2024年1月28日日曜日

人に勧める

 「映画を観るのが趣味です」と答えると、「何がお勧めですか?」と聞かれることがある。「最近、何観ましたか?」という質問であればまだいいのだが、この質問をされると答えに窮する。あるいは「これまで観た映画の中で一番良かったのはなんですか?」という質問も同様である。答えに窮する理由は二つあって、一つはその場ですぐに答えられないというのがある。お勧めと言っても相手に合わせたものである必要がある。女性に激しいアクション映画を勧めてもピントがズレるかもしれない。また、「これまで観た映画の中で一番良かったのはなんですか?」など自分でもいろいろあって選びきれ他ものではない。

 今一つは、「自分の好みを勧めることへの抵抗」だろうか。自分なりの好みを伝えるのは構わないのだが、それが相手の心にヒットすればまだしも、ヒットしなかった場合の落胆感が嫌だということもある。そういう私もよく人にお勧めを聞くのであるが、そのお勧めが私自身の心に響かないということもよくある。一生懸命情熱的に語って勧めてくれるのはいいのであるが、観た結果それほどでもなかったというのがよくあるからである。それは読書でもまた然り。感動的な感想を聞かされて、いざ自分で読んでみたが、それほどでもなかったりすると、自分の感性がおかしいのかなと思ってしまったりする。

 しかし、よくよく考えてみると、一本の映画が心に残ったり、一冊の本が感動をもたらしたりするのは、「絶対価値」ではなくて「相対価値」によるものだとすると合点が行く。「絶対価値」とは、その作品自体が持つ誰が観ても感動を催すもの。「相対価値」とは、その作品自体に加え、その人にとっての感動要素を有するものである。過去に互いに相思相愛になったが、事情があって一緒になれなかったなどという経験があれば、似たようなストーリーの映画はその思い出を刺激し、余計に心に響くかもしれない。あるいは主人公が過去に戻ってやり直すというストーリーでも、自分自身の思いを重ねて共感するかもしれない。

 「相対価値」はその人自身の過去の経験や考え方に影響されるので、普通の人には目に留まらないような映画が、その人の心にはヒットするということもありうる。あるいはその時代の雰囲気、その時の状況がサイドストーリーとなって影響するかもしれない。かつて私はプロレスが好きでよく観ていたが、生涯で一番のベストバウトは何かと問われたなら、迷いなく新日本プロレスの1995109日の武藤敬司対高田延彦戦を挙げるだろう。この試合は録画してあり何度も観たのであるが、ではこの試合だけを観て「ベストバウト」だと思うかと言えば、それはわからない。試合はもちろん面白いが、それだけではないのである。

 その試合は打撃と関節技を主とする「格闘技系」のUWF勢力と従来のプロレスとが激突するという流れがあり、「果たしてどちらが強いのか」という興味が最大限に上昇していたタイミングで行われたのである。武藤と高田の試合はメインイベントであり、その勝敗が両団体の勝敗を決めると言っても過言ではない。打撃と関節技の凄みを全面に出したUWFが勝ってしまうのかという不安の中、最後は足4の字固めという古典的なプロレス技で決着がつくという誰も想像しない結果に終わったのである。演出としてはこれ以上にないストーリーだろう。そういう試合以外の要素も加わっているのである。

 映画も読書もスポーツもそのものだけの「絶対価値」もさることながら、周辺の事情や個人の経験などが「相対価値」として加わった場合、その作品が持つ絶対価値をさらに特定の人に向けた価値を創出するということになる。だから、人にお勧めを聞いても、それはその人にとっての相対価値であることを意識しておかないと、後でガッカリすることになる。もっとも、それをわかった上で敢えて人にお勧めを聞くということにも価値はある。それはその人にとっての相対価値が、自分にとってもジャストフィットすることもあるからである。

 かつて若い頃、取引先の親しくしていた方にお勧めの一冊を聞いたところ、藤沢周平の『蝉しぐれ』をご紹介いただいた。当時、私は時代劇にはまったく興味はなかったが、それでもと思って読んでみたら、これが私にもジャストフィットした。以来、藤沢周平は私のお気に入りの作家の1人である。自分の枠を広げるという意味でも人にお勧めを聞く意味はある。そう思って、私もダメもとで人に聞かれたら、お勧めを答えることにしようと思うのである・・・

Gábor AdonyiによるPixabayからの画像


【今週の読書】

格差の起源 なぜ人類は繁栄し、不平等が生まれたのか - オデッド・ガロー, 柴田 裕之, 森内 薫  なれのはて - 加藤シゲアキ








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