【原文】
子欲居九夷。或曰、陋、如之何。子曰、君子居之、何陋之有。
【読み下し】
子、九夷に居らんと欲す。或ひと曰く、陋なり、之を如何せん。子曰く、君子之に居らば、何の陋か之れ有らん。
【訳】
先師が道の行われないのを嘆じて九夷の地(東方の未開の地)に居をうつしたいといわれたことがあった。ある人がそれをきいて先師にいった。「野蛮なところでございます。あんなところに、どうしてお住居ができましょう」すると先師はいわれた。「君子が行って住めば、いつまでも野蛮なこともあるまい」
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この短い言葉にはいろいろと考えるべき点が含まれている。孔子が1人道を説いても周りに受け入れられず、未開の僻地に行こうという心境になっている事がひとつ。未開の地など行っても野蛮で何があるかわからないと案じる弟子に、孔子は自分が行けば状況は改善できると語るのがもうひとつ。でもそれならなぜ居を移したいと思ったのか。未開の地を切り開くと思えば、根気強く道を説けばいいではないかという気がしないでもない。また、自分が行けば野蛮な人たちも啓蒙できるという自信。まぁ孔子だからそう言えるのだろう。
日本はもう先進国であり、国内に未開な地はないと言っていい。田舎で何もないところは至る所にあるだろうが、野蛮な人たちが住む場所などないだろう。今はそんなこともないが、その昔、1つ年上の従兄弟が住む長野県にある御代田というところに毎年遊びに行っていたが、特に教育環境という点では東京とずいぶん差があった。大学進学率は東京より低く、従兄弟も高卒で就職した。それは父方の同じ長野県の富士見に住む同い年の従兄弟も同様で、当然のように大学を受験して進学した私に対し、2人とも高卒で就職した。
1つ年上の従兄弟とは友達も私と遊んでくれていたが、みんな高卒で就職した。そもそも進学などしないから高校時代もそれほど勉強しない。だからバカだという事ではなく、やはり受験を意識してそれなりに鍛えられている東京の同級生たちと比べるとそもそもの話題も興味の対象も違っていた。私が東京の同級生たちからではなく、従兄弟とその友達との付き合いで酒とタバコと女(の子とのませた話題)を学んだことからもそれはわかる(実にありがたい教えであった)。それはおそらく「教育レベルの差」なのだと思う。
当時の私にとって、御代田で休みの間過ごした経験は、言ってみれば「二つの世界の体験」であり、実にいい経験だったと思っている。孔子の時代の中国は、今の日本とは比べ物にならないくらい都市と地方との差はあっただろう。それこそ都会の人間から見れば地方の未開の地に住んでいる人は野蛮人のように思えたのかもしれない。そんな中で、孔子は自分が行けば大丈夫だと語ったのは、自分がその地の人を啓蒙できるという自信があったからなのだろう。その根拠はよくわからないが、人は自分の知らないことを知っている人には一目置く傾向があるから、それで啓蒙できるという自信と経験があったのかもしれない。
私も今の会社に転職してきた時、取締役会がどうもおかしいと気がついた。それは当時2人いた取締役の考え方が、取締役の本来のそれとはズレていたのである。そこであれこれと工夫を凝らし、本来取締役としての考え方などに気づいてもらえるように仕向けてきたが叶わず、私も入社して同じ取締役になり、慣れてきたこともあって最後は直接ストレートに伝えてきたが、それで限界を感じたのか、最後は自ら退任した。とうとう最後まで考え方を変えさせることはできなかった。人は考え方をなかなか変えられるものではないのである。
孔子が未開の地の人たちをなぜ啓蒙できると自信を持っていたのかはわからないが、人の心を動かす何かがあったのかもしれない。人の心を動かすものがあれば、自らの考え方を広めていくことができる。それが世界的な宗教が広まっていった理由でもあるし、そういうものは(私にないだけで)確かにあるのだろう。そういう影響力を自分も持ちたいと思う。それには他人の心を理解し、相手の立場や考え方を尊重しながらも自分の意見をわかりやすく伝えられるようでないとダメなのであろう。
どんな人の間に入っていっても、自分の考えをしっかりと相手に伝わるようにして一定の影響力を持つことができるように私もなりたいと思う。まだまだ発展途上であると謙虚に認識し、そんな自分になれるように努力していきたいと思うのである・・・
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Baptiste LheuretteによるPixabayからの画像 |
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