解けるだろう(否、解けなければならない)とは思う。私も宅浪時代、どうしても解けない問題があって、聞く相手がいなかったので高校に行って数学の先生に教えてもらったことがあったが、その先生は見事に解いてくれた。人にもよるだろうが、入試問題ならどの大学のものだろうと100点取れるという先生はいるだろうと思う。そのくらいになれば堂々と教師になれると思う。それに対し、国語は基準があいまいである。何となく今教師をやれと言われたら国語はできそうな気がするくらいである。

完璧を求めればきりがないとは思うが、人に教える以上はある程度のレベルが必要だろう。そのレベルは最低限としては資格を取れるレベルであるが、私が教師になるのであればそれにとどまらずできる限りは極めるだろうとは思う。英語であれば日常会話ができるのは最低限で、できれば映画の中での会話や英語原本の本の表現などを採り上げてさり気なく話題を提供したりするくらいはしたいと思う。「英語が話せるようになりたい」という生徒のモチベーションを上げられるようでありたいと思う。

国語であれば、教科書に沿って教えて終わりではなく、文学作品を採り上げて議論したり、美しい表現(小池真理子の作品なんかは筆頭に挙げたい)などを探してみたりという事もできるかもしれない(もっとも時間がそれだけあるかどうかはわからないが・・・)。いずれにせよ、自分が職業として取り組むとなれば、最低限のレベルで満足はせず、いろいろと考えて手を広げていくだろう。孔子の言う「なお取りにがすおそれがある」というのではなく、「もっともっと」という飽くなき追及が尽きないように思う。

もっとも、学校の先生を見ているとサラリーマン教師も多いようで、必要な授業ができればそれでいいという感じに受け取れるケースも少なくはない。孔子の言う「追いかけて逃がすまい」どころか「この程度でいい」という感じである。自分は教師ではないので理想論に過ぎないのかもしれないが、少なくとも自分が携わった分野であれば、「もっともっと」という飽くなき追及はあってしかるべきかもしれない。そしてそれは何も学問に限らないように思う。例えばスポーツでもあてはまるように思う。

私は高校時代からはじめたラグビーを60を過ぎた今もやっている。日本のラグビー界を底辺で支えてきたという自負があるが、とてもではないがトッププレーヤーからすればかなりの実力差がある。だからこそまだまだうまくなりたいと思っているし、テレビでトッププレーヤーたちのプレーを見ては自分にもできないかと研究している。今時だからYouTubeでもいろいろとノウハウが公開されているので、それらも参考にしているが、まだまだ極めたとは言えない。「もっともっと」うまくなりたいと思うし、これからも研究していきたいと思っている。

学問でもスポーツでも極めつくすという事はありえない事なのかもしれない。学ぼうとする意欲があるうちは、可能性はいくらでもあるのかもしれない。それは終わりなき旅路であり、「取りにがすおそれがあるもの」というよりも永遠に取りつくせないもののように思う。否、「学ぼう」とする気持ちこそが学問なのかもしれない。そこに学ぼうという意欲がある限り、学問(スポーツも含めて)は無限に広がっていくものなのかもしれない。いつまで続けられるかわからないが、そんな学問をずっと続けていきたいと思うのである・・・

Erich RöthlisbergerによるPixabayからの画像

【本日の読書】

「戦後」を読み直す 同時代史の試み (中公選書) - 有馬学   戦略文化 脅威と社会の鏡像としての軍 (日本経済新聞出版) - 坂口大作





2025年2月2日日曜日

あなたの短所はなんですか?

「自分の長所と短所は?」と聞かれたら、みんなはどう答えるのだろうか、とふと考えた。我が社の社長は、新卒採用の学生との面談で「あなたの短所は?」と良く質問する。学生は思いもかけない質問に面食らいながら、あれこれと答えてくれる。社長はそれを聞いた後、「短所は裏返せば長所でもある」とよく学生に語る。そんなやり取りをよく横目で聞いているが、さて自分だったらどう答えるだろうと思う。自分の短所とはなんだろうか。

しかし、あれこれと頭を回らせてみたが、どうにもこれといったものが思い浮かばない。それは何も自分には欠点もない人間だというものではない。むしろ欠点だらけだろうと思うのだが、「何が短所か」と問われるとどうにもこれというものが思い浮かばないのである。短所の反対は長所であるが、では「長所は?」と問われると、なんとなく答えられる。「目標に向けてコツコツ頑張れる」とか、「(ビジネス上の)コミュニケーション力が高い」とか出てくるが、短所となると出てこない。

なんでだろうかとさらに熟考してみる。その理由は2つあるように思う。1つは、人間は自分の顔を見ることはできないのと同じで、自分の欠点を見ることはできないのかもしれない。鏡を使えば実際とは左右反対の顔を見ることはできるが、鏡なしで自分自身で見ることはできない。もう1つは、人間も馬鹿ではないので、自分自身で欠点だと認めたところは改善しようとする。だから短所と言うべきところが改善されてなくなってしまうということである。

私も多分、周りの人から見たらいろいろと欠点はあるのだろうと思う。妻に聞けば滔々と語ってくれるかもしれない。しかし、他人はそれを一々指摘してくれない。だから自分でも気づかないままになってしまう(もちろん、親切に指摘してくれれば直そうとするから直ってしまう)。指摘してくれればいいが、指摘してくれなければ他人から見ればはっきり見える短所が自分では見えない。他人との関わりの中で、自分で良くないなと思うところは直すことはできる。それは鏡で自分の顔を見るようなものであろう。

自分で意識していれば、他人の反応などから改めなければならないところに気付くかもしれない。私も以前は仕事であれば当然だと思うことをストレートに相手に伝えていた。しかし、それだとたとえ内容が正しくても相手から反発を受ける事がしばしばで、それは相手が悪いと開き直っていたが、当然それでは良くなるものもならない。そこで言い方にも気をつけるようにしたら、グッと自分の意見を聞いてもらえるようになった。自分の短所がそれで一つ減った。

まだまだ自分で気が付かない短所はあるだろうと思う。他人からは見えていて自分からは見えない短所。それを見つけるのはなかなか大変である。それと社長の言うように、裏を返せば短所も長所という事もある。「優柔不断」はよく言えば「慎重」だし、「せっかち」も「行動が早い」と言える。なので他人から見える短所を自分では長所と考えているところもあるのかもしれない。「コツコツと取り組む」と考えている事が「遅い」と思われているかもしれない。

そんな事を考えていくと、「短所が見当たらない」のも無理もないのかもしれない。繰り返すが、だから「短所がない」というわけではなく、「自分からは見えない」という事である。見えないから仕方がないと放置するのではなく、他人から指摘してもらえたら感謝を持ってきちんと耳を傾け、指摘してくれなくても他人の反応から気付く意識も必要だろう。そういう感性は常に持っていたいと思う。「あなたの短所はなんですか?」と尋ねられたら、「短所に気づかないところです」という事だろうか。いずれにせよ、自分の短所は敏感であり、常に意識して改善するようにしたいと思うのである・・・

EliasによるPixabayからの画像

【今週の読書】
「戦後」を読み直す 同時代史の試み (中公選書) - 有馬学   戦略文化 脅威と社会の鏡像としての軍 (日本経済新聞出版) - 坂口大作  水中の哲学者たち - 永井玲衣





2025年1月29日水曜日

会社の魅力を語る

先日、転職者向けのイベントに参加した。我々も業容拡大のためには転職者の受け入れが必須である。転職者との面談は現場のリーダーにやってもらった。会社説明をし、相手の話を聞き、次につなげるかどうかを判断してもらったのである。事前に会社の方では説明用のあんちょこを用意した。いわゆるマニュアルである。現場のリーダーたちにはそのあんちょこを片手に熱心に対応してもらった。そうした姿には頼もしいものを感じたが、一方で何となくマニュアルが必要なのかなとも感じた。

マニュアルは便利な存在であり、その通りにやれば会社として統一の行動が取れる。やる方も自分で考えなくていいので楽である。ただ、転職者にとってみれば、そうした説明ももちろん大事だが、目の前の現場のリーダーが自分のやっている仕事について遣り甲斐や苦労を語った方が響くのではないかと思ったのである。リーダーであれば、そういう「語る言葉」をもってしかるべきだと思うし、持って欲しいと思う。初めてであれば参考にするものとしてある程度のマニュアルはあっていいと思うが、それをベースに自由にやってほしいというのが素直な私の気持であった。

自由というのは言葉の響きがいいし、私も好きである。しかしながら、時として自由は不自由でもある。ルールがあるから楽という事もある。法律があって規制があるから社会は安心・安全という事もある。自由といわれて自由に振る舞える人もいれば、型にはめてもらった方が楽だという人もいる。そこは理解できるが本当は規制されなくとも秩序を乱さないように自由に振る舞えるのが最上なのであるが、理想通りにはいかないのも事実である。線路をしっかりと引いてあげる事も必要なのかもしれない。

会社説明会でいつも思うのであるが、確かに自分たちの会社がどういう会社かというちょっとお堅い説明は必要だろうと思う。しかし、そこから具体的に実際に働く現場での語る言葉があれば説得力は増すように思う。それはお見合いの場で自己紹介をし、「趣味は映画です」と答えるのはいいが、そこから自分がいかに映画を愛しているかという事を語れれば、それはすなわちその人の魅力になるのではないかと思う(ただし、オタク趣味だと引かれる危険性は極めて高そうではあるが・・・)。

仕事に限れば、現場のリーダークラスの人材には、自分の仕事を魅力的に語れるようであってほしいと思う。そしてそのためには、嫌々ながら働いていたのでは言葉に説得力も生まれないだろうし、生き生きと働いてほしいと思う。世の中には仕事を楽しめる人と楽しめない人とがいる。私は楽しめる方なので、今の自分の仕事(財務・人事を含む総務)に来る人にならいろいろと語れるが、現場のエンジニアに関しては経験がないだけに難しい。楽しめていないリーダーには楽しめるヒントを与えられるといいのだが、そこがもどかしい。

最近はよく「自社の魅力」について考えている。グループ合わせて社員100名程度の規模の中小企業であると、大手のような福利厚生や給料などは難しい。しかしながら、「鶏口となるも牛後となるなかれ」と考える人にとっては、やる気次第で経営幹部になれる可能性は高く、単なる1つのネジに終わる事がないという点ではいいと思う。提案も通り安いし、実際、社員から提案のあったユニークな「休暇+報奨金」の制度も作ってしまった。そういう機動性も魅力ではないかと思う。

考えてみれば就職も恋愛も似たようなもので、相手を惹きつけるには自分に魅力がないといけない。外面だけ装ってみても、いずれメッキははがれる。人によって企業に求めるものはさまざまであるが、給料だけで比較されるとなかなか厳しい。だからそれ以外に何かPRできるものがほしい(もちろん、給料も大手との比較であり、中小との比較であれば見劣りするわけではない)。女性も「高給」だけで選択するわけではないであろう。最終的にはその人の人間性なのであろうし、企業も同じだろうと思う。

そうしたものをいかに作っていくか。恋愛でもさんざん苦労した身に何ができると思わなくもないが、幸い企業は複数人で考えられる。疑問を投げかけ、複数の頭を使って考える事ができる。そのあたりが救いだろうか。「いい会社とはどんな会社か」。このテーマはずっと追及していきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

「戦後」を読み直す 同時代史の試み (中公選書) - 有馬学   戦略文化 脅威と社会の鏡像としての軍 (日本経済新聞出版) - 坂口大作





2025年1月27日月曜日

批判する人

どこにでも他人を批判する人というのはいる。我が社にもご意見番的立場の方がいるが、やはり常に人を批判している。その批判は間違っているとは思わないが、いつもいつも批判ばかりだと聞かされる方は辟易してくる。間違っているとは思わないが、正しいとも思わない。それは、ご意見番の批判を聞いて批判の対象となっている人に事実確認をしてみると、そこには止むを得ない事情があったりするのである。物事は一面的に見ても正しくは見えない。円柱も上から見れば円だし、横から見れば長方形だ。だが、円柱の形を円だとか長方形だとか言っても(間違ってはいないが)正しくはない。それと同じである。

私が尊敬する福川先輩が、常々「複眼的思考」ということを仰っていた。物事を多角的に見るという事で、一つの見方だけではなく、いろいろな人の意見を聞き、自分の知らなかった面を含めて総合的に物事を捉える事によって、偏りのないものの見方をしようという事である。我が社のご意見番の意見を聞いていると、本当に複眼的思考の重要性に気付かされる。ただ、役に立たないかというとそうではない。ご意見番の批判はそのままでは受け取れないが、「問題の存在」に気づかさせてくれるという意味では大いに大事だと考えている。問題がある事すらわからない事から比べたら、よほどマシであるからである。

そうした問題についてどうするか。できればご意見番には批判だけではなく、「どうしたらその批判対象を正せるか」まで考えて行動してくれるとありがたいのであるが、そこまではしてくれない。「あいつはダメだ」で終わってしまう。そこまでやってくれたらもう拝むしかなくなるのであるが、そうではないところがご意見番の限界なのかもしれない。そこまでやる方であれば、今頃副社長くらいにはなっていたかもしれない。私も貴重な「ご意見」を聞いた以上、聞き流すわけにはいかない。密かに本人に意見を聞き、改善に動くようにしている。

「批判する人」ほ「批判する」だけでは自分も同じ穴のムジナになってしまう。「批判」それ自体は悪いことではない。ただ、そこに「改善提案」があった方がいい。そしてビジネスの現場では、実際に自分で改善に動かないなら批判すらするべきではないと思う。なぜなら「批判だけの批判」は害にしかないからである。ご意見番の批判を毎日横で聞かされていて、私の精神的健康が害されているように、それは誰かに悪影響を与えるかもしれないからである。

私の友人にも常に自分の職場の同僚や上司を常に批判する者がいる。毎回会うたびに他人批判を聞かされるので、私も会うのが億劫になって(最近はほとんど会っていない)しまったが、人によってはそういう反応を招いてしまうだろう。他人を批判したくなる気持ちはよくわかる。ただ、私も人を批判して批判だけで終わるようにしないようにしたいと思う。特にビジネスの現場では下の人たちからの視線もある。そこは「人の振り見て我が振り直」したいと思う。

考えてみれば、他人批判をする人を見れば自分のなすべき事がわかる。その良くない所が自分がなすべき事になる。そういう意味で、「批判する人」は自分の反面教師になってくれているとも言える。モノは考え方一つという部分もある。他人批判から自分も大いに学んで自分の改善に役立てたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
「戦後」を読み直す 同時代史の試み (中公選書) - 有馬学  戦略文化 脅威と社会の鏡像としての軍 (日本経済新聞出版) - 坂口大作





2025年1月22日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その16)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、狂而不直、侗而不愿、悾悾而不信、吾不知之矣。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、狂(きょう)にして直(ちょく)ならず、侗(とう)にして愿(げん)ならず、悾悾(こうこう)として信(しん)ならざるは、吾(われ)之(これ)を知(し)らず。
【訳】
先師がいわれた。「熱狂的な人は正直なものだが、その正直さがなく、無知な人は律義なものだが、その律義さがなく、才能のない人は信実なものだが、その信実さがないとすれば、もう全く手がつけられない」
************************************************************************************

論語も訳によっては微妙な違いがあったりする。今回の言葉については、「気位が高いくせに不正直であったり、ばかなくせにずるかったり、無能な上に不まじめだったりしては、わしも手がつけられぬわい」という訳もある。言わんとするところは、1つでも痛い欠点に付け加えてもう1つ痛い欠点があるという事だろうか。「できが悪いけど頑張っている」となれば、人は見捨てにくいが、「できが悪いのに努力もしない」となれば誰も助けようとは思わない。当たり前と言えば当たり前の人の世の理屈である。

でもそれはなぜなのだろうか。どうして人は「できが悪いけど頑張っている」人を助けたいと思うのであろうか。そしてどうして「できが悪いのに努力もしない」人を助けたいと思わないのだろうか。比較してみると、「できが悪い」というのは、「助けたい」と思う事に影響する要素ではないようである。同じように「熱狂的(気位が高い)」「無知(ばか)」「才能のない(無能)」というのも同様である。影響するのは「努力」「正直」「律儀(正直)」「信実(真面目)」である。

なぜ、人は努力をする人に心を動かされるのであろうか。「できが悪い」人を捨てる事ができても(できの悪い我が子は別)、「努力をする人」を捨てる事はできないのはなぜだろうか。もちろん、「努力よりも結果」と言って努力を認めない人もいる(特にビジネスの現場で、あるいは外資系企業とかで、)が、そういう考え方に対して、理解はできても心の中ですんなりと納得しかねるしこりが残ったりするのではないだろうか。

努力をする事に関して否定する者はいないだろうと思う。努力をする姿を良いものと思うのは、人間の本能に近いものなのかもしれないと思う。だから、その姿を見ると心を動かされる。それを否定したくないし、されたくない。自分の努力は当然認めてもらいたいし、人の努力も認めたい(何かその人に悪意でもあれば別であるが)。そういう気持ちが、どこか人の心の根底にあるのかもしれない。

その昔、初めてもった部下は正直言ってできの悪い部下だった。当時、総合職として採用された銀行員であれば、融資、取引先係といった部署に配属されるのが常で、預金の窓口に配属される事はない。それは預金の窓口が一段低く見られていたからにほかならないが、その部下はあまりにもできが悪くて、最後には預金係に転属させられたほどである。そんなできの悪い部下に、新米上司の私はさんざん苦労させられた。

ある時、やはりいろいろと指導していた時の事、その部下は開き直ったのか、堂々と私に主張してきた。「でも私も真面目に頑張っていますから!」と。当時の私はそれを聞いて体の力が抜けていった。真面目に頑張るのは給料をもらう以上当たり前の事で、それは「毎日会社に来ています」という事と同じである。それは大前提で、その上でどれだけ実績を出すのかが問われているのである。それでも家に帰って仕事に役立つ勉強でもしていればともかく、そういう事もなく、「当たり前」の事の主張は、幼稚園児でもあるまいし、評価の以前の問題である。

学生時代、ラグビー部に高校時代ほとんど運動をしていなかった者が入部してきた。軽い練習ですぐに息が上がり、見るも辛そうで、きっとすぐに辞めるだろうと思っていた。しかし、彼は頑張って練習に通い、ドンケツだったが何とか練習についてきた。夏合宿が過ぎてもうまくはならなかったが、やがて普通に練習についてこられるようになった。そして4年間を過ごし、レギュラーにはなれなかったが、きちんと卒業した。私は今でも彼の頑張りは評価している。レギュラーになるという結果は残せなかったが、辞めなかったのは彼の誇るべき勲章だと思う。

同じ頑張りでもラグビー部の後輩には「努力」が伴う。だから評価ができる。しかし、毎日出勤して仕事をするのは「努力」とは言い難い。そこが2人の違いである。同じ「頑張る」でもそこに「努力」という要素が入っているかどうかが重要であると言える。そういう「努力」を人は否定できない。逆に言えば、「できが悪いならせめて努力しろ」という事になる。それすらしないとなれば、人はもう認めてはくれない。寛大なイメージのある孔子ですらお手上げなのである。それが人の正直な感情なのだと改めて思うのである・・・


SimonによるPixabayからの画像


【本日の読書】

わが投資術 市場は誰に微笑むか - 清原達郎  戦略文化 脅威と社会の鏡像としての軍 (日本経済新聞出版) - 坂口大作





2025年1月19日日曜日

サプライズ!

先日の事、我が社で若手社員が「やらかして」しまった。本人は一応反省しているとの弁だったが、罰を与える事にした。毎朝、我々総務でやっている簡単な設備のメンテナンスを申し付けたのである。「始業15分前に来てやれ」と。本人はしおらしく了承して翌日から作業をする事になった。翌朝、彼は私が申し付けた時間の30分前(つまり始業時間の45分前)に「おはようございます!」と言う挨拶と共に出社してきて作業に取り掛かった。15分程度で終わる作業をそのまま彼は教えた通りにしっかりやり終えた。

私は「いいな」と思った。言われた通りに始業の15分前に来てやっても別に文句はなかった。ただ、それだと「驚き」はない。ただ「言われた事」を「言われた通り」にやっただけである。しかし、言われた時間より30分も早く来てやるというのは、相手の予想を超えているわけで、それは相手に「驚き」をもたらす。この「驚き」は大事だと思う。相手の期待値を超える事によって相手に「驚き」をもたらす。それはその人自身の評価を高めるのに役に立つと思う。

私も本多静六の「天才が1時間かかってやるところを2時間やって追いつき、3時間やって追い越す」という言葉が好きであるが、「1時間やれ」と言われたら2時間やるタイプである。スポーツでも勉強でも、もちろん仕事でも同じである。言われた事をやるだけであれば、それは普通である。相手の記憶に残る事もない。言われた事以上にやって初めて相手に「驚き」をもたらし、評価もされるし記憶にも残る。「評価されるために」という目的が先に来ると嫌らしいが、そういう行動が未来の自分を変えていくと思う。

木下藤吉郎が織田信長の草履を温めたのは有名な逸話であるが、「下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そしたら誰も君を下足番にしておかぬ」(小林一三:阪急・東宝グループ創業者)なのである。常に相手の期待値を上回る事を意識していたら、ずいぶんと仕事ができるサラリーマンになれると思うが、最近そういう話を若い人に意識的にしている。それは自分もいろいろと経験を積んできたし、それを自分だけで終わらせるのではなく、若い人にも知ってもらえたら会社の業績向上にも繋がると思うからである。

我が社には、見事に言われた事しかやらないロートル社員がいる。言えばそれなりにきちんとやってくれるので重宝しているのだが、そのかわり言わないとやってくれない。最近はビルの管理会社から防火上の指摘をされ、すぐにその対応をした。しかし、それはそれでいいのだが、「今後それを誰が管理していくか」という事までは考えない。それを考えると、別の対応もありうるのだが、そこまで考えない。「その場でやっておしまい」なのである(それも別の意味で驚きではあるのであるが・・・)。

これ「金曜日までにやっておいて」と言われたなら、私であれば遅くとも木曜日までにはやり終える。他に優先する仕事がないのであれば、とりあえず最優先でやって終わらせれば、「期限」という意味で相手の期待値は超えられる(もちろん、ただ早ければいいということではない)。やれと言われそうだとわかっていたなら、言われる前にやっておく。「やれと言われていない事をやるのは損」などと考えていたら、それは自分自身を「期待以下」の存在にしてしまう事になる。

仕事はやっぱり楽しくやりたいし、楽しくやるためには自分で仕事をコントロールできないといけないし、さらに言えば相手を驚かせたい。「サプライズ!」は仕事であっても相手を驚かせる楽しさがある。相手を驚かせて自分も認められればこんなに面白い事はない。私もまだまだ相手を驚かせていきたいと思うし、それを若手にも伝えていきたい。そういう存在になりたいと思うのである・・・


raffaella cerutiによるPixabayからの画像

【本日の読書】
わが投資術 市場は誰に微笑むか - 清原達郎  春の雪 (新潮文庫) - 三島 由紀夫





2025年1月16日木曜日

言葉について

人間は言葉によって互いに意思疎通を図る事ができる。しかし、ほんのささいな言葉遣いによって誤解を招く事は日常茶飯事である。いったい我々は言葉をうまく使いこなしているのだろうかと考えてみる。その前にそもそも言葉は世界を十分に表現できるのだろうか。きちんと伝えられないのは、その人のボキャブラリーや表現力によるせいだろうか、それとも言葉自体のせいであろうか。言葉自体に限界がある事も事実だと思う。それが証拠に、我々は「体験」を伝える事ができない。

たとえば「匂い」。バラの香りと言われればわかるが、それはバラの香りを嗅いだ経験があるからで、「体験」を伝えたわけではない。たとえば世界最大の花であるラフレシアの臭いと言われても普通の人にはわからない。それはほとんどの人にラフレシアの臭いを嗅いだ経験がないからである。その臭いは「動物の死骸が腐った臭い、トイレの悪臭のような臭い」だそうで、そう言われれば何となく想像はつく(もっともトイレの悪臭なら想像はつくが、動物の死骸が腐った臭いは経験していないとわからない)。ただ、それは厳密に「体験」を伝えたわけではない。

「頭が痛い」と言われた場合、人はたいてい、過去の自分の体験を元に想像するのであるが、厳密に目の前の人が経験している頭痛がそれと同じかどうかはわからない。もしかしたら、自分が想像している以上のものかもしれないし、以下かもしれない。生まれた時から目が見えない人に「赤」と言ってもわからないだろう。「ランナーズハイ」という言葉があるが、長距離走が嫌いな私にとって、多分一生わからない感覚だろうと思う。

最近は「推し」という言葉が使われているが、娘が夢中になっているSUPER EIGHTの魅力だが、娘がいくらそれを言葉で私に伝えようとしても伝える事はできない。同じファン同士なら可能だろうと思うが、それは「体験」を共有しているからである。だからトラキチの気持ちはわからないし、私がいかにラグビーが面白いかと力説しても、すべての人にそれを伝える事は困難である。「面白いと思う気持ち」を伝える事はできないのである。

言葉もいろいろあって、世界には7,000もの言語があるらしいが、そうなると通訳がいないと互いに意思疎通はできない。しかし、その通訳が正しいかという問題もある。その昔、夏目漱石は“I love you”を「月がきれいですね」と訳したと言う。“I love you”は一般的には「愛してる」であるが、夏目漱石は「月がきれいですね」と訳している。それは時代背景や状況もあるのだろう。明治の日本では「愛している」などと面と向かって言うのは憚られたのだろうし、そういう環境下では適訳だったのだろう。

文字通りに解釈すると、「月がきれいですね」という言葉のどこにも「愛している」という意味はない。しかし、男女2人で夜空の月を見上げながらのシチュエーションを想像すると、明治の日本人的には十分「愛している」という意味として適切であるように思えてくる。これに対して、「2人で見ているからではないですか」と返せば、それは“Me、too”なんて表現よりもはるかに味わいのあるやり取りのように思える。

そう考えてみると、言葉では伝えられないものもあれば、言葉によってさらに伝わるものもあるのかもしれない。私の好きな名言・格言の類もそうと言える。過去の人が経験した考え方を伝えるのはどうしても言葉によらなければならない。ただ、それも表現によっては伝わり具合が違うのも当然だろう。小説を読んで感動するのも、人の心にそういう感動を呼び起こすからであり、それが言葉の効能である。100%伝えられないものもあれば、120%伝わるものもあるというところかもしれない。

ビジネスの現場では、やはり「月がきれいですね」では通じない場合が多いだろう。ビジネスの現場では「体験」よりも「考え方」を伝える事の方が多いだろうし、そのためには言葉も有効なはずである。相手にいかに自分の考えを伝え、自分と同じ考え方に立ってもらえるか。なかなか簡単ではないが、効果的なのは「たとえ」かもしれない。「トイレの悪臭のような臭い」のようなものである。これによって言葉は多くのものを伝えられ、理解も促進されうると思う。言葉自体の伝える力もそうだが、たとえによってこれを補うというのも有効である。

何はさておき、ビジネスでは伝わらなければ始まらない。言葉に限界はあるにしても、伝わらないと嘆くのではなく、たとえを駆使してでも伝える努力をしないといけないと思う。そう思いつつも、最近悩ましいのが言葉が出てこない現実。どうしても「あれ」とか「それ」とかが多くなってきている。悲しいかな年齢による「言葉が出てこない」である。これがさらにコミュニケーションに支障をもたらさないようにしないといけない。もっとも、最近それを先回りして部下も優しく接してくれる。やっぱりコミュニケーションは言葉の前に気持ちかもしれないと思うのである・・・


Karolina GrabowskaによるPixabayからの画像

【本日の読書】

わが投資術 市場は誰に微笑むか - 清原達郎  春の雪 (新潮文庫) - 三島 由紀夫






2025年1月13日月曜日

言葉のキャッチボール

先日、テレビで津軽弁がまったくわからないという事をやっていた。現地で高齢の方にインタビューするのだが、その答えを聞いても確かに何を喋っているのかわからない。同じ地元の若い人にそれを聞いてもらい、解説してもらってようやく理解できた。聞いただけでは日本語なのかすらわからなかったが、解説を聞けば確かに日本語だった。世界には7,000もの言語があるという(『昨日までの世界』読書日記№377)。俄には信じ難いが、日本語でも方言によってこれほど違う事を考えると、確かにあまり交流のない地域ではその地域独自に言語が発展し、違う言語のようになるのだろう。

しかし、同じ標準語でも言葉が通じないかのように言いたい事が伝わらないという事がある。あるいは何を言っているかわからないという事がある。哲学などは普通の人が読んでも理解が難しいことからよくわかる。同じ言葉のキャッチボールなのに相手の投げたボールが取れない。キャッチボールの基本は相手の胸を目がけて投げるのが基本である。相手が取れる様に投げるものである。暴投なら当然取れない。中には運動神経が良くて取れる人もいる。哲学で言えばそれなりの勉強をした人だろう。

いつも思うのであるが、カントやヘーゲルなど難解な哲学でも、研究者による解説書でわかる場合がある。カントが投げた難解なボールを研究者がジャンピングキャッチし、それを取りやすく投げてくれるので一般の人にも理解できる様になる。研究者にできる事がなぜ、大哲学者にはできないのであろうかといつも不思議に思う。考える事とそれを表現する事はまた別の事と言えるのであろうか。あるいは哲学者にとっては取りにくいボールを投げているという自覚がないのかもしれない。

ボールはきちんと投げたが、相手が落球するという事もある。きちんと伝わらないという事である。それは投げた方が拙いという事もあるし、受け取る方が理解できないという事もあるし、その両方である事もある。コミュニケーション不足は日常でよくある。「そんなつもりはなかった」という類である。また、日本人は割と直接モノを言い難い、言わないという傾向がある。間接的な表現で気づいてもらおうというのは、相手に対する心遣いであるが、一方で伝わらなければ言葉のキャッチボールができていないという事になる。

『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』(読書日記№1516) によれば、京都人は相手に直接批判的な事は言わないらしい。ピアノがうるさい場合は、「ピアノが上手にならはって」などと遠回しに言うそうである。鈍感な私には絶対その意図に気づかない自信がある。それが故に、私は相手にとって耳が痛い事でも直接言う主義である。それで嫌われたなら仕方ないと腹を括っている。ただし、言い方には気をつけている。豪速球を投げ込むのではなく、取ることを意識した緩やかなボールである。

最近、我が社の取締役の同僚にもそのような感じで意見を言った。彼の行動が社長以下、他の取締役の考え方からズレているのである。もうずっと間接的に言ってきたが、埒開かず、直接言う事にしたのである。「こういうケースではこうした方がいい」と。ただ、「私にはそう思えるのですが、どう思いますか?」というマイルドな表現にした。それが良かったのか、彼も何とかして社長の信頼を得たいともがいているところだったからか、私の意見は素直に受け取ってもらえた様である。

人類は言葉という武器を使って発展してきた。ただ、その使い方は人によって巧拙がある。野球のキャッチボールと同様、言葉のキャッチボールも相手が「キャッチできるか」が重要である。独りよがりは良くない。「適切に伝わったか」を常に意識していたいと思う。そして伝わっていない時は、ボールを取れない相手の責任ではなく、「取れるボールを投げられない」自分の責任である。ビジネスの成果に直結する言葉のキャッチボール。より上手くできるように意識したいと思うのである・・・


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【先週の読書】
こころの処方箋(新潮文庫) - 河合 隼雄  三体2 黒暗森林 下 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功  春の雪 (新潮文庫) - 三島 由紀夫