2024年2月25日日曜日

大事なことはタックルから学んだ

 よく「大切なことは◯◯が教えてくれた」というような本を見かける(『人生で大切なことはすべてスラムダンクが教えてくれた』、『人生で大切なことは手塚治虫が教えてくれた』等々)。それらはみんな真実だと思うが、人は誰でも何かを一生懸命やっていると自然とそこから学びを得られたりするものだと思う。それが例え「スラムダンク」であろうと、犬であろうと亀であろうと学べるものなのだということなのだろうと思う。そんな自分にも何かあるだろうかと考えてみると、一つにはやはりラグビーである。特に象徴的なのはタックルだろう。

 タックルはラグビーを象徴するプレーである。他の球技では基本的に人と人の接触はないように行われる。同じフットボールでもサッカーのタックルは「ボールを奪う行為」であり、せいぜい相手選手の肩に自分の肩を当てる程度である。バスケットボールも野球もボールを持っている相手を倒すような行為は反則である。激しくぶつかり合うという意味ではアメフトも同様であるが、ボールを持ってゴールへと向かう相手を体を張って止めるというところはラグビーの大きな特徴である。

 同じぶつかり合いではあるものの、ボールを持っている攻撃側は実はほとんど抵抗感がない。しかし、ディフェンス側のそれをタックルする方は抵抗感が大きい。私も高校でラグビーを始めた頃、ボールを持って相手に当たる行為は大好きであったが、タックルの練習は嫌でたまらなかった。なぜだろうかと考えてみると、主導権は攻撃側にあり、タックルする方はそれを「受ける」という形になるからだろうと思う。走り込んでくる相手に向かっていくのは勇気のいる行為である。

 私も高校時代は自分は攻撃型のプレーヤーだと思っていて、タックルには苦手意識しかなかった。しかし、大学に進みポジション争いが激しくなるとそんなことは言っていられない。タックルのできない選手が試合になど出られるわけがない。否が応でも練習せざるを得なくなった。練習を繰り返せば考える。「どうすれば倒せるか」、「どうすれば痛くないか」。教えられたことを試し、一流選手の試合を見て参考とし、自分でもいろいろと考える。そうするうちに自分なりのスタイルが出来上がり、いつしか苦手意識は無くなっていった。

 タックルで一番大切なのはなんと言っても「ハート」だろう。アドレナリン全開で「相手をぶっ倒す」と相手に向かっていく「ハート」である。これがないといくらテクニックを学んでもダメである。逆にテクニックなどなくても「ハート」があれば相手を倒せる。そこで大事なのは、あくまでも「ハート」であり、言い換えれば「怯まない心」とでも言えるかもしれない。ラグビーはぶつかり合いであり、体格差の影響が大きい。しかし、体格で負けてもハートで負けなければ大丈夫である。

 今のシニアチームに入ってまもない頃、試合で突進してきた相手にタックルに行き、見事に吹っ飛ばされたことがある。走ってきた相手の勢いと体重差ともあって正面から行っても跳ね飛ばされたのである。しかし、試合後、まだ話したことのなかったチームメイトから「ナイスタックル!」と声をかけられた。相手に吹っ飛ばされたのに「なんで?」という疑問が湧いたが、勢いと体重差で負けたのは仕方ないが、正面から止めに行った姿勢を評価してくれたのである。「体を張って止めにいく姿はチームメイトに勇気を与える」とも言ってくれた。意識はしていなかったが、そういう風に取ってもらったのは嬉しいことであった。

 そこは自分としても大事にしている。タックルに行って負けるのは仕方ない。しかし、大事なのは「怯まずタックルに行けたか」である。胸を張ってそう言えるなら、結果は仕方ない。また次頑張ればいいのである。その「怯まない心」は仕事でも私生活でも自分の基本になっていると思う。仕事でも自分の意見を言う時、上司であっても怯まずに自分の意見を言える根底には「怯まない心」があるように思う。電車の中で理不尽な言い掛かりをつけられた時も然りである。

 そうした「怯まぬ心」は、自分の考え方や行動における大事な基本になっていると思う。結果を気にしてあれこれ悩み惑うことは、私の場合それほどない。「ここは自分としてこうする」と決めたら怯まないでいられるのは、考えてみればタックルで培った精神なのかもしれない。他人から見たら大した事はないかもしれないが、そんな風に思うのである・・・

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【今週の読書】

イーロン・マスク 上 (文春e-book) - ウォルター・アイザックソン, 井口 耕二 教誨 - 柚月裕子








2024年2月23日金曜日

沖縄出張雑感

 2泊3日で沖縄出張に行ってきた。忙しい合間を縫ってのタイトスケジュールでの出張であり、沖縄と言ってもワクワク感には程遠い。まぁ、経費での出張であり、そこはやむを得ない。行きの飛行機に乗り込む。さすがインバウンドか円安か、外国人が多い。英語が飛び交っているのは異国雰囲気がある。席は三列席の窓際であったが、行くと外国人の若い女性が真ん中に座っている。「すみません、よろしいですか?」と日本語で話しかけたが、案の定、日本語がわからなかったようなので、ジェスチャーで示したところ、窓際の席に通してくれた。

 私は、外国人の方に話しかける時、ハワイであれば英語で話しかけるが、日本国内であれば基本的に日本語で話しかける。なぜなら、外国人だからと言って全員英語が話せるというわけではないだろうからである。白人であっても、相手はフランス人かもしれないし、ドイツ人かもしれないし、英語がわからないかもしれない。日本語で話しかけて通じれば良し、英語でわからないと返ってきたら、その時こそ英語で話せば良いと思う。もっとも私の英語も小学生レベル(しかも低学年)だから、躊躇するところがあるという理由もある。

 那覇空港に到着し、ゆいレールで移動する。車内にはやはり外国人が溢れている。しかも白人系だけではなく、アジア系もかなり多い。個人的には移民政策には反対であるが、観光客ならいくらでも来ていただいていいと思う。大勢の観光客が外国からやってくるのは、国内消費の活性化にもなり、大いに歓迎したいと思う。困っているなら、ちょっとしたお手伝いくらいはさせていただこうかと思う。しかし、文化が変わってしまうのは避けたいところ、移民政策だけには反対し続けたいと改めて思う。

 ホテルにチェックインする。受付の担当者はたぶんインド人だった。流ちょうな日本語をしゃべるので困ることはないが、聞き取り難い部分はある。それでも日本語は難しいだろうし、かなり努力しているんだろうなと思ってしまう。やはり人手不足なのだろう。そして夕食を食べに近所の沖縄料理の店に行く。席に案内してくれた店員さんはやはり外国人。日本語も問題ないが、外を歩く観光客も外国人が多く、随分国際化が進んでいる。そのうち日本人が少数派になるなんてこともありうるのかもしれないなどと想像してみる。

 1日仕事をし、夜は沖縄の取引先と東京から同行した同業者の社長さんたちと懇親会。終わって「もう一軒」となり、タクシーで移動しようとしたが、「捕まらないから」という理由でゆいレールで移動。タクシーも特に地方で捕まえにくくなっている。GOタクシーなど昔に比べて利用は便利になっているが、「車はあっても運転手がいない」状況らしい。そう言えば、東京でタクシーを利用した時、「規定時間の決まりがあって、それ以上乗りたくても乗れない」と運ちゃんがぼやいていた。働き方改革の悪しき面かもしれない。

 それにしても沖縄は暖かい。2日目は東京でも暖かかったそうだが、沖縄では連日20度を超えている。半袖の人も珍しくない。ちょうどプロ野球の巨人と楽天がキャンプに来ていると聞いたが、それも頷ける。やはり寒いと体が十分に動かず、下手をすると怪我をしたりする可能性もある。しかし、これだけ暖かいと体もスムーズに動かせるだろう。感覚的には春の陽気であり、運動するにはちょうどいい。参加しているシニアのラグビーチームでも沖縄キャンプしてみたいと思ってみたりする。

 3日目に帰京。遊びではないので、ホテルをチェックアウトし、そのまま昼に着く便に乗って午後から出社。覚悟はしていたが、機内を出ると冷たい空気に触れる。しかも雨。この気温差は気分的にめげるものがある。そして机につけばまたいつもの日常。出張期間中にも仕事は溜まっており、余韻に浸る暇はない。出張の成果もこれから出していかないといけない。やはり出張は仕事なので、沖縄に行くならできればプライベートで行きたいものである。

 当たり前だが、そんなことを思いつつ、来週の鹿児島出張の準備をしなければと思うのである・・・

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【今週の読書】

ゴーイング・ダーク - ユリア・エブナー, 西川美樹, 木澤佐登志  魔女と過ごした七日間 - 東野 圭吾






2024年2月18日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その30)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

陳司敗問昭公知禮乎孔子曰知禮孔子退揖巫馬期而進之曰吾聞君子不黨君子亦黨乎君取於呉爲同姓謂之呉孟子君而知禮孰不知禮巫馬期以吿子曰丘也幸苟有過人必知之

【読み下し】

陳ちんの司敗しはい問とふ、昭公せうこう、禮ゐやののりを智しる乎かと。孔子こうし曰いはく、禮ゐやののりを智しれりと。孔子こうし退しりぞく。巫馬期ぶばきを揖こまねき而て之これを進すすめて曰いはく、吾われ聞きく、君子もののふは黨つるま不ずと。君子もののふも亦また黨つるむ乎か。君きみ呉ご於に娶めとりて姓かばねを同おなじくし爲たり、之これを呉孟子ごまうしと謂となふ。君きみにし而て禮ゐやののりを智しらば、孰たれか禮ゐやののりを智しら不ずらむと。巫馬期ぶばき以もつて吿つぐ。子し曰いはく、丘きう幸さいはひなり、苟もし過あやまち有あらば、人ひと必かならず之これを智しらす。

【訳】

陳の司敗がたずねた。

「昭公は礼を知っておられましょうか。」

先師がこたえられた。

「知っておられます。」

先師はそれだけいって退かれた。そのあと司敗は巫馬期に会釈し、彼を自分の身近かに招いていった。。

「私は、君子というものは仲間ぼめはしないものだと聞いていますが、やはり君子にもそれがありましょうか。と申しますのは、昭公は呉から妃を迎えられ、その方がご自分と同性なために、ごまかして呉孟子と呼んでおられるのです。もしそれでも昭公が礼を知った方だといえますなら、世の中に誰か礼を知らないものがありましょう。」

巫馬期があとでそのことを先師に告げると、先師はいわれた。

「私は幸福だ。少しでも過ちがあると、人は必ずそれに気づいてくれる。」

『論語』全文・現代語訳

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 会社にはご意見番のベテランがいる。社歴は社長よりも古く、社長も一目置いている。その方は社内のいろいろな問題によく気がつくが、それを指摘するだけで自ら改善するようなことはない。私としてはそこが不満なのであるが、ご年齢もあるし、自ら動くのはもう面倒なのかもしれないと思い、気になる指摘については私自ら動いて真偽を確認し、正すべきと思えば、それを意見している。そこでしばし気がつく。言われた本人はそういう認識がないのである。


 ある若手は、どうもあまり成長の跡が見られない。担当課長に聞けばいくつか問題点を教えてくれるし、直接面倒を見ている先輩に聞いてもいくつか問題点を挙げてくれる。現場のエンジニアの仕事上で見られる問題であるし、私も聞いただけで問題点を理解できたとは思わないので言い難いことであるが、直接本人にその問題点をぶつけてみたところ、本人は首を傾げる。どうもそれを問題とは思っていないようである。では問題ではないのだろうかと言うと、そんなことはないだろうと思う。


 そうすると、問題点とは、指摘した問題点自体ではなく、「その問題点に気づいていない」ことなのではないかと思う。なぜ、問題点をきちんと指摘しないのだろうと思うと、どうも言い難かったり(そもそもきちんと指導しろと言われていないから遠慮もあるし、性格的に人の欠点を指摘し難かったりする)、手取り足取り指導するのを面倒だと感じていたり、そこまでしなければいけないと認識していなかったり、教える側にいくつもの理由がある。


 先のご意見番もその意見の半分は見解相違である。実際に本人に聞いてみると、しっかり考えての行動だったり、ご意見番には見えていない事情があったりする。陰で批判を繰り返しているなら、ズバリ本人に指摘すれば、「いやそれには事情があって・・・」となったり、「気が付きませんでした」となったりするだろうと思う。「直接言えばいいのに」と思うことがあちこちで散見されるのである。直接言えば、何らかの改善や解決につながるのであるが、言わないからいつまでも解決しない。


 とある社員は、実力はあるが態度が悪くて昇格できないでいる。したがって給料も上がらない。昇格できないのは本人の態度(勤怠管理面での問題も含んでいる)の問題なのであるが、本人にその自覚はない。「態度が悪い」という自覚ではなく、「仕事と態度とは別」という信念である。私と面談していても、横を向いて足を組んでふんぞり返っている(一応、私の方が年長であり会社内の地位も上である)。それはそうかもしれないが、「評価は人が下したものが正しい」(野村監督)のであり、実力だけではない。


 みんなそれを感じているが、直接本人には言わない。年齢が少し上のベテランと言うこともある。年下の上司はついつい口ごもってしまうようである。しかし、私はズバリと態度の問題を指摘した。本人もそんな事を言われたのは初めてだったようであるが、「仕事と態度は別」と言い切る。しかし、人に評価される以上、そこは考えた方が良いとアドバイスした。それで本人がどう考えるかはわからないが、問題点は指摘したので、あとは本人次第である。


 言い難い事であっても、時にズバリと指摘してあげた方が本人のためになると思う。的外れであったとしても、ぶつけてみればそれがわかる。的外れであったら指摘相違を認めれば良いだけのことである。そうすれば、間違いであるかないかもわかるし、腹の中で思っていることも相手に伝わる。いずれにしても、何らかの解決に近づくのではないかと思う。喧嘩するわけではないのである。相手のためを思って、言うべき事は(言い方には気をつけて)言うのが一番だと思う。

 

 それが問題の早期解決につながると思うのである・・・


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【本日の読書】

ゴーイング・ダーク - ユリア・エブナー, 西川美樹, 木澤佐登志 魔女と過ごした七日間 - 東野 圭吾






2024年2月14日水曜日

責任感

 このところ、上司としてのあり方について考えさせられている。とあるプロジェクトでかねてから問題が生じており、抜本的な解決策をプロジェクトリーダーに指示をした。彼は課長職にあり、いわゆる管理職である。それまでの自分のやり方を否定され、感情的にもなり、挙句に「辞める」と言い出した。そのプロジェクトは彼を中心に回っており、いきなり抜ければプロジェクトそのものの進行が不可能となり、顧客にも迷惑をかけ会社も大打撃を受ける。にもかかわらず、引継ぎもせず「明日辞める」となったのである。最終的には思い留まったが、彼に対する信頼はなくなった。

 別の課では、若手数人がとあるプロジェクトに入っていた。ところが進捗が捗々しくなく、納期遅れの可能性が出てきた。顧客からもやんわりとクレームが入った。上司である部長は、問題に対して自ら動こうとせず、私が直接対応するべきではないかと告げたところ、「私がやるんですか?」と答え、私は絶句した。本人としては、入っても内容がわからないので何もできないという気持ちがあったのだろうが、であればできる人間を入れて立て直すなどの対応はあるはず。とりもなおさず顧客に対しては「自分が責任をもって対処する」と言い切るくらいはしてほしいところであった。

 2人に対して感じたのは、「責任感」という事である。課長職以上は「管理職」であり、社員ではあるが、経営側の人間である。残業をしても残業手当が支給されないのは、評価が「働いた時間」ではなく、「成果」でなされるからである。当然、給料もその分高い。求められるのは「成果」であり、「頑張ったこと」ではない。頑張ったこと事態は否定しないが、成果が出ていない以上、それを謙虚に認め、改善する努力をしなければならない。努力は「正しい努力」をするべきであり、そうでない努力を認めてほしいというのは難しい。

 また、トラブルが生じた際、真っ先に火消しにあたるのは管理職の重要な役割である。その昔、銀行員時代の事であるが、店頭でお客さんが怒り出すといつの間にかどこかへ行ってしまう課長さんがいたが、それは極端としても、いざという時に頼りにならない上司は部下から尊敬はされない。自ら前に出て対応するか、部下に経験としてそれをやらせるなら、後ろにいていつでも助けるという安心感を与えないといけない。「自ら前に出る」というスタンスこそが、管理職に必要な責任感ではないかと思う。

 先日観た映画『シャイロックの子供たち』という映画で、舞台となった銀行の支店で、副支店長が行員に檄を飛ばすシーンが出てくる。目標達成が危ぶまれる中で、部下たちに向かって「何とかしろ!」と怒鳴るのである。しかし、何とかなるものであればとっくに何とかなっているわけである。怒鳴ったところで何とかなるわけではない。必要なのは「何とかする方法」であり、檄を飛ばす前に「こうしたらどうか」という指導である。あるいは「こういう事はできないか」というヒントの提示である。そういう提示があれば、部下も具体的に動ける。

 怒鳴る事であれば小学生でもできる。映画に出てきた副支店長は、したがって小学生レベルなのである。肩書を持っているのであれば、「さすが」と部下に思わせるような事を示さないといけない。そういう指導をして、それでもできなかったのであれば、それは自分の責任である。それが責任というものである。それで評価が下がるのであれば、黙って受け入れるしかない。しかし、そういうスタンスは周りに自分に対する「信頼感」を植え付ける。そういう確たるスタンスを示す者は、何より信頼されるのだと思う。

 「私がやるんですか?」と言った管理職も、「私がやります!」と言えば、経営陣も安心して任せたであろう。もちろん、1人にすべて任せて終わりというものではなく、社内のリソースを可能な限り利用できるようサポートはするであろう。「任せる」とは、結果が出るまで見守る事を意味する。結果が出なければ任せた者の責任であり、任された者の責任ではない。しかし、それで任された者が結果を出せばそれがまた信頼感の上乗せとなる。「安心して仕事を任せられる者」という評価を得られるのである。

 そうした責任感はどうしたら醸成できるのであろうか。当面は、自らそれを教え諭していくしかないのかもしれないと思う。嘆いていても始まらない。言葉だけではなく、自ら背中でも示していきたいと思うのである・・・



【本日の読書】

ゴーイング・ダーク - ユリア・エブナー, 西川美樹, 木澤佐登志 魔女と過ごした七日間 - 東野 圭吾









2024年2月11日日曜日

占いは当たるのか

 ネットで今日の運勢を見た。まずはおみくじ。

「大吉」である。

願望:全て叶う。人間関係を大事にすると思わぬ援助が望める。

待ち人:連絡を待っている。こちらから動いて吉。

失物:急がず待てば必ず出る。時を待てばよろし。

旅行:計画性が成功の鍵。海外に大きな幸運の兆し。

商売/学問:商売順調に売り上げの伸びる気配。学問充実感あり。

 

 次に星座占い。

「個性や斬新なアイデアよりも、古典的な方法やルールを守ることを優先してみるといいでしょう。それを心がけていると、今日は、たいていのことは想像以上に順調に進む運気。周りからの評価もグンと高まりそうです」とある。

運勢:ランキング2位

ラッキーアイテム:観葉植物

ラッキーカラー:ターコイズブルー

なんだかよくわからない。これを見てどうしろというのだろう。当たらずしも遠からずの無難な内容である。

 

 最近、占いを目にする。ネットでよく見るサイトの1コーナーにあるのだが、それでちょくちょく見るのである。そう言えば、朝のテレビをチラ見すると、「今日の運勢」といった形で流れているのもある。同じようなものである。私は昔から合理主義的なところがあり、神は敬えども占いの類は端から信じておらず、これまでも占い師に占ってもらったりしたこともなければ、◯◯占いといった類を真面目に信じたこともない。もちろん、初詣に行っても破魔矢は毎年買っているが、おみくじはやらない。お付き合いで買ったことはあるが、書いてあることはその場で読んで終わりである。


 なぜかと問われれば、それは根拠のないものであることは明らかであるからである。例えば星座占いは、「誕生時に太陽が十二宮のどの宮(サイン)に位置したかにより、その人物の性格や相性、運命などを占う」ものとされている。人間を12種類に分けるものであり、そもそも人間を12種類にだけ分けようとするところに無理がある。80億にもなる人間をたったの12種類である。手相に人間の運命が現れるというのもナンセンス。タロットカードなどは、何回繰り返しても同じカードが出るなら信じてもいいが、そんなことを信じる人はいないだろう。


 占いもタロットや星座やおみくじも含めると実に様々である。そもそも人間に未来のことなどわかるはずがない。そこが一番肝心なところで、それを外さなければ占いなど「当たるかも知れない」ものであるということがわかる。当たるか当たらないか、その確率は50%なのである。裏か表かのコイントスと同じである。それがわかっていれば、無闇に信じて不利益を被るということはない。何かを決めるのに占いで決めるというのもおかしいし、ましてやそれに頼るなどということは論外である。


 そもそもであるが、なぜ占いなどというものが生じたのか。これは想像でしかないが、人間はみな未来に対する漠然とした不安を持っている。その不安を解消するにはどうしたら良いか。そこから何かしら人間の運命を神様か何かが暗示するのではと考え、その兆候を星の動きやカードや水晶や手相の中に読み取ろうとしたのかも知れない。そしてそれがたまたま当たる時があって、そこに法則性を見出した、あるいは見出せたと考えた者が体系的にそれを整理して「占い」というものになったように思う。


 人間の不安に根差した占いが、現代にも生き残っているのは、人間にとって何かにすがりたくなるほど不安の種は尽きないということなのかも知れない。宗教もそうなのであるが、占いも端からバカにするものでもないと実は思っている。むやみやたらと信じるのは良くないが、「当たるも八卦」の考え方で、それこそコイントスと同じだと考えれば害はないどころか有益でもあると思う。何かしようとする時、Aという方法を取るかBという方法を取るか決めかねる時、いっそのことコイントスで決めようかというくらいであるなら、占いを利用するのも一つの手である。


 例えば、私は今年予定している親族の集まりについて、従兄弟に連絡をしなければと漠然と考えている。おみくじによると「連絡を待っている。こちらから動いて吉」とあったので、「それでは今日電話してみよう」と思った。そんな利用の仕方でいいと思う。会社の経営者や政治家でも占いを利用しているという話を聞くことがあるが、そんな利用方法なのかも知れない。そしてそういう利用方法であれば、占いというのは実に有意義であると思う。


 古から伝わるものであるし、あまり杓子定規に考えるのではなく、世間で言われる通り「当たるも八卦、当たらぬも八卦」を十分に認識していればいいのである。そんな精神で、明日も「今日の運勢」を見てみたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

これからの時代を生き抜くための生物学入門 - 五箇 公一  歌われなかった海賊へ - 逢坂 冬馬







2024年2月7日水曜日

論語雑感 述而篇第七(その28)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

互郷難與言童子見門人惑子曰與其進也不與其退也唯何甚人絜己以進與其絜也不保其往也

【読み下し】

互郷ごきやうは與ともに言いひ難がたし。童子どうじ見まみゆ。門人ていし惑まどふ。子し曰いはく、其その進すすむに與ともする也や、其その退しりぞくに與ともせ不ざる也や。唯ただ何なんぞ甚はなはだしき。人ひと己おのれを絜きよくして以もて進すすまば、其その絜きよきに與ともする也や、其その往ゆきたるを葆たもた不ざる也や。

【訳】

互郷という村の人たちは、お話にならないほど風俗が悪かった。ところがその村の一少年が先師に入門をお願いして許されたので、門人たちは先師の真意を疑った。すると、先師はいわれた。

「せっかく道を求めてやって来たのだから、喜んで迎えてやって、退かないようにしてやりたいものだ。お前たちのように、そうむごいことをいうものではない。いったい、人が自分の身を清くしようと思って一歩前進して来たら、その清くしようとする気持を汲んでやればいいので、過去のことをいつまでも気にする必要はないのだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 大学の頃、ラグビー部に所属していた私は、秋のシーズンともなれば1つでも多く勝ち星を挙げる事に専念していた。ラグビーは男同士がぶつかり合うスポーツであり、そこにはどうしても感情的なものがかなり入ってくる。ちょっとでもラフプレーがあったりすると、そのまま殴り合いになることもある。ただ、公式戦は勝たなければならない。下手にラフプレーをして退場にでもなればチームの勝利に影響する。とは言え、殴られたら殴り返せないようではもう気持ちで負けている。そこをどうコントロールするか、が難しかったりする。

 

 大学レベルでも、一流のチームになるとそもそもラフプレーなどない。規律がしっかりしており、紳士のスポーツをきっちりやってくる(それでいて強い)。しかし、二流以下のチームはそんな事はない。感覚的に偏差値に反比例して荒っぽいプレーが多くなる感じもしていた。当時、同じ公式戦の対戦相手であった某大学も荒っぽいチームであった。公式戦だから変な事でチームには迷惑をかけられないが、荒っぽいプレーには正面から対抗しないと相手はますますつけ上がる。勢い、殴り合いになるリスクは高くなる。ある意味、「嫌な相手」であった。


 ラグビーは試合が終わればノーサイド。しかし、そういう「お行儀の悪いチーム」とは仲良くしたいとは思わない。試合後の握手なんて笑顔でできないし、公式戦後に行われるアフターマッチ・ファンクション(要は懇親会みたいなもの)でもお互いに話をしたいとも思わない。互いに検討を称えあうなんてとてもではないができないチームであった。卒業してもう関わりあう事もないと思っていたが、何と就職した銀行のラグビー部にその大学の卒業生が入ってきた。私が真っ先に感じたのは嫌悪感である。


 しかし、毎週一緒に練習し、時に試合にも出ているうちに彼の人となりもわかってきて、そうイメージするほど嫌な奴ではないことがわかってきた。当たり前だが、荒っぽいチームだからと言って全員がそうとは限らない。「朱に交われば」というところもあるかもしれない。いつしか彼に対する嫌悪感も消えていたのである。モンタギュー家の人間だからみんな嫌な奴なのであれば、ジュリエットはロミオに恋することもなかっただろう。所属している組織のイメージがそこに所属する人すべてに当てはまるというわけではない。


 もちろん、所属する組織の特色によっては、そこに所属する人のイメージが当てはまるケースもある。例えば、「東大卒の人は頭がいい」、リクルート出身者は「進取・独立の気風がある」などはその一例である。もっとも、それはあくまでもその人の一部分であり、東大卒の人が頭のいいことは間違いがないが、だからと言って人格も優れているという事にはならない。あくまでもその人自身がどんな人なのかは、その人自身をよく見て判断するしかない。当たり前と言えば当たり前の事なのである。


 しかし、そうは言っても人はイメージによって判断する傾向がある。部落差別などはその最たるもので、出身部落というイメージだけでそのメンバーを判断してしまう。荒っぽいチームに所属していたというだけで、紳士とは程遠い乱暴者と思ってしまう(まぁ、先の彼も「紳士」には程遠かったが・・・)。それゆえに、そういうイメージにとらわれず、その人自身を見て判断できる人は偏見のない立派な人物だとも言える。〇〇出身というだけで、人を判断しないようにしようと言うのは簡単。だが、実際は難しいから論語に出ているのだろう。


 人はどうしても初対面であればなおさら、「〇〇の人間」という肩書でイメージを持ってしまう。それはある意味しかたのないこと。そのあと、そのイメージに引きずられることなく、しっかりその人となりを見極める必要があるのだろう。少なくともイメージだけで判断して結論を下してしまわないようにしないといけない。己の過去の体験を踏まえ、改めてそう思うのである・・・


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これからの時代を生き抜くための生物学入門 - 五箇 公一 歌われなかった海賊へ - 逢坂 冬馬






2024年2月4日日曜日

結婚記念日

 2月3日は我が家の結婚記念日である。結婚して今年で28年である。毎年、なんとなくケーキを買っているが、今年も家族全員が好きな新宿高野のフルーツロワイヤルを買ってきた。いつも私には冷たい妻ではあるが、大好物を前に機嫌が悪かろうはずもなく、子供達と楽しくいただいた。しみじみと振り返ってみると、28年はあっという間のようでもあり、ずいぶん時間が経ったようにも感じられる。ちょうど節分でもあり、妻は子供たちと息子の合格祈願に行った湯島天神で買ったという豆を撒いていた。

 28年前の2月3日は、ちょうど前日に雪が降り、関西出身の妻の親戚関係がみんな東京に出てこられるか、ちょっと心配したものである。式の様子はビデオテープにしてもらってあるが、一度も見たことがない。もっともすでにビデオデッキがないから、見ようと思っても見られない。今見たら、どんなだろうかと思ってみたりする。我が家の場合、結婚式だけにして二次会はやらなかった。東京には妻の友人が少ないこともあり、何より私がやりたくなかったからであるが、関西出身の妻で幸いであった。

 2月3日は一方で、恵方巻きの日でもある。今では恵方巻きは当たり前のように認知されているが、28年前はそうではない。妻から恵方巻きのことを聞いてもなんのことやらさっぱりであったばかりか、「その年の恵方を向いて無言で太巻きを丸かぶりする」と聞いて素直に担がれているのだろうと思った。今では当たり前のようにあちこちで宣伝され、昔からの習慣のようになっているが、妻は「私が関西から持ち込んだ」と東京の友人たちには豪語しているらしい。新宿高野ではさらに恵方ロールなるものも売っていた(つい買ってしまった)。それにしてもみんな「食べ方」もわかっているのだろうかと疑問に思う。

 なぜ結婚式を2月に挙げたのかというと、銀行の仕事がわりかし暇になる時期だからである。8月と2月は相対的に仕事が減ることもあり、結婚式と新婚旅行に行くのに1週間程度の休みを取ってもそれほど周りに迷惑がかからないだろうと考えたのである。当時の支店長に気の進まないまま仲人を頼み、プリンスホテルに勤める後輩に頼んで自分たちと式に呼んだ人たちの宿泊を確保した。男にとって結婚式はめんどくさいという以外の何物でもない。(機会があったとしても)2度はやりたくないと思ったものである。

 結婚して5年後に長女が生まれた。遅いように思われるかもしれないが、意図的に「家族計画」した結果である。ちょうど入行10年で永年勤続表彰があり、2週間の休みをもらえることになっていたのだが、この時に長期の海外旅行に行こうと、子供は先延ばししていたのである。そして念願のカリブ海へ行き、長期休暇を楽しんだ。子供が生まれてからは、結婚記念日というより、節分の豆まきと恵方巻きの日という感じになっている。いつの間にか子供たちも大きくなっている。あと2年で結婚30周年であり、「何のお祝いしてくれるんやろ」という妻の問いかけに、子供たちは聞こえないフリをしていた。

 年月の過ぎゆく早さを言っても仕方がない。いつであろうと過去を振り返れば早いものだと感じるものである。この先、いつまで夫婦が続くのだろうか正直わからない。理想的には子供たちが巣立ち、夫婦2人で静かな老後となるのだろうが、ひとり暮らしを選択する可能性は大いにある。それはともかくとして、この日は我が家の「スタートの日」である。この日から家族が始まり、そして28年が経ったのである。29年目が始まり、何か特別なことがあるわけではないが、またいつもの日常が続くのである。

 結婚と同時に両親と妻との軋轢に苦しめられるようになるとは思いもしなかったが、結婚とは恋愛のゴールであり、家族のスタートである。それは恋愛のように楽しいものばかりではないが、子供の成長とともに過ごす日々はやはり幸福なものなのであろう。いつまでかはわからないが、続く限りは毎年この日を同じように祝いたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

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2024年2月1日木曜日

息子へのアドバイス

 息子は高校3年生。今は受験の本番真っ盛りである。しばらく前、妻がわざわざ私に問うてきた。「息子が浪人するとなったらどうするの?」と。どうするも何もない。まさか働けというわけにもいかない。浪人するなら認めるしかない。質問の意図を問うたところ、「浪人できないのであれば、確実なところを滑り止めとして受けておく必要がある」とのこと。私としては、浪人するのは問題ないので、現役の時は強気にチャレンジすればいいと答えた。息子の受験予定であるが、志望は文系私大。高レベル+中堅レベル数校の組み合わせである。何となく、もっと強気でいいのではないかと思った。

 私の場合、もう40年も前になるが、家庭の経済的負担も考慮し、都内の国公立大学に目標を絞り受験した。第一志望は難関だったが、「ダメなら浪人して再チャレンジ」と決めていたので、1校しか受験しなかった。当時は共通一次試験と二次試験である。滑り止めも不要だし、受けるのも受験料の無駄と考えていたのである。高校の担任の先生からは「滑り止めを受けたらどうか」と言われていたが(その前に第一志望はそもそも受からんぞと言われてしまっていた)、「ダメなら浪人して再チャレンジ」なので不要と答えた。我ながら潔いと思う。そして浪人した。

 当然、息子にも高レベル校だけ受けたらいいと思うのだが、本人には本人なりの考えがあるようなので、それは尊重している。私は法学部一本だったが、息子は大学によって「法学部政治学科」、「経済学部」、「政治経済」等いろいろである。学部的にピッタリなのは中堅大学の学部らしい。私の場合は、「法律」という事でシンプルだったが、息子は何となく政治経済の微妙な分野らしい。「大学」のブランドで選ぶか、「学部」で選ぶか。そこも難しいところであるらしい。何に基準を置くべきか。全部受かっても「大学か学部か」という悩みがあり、1校だけ受かっても(娘はそうだった)、「入学するか浪人するか」の悩みがある。

 「入学するか浪人するか」の悩みではあるが、人生において1年くらいの遅れは誤差の範囲内である。妥協して入学するよりも浪人して第一志望を目指してほしいと思う。私自身がそうであったが、それだけの価値はあると思う。「大学か学部か」という悩みではあるが、私の場合、大学=学部であったからそういう悩みはなかった。息子はその悩みに直面している。私の経験からいくと、そこは迷わず「大学」を選ぶべきだと思う。大学のブランドは社会に出てから大なり小なりのインパクトはある。よほどこだわりのある学部であれば別であるが、そうでなければ「大学」を優先するべきである。

 私の場合、高校生の時に弁護士になろうと思った。それゆえ、迷わず法学部を考えてすべて法学部で受験した。そして法学部に入って法律を学んだが、学んでわかった事は、「法律は自分の進む世界ではない」ということ。くだらない2年間の教養課程があったおかげで、方向転換を決めたのは、1年間法律を学んだあとの4年時。もうすでに就職活動が始まる寸前であった。せめて1年時から専門課程で法律を徹底してやっていれば、2年時には学部転向等もできただろう。今でも残念だが、法律を学んだ効果はそれなりに社会に出てあったので、まぁ良しとするところである。

 そういう事もある。今はこの学部があっていると思っても、実際学んでみたら違うということはあるかもしれない。そういう事を考慮すれば、大学のブランドを選んでおいた方がいいという事になる。そして社会になれば、大学で何を学んだかなどそう問われるものではない。20代ならまだしも、30代、40代となって転職となれば、「〇〇大学卒業」という看板だけが残る。それが威光を放つことはないが、イメージとしては大きい。そういう事を考えれば、よほどこだわりのある学問であるのでなければ、大学で選ぶべきである。

 そういう考え方は、私も高校生の時にはできなかった。息子もそこまではわからないだろう。私も社会人としていろいろな経験を経た上で、身についた考えである。誰しも経験だけは時間をかけて身につけるしかない。あるいは誰かからアドバイスを受けるか。経験だけはそうしなければ手に入らない。私も息子の進路についてはあれこれ口を出すつもりはないが、そういうポイントでは一言伝えたいと思う。すべては合否の結果が出てからであるが、自分の経験が息子の役に立つのであれば何よりであり、それも財産と言えるなら、資金的に少ないところを補えると胸を張れるかもしれない。

 それにしても、受験生というのは心理的に大変ではあるが、今思うと来るべきキャンパスライフに心躍らせていた時期でもあった。車の免許を取り、ラグビー部に入って女子大生と合コンをしてと・・・それを思えば辛い宅浪生活も耐えられたのである。受験の先にそれを控えた息子をうらやましく思うのである・・・


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【本日の読書】

格差の起源 なぜ人類は繁栄し、不平等が生まれたのか - オデッド・ガロー, 柴田 裕之, 森内 薫  なれのはて - 加藤シゲアキ




2024年1月28日日曜日

人に勧める

 「映画を観るのが趣味です」と答えると、「何がお勧めですか?」と聞かれることがある。「最近、何観ましたか?」という質問であればまだいいのだが、この質問をされると答えに窮する。あるいは「これまで観た映画の中で一番良かったのはなんですか?」という質問も同様である。答えに窮する理由は二つあって、一つはその場ですぐに答えられないというのがある。お勧めと言っても相手に合わせたものである必要がある。女性に激しいアクション映画を勧めてもピントがズレるかもしれない。また、「これまで観た映画の中で一番良かったのはなんですか?」など自分でもいろいろあって選びきれ他ものではない。

 今一つは、「自分の好みを勧めることへの抵抗」だろうか。自分なりの好みを伝えるのは構わないのだが、それが相手の心にヒットすればまだしも、ヒットしなかった場合の落胆感が嫌だということもある。そういう私もよく人にお勧めを聞くのであるが、そのお勧めが私自身の心に響かないということもよくある。一生懸命情熱的に語って勧めてくれるのはいいのであるが、観た結果それほどでもなかったというのがよくあるからである。それは読書でもまた然り。感動的な感想を聞かされて、いざ自分で読んでみたが、それほどでもなかったりすると、自分の感性がおかしいのかなと思ってしまったりする。

 しかし、よくよく考えてみると、一本の映画が心に残ったり、一冊の本が感動をもたらしたりするのは、「絶対価値」ではなくて「相対価値」によるものだとすると合点が行く。「絶対価値」とは、その作品自体が持つ誰が観ても感動を催すもの。「相対価値」とは、その作品自体に加え、その人にとっての感動要素を有するものである。過去に互いに相思相愛になったが、事情があって一緒になれなかったなどという経験があれば、似たようなストーリーの映画はその思い出を刺激し、余計に心に響くかもしれない。あるいは主人公が過去に戻ってやり直すというストーリーでも、自分自身の思いを重ねて共感するかもしれない。

 「相対価値」はその人自身の過去の経験や考え方に影響されるので、普通の人には目に留まらないような映画が、その人の心にはヒットするということもありうる。あるいはその時代の雰囲気、その時の状況がサイドストーリーとなって影響するかもしれない。かつて私はプロレスが好きでよく観ていたが、生涯で一番のベストバウトは何かと問われたなら、迷いなく新日本プロレスの1995年10月9日の武藤敬司対高田延彦戦を挙げるだろう。この試合は録画してあり何度も観たのであるが、ではこの試合だけを観て「ベストバウト」だと思うかと言えば、それはわからない。試合はもちろん面白いが、それだけではないのである。

 その試合は打撃と関節技を主とする「格闘技系」のUWF勢力と従来のプロレスとが激突するという流れがあり、「果たしてどちらが強いのか」という興味が最大限に上昇していたタイミングで行われたのである。武藤と高田の試合はメインイベントであり、その勝敗が両団体の勝敗を決めると言っても過言ではない。打撃と関節技の凄みを全面に出したUWFが勝ってしまうのかという不安の中、最後は足4の字固めという古典的なプロレス技で決着がつくという誰も想像しない結果に終わったのである。演出としてはこれ以上にないストーリーだろう。そういう試合以外の要素も加わっているのである。

 映画も読書もスポーツもそのものだけの「絶対価値」もさることながら、周辺の事情や個人の経験などが「相対価値」として加わった場合、その作品が持つ絶対価値をさらに特定の人に向けた価値を創出するということになる。だから、人にお勧めを聞いても、それはその人にとっての相対価値であることを意識しておかないと、後でガッカリすることになる。もっとも、それをわかった上で敢えて人にお勧めを聞くということにも価値はある。それはその人にとっての相対価値が、自分にとってもジャストフィットすることもあるからである。

 かつて若い頃、取引先の親しくしていた方にお勧めの一冊を聞いたところ、藤沢周平の『蝉しぐれ』をご紹介いただいた。当時、私は時代劇にはまったく興味はなかったが、それでもと思って読んでみたら、これが私にもジャストフィットした。以来、藤沢周平は私のお気に入りの作家の1人である。自分の枠を広げるという意味でも人にお勧めを聞く意味はある。そう思って、私もダメもとで人に聞かれたら、お勧めを答えることにしようと思うのである・・・

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【今週の読書】

格差の起源 なぜ人類は繁栄し、不平等が生まれたのか - オデッド・ガロー, 柴田 裕之, 森内 薫  なれのはて - 加藤シゲアキ








2024年1月27日土曜日

論語雑感 述而篇第七(その27)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子曰蓋有不知而作之者我無是也多聞擇其善者而從之多見而識之知之次也

【読み下し】

子し曰いはく、蓋けだし有あらん、智しら弗ざる也や、し而て之これを作なす者もの。我われは是これ無なし。多おほく聞ききて、其その善よき者ものを擇えらび而て之これに從したがふ。多おほく聞きき而て之これを志しるすは、智しる之これ次つぎ也や。

【訳】

先師がいわれた。

「無知で我流の新説を立てる者もあるらしいが、私は絶対にそんなことはしない。私はなるべく多くの人の考えを聞いて取捨選択し、なるべく多く実際を見てそれを心にとめておき、判断の材料にするようにつとめている。むろん、それではまだ真知とはいえないだろう。しかし、それが真知にいたる途なのだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 現在の職場ではいろいろな情報が入ってくる。特に気を付けているのはネガティブ情報である。何か対処しなければならない事があるかもしれないからである。某氏はかなり批判系の意見を述べてくる。ベテランだけあって、その意見はいつももっともであり、なるべく耳を傾けるようにしている。しかし、一方でその批判を聞きながら、「それではそれを相手に伝えて改善すればいいではないか」と思っているが、某氏は言うだけでそこまではしない。要は「評論家」なのである。そうすると問題を放置するわけにもいかず、聞いた以上は、と私が動く事になる。


 ところが実際にヒアリングしてみると、そこには違う事情が表れる。傍からは見えていない事情があって、その事情を勘案すると、批判されていた行動にはきちんとした理由が見えてくる。「その状況下であれば」、その行動ももっともであるという事がわかってくるのである。相手の行動を批判する時は、単に自分から見えている面だけで判断するのではなく、「自分から見えていない面」もあるかもしれないと考えないといけない。評論家某氏の意見はいつもそんな批判が多い。


 以前にも述べた思考実験であるが、AがBを刃物で刺すという事件が起こったとする。当然、Aは傷害罪で逮捕され罰せられる。しかし、実はそもそも刃物を持って襲い掛かったのがBで、Aはその刃物を奪ってもみ合ううちにBを刺してしまったとなると、正当防衛で無罪という事もありうる。事情がわかると印象はがらりと変わる。さらになぜBは刃物を持ってAに襲い掛かったのかと調べたら、実はAは詐欺師でありBはその被害に遭って全財産を失い一家離散となって絶望のあまり犯行に及んだ、となるとまた印象は変わる。


 物事は一面だけを見て判断するわけにはいかない。自分から見えている面だけで判断すると間違える可能性がある。間違えないためには、見えていない部分を見る努力が必要である。私も某氏の意見を聞くと、まずは本人に事情を聞く。「なぜそういう行動を取ったのか」、「どういう状況で」、「なぜそれが最適と判断したのか」、その上で自分としてその行動をどう考えるか。両面から見ればだいたい適切な判断ができる。逆に言えば、一方の意見だけでは動かない。


 当たり前であるが、両面から見る意識は大事である。その応用もある。自分とは違う意見の人と議論する場合である。自分の意見を否定されれば心中穏やかではないが、相手の意見を一旦冷静に受け止めて相手の視点から見てみる必要がある。もしかしたらもっともかもしれないし、自分には見えていない問題点があるかもしれない。相手の立場に立って相手の意見を考えてみる事が反論する場合には役に立つ。相手がなぜ自分と意見が違うのか、原因がわかれば対処もわかる。


 会社で人と議論する時には特に意識している。まずは相手の意見を聞く。その上で相手の考えをあれこれと考えてみる。そうするとそこに問題点が浮かび上がってくるかもしれない。その上で自分の意見と照らし合わせ、判断する。自分の意見の方が正しいと思えば、その理由と相手の意見の問題点を説明すれば、自分の意見が通る。相手に質問をし、問題点を考えさせ、必然的に自分の意見に導くソクラテスの産婆術が使えれば尚良いかもしれない。


 某氏は自信満々で批判を繰り返す。確かに某氏の「視点」ではそれは正しい意見なのかもしれない。しかし、物事には必ず裏表がある。ウクライナとロシアの戦争もウクライナから見れば正しい行動であり、ロシアから見ればそれもまた正しい行動である。イスラエルとパレスチナについても然り。しかし、「相手の視点」を意識することができれば自分の意見とは異なる別の解決策に辿りつけるかもしれない。相手だけではなく、広く他の意見を聞けばさらに正しい道へと辿りつけるのではないかと思う。


 自分も己の意見に固執する前に、広く他人の意見を聞くスタンスを持っていたいと思うのである・・・



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【本日の読書】

格差の起源 なぜ人類は繁栄し、不平等が生まれたのか - オデッド・ガロー, 柴田 裕之, 森内 薫  なれのはて - 加藤シゲアキ







2024年1月21日日曜日

採用の現場にて

 仕事では本職の財務の他に人事も兼務している。人事の仕事の柱の一つは「採用」である。採用には新卒採用と中途採用があるが、どちらも大事である。新卒採用は、学校ルートが中心。専門学校と大学とであるが、知名度の低い中小企業の悲しさで、首都圏での採用はなかなか難しい。もう少し大学生を採用したいと考えているが、偏差値の高い大学の学生には相手にしてもらえない。かと言って偏差値にこだわらなくても難しい。学生からすれば、なるべく大手の企業に就職したいと考えるであろうから、やむを得ないと言えばやむを得ない。

 大学には就職課というものがあって、学生の就職相談に乗っている。企業から情報を集め、学生向けに会社説明会を開催したり、企業と推薦制度を交渉したり。専門学校も大学も「就職率」がやはり生徒募集の大きな強みになる。ランクの高い大学はふんぞり返っていられるが、そうでない大学や専門学校はかなり力を入れている。地方では特にその傾向が強く、我々のような中小企業でも歓待していただける。学校推薦がつけば生徒は内定が出たら承諾しなければならないという縛りがつくが、確実に内定はもらえる。企業も確実に採用できるのであればWin-Winである。

 面接をして内定を出しても、辞退となると企業も採用計画が狂ってしまう。学生もいくつか内定をもらってもギリギリまでどこにするか決めずに、最後に決めるという人もいる。辞退された企業は大変である。我々も首都圏の大学の学生を採用したいと思うが、狙うのは夏休み前である。それ以前の「第一波」では学生の関心は大手に向かう。そこで決まらなかった学生が「第二波」としてレベルを落として次の企業群へと向かってくる。「夏休み前に決めたい」という学生を狙うのである。当然、「第一波」で選考から漏れた学生となるので、それなりの学生が多くなるが、中には「掘り出し物」もいるからこちらも全力投球である。

 我が身を振り返ってみると、超売手市場の環境下、ふんぞり返っていられる大学出身だったから大学の就職課なぞあるのも知らなかったくらいである。学生は意外と就職課を利用し、就職課の人も意外と骨を折っているのだと、今になって初めて知った次第。理系の大学になると、就職課よりは教授のルートが大事だったりして、教授に連絡を取ると学生を推薦してもらえたりする。その場合は、こちらが内定を出せばまず確実に採用できる。専門学校生と比べると、大学生は「余白」が多いと感じる。専門学校の学生はみっちり知識を得てくるが、「余白」の部分が少なく、大学生もそれなりに4年間の重みはある。両方バランス良く採用したいところである。

 中途は人材紹介会社が中心となるが、人材紹介会社も商売であり、採用実績の高い比較的大手の企業に優先的に紹介が行くようで、我々のような中小企業はここでも苦戦する。紹介してもらっても、採用できるかはまた別問題。悩ましいのは転職回数だろうか。昔から転職が多いと不利になると言われているが、採用する立場からするとその通りである。なぜ、頻繁に転職するのか。最近も現職に就いて半年しか経っていない人が応募してきたが、転職理由が気になる。もしかしたら問題社員なのかもしれない。採用した途端、社内に問題を抱えたくはない。

 アメリカは転職社会だとよく聞く。簡単に首になるし、ステップアップのためにどんどん転職すると言う。そういう社会なら問題はないが、簡単に首にならない我が国では、自分から辞めるのは、我慢が足りないとか、周りと協調してやれないとか、気に食わないことがあるとすぐ辞めるような人物なのかと勘繰ってしまう。採用すれば社会保険の手続きなど煩雑な事務もあるし、紹介料などのコストもかかる。面接の受け答えなどいくらでも誤魔化せるし、良い材料は見つけにくい。やはり転職回数の多さはマイナスでしかない。

 その点、新卒採用はやはり楽しいものである。みんな春からの就職に対して期待と不安とを抱えており、入社してからだんだん逞しくなっていく様子を見られる楽しさがある。中途採用でも溶け込んで楽しそうに働いている姿も当然嬉しく思う。会社が大きくなっていくためには採用は絶対に必要であり、大事な仕事であると認識している。今は、内定を出した学生から春の入社に向けての問い合わせが多く来たりしている。4月1日に彼らと会うのが楽しみである。私もこの会社は3社目であるが、人事の仕事も楽しみながら、ここを安住の地としたいと思うのである・・・

TumisuによるPixabayからの画像

【本日の読書】

哲学がわかる 哲学の方法 - ティモシー・ウィリアムソン, 廣瀬 覚 勉強が一番、簡単でした――読んだら誰でも勉強したくなる奇跡の物語 - チャン・スンス, 吉川 南