2025年10月13日月曜日

アンケートに思う

公益財団法人「新聞通信調査会」は11日、メディアに関する全国世論調査の結果を公表した。 日本の防衛費の増額について「賛成」と答えた人は54・5%で、「反対」の42・8%を上回った。米国のトランプ大統領が「世界に悪い影響を与えている」と答えた人は79・4%だった。
2025/10/12

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 二者択一の質問に際し、答えは二つのうちの一つを選ぶだけなのであるから一見簡単そうに見える。しかし、私はこのような二者択一の質問に際し、戸惑ってなかなか答えられないケースが多い。それは質問がシンプルであればあるほどその傾向は高くなる。なぜなら質問について掘り下げて考えていくと、行き着いた先のケースバイケースで答えが異なるからである。つまり、「YES」の場合も「NO」の場合も出てきてしまうのである。質問がシンプルであれば、「◯◯だったらYES」、「□□だったらNO」という具合に答えが前提条件付きになってしまうのである。

 例えば上記の「防衛費の増額」についてであるが、そもそもなぜ増額の必要性があるのかという背景を知りたい。中国の脅威なんかは容易に想像がつくが、脅威があるからといって金だけかければいいというものではないだろう。装備の劣化によって最新兵器に代替していく必要があるのかもしれない。あるいはただ単にアメリカの圧力に抗しきれないだけかもしれない。装備も最新兵器になれば同じ目的でも価格が高くなることは容易に理解できるから、一概にダメとも言い難い。

 アメリカとの付き合いもあるから、単に圧力に負けるということではなく、駆け引きから「あちらを譲ってこちらを譲らせる」的なところがあるかもしれない。とにかく最新兵器を導入したくて必要もない更新をしているためとなるといかがなものかと思えてしまう。また、防衛費を増額する場合、その財源をどうするのかも大事な判断要因である。既存の税収の範囲内でやりくりするというのであれば構わない気もするが、それで削られる公共サービスの内容によっては「ちょっと待った!」というケースもあるかもしれない。

 また、基本的に増税は勘弁してくれよと思うが、その金額によっては目くじらを立てることもあるまいと思うだろう。例えば5円の増税と言われれば「まぁいいか」となるが、1,000円となるといい顔はできない。「防衛費の増額に賛成か反対か」と聞かれた時、私ならこういうふうに考えてしまう。そして一体どういう風に増額するのか、それが明らかにならないと答えようがない。このアンケートに答えた人たちはどういう状況で答えたのかわからないが、何を根拠に答えたのか気になってしまう。

 「トランプ大統領が世界に悪い影響を与えている」と答えた人は79・4%だったということについても、当然歴代の大統領はみな世界にいい影響も悪い影響も与えていると思う。トランプ大統領のイメージだけで判断しているように思えてならない。関税戦争についても世界に緊張感を与えたのは事実であるが、本当に悪いかどうかは私には判断できない。ノーベル平和賞狙いだろうと名誉欲からであろうと、戦争終結への努力は認められて然るべきである。

 また、こういうアンケート結果を見た時、ついつい目が行ってしまうのは、悪い影響を与えていると答えた79・4%の人ではなく、いい影響を与えた(設問に「どちらとも言えない」があったかは知らない)と答えた21・6%の人である。どういう考え方だったのだろうかと興味深い。単純に「いい影響を与えた」と考えているとしたら、その人たちは世間一般の(マスコミによって作られた)イメージに左右されることなく、人が目を向けないところに目を向けているということであり、なんとなくたくましさのようなものを感じる。

 そもそもこれがバイデン前大統領だったり、オバマ元大統領だったらこんな設問を用意しただろうかと考えてみると、その設問の根底にある意図は明らかだろう。アンケートと称して、その裏にはトランプ大統領に対する批判が含まれているのは明らかである。そんな意図に塗れたアンケートに答えるとしたら、天邪鬼な私は間違いなく21・6%に入る答えを書いていただろう。いずれにせよ、二者択一のアンケートに答えるのは、私には難しいことであると思うのである・・・


Fathromi RamdlonによるPixabayからの画像


【今週の読書】
全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  夜更けより静かな場所 (幻冬舎単行本) - 岩井圭也






2025年10月8日水曜日

老親と暮らす

たはむれに母を背負ひて
  そのあまり軽きに泣きて  
    三歩あゆまず 
石川啄木「一握の砂」
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 妻と別居して実家に戻ってもうじき1か月である。本来、息子が大学を卒業するまであと2年半我慢していようと思っていたが、繰り上げたのは実家の両親がそろそろ2人だけで生活させておくのが危なっかしいと思ったためである。両親とも短期記憶が劇的に劣化しており、一晩寝るとみんな忘れる状態である。家事もままならぬ様子で、食事もあるものを食べている状態。一度平日の夜に行ったらその日の夕食はコンビニのおにぎりという状態であった。実家に戻って取り急ぎ改善をしたのは食事である。

 食事といっても、私も「男子厨房に入らず」の世代である。そうもいっていられないので、数年前からスマホアプリ片手に見よう見まねで包丁を握っている。今までは週に1度実家に通って料理を作っていたが、それが今度は1週間に1度ではなく毎日である。これが思ったより大変である。とりあえず週末は良しとして、平日は食事の宅配に頼ることにした。ところがこれも簡単ではない。まず午前中に食材が届くが、お昼にそれを食べてしまう。夕食用だから食べないようにと言いおいても忘れて食べてしまう。それも連日にわたってである。

 怒っても嘆いても、次の日には忘れて食べてしまう。やむなく最初の週は毎晩弁当を買う羽目になってしまった。食事の宅配を頼んだのは週3日。家計費の節約も考えないといけない。しかし、始めてみるとこれがなかなか大変。週末に週4日分の献立を考え、食材を買う。土日は当日作って食べ、月曜日の分は日曜日に作り、金曜日の分は前日に作り置きする。届けてもらった食材を食べられてしまうのは昼食がないから。したがって両親だけの昼食も考えないといけない。そうなると、常時食事のことが頭の中を占拠する。

 考えてみると、共働きの主婦はこれを毎日やっているのである。調理の手間暇はそれほどではないが、それよりも献立や食材の調達やらと食事のことを考えることが何より重荷になる。慣れてくればもう少し負担も減るのかもしれないが、今は頭の中を食事が占める割合が多くなって大変である。昼食を用意し、朝、届いた食材を食べないように母に伝え、昼に電話をして食材が届いたことを確認し、食べないように再度念を押す。そしてようやく夕食を確保できたのである。

 仕事が終わって帰宅前に電話をし、ご飯を炊いておくことを頼む。せめてそのくらいの家事はやらないと何もできなくなる気がする。しかし、帰宅してみればご飯が炊けていないということもあった。それすら忘れてしまうのかと絶望的な気分になったが、さいわい温めれば食べられるご飯パックを買っておいたので、それで代用する。怒っても何にもならない。それよりも頼んだことができていない場合を想定して動くしかない。「自分が源泉」の精神を思い出して対応するしかない。

 もはや母親も昔の母親ではない。昔の写真と比べるとだいぶ痩せて背中も曲がっている。できないことを責めても意味はない。できないことを前提にこちらが動けばいいのである。食べてはいけないと怒るのではなく、どうしたら食べられないで済むのか。食べてしまうのは昼食がないからであり、昼食を用意する。忘れるなら面倒でも注意喚起する。それでも食べられてしまうケースを想定して代替案を考えておく。「自分が源泉」に立てばやれることはある。そうしてついに配達された食材で夕食を囲むことができた。ご飯を炊くのは忘れられたが、プランBで対応した。

 『子ども叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの』という言葉がある。自分自身、若い頃と比べれば力が衰えている。ラグビーをやっていれば否が応でもそれを実感させられる。両親の今の姿は27年後の自分の姿かもしれない(35年後くらいだと思うが・・・)。そう思えば、できないことを怒るのではなく、できないことを前提に「どうするか」を考えるしかない。それでできなければそれは親が悪いのではなく自分が悪いということになる。そう考えればイライラすることもない。

 考えてみれば、もう両親と一緒に過ごす時間も残り少ない。それであれば、せめてその間楽しく過ごしてもらいたいと思う。それにできないことを前提に考える「自分が源泉」の考え方をトレーニングするいい機会でもあり、自分自身の修養のためにもいい機会であると言える。両親との限られた残り時間を穏やかに、そして有意義に過ごしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  夜更けより静かな場所 (幻冬舎単行本) - 岩井圭也




2025年10月5日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その13)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子欲居九夷。或曰、陋、如之何。子曰、君子居之、何陋之有。
【読み下し】
きゅうらんとほっす。あるひといわく、ろうなり、これ如何いかんせん。いわく、くんこれらば、なんろうらん。
【訳】
先師が道の行われないのを嘆じて九夷の地(東方の未開の地)に居をうつしたいといわれたことがあった。ある人がそれをきいて先師にいった。「野蛮なところでございます。あんなところに、どうしてお住居ができましょう」すると先師はいわれた。「君子が行って住めば、いつまでも野蛮なこともあるまい」

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 この短い言葉にはいろいろと考えるべき点が含まれている。孔子が1人道を説いても周りに受け入れられず、未開の僻地に行こうという心境になっている事がひとつ。未開の地など行っても野蛮で何があるかわからないと案じる弟子に、孔子は自分が行けば状況は改善できると語るのがもうひとつ。でもそれならなぜ居を移したいと思ったのか。未開の地を切り開くと思えば、根気強く道を説けばいいではないかという気がしないでもない。また、自分が行けば野蛮な人たちも啓蒙できるという自信。まぁ孔子だからそう言えるのだろう。

 日本はもう先進国であり、国内に未開な地はないと言っていい。田舎で何もないところは至る所にあるだろうが、野蛮な人たちが住む場所などないだろう。今はそんなこともないが、その昔、1つ年上の従兄弟が住む長野県にある御代田というところに毎年遊びに行っていたが、特に教育環境という点では東京とずいぶん差があった。大学進学率は東京より低く、従兄弟も高卒で就職した。それは父方の同じ長野県の富士見に住む同い年の従兄弟も同様で、当然のように大学を受験して進学した私に対し、2人とも高卒で就職した。

 1つ年上の従兄弟とは友達も私と遊んでくれていたが、みんな高卒で就職した。そもそも進学などしないから高校時代もそれほど勉強しない。だからバカだという事ではなく、やはり受験を意識してそれなりに鍛えられている東京の同級生たちと比べるとそもそもの話題も興味の対象も違っていた。私が東京の同級生たちからではなく、従兄弟とその友達との付き合いで酒とタバコと女(の子とのませた話題)を学んだことからもそれはわかる(実にありがたい教えであった)。それはおそらく「教育レベルの差」なのだと思う。

 当時の私にとって、御代田で休みの間過ごした経験は、言ってみれば「二つの世界の体験」であり、実にいい経験だったと思っている。孔子の時代の中国は、今の日本とは比べ物にならないくらい都市と地方との差はあっただろう。それこそ都会の人間から見れば地方の未開の地に住んでいる人は野蛮人のように思えたのかもしれない。そんな中で、孔子は自分が行けば大丈夫だと語ったのは、自分がその地の人を啓蒙できるという自信があったからなのだろう。その根拠はよくわからないが、人は自分の知らないことを知っている人には一目置く傾向があるから、それで啓蒙できるという自信と経験があったのかもしれない。

 私も今の会社に転職してきた時、取締役会がどうもおかしいと気がついた。それは当時2人いた取締役の考え方が、取締役の本来のそれとはズレていたのである。そこであれこれと工夫を凝らし、本来取締役としての考え方などに気づいてもらえるように仕向けてきたが叶わず、私も入社して同じ取締役になり、慣れてきたこともあって最後は直接ストレートに伝えてきたが、それで限界を感じたのか、最後は自ら退任した。とうとう最後まで考え方を変えさせることはできなかった。人は考え方をなかなか変えられるものではないのである。

 孔子が未開の地の人たちをなぜ啓蒙できると自信を持っていたのかはわからないが、人の心を動かす何かがあったのかもしれない。人の心を動かすものがあれば、自らの考え方を広めていくことができる。それが世界的な宗教が広まっていった理由でもあるし、そういうものは(私にないだけで)確かにあるのだろう。そういう影響力を自分も持ちたいと思う。それには他人の心を理解し、相手の立場や考え方を尊重しながらも自分の意見をわかりやすく伝えられるようでないとダメなのであろう。

 どんな人の間に入っていっても、自分の考えをしっかりと相手に伝わるようにして一定の影響力を持つことができるように私もなりたいと思う。まだまだ発展途上であると謙虚に認識し、そんな自分になれるように努力していきたいと思うのである・・・


Baptiste LheuretteによるPixabayからの画像



【今週の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  星を編む - 凪良ゆう  夜更けより静かな場所 (幻冬舎単行本) - 岩井圭也




2025年10月2日木曜日

たばこの効能

 健康診断を受けたが、なんと3項目で「要再検査」とされてしまった。ご丁寧に紹介状も3通送られてきた。実に手厚く手回しがいい。便潜血はもう毎年要再検査であり、昨年と今年内視鏡検査を受けて異常なしだったので、もう慣れっこである。腸は何かあっても時間がかかるので、2年に1度内視鏡検査を受けていれば大丈夫とは再検査を受けた専門医のお話。したがって無視する事にした。そのうち初めて指摘されたのが「肺の影」。肺の影と聞くと、すぐに肺がんをイメージする。さすがにこれは急いで再検査を受けに行った。

 職場近くの総合病院に予約を取り、さっそく向かう。最近では総合病院に紹介状なしで行くとそれだけでお金を取られる(この病院は7,000円)。混雑緩和と町医者の支援等の意味合いがあるのだろう。初診受付で診察カードを作成する。今はどこの病院もこのカードを使って受付や支払いを行うようになっている。人手不足の解消にも役立っているのだろう。そして再検査のCT検査の結果、肺の影は薄れていて癌ではないだろうという事になった。一応、念のために2か月後に追加検査して様子を見ましょうとなった。

 実は検診で指摘されて以来、一応タバコは「休煙」している。私も「自分は大丈夫」という根拠のない自惚れをするほど愚かではない。年齢的には気がつかないところで細胞レベルの劣化が進んでいる事だろうし、そういう考えもあって万が一に備えて休煙する事にしたのである。そうして診察に臨んだが、担当医からは案の定、禁煙を勧められた。最初の問診でタバコの履歴を詳しく聞かれた。それこそ17歳の時に遡ってである(回答はうやむやにしたが・・・)。長い休煙期間を経て再開したのが4年前である。

 再開したと言っても、健康意識はあるし、何より世の中は30年前よりタバコを吸い難くなっている。社内も禁煙であり、道路も歩きタバコは良識的に控えたい。結果、会社から歩いて3分の喫煙所に通っている。その結果、吸いたくても「わざわざ」吸いに行くのが大変で、喫煙本数も1日数本になっている。言ってみればライトスモーカーであり、健康的にも問題ないと考えていた。診察していただいた担当医の「今も吸っていますか?」という質問に、「今回の結果が出るまで休煙中です」と回答したところ、案の定、禁煙を勧めてくる。

 まぁ、医者というものはとにかく禁煙しろと言うものだろう。「タバコは百害あって一利なし」と言ってくる。しかしながら、私からすれば「一利なし」とは言えない。現に私が再開したのは、それまで傾いた会社を立て直し、これからさらに業務を拡大しようとしていたところでいきなり社長に会社を売ると言われ、退職を要求された時期である。自分では何もせずに見ていただけなのに(まぁ私に全権を預けるという決断はしてくれた)、会社が立ち直って価値を生み出したところで「引退するから会社を売る」と言われて頭にきていた時である。

 怒りとその後どうするかという不安。住宅ローンは残っているし、息子はこれからまだまだ教育資金がかかる。そんなストレスの中でタバコが吸いたくなったのである。バカバカ吸っている人にとってはどうかはかわらないが、私の場合は吸うときは歩きタバコなどせずきちんと味わって吸う。紫煙を燻らせる瞬間、神経が弛緩してリラックスできる。要はストレス緩和である。少なくともそれは間違いのない効果であり、「一利」である。リラックス効果は人によって違う。そのリラックス効果は間違いだとは他人に言うことはできない。

 人によってはそれが酒だったりするのかもしれない。ドラマかもしれないし、ケーキかもしれない。何でもそうだが、過剰摂取はなんであれよくないが、適度であれば問題はないだろう。しかし、担当医は「1本でもダメ」と言う。それが医学的に正しい答えである事は素人でもわかる。ただし、ヘビースモーカーがすべて癌になるわけではないし、タバコを吸わなければ癌にならないわけではない。人それぞれの体質次第だろう。私がどうかはわからないが、実際に悪くならない限りは「1本でもダメ」とは言い切れないというのが私の考えである。

 医者としては「1本でもダメ」と言っておけば間違いはないのだろうが、そういう「全部ダメ」スタイルだともう意見を聞こうとは思わなくなる。担当医と話ながら、議論しても無駄と感じた。私にとってはリラックス効果もバカにできないところがある。健康第一であるが、だからと言って禁欲生活をしてまでとは思わない。そのあたりのバランスを考えたいと思うが、医師が相談相手にならない以上、自己判断でやるしかない。どうしてもこの手の「〇か×」思考に嫌気がさす。

 もしも担当医が「1日数本に抑え、3カ月に1度検査を受けながら吸ってみたら」と言うのであれば、私はその医者を心から信頼するだろう。まぁ、CT検査は時間も取られるし、費用も取られるからそう言われても実際は面倒である。ただ、「〇か×」思考の医師よりも信頼できるという話である。医学的に正しい事を言うだけでなく、患者の言い分を聞いて、そこに一定の気持ちを認め、ではどうしましょうと一緒に考えてくれる医師であれば大いに信頼したい。再検査で医師と話しながらそんな事を考えた。

 医者としては一々そんな手間暇などかけていられないのだろうとは思うが、今回の対応を通じて理想の医者ってどんな人なのだろうと考えたのである・・・


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【本日の読書】
全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  星を編む - 凪良ゆう







2025年9月29日月曜日

不倫報道に思う(その2)

 以前から不倫報道には疑問を抱いていたが、今度は芸能人ではなく群馬県の前橋市長がつるし上げられている。しかも今度は女性市長である。何でもお相手は部下の既婚男性社員だという事で、個人的には「なかなかやるなぁ」と思うのだが、世間の清らかな人たちはどうにも許せない事のようで、市役所には抗議の電話が殺到しているらしい。ニュースでもご丁寧に町中の人たちにインタビューをして、一様に「いかがなものか」「辞めるべき」だという声を拾っている。もともと不倫は当人たちの問題であり周りの人が批判するのはおかしいと思っているので、今回の報道も違和感しか感じない。

 そもそも不倫がダメなのは、「配偶者に対する裏切り」だからである。第三者には関係のない話である。配偶者が怒るのは当然であるが、第三者が怒るのはおかしな話である。芸能人なども不倫報道で「お騒がせして申し訳ございません」と謝罪するのを目にするが、世間を騒がせているのはマスコミであって本人ではない。週刊誌を売らんがために他人に知られたくない秘密を暴いて販売部数を伸ばそうとして騒いでいるだけで、本人とすればいい迷惑である。芸能人であればイメージが大切であり、スポンサーに迷惑をかけたりするのだろうが、政治家はどうなのだろうと思う。

 政治家もクリーンなイメージで売っている人は有権者に対する裏切りという面もあるだろう。自民党の小泉進次郎議員などは、政治家としては若くてイケメンだから女性層に人気がありそうで、もしも不倫騒動ともなれば「裏切られた」と思う女性有権者は多いかもしれない。しかし、それは「政治家に何を期待しているのか」という点で大きな間違いであり、その批判は的外れである。不倫をしない事がいい政治家の条件かというとそんな事はない。政治手腕と不倫をしない事とは何の関係もない。むしろ「英雄色を好む」的なところがあるくらいだろう。

 「誰と誰が不倫している」という話は、ゴシップとして人の興味を引く。かく言う私も(知っている人物であれば)知りたいと思う。週刊誌はそういう人間の欲望を手に取って販売部数を伸ばそうとする商売なのであり、興味深く読むのは構わないが、興味深く読んで終わりにするべきであり、役所に抗議の電話をかけたり、「辞めろ」と騒ぐようなものではない。役所に抗議の電話が殺到などと聞くと、「みんな暇なんだな」と感心してしまう。どちらが積極的だったのかはわからないが、「英雄」は男だけではないという事なのかもしれない。

 しかし、それにしても釈明会見でラブホテルに行った事を認めた上で「男女の関係はない」と言い切ったのにはなかなか感心させられた。誰もが嘘だとわかる言い訳を公共の場で言い切る度胸は私にはない(だから政治家になれないのかもしれない)。私だったらむしろ下手に釈明するより、「妻に対して申し訳ない」と言って終わらせるだろう。不倫といっても結局は相互の同意であり、第三者にとやかく言われることではない。配偶者とその家族、あるいは友人に責められるのであればわかるが、いくら公人だとしてもプライベートの恋愛に関して批判するのは筋違いとしか思えない。

 私は別に不倫を許容するわけでも擁護するわけでもない。不倫は配偶者に対する裏切り行為であり、やってはいけない事には変わりない。だが、不倫の本質は「恋愛」である。好きになってはいけない相手を好きになったという事だけであり(もっとも感情はなく、ただ行為だけの場合もあるかもしれない)、許されざる恋などこの世には当たり前にある。それを止める事は不可能であるし、それは誰の心にも起こり得ることである。要はまったく関係のない第三者がしたり顔をしてとやかく言うことではないという事である。

 不倫は古い罪である。モーゼの十戒にも「汝、姦淫するなかれ」とあるくらいである。キリスト教も基本的にそれを踏襲しているが、一方でイエスは「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイ5:28)と語っている。また、姦淫の罪で民衆の前に引きずり出された女に対し石打の刑を求められた際、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」」(ヨハネ8:7)と語っている。いずれも肯定はしていないが、罪には問うていない。しかし、現代では鬼の首を取ったかの如くの集中砲火である。

 人間だから秘められた恋愛に興味をそそられるのは仕方がない。しかしながら、それは個人の胸の内で知られざる事を知った喜びで満足させていけばいい事であり、正義の味方ぶって批判するのは単なる偽善行為にしか思えない。もうそろそろ赤の他人の不倫に己の狭量な正義を振り回すのはやめた方がいいのではないかと思う。この世に100%清廉潔白な人間などいない。大事なのは市民に対して政治家としての責任を果たせるかどうかである。陰で不倫をしていようが人には言えない性癖があろうが、市民のための仕事ができるかどうかで判断すればいいのではないかと思うのである・・・


VictoriaによるPixabayからの画像

【本日の読書】
全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  数学の世界史 (角川書店単行本) - 加藤 文元  星を編む - 凪良ゆう








2025年9月27日土曜日

日本は多民族化するのか

 最近、身の回りに外国人が増えてきた。外出すれば大きなスーツケースを持った観光客に会わない事はない。勤務先は新大久保に近く、店舗を構えている韓国系の人はもちろん、その他の国の方もいて、(英語はもちろん、韓国語、中国語系、フランス語、ロシア語は意味は分からなくともそれとわかるが)聞いてもどこの国の言葉かわからない外国語が飛び交っている。我が社の今年の新入社員5名のうち1名は外国籍だし、中途採用でも2名の外国籍の社員を採用している。さらに来春入社予定の内定者7名のうち3名は外国籍である。中途採用においては人材紹介会社に斡旋を頼んでいるが、紹介される人材の8割は外国籍である。

 我が社は国内オンリーのドメステ企業であり、大手企業のように社内公用語が英語などという事はなく、日本語オンリーである。したがって、外国人の採用に際しては日本語能力を必須としている。しかも、日本語のレベルとして「N1」、「N2」、「N3」とあるうちの、最低でも「N2」というレベルを要求している。採用に至る外国人はみなこのレベルをクリアしている。そして採用に至る外国人はみな優秀である。通常のエンジニアとしての能力の他に日本語も習得しているわけであり、その努力には頭が下がる思いがする。

 翻って我が社の社員を見てみると(優秀な社員ももちろんいるのだが)、なんとなくのんびりしている者が多い。エンジニアは技術者であり、勉強が必要ではあるが、この勉強をあまりしていない者が多い。必要な範囲内ではしているのだろうが、貪欲にさらなる向上を目指してというほどではない。「資格にチャレンジします」と言っても、それは「取れれば取ります」という感じで、「何が何でも取ってみせます」という覚悟のほどではない。勉強に向き合う姿勢が違うのである。いわゆる「ハングリー精神」というものが顕著に違うのである。

 考えてみればそれも当然の事で、そもそも我が社の外国籍社員には「外国へ行って仕事をしよう」という強い意思があるわけである。何となく学校を卒業して、働かないといけないので就職して、というレベルとは次元が違う。「外国人だから優秀」というわけではなく、「優秀な外国人」が来日しているのである。それはミャンマーのように国内の政情不安から逃れて少しでも明るい未来を目指してという人もいれば、韓国や中国もそれぞれ自国に限界を感じての国外脱出であろう。言葉に不自由しない自国を出て、単身外国に行こうという決断は、考えれば大変だと思う。我が社に入社したメンバーには幸福をつかんでほしいと思う。

 日本の労働力不足も新聞で読むだけの現象ではなく、身の回りの現実である。そしてそれを外国人が埋めている。我が社の例だけではなく、飲食店やコンビニに行けば当たり前のように外国人が働いている。温泉地の旅館に泊まればそこにも外国人の仲居さんがいる。政府もそんな現実を踏まえ、移民政策の転換というのではなく、現行の制度内で門戸を開放しているように思える。私もかつては外国人が増えれば日本の繊細な文化が破壊されると思って移民には反対していたが、目にする外国人はみな日本の繊細な文化に馴染もうとしているように思える。何となく以前感じていた移民に対する考えは杞憂だったのかもしれないと思える。

 もちろん、例外もいる。交通法規がわからなかったのか、事故を起こす外国人のニュースはちょくちょく目にするし、刑法犯罪でも然り。しかし、だから外国人はダメというのもおかしなもの。日本人だろうが外国人だろうが人が増えれば事故も犯罪も増える。それをもって外国人はけしからんというのもおかしいだろう。ただ、物価の上昇に与える影響については歯がゆいものがある。都内の地価上昇には海外からの投資マネーが影響しているという。高値でもポンポン買うからマンションなども値上がりする。必然的に普通の庶民が手を出せなくなってしまっている。

 聞くところによると、ニューヨークではラーメンが一杯3,000円だと言う。日本に来れば半額以下で食べられる。となれば1,500円のラーメンを食べるのに躊躇しないわけであり、昼食費をいかに減らすかと頭を悩ませるサラリーマンには脅威である。インバウンド価格が浸透したら、とても昼飯を外では食べられなくなる。外国人には大いに来てほしいと思うが、物価高を連れてこられるのには閉口してしまう。日経新聞では中古マンションで億ションが話題に上がっていた。観光客には我が国で大いに気前よく消費していただきたいが、国内向けの価格転嫁はほどほどにしてほしいと思う。

 子供の頃のうっすらとした記憶では、外国人を見かけると「外人だ!」と思うくらい外国人は珍しい存在だったと思う。今はそれは遠い過去の話で、まわりで飛び交う言葉も英語だけではなくなっている。映画『ブレードランナー』ではどこの国かわからない文化がごっちゃになった街が出てきた。SFの世界と思っていたが、いずれ遠くない未来の東京の姿なのかもしれないとふと思う。ラグビーの日本代表チームはおよそ半分が海外にルーツを持つ選手が占めている。いずれ「日本人」が外見ではわからなくなる日がくるのかもしれない。

 そうなっていくのは構わないが、今の日本の居心地の良い文化だけは変わってほしくないと思う。自己主張の文化に謙譲の文化は脇へ押しやられてしまうと思っていたが、踏ん張ってくれるのならどこの国から来た人であろうと気にはならない。今の良き文化を守った「日本人」がこれから先も日本に住み続けてほしいと思う。ついでにきな臭い国際情勢も共存の精神であふれるのが理想的である。残りの人生で、そんな世の中を見られたらと思うのである・・・


Rupert Kittinger-SereinigによるPixabayからの画像

【今週の読書】

  全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  数学の世界史 (角川書店単行本) - 加藤 文元  星を編む - 凪良ゆう






2025年9月23日火曜日

論語雑感 子罕第九 (その12)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子貢曰、有美玉於斯。韞匵而藏諸。求善賈而沽諸。子曰、沽之哉、沽之哉。我待賈者也。
【読み下し】
こういわく、ここぎょくり。とくおさめてこれぞうせんか。ぜんもとめてこれらんか。いわく、これらんかな、これらんかな。われものなり。
【訳】
子貢が先師にいった。「ここに美玉があります。箱におさめて大切にしまっておきましょうか。それとも、よい買手を求めてそれを売りましょうか」先師はこたえられた。「売ろうとも、売ろうとも。私はよい買手を待っているのだ」
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 論語の解釈は難しい。そもそも翻訳も皆同じかというとそうでもない。微妙なニュアンスの違いもあり、それによって本来の意図とは違った意味に捉えてしまうこともあるかもしれない。この言葉もその真意は何であろうかと思う。ただ、美玉があって、それを取っておこうか売ろうかという訳をそのまま受け取っていいのかどうかはわからない。良いものは出し惜しみしてはいけないという事か、それとも価値あるものは取っておくよりも売って現金にして別のものにした方が良いという事なのか、表面的な解釈だけでは難しいところである。

 しかしながら、ここでは解釈ではなく雑感なのであり、かつ孔子の真意はわかるはずもないので気にしないことにする。取っておくか売るかはなかなか難しい問題である。価値あるものであれば取っておこうとするのが真実であり、売るということはその反対。そのものよりも現金の方に価値を置いているわけである。なぜならば、現金よりもそのもの自体に価値を置いていたら売ることはない。「いい値段がついたら売る」というのも同様。ある一定の金額に達した時点で、そのもの自体よりもお金の価値が勝ってしまうから売るのである。

 今回、私は妻と別居するに際し、徹底的に断捨離を実施した。実家がモノ屋敷になっており、私のものを持ち込めないという事情もあってである。昔から録画しておいたビデオテープがその最たるもので、すべて捨ててしまった。唯一、大学時代の試合のビデオだけはDVDにコピーしてもらうサービスを利用してDVDにした上で捨てた。続くは本であるが、これも後生大事に本棚に入れておいたのを捨てた。ビジネス系はもしかしたら息子が読むかもしれないと思って残したが、それ以外はかなり捨てた。売ることも考えたが、買取サービスを利用しても買い取ってもらえたのはほんの一部であった。

 ブックオフに持って行って売ろうかとか、Amazonのマーケットプレイスで売ろうかとも考えたが、手間暇を考えて捨てることを選んだ。お金よりも手間に価値を置いたのである。もっともそれが「美玉」かという問題もある。しかし、「美玉」であるかどうかも個人の価値観による。これまで捨てずに取っておいたのは、その古本に世間では認めない(タダでも引き取らない)価値を他ならぬ私自身が認めていたからである。それがここにきて売ろうと決めたのは、その価値の賞味期限が切れたということなのかもしれない。1年前だったら、売ろうとは思わなかっただろう。

 私には残念ながら美玉(世間一般に価値あるものとして通じるもの)と言えるようなものはない。ただし、個人にとって貴重なものならある。子供達が幼稚園の頃、私の誕生日に描いてくれたたどたどしい筆跡で書かれた言葉と絵の描かれた用紙は一生捨てることはないだろう。父にもらった時計も(42年経ってもまだ動いている)同様である。幸か不幸かブランドものに興味がないのが美玉がない理由であるが、お金のなかった時代(今もそんなにあるわけではないが)は読んだ本は片っ端から売っていたこともあったが(その時でも売らなかったものが残っている)、今はもうお金より手間である。

 そう考えてくると、美玉とは本当に美玉なのだろうか。本当に価値あるものなら手元に置いておきたいと思うのが自然であり、売ってもいいと思うのはお金よりも価値がないということに他ならない。お金より価値のないものが美玉なのか、それとも高い金額がつくものが美玉なのか。子貢が孔子に見せた美玉がどんなものだったかはわからない。ただ、孔子が嬉々として「売ろう」と言ったという事は、孔子にとっては本当に価値あるものではなかったのではないだろうか。そんな風に思うのである・・・


PetraによるPixabayからの画像


【今週の読書】
 監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹 潤日(ルンリィー)―日本へ大脱出する中国人富裕層を追う - 舛友 雄大 数学の世界史 (角川書店単行本) - 加藤 文元  星を編む - 凪良ゆう





2025年9月18日木曜日

どんな本を読んだらよいのか

 読書の効能はいたるところで語られているから、今さら改めて強調する事でもない。私自身これまで多くの本を読んできた。その中には読み直したいと思える本もあれば、読んだことすら忘れてしまった本もある。何で読書がいいのかと改めて考えてみると、たぶん、今の自分の思考の基礎になっているからと言えるだろう。会社で問題が起こった時、あるいは社長に何かを相談された時、その時の自分の対応、受け答えについて「何でここでそう考えるのか」と自分に問うと、その答えはたぶん「過去の読書の蓄積」としか言いようがない。読書によって積み重ねられてきたいろいろな考え方の集大成だろうと思うのである。

 今、大学生の息子はあと2年すれば社会に出て行く。その時、是非とも読書の習慣をつけるようにアドバイスしたいと考えている。ただ、どんな本を読んだらいいのかと聞かれたら、何て答えるか。それはちょっと悩ましい。と言うのも、先にも述べた通り、自分でもこの本が良かったというのは特にない(まぁ、何冊かはあるにはある)。基本的に時代も違うし、まったく同じ本を読めばいいというものでもないだろう。これから出てくる良本もあるに違いない。時代を経ても古びない本もあるから、そういうのは勧めてもいいだろうと思う。アドバイスできたらいいと思うのは、1つは「本の選び方」かもしれない。

 自分は極めて乱読である。ビジネス書から文学小説までその時々によってさまざまである。最近はもう学びつくしたというわけではないのだが、ビジネス系は減って哲学や自然科学系の趣味に走る事が多い。大まかに読書の分野を「ビジネス・仕事術系」・「思考・考え方系」・「お金・ライフスキル系」・「自己理解・キャリア系」と分けてみると、「仕事術」・「お金・ライフスキル系」・「自己理解・キャリア系」はもういいかなという気がする。「思考・考え方系」はこれから学ぶという部分もあるが、(自分の考え方が間違っていないか)確認という意味合いも強い。

 これから社会に出るのであれば、すべてまんべんなく読むべきだろう。小説だからビジネスに関係ないという事はない。物語の中での登場人物の行動によって学ぶものもあるだろうからである。そういう意味で、手あたり次第本を読んできた感のある私であるが、数撃ちゃ当たる理論でいろいろ読む中でこれといった本からさまざまな知識、思考を少しずつ身に着けてきたとも言える。息子にもそんな読み方でいいと思うが、それはそもそも私が読書好きという面もあったところもある。そうでないと絞って読むとなるが、それでも読まないよりははるかに良い。

 今は会社の採用担当(入社してからの新入社員研修期間は育成担当でもある)という立場を利用して、内定者には「入社までにビジネス書を1冊読破する」という義務を課している。それによってビジネス書に接する機会を強制的に設けている。本の購入費用は会社持ちとしている。大半の社員が初めてビジネス書を読むようだが、それによってビジネス書という存在に気づいて、できれば以後は自分で読んでほしいと思っての強制である。残念ながら、それ以後も読んでいるという社員は極めて少ないが、これはこれで続けていきたいと考えている。

 息子にも同じ事を考えている。社会人になってからというよりも、学生のうちから少しでも触れていればと思い、1冊手渡した。入学直後という事もあって、モチベーションも高かったのだろう。素直に1冊持って行ったが、入学から時間が経ち、授業や部活やアルバイトなどが始まる中で、どうやら意欲も薄れてしまったようである。まぁ、それはそれで仕方ない。それでも「就活」なんて言葉が出てくるから、もう少ししたらもう一度勧めてみたいと思う。多少なりとも読んでいれば、面接での受け答えも違うのではないかと思ってみたりする。

 自分もまだまだ学び続けたいと思うし、学び続けないといけないとも思う。当然、自分でも読み続けていこうと思うが、先にも述べた通り、これぞという分野が狭まっているのが事実。あまり興味のないまま読んでも為になるかという事もあるし、悩ましいところ。それでもいろいろな人が経験や学んだところを語ったものなどはまだまだ興味深い。いわゆる「思考・考え方系」であるが、これはアンテナを張っておきたいと思う。この分野は尽きる事がないと思う。いろいろな人がいろいろな考えを発信している。その人なりの経験から得られた考えであり、自分の狭い世界だけではなく、そういう人の経験も自分の肥しとなるのであれば何よりである。

 わずか2,000円前後の金額でこういう考え方に触れられるのなら安いものである。父親として息子に何をしてやれるか、何を残してやれるかと考えた時に、金銭的な財産は残念ながら心もとない。その代わり、自分で生き抜いていくための知恵を得る方法についてはできると思う(本人が受け入れてくれればであるが)。自分が無駄に生きていなかった証としても、是非とも実践したいと思うのである・・・


isaiah KimによるPixabayからの画像

【本日の読書】
監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  数学の世界史 (角川書店単行本) - 加藤 文元  潤日(ルンリィー)―日本へ大脱出する中国人富裕層を追う - 舛友 雄大






2025年9月14日日曜日

捨てられないのは・・・

いよいよ妻との別居にあたり、家を出るまであと1週間ほどとなった。今日は1日引っ越しの準備である。と言っても男1人であり、それほど荷物があるわけではない。よくよく考えてみると、家の中のものは大半が妻のものか共有のものである。共有とは、テーブルやソファやテレビや冷蔵庫などのものである。よって私の持ち物として実家に持って行くものは、机と本棚(とその中の本)、パソコンと愛用の枕とエアーウィーブのマットレス等々である。1人で運べないのは机だけで、車で2〜3往復すれば済んでしまう。

 と言ってもすべて持っていくのは困難である。それは労力というより受入側、すなわち実家の事情である。37年前に就職して実家を出た時には家族4人で住んでいたのであるが、今は両親だけなのに私の帰るスペースがない。そこを占拠しているのは、布団や母の服やその他諸々のもの。我が母は典型的な「捨てられない症候群」であり、とにかく捨てないので、この37年間に溜まったものが家の中に溢れかえっているのである。「ゴミ屋敷」というほどではないが、言ってみれば「モノ屋敷」なのである。

 当然ながら母に片付けを促したが、なかなか腰が重い。ならばと手伝おうとするが、それには真っ向から反対する。捨てようと思うと強固に反対する。「私がやるからいい(と言ってやらない)」と言うのである。明らかに着ない服も「着る時がある」と言うし、使わない物も「誰かにあげる」と言うし、それでここのところ毎週帰るたびに口論となっていた。そしてとうとう「捨てるのは切ない」という事になった。こうなると私ももう強くは言えない。

 母は自分でもよく分かっているが、モノのない時代に育ったため、モノを大切にしないといけないと心に染み付いている。私も本当なら気楽な一人暮らしがしたいのであるが、生活もままならなくなってきた老齢の両親を放置できずの同居である。一応、「住まわせてもらう」立場であり、偉そうなことは言えない。よってなるべく持ち込むモノを少なくしないといけない。というわけでの断捨離である。少ないといえども、片付け(捨てるものの選別)を始めるとかなりある。

 一つ一つ考えていると捨てられなくなる。それぞれに思い出があり、手に取るとその思い出が蘇ってくる。そうすると、「もう少し取っておこうかな」と思うのである。それではいけないので、「原則捨てる」と決めてゴミ袋に突っ込んでいく。古いPCや本は無料の引き取り、買い取りを併用する。学生時代から使っている辞書も捨てる。今やネットで代用できる。フロッピーディスクはもう見たくても見る方法がない。ビデオテープも同様。本もいつかもう一度読みたいと思って本棚に入れておいたが、どうしてもとあれば図書館で借りればいいと割り切って捨てる。

 次々に手放していくのは、腹を決めれば簡単。しかし、一つ一つの思い出を手放すのは、身を剥がれるような気分になる。簡単に家を出ると決めたが、そもそも初めて自分で建てた家である(建てたのは大工さんだが)。毎日、仕事帰りに遠回りして家が建ち上がっていくのを見たものである。子供たちの成長の場であり、いい思い出がたくさんある。今更ながら家を出るのは切ない思いがする(とは言え、妻とはもうこれ以上一緒に暮らすのには耐えられないので仕方がない)。

 そうして1日、身を剥がしていったら、心が疲れてしまった。まだまだ残りはある。1日では終わらない。実家に戻ったら、もうモノを増やさないようにしようと思う。それにしても一つ一つのモノを手に取ると、忘れていた思い出が不思議と蘇ってくる。人間の脳みそには限界があり、すべてを記憶して置くことは不可能である。だから一部はモノに託して外部保存するのだろう。そうしてそのモノを手にした時にその記憶が蘇るのである。という事は、モノ屋敷に溢れかえっているモノはみんな母の外付けハードディスクみたいなものなのかもしれない。

 父は先日、長年愛用したステレオを手放した。50年前に買った時は中古で35万円したそうである。たぶん、大きな決断だったのだろうと思う。そして買ってから、いろいろとレコードを聴いて気分転換したのだろう。父のそんな姿を想像する。私もそのステレオで父のレコードを聴いたりRCサクセションのレコードを聴いたものである。大きな場所を取っていたため、引き取ってもらってスッキリした。わずか500円で引き取られていったが、私の方が切ない気がした。

 断捨離も確かに大事であるが、モノにはその持ち主の外部記憶装置として機能がある。もはや単なるモノではなく、その人の記憶保管装置だとしたら、それを簡単には捨てられないだろう。建前上は実家に「戻らせてもらう」立場であり、そこはわきまえないといけないと思う。当面は狭いスペースでの不自由な暮らしを強いられるが、溢れかえったモノは母の外付けハードディスクだと思ってスペースを譲りたいと思うのである・・・


Michal JarmolukによるPixabayからの画像


【今週の読書】
 監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  数学の世界史 (角川書店単行本) - 加藤 文元  モンゴル人の物語 第一巻:チンギス・カン - 百田 尚樹 潤日(ルンリィー)―日本へ大脱出する中国人富裕層を追う - 舛友 雄大





2025年9月10日水曜日

上司は顧客

自分は会社という場所に「自営業」をするために来ているというふうに思う 

柳井正

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 どこもそうだと思うが、我が社も経営幹部人材の育成に力を入れている。しかし、「経営」の考え方をすんなりと受け入れられる者とそうでない者とがいる。自分の中にある思考のフィルターがあって、こちらの考えがスムーズに入る人と撥ねてしまう人がいるのである。スムーズに入る人は成長も早い。我が社の場合、基本的にみんなエンジニアの出身である。しかし、エンジニアとしての能力と管理職としての能力は別物。優秀なエンジニアだからといって優秀な管理職となるわけではない。ここで躓く社員も多い。その原因はその人の思考フィルターである。

 エンジニアとしては優秀で、現場で部長になり、そのまま取締役になった者がいる。しかし、頭の思考回路はエンジニアのままで、思考フィルターはエンジニアのまま。経営の思考をはねのけてしまい、最後の最後まで変わる事はなかった。そんな人物を取締役にしたのが間違いなのであるのだが、中小企業の場合、どうしても会社法で定める最低取締役人数をクリアする必要があり、しばし、そういう人物を取締役にせざるを得ないこともある。本人を責めるのも酷な話ではあるが、結果的には退任となってしまった。

 その時にいろいろ議論する中で、「社長とは意見が違う」という発言がしばしばあった。意見が違う事自体おかしなことではない。しかしながら、後藤田5訓にもある「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」というのは取締役以下、社員すべてにあてはまることである。決定するまでは積極的に意見具申するべきであるが、決定が下ったらあとはそれがあたかも最初から自分の意見であったかのように実行に移さねばならない。「気に入らないからやらない」ではダメなのである。

 そもそも冒頭の言葉はなかなか深いと思う。我々は自らの労働の対価として顧客からお金をもらい、働いた報酬として給料をもらう。その基本は顧客も上司も同じである。なんでも言われるままにする必要はないが、そこは交渉で相手が納得すればこちらの都合の良いようにできるし、そうでなければ相手にあわせるしかない。それが嫌なら「取引しない」=「お金をもらわない」という選択肢がある。お金をもらいたければ相手にあわせたサービスを提供するしかない。

 自営業者はそうして1人で仕事をしているのであり、それはサラリーマンとして働く1人1人にも当てはめられる事。上司を顧客だと思って相手の要求するサービスを提供してその対価として「評価」=「給料+賞与」をもらうわけである。相手を否定していれば、そもそも取引は成り立たない。私は「給料は『もらうもの』ではなくて『稼ぐもの』」という言葉が好きなのであるが、自分が持てる力を発揮してその対価として給料を稼ぐという「自営業的サラリーマン」という態度が誰にでも必要であると思う。

 私の父は長年自営業で印刷業を営んでいた。誰も頼りにできない中、顧客から注文を受け、黙々とそれをこなしていた。幸い、腕が良かったせいで注文が途切れるという事はなかったようであるが、自営業は先の保証など何もないわけで、その点、仕事がなくても給料がもらえるサラリーマンとは違う。だからサラリーマンは気楽に仕事をするというのではなく(まぁ中には気楽に仕事をしたいという意識の低いサラリーマンもいるだろうが)、自営業者のように自分で給料を稼ぐという意識を持つべきである。その時に必要なのが「上司は顧客」という考え方だろうと思う。

 私には父のように自営業をやる度胸などないが、かと言ってサラリーマンという立場に甘えたくはない。サラリーマンには自営業ではできない仕事もあり、サラリーマン自体悪くはないが、自営業者に対して胸を張れる働き方はしたいと思う。それが自営業的サラリーマンであり、具体的には「上司は顧客」という意識での働きだと思う(取締役は厳密に言えばサラリーマンではないのだが・・・)。それはおべっかを言うことではなく、卑屈に何でも言うことを聞くことでもない。常に自分なりの考えを持ち、積極的に意見具申し、その上で「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」というスタンスであると思う。

 自分はそういう意識で働いているが、今後は経営幹部育成に当たってそういう意識をみんなに植え付けていきたいと思う。そういう幹部が育てば、我が社も先行き安泰である。これまでは「自分が」という意識で良かったが、これからは「自分以外」にもそれを広げていきたいと思うのである・・・


Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像


【本日の読書】

 監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  数学の世界史 (角川書店単行本) - 加藤 文元  モンゴル人の物語 第一巻:チンギス・カン - 百田 尚樹





2025年9月7日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その11)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子疾病。子路使門人爲臣。病間曰、久矣哉、由之行詐也。無臣而爲有臣。吾誰欺。欺天乎。且予與其死於臣之手也、無寧死於二三子之手乎。且予縦不得大葬、予死於道路乎。
【読み下し】
やまいへいなり。子路しろ門人もんじんをしてしんたらしむ。やまいかんなるときいわく、ひさしいかな、ゆういつわりをおこなうや。しんくしてしんりとす。われたれをかあざむかん。てんあざむかんや。われしんてんせんよりは、無寧むしろさんせんか。われたと大葬たいそうざるも、われどうせんや。
【訳】
先師のご病気が重くなった時、子路は、いざという場合のことを考慮して、門人たちが臣下の礼をとって葬儀をとり行なうように手はずをきめていた。その後、病気がいくらか軽くなった時、先師はそのことを知られて、子路にいわれた。「由よ、お前のこしらえごとも、今にはじまったことではないが、困ったものだ。臣下のない者があるように見せかけて、いったいだれをだまそうとするのだ。天を欺こうとでもいうのか。それに第一、私は、臣下の手で葬ってもらうより、むしろ二、三人の門人の手で葬ってもらいたいと思っているのだ。堂々たる葬儀をしてもらわなくても、まさか道ばたでのたれ死したことにもなるまいではないか」
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 孔子と弟子との葬式に対する話である。孔子は謙虚に大層な葬儀など不要と言っている。しかし、弟子は盛大な葬儀を行うことこそが、師に対する礼だと考えている。もっとも日本人の感覚では存命中に葬儀の準備をするのはいささか礼に欠けるように思われるが、中国人の感覚ではそうではないのかもしれない。そもそもであるが、葬儀は誰のためのものかという思いはある。死者のためと言っても、当の本人は死んでいるからわからない。もっとも、霊魂か何かがそこに存在していて、それを成仏させるためというのであれば本人のためと言える。しかし、みんなそういう意識があるかと言えば疑問である。

 では葬儀は残された者のためなのだろうか。これはそういう面もあると思う。故人との最後の別れになるので、何もしないより何か形式があった方が締まりがあるというのも事実。何かにつけての「儀式」の重要性はいうまでもない。地位のある人だと参列希望が多く、盛大に執り行われるということも多い。それは「故人とのお別れがしたい」という希望に対する遺族の答えだとすれば納得もいくが、一方で「義理で」葬儀に参列するというケースもある。それだと「故人とのお別れがしたい」わけではないので、どうなんだろうという疑問が湧く。

 私は葬儀に行くのが好きではない。好き嫌いで言えば好きな人などいないだろうが、いくら親しい人でもできれば行きたくない。それは故人との最後の別れをしたくないというわけではない。1人静かに故人を思って、葬儀の後もたまに思い出したりして故人を偲ぶという気持ちはある。ただ、葬儀にだけは行きたくない。個人的に親しかったというようなケースは別として、友人のご家族が亡くなったというようなケースでは義理の部分が強い。なんとなく「行かないと悪い」という気持ちであるが、そんな気持ちで参列していいのだろうかと思う。

 大勢の人が葬儀に来てくれると、遺族としてはありがたいと思うのであればそれもいいだろう。しかし、日本の場合は葬儀ともなれば葬儀社との打ち合わせや参列者への返礼品の用意など、おちおち悲しんでいられないというケースも多い。そんなことを考えると、行かない方がいいようにも思う。故人に対する思いの表現方法であるが、それは何も葬儀に参列することだけではないと思う。葬儀に行かないというと、何やら非情に思われるかもしれないが、大事なのは形式ではなく心だと信じるので、故人に対する思いがあれば葬儀に参列する必要はないと個人的には思う。

 そんな偏屈で天邪鬼な私だから、自分の葬儀は仏教色を廃し、シンプルにと思っている。直接火葬場に身内だけで集まって最後の別れをして焼いてくれればそれでいい。訳のわからないお経もお寺の小遣いになるお布施も不要、お釈迦さまの弟子にしていただかなくて構わないので戒名も不要。ただ、焼いて骨を両親の墓に入れてくれればそれでいい。もちろん、初七日だとか三回忌だとかの儀式も不要である。気持ちがあるなら、時々思い出してくれればそれでいい。生きている人が時々思い出してくれれば、それが続く限りは私の存在感もこの世に残るように思う。

 葬儀は故人と残された者との思惑の結果決まってくるのだと思う。ただ、そうは言いつつ、自分の両親の葬儀は多分仏教形式でやるだろう。それは私も「葬儀の主役は故人」と考えるからで、特別な遺言がない限りは「普通」にやるだろう。しかし、順調にいけば私の葬儀は子供たちが喪主になるだろう。その時は戸惑わせるかもしれないが、上記の通りシンプルにやって自分がどういう人間だったを最後の最後に示したいと思う。それが自分たちの父親だと子供たちには改めて思わせることになるだろう。堂々たる葬儀でなくても、そんな自分の葬儀を想像すると頬が緩んでしまう。そのためには遺言を早めに残しておかないとと思うとともに、それによって自分の証を示そうに思うのである・・・


Carolyn BoothによるPixabayからの画像


【今週の読書】
 監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る (ブルーバックス) - 藤井一至  数学の世界史 (角川書店単行本) - 加藤 文元  モンゴル人の物語 第一巻:チンギス・カン - 百田 尚樹





2025年9月3日水曜日

1人旅

 夏休みは結局、家族と行動を共にする事はなく、1人で自由に過ごした。子供も大きくなると親とは遊びたがらなくなる。不仲の妻とはなおさらであり、これから迎える老後もおひとり様を前提に考えていく事になる(まぁ、離婚後に新たなパートナーを見つけるかもしれないが)。子供が小さい頃は、沖縄やグアムといったところをはじめとして毎年国内外にいろいろと家族旅行に行っていたが、それ以外にも週末は近所のプールへ行ったりとよく子供たちと過ごした。いま改めて思い返してみれば、そういう時間を持てて良かったと思う。結果はともかく、結婚して良かったと思えるところである。

 それはそれとして、今後のおひとり様の生活であるが、1人で過ごすのはまったく苦にならない性分なので、悲観はしていない。むしろ楽しみでもある。やってみたい事の1つは、やはり旅である。独身時代は何度か海外へ1人旅をした。香港、シンガポール、フィリピンであるが、いずれも現地に友人、先輩がいたので、それを訪ねて行ったのである。しかし、彼らも日中は仕事があるので、むしろ夜合流しただけで、日中は1人で見知らぬ土地を1人で歩き回ったのだが、なかなかいい経験であった。寂しいという感覚はなく、むしろ誰かと一緒だと行動が制限される部分もあるから、1人は自由で気楽であるのがいいと思っている。

 今年の夏休みは母と叔母を連れて恒例の万座温泉に行ったが、ふと見れば温泉宿に1人で来ている人を何人か見かけた。食堂では部屋単位でテーブルにつくため、1人だけで座っている人はそれとわかるのである。母もいつまでも連れていけるわけではない。いずれは1人で来るのもいいなと、見ていて思ったのである。湯治と称して4〜5日逗留してもいいかもしれない。それは何とも贅沢に思える(それで贅沢に思えるのだから庶民的であると改めて思う)。考えてみれば、1泊なら普段の週末でも行けるわけであり、これからはそういう自由もあるのだと改めて思う。

 海外旅行にもまた行きたいと思う。とりあえずのターゲットは2027年のオーストラリアだろう。ラグビーのワールドカップがあるので、それにかこつけて行くのもいい。おそらく知り合いも何人かは行くだろうから現地で一緒に観戦すれば、ラグビー談義に花を咲かせ、その後はまた1人で楽しむという過ごし方がいいだろう。もちろん、現地集合、現地解散のパターンである。オーストラリアには大学の卒業旅行で行って以来である。また行くとなると、いまからワクワクする。

 他の人はどうなんだろうかと考えてみる。何となくであるが、あまり1人で過ごすのを好む人は少ないように思う。旅行に行くにも友人を誘ってというパターンが多い気がする。見知らぬ土地で観光をしたり、地元のおいしいものを食べたり、そういう体験を共有して楽しむために誰かと一緒の方がいいとみんな思うのだろう。それを否定するつもりはないし、私も子供が小さい頃は家族で行くのが一番だと考えていた。それは今でも変わりない。ただ、できないのであればセカンドベストを追及するのが筋であり、それが私にとっては1人旅なのである。

 旅先は海外に限るわけではなく、国内も然り。また旅とは言わなくとも近距離でも同じである。この夏は群馬県立自然史博物館に行ってきたが、途中で予定を変更し、昼食も臨機応変。予定外に買い物までしてしまったが、一々同行者の意見を聞く必要もなく行って帰ってきた。1人の自由を改めて実感したところである。そう言えばシンガポールに行った時も、インド人街に行き、入った飲食店で日本人だと名乗ると珍しがられた。ガイドブックにも載っていないところで、地図を見ていてふらりと行ってみたくなったのである。おそらく同行者がいたら行けなかっただろう。

 同行者がいる旅行もそれなりにいいとは思う。独身の友人は何人もいるし、そういう友人と旅行に行くというのもあるかもしれない。ただ、海外へ行ったなら、ホテルで朝食を食べるよりもふらりと街中に出て行ってローカルの人たちが行くようなところでその中に混じって食べてみたいと思う。香港に行った時は毎朝泊まっていた先輩の家の近所の町中華?で地元の人に混じって飲茶した。夕食も然り。ガイドブックに頼らず、今だったら現地のSNSで調べたところに行ってみるとかしたら面白そうな気がする。いずれそういう旅をしようと思う。

 結婚した時に漠然と想像した老後の生活とはだいぶ違ったものになるが、それはそれでいいように思う。とは言え、両親の現在の姿を見ていると80代後半になるともう1人旅は無理かもしれないと思う。健康と体力次第だろうか。猛烈な勢いで減っている気がする「残り時間」であるが、それを意識して自由気ままな1人旅を楽しみたいと思うのである・・・

Joshua WoronieckiによるPixabayからの画像

【本日の読書】
 監督の財産 (SYNCHRONOUS BOOKS) - 栗山英樹  土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る (ブルーバックス) - 藤井一至  モンゴル人の物語 第一巻:チンギス・カン - 百田 尚樹