2019年4月10日水曜日

論語雑感 八佾第三(その22)

〔 原文 〕
子曰。管仲之器小哉。或曰。管仲儉乎。曰。管氏有三歸。官事不攝。焉得儉。然則管仲知禮乎。曰。邦君樹塞門。管氏亦樹塞門。邦君爲兩君之好。有反坫。管氏亦有反坫。管氏而知禮。孰不知禮。
〔 読み下し 〕
子(し)曰(い)わく、管(かん)仲(ちゅう)の器(うつわ)は小(しょう)なるかな。或(ある)ひと曰(い)わく、管(かん)仲(ちゅう)は倹(けん)なるか。曰(い)わく、管氏(かんし)に三帰(さんき)有(あ)り。官(かん)の事(こと)は摂(か)ねず。焉(いずく)んぞ倹(けん)なるを得(え)ん。然(しか)らば則(すなわ)ち管(かん)仲(ちゅう)は礼(れい)を知(し)れるか。曰(い)わく、邦君(ほうくん)は樹(じゅ)して門(もん)を塞(ふさ)ぐ。管氏(かんし)も亦(ま)た樹(じゅ)して門(もん)を塞(ふさ)ぐ。邦君(ほうくん)は両君(りょうくん)の好(よし)みを為(な)すに反坫(はんてん)有(あ)り。管氏(かんし)も亦(ま)た反坫(はんてん)有(あ)り。管氏(かんし)にして礼(れい)を知(し)らば、孰(たれ)か礼(れい)を知(し)らざらん。
【訳】
先師がいわれた。
「管仲は人物が小さい」
するとある人がたずねた。
「管仲の人物が小さいとおっしゃるのは、つましい人だからでしょうか」
先師がいわれた。
「つましい? そんなことはない。管仲は三帰台というぜいたくな高台を作り、また、家臣をおおぜい使って、決して兼任をさせなかったぐらいだ」
「すると、管仲は礼を心得て、それにとらわれていたとでもいうのでしょうか」
「そうでもない。門内に塀を立てて目かくしにするのは諸侯の邸宅のきまりだが、管仲も大夫の身分でそれを立てた。また、酒宴に反坫を用いるのは諸侯同士の親睦の場合だが、管仲もまたそれをつかった。それで礼を心得ているといえるなら、誰でも礼を心得ているだろう」
************************************************************************************
今回は珍しく孔子が人を批判しているものである。管仲という人物は、孔子より170〜180年前の人物で、斉という国の桓公を補佐して春秋戦国時代に最初の覇者にした名宰相らしい。そんな名宰相たる人物を批判するのかという気もするが、その批判の内容を見てみると、どうも「分をわきまえなかった」ということがその批判の元らしい。そう言えば、孔子は「分をわきまえる」ということを重視するようで、その前にも「分をわきまえない」ことに対する批判があった(八佾第三その1)。孔子の価値観からすると、「分をわきまえる」ということは大事なことだったようである。

その管仲であるが、なぜ分をわきまえなかったのだろう。詳しい事情は知る由もないが、現代でも優秀なNo.2がトップを差し置き、勝手に振る舞うということはよくあることだろう。「俺が支えている」「実質的に(組織などを)動かしているのはオレだ」という意識があったりすると一歩下がるということを忘れたりする。分を超えて諸侯のように振る舞ったのもそういう意識があったに違いない。

組織にとって優秀なNo.2がいることは大事なことだと思うが、No.2はやっぱりNo.2であって、そこははっきりとトップとは違うという意識が大事だろう。それができるかどうかが、本当に優秀なNo.2であるか否かの分かれ道なのかもしれない。人間にはどうしてもマズローの欲求五段階説で言う「承認欲求」があるから、優秀な実績を認めて欲しいという思いがある。そのレベルで止まればいいが、トップのように振る舞うという形で「自己実現の欲求」までいってしまうのだろう。

管仲が門内に塀を立て、酒宴に反坫を用いていた時、桓公は何を考えどうしていたのだろう。実力のあるNo.2がいる場合、トップが負けず劣らず優秀なら問題はないが、そうでない場合は「何も言えない」ということもあるだろう。内心、苦々しく思っていたかもしれないが、それを本人にいうことはできなかったかもしれない。ヘソを曲げられても困ると思えばなおさらであろう。そしてそういう対応がまたNo.2を増長させたりする。

戦前の日本では、天皇陛下が主権者で現人神とされていたが、実際の政治は内閣が行っていた。天皇は自ら判断せず承認するのみであったが、マスコミと世論の後押しを受けた軍部が暴走していったのも、「優秀なNo.2」の傍若無人な振る舞いと同じだと言えると思う。抑えられないトップが情けないのか、思い上がるNo.2が悪いのか、その両方かもしれない。

家庭でもいい奥さんは巧みに旦那さんを立ててうまく動かしているだろう。そんないい奥さんは羨ましい限りだが、組織において影の存在としてそれでいて組織を動かしていくのが真に優秀なNo.2だと思う。人間の持つ承認欲求をどう抑えていくかは難しいが、私も会社では一応No.2だし、そんな優秀なNo.2を目指したいと思う。残念ながら家庭では存在感の薄いトップだが、それも致し方ない。家でも会社でも黒子として尽力することで自己実現の欲求を満たしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 活きる力 - 稲盛 和夫 沈黙のパレード (文春文庫 ひ 13-13) - 東野 圭吾





2019年4月8日月曜日

祖先

先週末、富士見を歩きながら考えた。ところどころに残る自然を見てである。町中はそうでもないが、祖父母の眠る墓に向かうには、林を抜け、畑の中の道を通っていく。この景色は子供の頃からほとんど変わっていない。たぶん、父が子供の頃に見ていた景色とそれほど違わないと思う。道路が舗装され、ビニールハウスが目につくという違いくらいだと思う。おそらく、祖父も同じ景色を眺めていたのだと思う。

父や祖父が見ていたのと同じ景色を眺められるというのも何だか不思議な気がする。人は変われど、自然は変わらない。さらに曾祖父はどうだろうと思いは続く。さらにその上は、と。よく言われることだが、人には2人の両親がいて、4人の祖父母がいる。曾祖父母は8人であり、その上は16人。自分には一体何人の祖先がいるのだろうかと思考は飛ぶ。16人の先は32人。その上は64人。さらに128人、256人、512人、1,024人と続く。

どこまで遡れるのだろうかとふと思う。一世代25年として、1,024人の祖先がいたのは10世代前なので25×10=250年前、ちょうど徳川幕府10代将軍家治の時代であり、田沼意次の時代である。さらに4世代100年遡ると祖先の数はなんと16,384人となる。さらに4世代100年遡ると祖先の数は262,144人。驚異的な倍々ゲームである。さらに4世代100年前だと4,194,304人。応仁の乱の時代の我が祖先は4百万人もいたというのは俄かには信じがたい。

そのまま続けると、さらに4世代100年前には67,108,864人となる。ここまでくるとブレーキがかかる。そもそも南北朝時代の日本の人口がどのくらいだったかはわからないが、江戸時代末期の人口が3,000万人と言われていることを考えると、この時代の人口ははるかに凌駕した数字になってしまう。ここまで遡ると理論的にはすべての日本人がみな我が祖先ということになる。もちろん、実際には重複もあるだろうし、そもそも今と違って移動も徒歩が主流だったことを考えると地域間の移動も限定的だっただろうし、したがって祖先のエリアも限定的だったはずで、すべての日本人が祖先ということもないだろうとは思う。

ただし、親なくして子はないわけであり、ルーツは必ず辿れるわけである。日本人のルーツは、さらにそのルーツはと辿っていけば、およそ700万年前に誕生したとされる人類のルーツにまでたどり着いてしまうのだろう。「人類はみな兄弟」という標語もまんざら嘘ではないわけである。そんな祖先を延々と辿って想像していくのも面白いが、やっぱり会ったこともないご先祖はあまり親しみを感じられない。富士見の伯父の家にある写真と、墓石に名前のある曾祖父までが実感として感じられる限界である。

そんな祖先に想いを馳せていると、まだこの地に来たことのない我が子に想いが及ぶ。子供たちはこの地に何の感慨も覚えないであろう。将来、孫ができるのかどうかわからないが、もしも孫、ひ孫と続いていくとしても、その頃にはいずれ富士見の地も意識されることなく忘却の彼方へと追いやられてしまうのだろう。曾祖父からの一族が眠る墓も子供のいない従兄の代で絶えてしまうと、あとは無縁墓地化してしまうのだろう。何となく寂しい気もするが、4世代も後になればもう誰もそんなこと気にする者はいなくなって歴史の中に埋もれてしまうに違いない。

私の存在を記憶してくれるのもせいぜい孫の代までだろうか。長い歴史から見ると、我々が生きている時間なんてほんの一瞬だとあらためて思うのである・・・


富士見・祖父らが眠る墓地へ向かう道


【本日の読書】
 活きる力 - 稲盛 和夫 仕事にしばられない生き方 (小学館新書 や 7-2) - ヤマザキ マリ






2019年4月4日木曜日

富士見

先週末、母を連れて父の実家へ行ってきた。場所は長野県諏訪郡富士見町。山梨県との県境にある小さな町である。父の実家なのに父は行きたくないと言い、母だけを連れて行くというのも何だか不思議なものであるが、義理の伯母から自家製の野沢菜をもらうという大目的があったこともあってのものである。伯父夫妻と数時間おしゃべりをして墓参りをしただけの滞在であった。

父はこの地で生まれ、中学を卒業するまでここで育った。先祖代々の土地というよりも、どうも曾祖父の代あたりにどこかから移ってきたらしい。そのためか随分と苦労したという話である。その曾祖父は桶を作っていて、その頃は「桶屋」と言われていたらしい。祖父の代になっても貧しかったようで、父は中学を卒業して東京で就職するまで、白米は年に一回しか食べたことがなかったらしい。東京に出てきて毎日白米を食べるようになったら、「気持ち悪くなった」と今でもよく語っている。

立退き問題が暗雲を投げかけている我が実家であるが、父は「田舎に帰るのも悪くはない」とよく話している。82年の人生のわずか15年しか暮らしていないはずの実家なのに、それでもまだ故郷はいいようである。そんな父の実家についての私の最古の記憶は、たぶん4~5歳くらいの頃のものだと思う。両親に連れられての帰省だったと思うが、その頃にはまだ厩があったのを覚えている。厩と言っても、西部劇に出てくるような独立した建物ではない。家の中に厩があるのである。今の感覚からは想像もできないが、衛生観念の違いと、それだけ馬が大事にされていた証だったのかもしれない。

そんな家族の一員のような馬の背に初めて乗せられた時の記憶は強烈に残っている。なによりもそれは楽しいというよりもその高さにビビった記憶である。その厩の記憶はその時だけで、小学生の頃はもうなくなっていた。その次の思い出は豆腐の美味しさである。近所で売られていたものであるが、醤油をかけるだけなのにメチャクチャ美味しくて、行くたびに(行く前から)リクエストしていたものである。今は厩のあったあたりはキッチンになり、豆腐屋はなくなっている。

母と伯母のおしゃべりに飽きて近所に散歩に出た。祖父母とこの世に生きて生まれることのなかった姉の墓参りをし、付近を散策する。寒さもあってか、道行く人はほとんどなく、時折車がいずこかへと走り去るのみ。明らかに空き家となって久しい家は、否応なしに人口減少社会を実感させられる。かというと、真新しい家もチラホラあってちょっとホッとする。近所を流れる小川は、そう言えば子供の頃に初めてホタルを見たところでもあることを思い出した。

伯父がかつての「千ヶ沢災害」として話してくれたのは、昭和34年頃に実家から歩いてすぐの川で起こった災害である。川と言っても当時も今も川幅わずかの川であるから、俄かには信じ難い。突然の出来事で、18人が犠牲になったらしいが、当時24歳の伯父はその時祖父と共に川の様子を見に行ったという。そんな歴史もこの地域には残っている。単なるおしゃべりではあったが、そういう話を聞く機会もあまり残されていないのかもしれないと思ってみたりする。

考えてみれば、曽祖父から受け継いだこの家に伯父は生まれた時から住んでいるわけである。一度も引越しというものを経験することなく、今日まで84年間住み続けて来たこの地に我が子たちは来たことがない。自分たちの祖先の4つのルーツの一つでもあり、一度連れて来たいと改めて思う。何もない土地であり、感慨もないかもしれないが、父や伯父たちから聞いた話や、厩や豆腐やホタルの話なども是非話してみたいものである。富士見を散策しながら、そんなことを考えたのである・・・




【本日の読書】
 街間格差 オリンピック後に輝く街、くすむ街 (中公新書ラクレ) - 牧野知弘 イオンを創った女――評伝 小嶋千鶴子 - 東海 友和 仕事にしばられない生き方 (小学館新書 や 7-2) - ヤマザキ マリ




2019年3月27日水曜日

ディズニーの『非日常』に潜む経済学

 ネットの記事を見ていたら、『テーマパーク、映画館…レジャー施設が「飲食物」の持ち込みを禁止するのはなぜ?』というテーマのものを見つけた。一瞬、「そんな理由はわかりきっているじゃないか」と思ったが、読んでみたらまったく思ってもみなかった理由が書かれていた。そこでは、東京ディズニーランドを運営するオリエンタルランドの回答が紹介されていた。

担当者曰く、「お客さまに東京ディズニーリゾートの『非日常』を楽しんでいただくため、オープン当初から禁止しております。外部からお弁当などの飲食物を持ち込むことで、施設のテーマである『夢と魔法の王国』『海にまつわる伝説や物語』といった世界観が壊れてしまいます。」というものであった。「本当だろうか?」とへそ曲がりとしては思ってしまう。

なぜ自前のお弁当だと世界観が壊れてしまい、パーク内の飲食物だと壊れないのだろうか。パーク内の飲食物が外では決して食べられない『夢と魔法の国から持ってきた食べ物』『海にまつわる伝説上の食べ物』であるならその通りだと思う。百歩譲ってミッキーの形のワッフルとかおにぎりとかチキンナゲットとか、ミッキーの手の「グローブシェイプ・チキンパオ」とかだけならわかるが、普通のホットドッグやパスタやてんぷらやちらし寿司などだってお値段込みで充実している。とても世界観を気にしているとは思えない。説明としては誠に苦しいものであることは間違いない。

本当のところは、「飲食でも利益を上げるため」だろう。セット販売はマクドナルドならずとも世の常である。入場料だけではなく、グッズ販売や飲食も含めてトータルでお金を落としてもらおうという考えに他ならない。実際、子供を連れて行けば結構な出費になるのは経験済みである。ただ、『夢と魔法の国』としては、銭金にまつわる話は表に出したくないのであろうから、苦し紛れに「世界観」などという言葉を使っているのだろう。もし、本当に世界観を大事にしているのなら、ミッキーの形をしたおにぎりなら持ち込み可にしてもいいんじゃないかと思ってしまう。

「夢と魔法の国」のイメージを守るためなら、「ゴミの種類を減らすため(決まったゴミのみが生じるようにコントロールするため)」というような「言い訳」の方がまだマシではないだろうかと思ってしまう。ではそうした本音の部分の「経済的事情による禁止」が悪いかと言えばそうは思わない。それはそれなりに費用もかかっていることだろうから、自分たちの世界ではすべてのお金が自分たちに還元されるように作り上げるのも当然やってしかるべきだと思うからである。

映画館も同様であるが、同じ記事によると映画館の回答は、「回答を控えさせていただきます」とのことのようである。つまり、「あからさまに答えたくない」ということであろう。映画館であれば、無理に飲み食いしなくともと思うが、ディズニーランドでは滞在時間も長く、そうも言ってられない。気になるのはやはりお値段であるが、やっぱり高めだと感じざるを得ない。持ち込み不可で競争が存在しない以上、「好きに決められる」となればそうなるのだろう。

価格も含めて『非日常』と言う意味が込められているとしたらその通りであろう。親としては、夢から覚めて現実の日常に戻った時に、軽くなった財布を眺めてため息をついてしまう。ただし、子供が無邪気に喜ぶ顔を見ていると、また連れて行ってあげようと思ってしまうものである。子供も大きくなると、家族でディズニーに行く機会もほとんどなくなる。懐的にはいいが、あの頃の無邪気な子供たちとまた行けるなら、ディズニーの『世界観』も悪くはないと思うのである・・・




【本日の読書】
 サブスクリプション――「顧客の成功」が収益を生む新時代のビジネスモデル - ティエン・ツォ, ゲイブ・ワイザート, 桑野 順一郎, 桑野 順一郎, 御立 英史 ドーン (講談社文庫) - 平野 啓一郎




2019年3月24日日曜日

論語雑感 八佾第三(その21)

〔 原文 〕
哀公問社於宰我。宰我對曰。夏后氏以松。殷人以栢。周人以栗。曰使民戰栗。子聞之曰。成事不説。遂事不諫。既往不咎。
〔 読み下し 〕

哀公(あいこう)
、社(しゃ)を宰(さい)我(が)に問(と)う。宰(さい)我(が)、対(こた)えて曰(い)わく、夏后氏(かこうし)は松(まつ)を以(もっ)てし、殷人(いんひと)は柏(はく)を以(もっ)てし、周人(しゅうひと)は栗(くり)を以(もっ)てす。曰(い)わく、民(たみ)をして戦栗(せんりつ)せしむと。子(し)、之(これ)を聞(き)きて曰(い)わく、成事(せいじ)は説(と)かず、遂事(すいじ)は諫(いさ)めず、既往(きおう)は咎(とが)めず。
【訳】
哀公が宰我に社の神木についてたずねられた。宰我がこたえた。
「夏の時代には松を植えました。殷の時代には柏を植えました。周の時代になってからは、栗(りつ)を植えることになりましたが、それは人民を戦慄(せんりつ)させるという意味でございます」
先師はこのことをきかれて、いわれた。
「できてしまったことは、いっても仕方がない。やってしまったことは、いさめても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない」
************************************************************************************

 論語には意味のわからない言葉が時々出て来る。今回のこの言葉もその1つ。社に植える神木の歴史について話しているようでいてそうではなく、かといって親父ギャグのようなダジャレが言いたいわけではないだろう。なんとなく社の神木に政治的な意図を含めることを諌めたかのようにも思えるし、その解釈はどういうものなのか難しい。ただ、ここでは解釈を論じるつもりはなく、ここから感じたままを綴るだけである。

日本でも縁起を担いだりすることは昔からよくあることで、アパートや病院には「4号室」がないし、お賽銭に「ご縁」があるようにと5円を使ったり(その昔の銀行員は5円で作った通帳を持って口座開設の営業に回ったらしい)するが、中国もそうなのかもしれない。おそらくは「社」というのは、支配者の宮殿なのかもしれないが、ここに支配権を確立できるようにその意味を込めた神木を植えたということなのかもしれない。

そのように考えたのであれば、「市民が戦慄するように」という意図を持って栗(りつ)を植えたというのは、支配者からすれば当然の思いなのかもしれない。ただ一方で支配される者からすれば、それはまさに「シャレにもならない」と言えるであろう。ここでは「これからはこんなことを繰り返さぬように」という風に諭しているのが言葉の意味なのかもしれない。

ある願いを込めて何かをするというのはよくあることであり、身近に真っ先に思い浮かぶのは「名付け」である。生まれてきた我が子や希望を持って設立した会社や、我が家にやってきたペットなど、名付けの時にはみんなそれぞれ意味を込めたりする(まぁ我が両親のように猫にクロとかチャーとか見れば一発で理由がわかるものもあったりするかもしれない)。我が家でも我が子につける名前はあれこれ悩んだものである。

感覚的には、そういう「意味を込める」場合も「良い意味」がほとんどのような気もする。「人々を戦慄させる」ではあまりにも酷いものである。それを聞いた人がその人に抱く気持ちは好意よりも悪意になってしまう。どうせなら「平和の旋律を奏でる」という意味で「リツ」にすれば良いと思う(漢字が違うと言われればそれまでだが、まだマシだろうという程度である)。それならまだ市民の尊敬を得られるかもしれない。

とは言え、聞こえが良ければ良いかというと、これはこれでそうでもなかったりする。その最たるものが政党名である。「希望の党」、「日本未来の党(その後生活の党)」、「幸福実現党」等(明らかに如何なものかと思われるものは別として)、まぁ耳障りの良い政党名のものは多い。それはそれで良いと思うが、中身が伴ってこそなのは言うまでもないことである。

意味を込めることは大事であるが、もっと大事なのは込めた意味に見合う実践と言える。かと言って「戦慄」は困るが、良い意味であれば良い実践である。
 思いを込めて名付けた我が子もそのように育って欲しいと思うのである・・・




【今週の読書】
 サブスクリプション――「顧客の成功」が収益を生む新時代のビジネスモデル - ティエン・ツォ, ゲイブ・ワイザート, 桑野 順一郎, 桑野 順一郎, 御立 英史 破天荒フェニックス オンデーズ再生物語 (幻冬舎文庫) - 田中修治







2019年3月20日水曜日

Netflix (ネットフリックス)に見る独自戦略の強み

個人的に映画鑑賞が趣味の私は、毎週末の深夜に1人でバーボン片手にそれを楽しんでいる。今はツタヤディスカスのDVDレンタルが中心であるが、いずれそれは「配信」に取って代わられるものだと考えている。既にU-NEXTやHuluといったサービスが展開されているが、いずれも「料金と観られる映画の質」という観点からは満足いくものではなく、無料視聴期間だけ利用してやめている。

理想的な映画配信はもう少し先かと思っていたら、ここにきて「Amazon Prime」と「Netflix」との両方の配信サービスを利用し始めた。「Amazon Prime」は何より安い(月額400円か年額3,900円)のと、映画・ドラマに加えて音楽(Amazon Music)もあるし、さらに本業の本等の翌日配送サービスをも含めれば利用価値は十分にある。ツタヤディスカスのDVDの郵送期間のギャップを埋めるという意味でも加入するメリットは大きいと考えて加入したのである。

一方、「Netflix」はU-NEXTやHuluと同じ映画・ドラマの配信のみであり、基本的な仕組みは同じであるが、違うのは何と言っても「オリジナル作品」である。映画というコンテンツはどこでも一緒な訳で、それをどう観せるかが各社の競争の根源かと思っていた。なので、月額料金とか観ることのできるコンテンツの幅で差別化を図るほかないのかと思っていたら、何と独自に映画を創ってしまうという発想が何より凄い(発想はできても実現が難しいだろう)。

そしてその肝心なオリジナル作品の「質」であるが、これがなかなかのもの。『ROMA/ローマ』(アルフォンソ・キュアロン監督)が、アカデミー賞で3部門(「監督賞」「外国語映画賞」「撮影賞」)を制して話題となっているが、その他にもウィル・スミスという大物が主演する『ブライト』という映画もあって、これも観たが内容も申し分ない。B級映画でお茶を濁すことのない堂々とした「質」である。先の『ROMA/ローマ』は、劇場公開も始まったようだが、配給会社を介さずに配信プラットフォームと劇場が直接タッグを組んだ異例の興行ということで話題にもなっているようである。

百均のダイソーもスーパーのプライベートブランドも自分たちの事業を突き詰めていくと必然的にオリジナル商品に行き着く。「他にはないモノ」こそが、過当な競争を避け、自社に利益をもたらす。映画という「誰でも扱えるコンテンツ」において、「自分で創ってしまう」という戦略は圧倒的である。いくら「65,000本見放題!」(U-NEXT)、「50,000本以上見放題!」(hulu)と謳ってみても、それが魅力のないものであれば意味はない。それよりもたった1本のアカデミー賞受賞作品に心惹かれるのが人というものである。

ちょっと前まで「GAFA」と言われていたが、今はそれにNetflixを加えて「FAANG(Facebook、Amazon、Apple、Netflix、Google)」と言われるようになったのも頷ける。いかにオリジナルな強みを持つかがやっぱり大事である。今の会社の仕事でも「オリジナル」なものを持たなければという思いは拭えないが、なかなか一朝一夕にはいかない。それでも世の中の例を見れば心したいと思うところである。

これを機にツタヤディスカスのDVDは「月8本」コースから「月4本」コースに変更し、あとはAmazon PrimeとNetflixで補う形にするようにした。これで利用料金もほぼ変わらないで済む上、「観たい時に観れる」という利便性は格段にアップした。本当は毎日でも観たいところだが、それはいつの日かわからないが、引退後の楽しみとして取っておきたいと思う。

これからもますます映画館が遠のきそうな気がする我が家の映画事情なのである・・・




【本日の読書】
 お金の流れで読む 日本と世界の未来 世界的投資家は予見する (PHP新書) - ジム・ロジャーズ, 大野 和基 破天荒フェニックス オンデーズ再生物語 (幻冬舎文庫) - 田中修治





2019年3月18日月曜日

ルーティン化の罠

初めてのことを始める時は、何事も手探り状態であるわけで、それなりに一生懸命考えて取り組むものである。それが2回目となると前回の経験を生かしてできるわけであり、とても楽になる。3回目以降は、すでに実績ある方法を踏襲すればいいだけに、もっと楽になるし、考えなくてもできるようになる。こうしてルーティンワークが出来上がっていく。それはそれで悪くはないのであるが、時にルーティン化は人から考える力を奪っていくという弊害がある。

最初のメンバーはいろいろと考えてある手順を作り上げる。当然、その手順の意味するところも十分理解している。そこへ次世代のメンバーが入ってきて、手順だけを教えられると、今度はその手順を一生懸命やることに注力するようになる。真面目な人ほど、教えられた通りの手順でやろうとする。さらに次々世代となると、いつの間にか手順ができた経緯は忘れ去られ、手順通りにやることが目的化される。手順が絶対化されるのである。

手順通りやることが絶対化されると、時にイレギュラーの事態に対応することが難しくなる。当然のことながら、手順には何らかの目的があるわけであり、大事なことはその目的を果たすことである。目的を果たせれば手順通りである必要もない。これがわかっていれば、イレギュラーであっても可とできるが、分かっていないと手順通りでないゆえに不可としてしまう。本末転倒とも言えるべき事態が生じることになる。

確かに、前回同様にやるのは楽でいいと思う。ルーティン化されれば考えなくともいいわけで、これはこれでモノによっては良いと思う。例えばラグビーの五郎丸は、一連のルーティンによってゴールキックを確実に決められるようにしていたし、私に関しては朝の通勤については会社に着くまですべてルーティン化している。朝起きてから一連の流れにそって髭剃り、朝食等をこなし、同じ時間の電車に同じ場所から乗り、会社に到着する。アクシデントでもない限り、考えずにこなせる。そうしてその間、脳みそは読んでいる本の内容に集中したり、その時々に考えるべきことに思考を及ばせることができる。

しかし、これが仕事となると、単純な事務ならいいが、そうでなければ危険である。思考停止になるし、マンネリ化するし、何より世の中の変化についていけなくなる。私が今の会社に来た時も、そんなルーティン化が蔓延していた。それを私が業界素人であることをいいことに、一つ一つの意味を問い質し、考え直し、改めていったのである。日頃、何気なくわかったつもりでやっていても、実は改めてその意味を問われると答えられないものも多い。続ける必要があるのなら、なぜ必要なのかを改めて確認して続ける。変えるべきは変える。こうして社内の多くの事が変わったのである。

次に怖いのが、変えた後にルーティン化することだろう。人間はすぐ易きに流れる。自分自身も自分自身で変えたがゆえにこれでいいのだと思うようになる。以前所属していた組織では、それがゆえに、「毎年何かを変える」ことを自分に意識して義務付けるようにしていたのである。自分が離れた今、その組織は3年経ってもいまだ私がいた時と同じことを繰り返している・・・

昨日と同じことを今日も明日もやることは楽である。組織によっては、まるでありのまま維持することこそが大事だと言わんばかりである。同窓会組織のような無害な組織であればそれでもいいかもしれないが、営利組織では、それでは存続できないであろう。「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは変化できる者である」とはダーウィンの言葉として知られているが、まさにその通りではないかと思う。

「楽な道より険しい道を選べ」ということもよく言われるが、変えることは楽ではないと考えると、やはり常に変え続ける必要があると思う。何でも変えればいいというものではないだろうが、変えるべきか否かは常に問い続けてもいいかもしれない。安易なルーティン化の罠に陥ることのないよう、「昨日と違う今日を生き、また今日と違う明日を迎える」という精神は常に持っていたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 お金の流れで読む 日本と世界の未来 世界的投資家は予見する (PHP新書) - ジム・ロジャーズ, 大野 和基 破天荒フェニックス オンデーズ再生物語 (幻冬舎文庫) - 田中修治






2019年3月13日水曜日

求めるのは主体性

部下を持つにあたり、どんな人物が好ましいかと考えてみると、働くにあたって「自主性」というか「主体性」というか、そういう「自ら考えて動く」ことのできる人がいいとつくづく思う。「○○した方がいいと思います」と提案してくれるのはありがたいと思うが、「ではやって」と言われた時に動ける人物である。「言うだけ」なら誰でもできるわけで、せっかく提案してくれたのに、「やって」と言ってやらないのなら上司としてはそれを誰にやらせるかを考えなければならないという負担になってくる。提案する以上は、「自分でやる」という気概を持って欲しいところである。

「言うだけ」の評論家ならこちらとしてはいない方がマシと言える。こういう評論家はかなりの割合で存在していて、時々イラっとさせてくれる。うまくいかない原因を挙げて「○○だからなぁ」と分析してみせるが、「ではどうすればいいか」と問うと黙ってしまう。「した方がいい」と思うなら、自ら動いてやって欲しいところである。こうした「自分から動く」と言うスタンスを持っている人なら、是非にとも部下に欲しいと思う。

「主体的に動く」と言うことは、すなわち「考えて動く」と言うことでもある。仕事中に電話がかかってくる。それを取って要件を聞く。中小企業ではセールスの電話も多く、その大半が社長宛である。「社長さんをお願いします」と言われて素直に取り次いでいたら社長もたまったものではない。要件を聞いて単なるセールスだと判断したら、取り次がずにそこで断るという「芸当」が求められる。さらにこのセールスの話は会社にとって良さそうだと思えたなら、とりあえず自分で聞いてみる(場合によっては来てもらって話を聞く)ということができれば完璧である。

実際、中小企業ではかかってくるセールスの電話も玉石混交(あくまでも「我が社にとって役に立つ」と言う視点での話)である。面白そうだと思って話を聞き、導入したサービスも多い。自分でやってきたから、自分ができるからというつもりはないが、自分でできる以上、そんなに難しいことではないと言えるので、このくらいできるとかなり「有能な部下」と評価できると思う。

「一を聞いて十を知る」ではないが、いちいち指示しなくてもやってくれるというのはありがたいことである。A=Bであり、B=Cならば、C=Aである。言葉で書くと簡単だが、実際には「C=Aである」と言わなければわからない(やってくれない)ことがある。こちらは当然「言わなくてもわかるだろう」という思いがある。しかし、「A=B」ということが事前にわかっていて、現場で「B=Cである」ことがわかったならば、当然「C=A」という行動をとって欲しいところだが、「言われてなかったから」と言ってやらないで帰ってこられるとガックリとくる。

普段からのコミュニケーションにもよるのだろうかと考えてみるが、いちいち指図されることが嫌いな自分としては、常に自分で考えて「言われなくても」やってきた (だって「C=A」だってわかるじゃないか)。それを良しとしてきたので、「言われた範囲内」でしか動けないのをただ、ただ不思議に思うだけである。

「言われた範囲内」でしか動けないというのは、裏を返せば「下手なことをして怒られたくない」という気持ちもあると思う。言われたことだけをしていれば間違いはない。余計なことをしたら怒られるかもしれないというリスクを避けたい気持ちはよくわかる。なら「余計なこと」はしなければ良い。上司に聞けば当然やれと言われるであろうことは「余計なこと」ではない。それを事前に先回りして読んでやればいいだけのことである。

思うに「仕事が面白くない」という人は、こういうことができていないのではないかと思う。常に自分自身で決定権を持ち、思うように動いていたら仕事は楽しい。あまり愉快でないことをやれと言われて渋々やっていたら面白くはない。やっぱり自分で面白みを見つけて前向きにやれば何事であれ面白いだろう。

私はよく「できない上司に仕える有能な部下」を演じているつもりで仕事をしてきた。指示が悪いのは当たり前、それをどう本来のあるべき姿に変えるか。それとなく示唆して上司に正しい指示を出し直してもらうのもいいかもしれないが、「優秀なら」それくらいのことはできるだろうと想像して取り組むのである。これでかなり上司に対するストレスは軽減されたものである。

すべてのサラリーマンの常として、上司も部下も有能であることに越したことはない。しかし、そうもいかないのが世の常。どんな人と組んでもうまくやりたいと思うが、求める理想像はどういうものであろうか。それを考えてみるのも悪いことではない。そうして改めて考えてみたところ、やっぱり部下に求めたいのは「主体性」だろうと思うに至るのは、上記の通りなのである・・・




【今週の読書】
 安売りするな!「価値」を売れ! 新版 - 藤村 正宏 下町ロケット ゴースト (小学館文庫) - 池井戸潤





2019年3月10日日曜日

論語雑感 八佾第三(その20)

〔 原文 〕
子曰。關雎樂而不淫。哀而不傷。
〔 読み下し 〕
子(し)曰(い)わく、関雎(かんしょ)は楽(たの)しみて淫(いん)せず、哀(かな)しみて傷(やぶ)らず。
【訳】
先師がいわれた。――
「関雎(かんしょ)の詩は歓楽を歌っているが、歓楽におぼれてはいない。悲哀を歌っているが、悲哀にやぶれてはいない」
************************************************************************************
言葉としては難しいが、「淫」とは「溺れない」という意味のようで、「傷」とは「うちひしがれない」という意味のようであるらしい。ここで論語を採り上げているのは、その言葉の解釈をするのではなく(そんな学もないし、それは専門家に任せたい)、その言葉から連想することを徒然なるままに書き連ねているわけであるが、今回連想したのは「節度」である。

以前、銀行員時代、競馬の好きな部下がいた。まだ当時20代の男であったが、結構競馬場に通っていたようである(私は興味がなかったのであまりその話は聞いていなかった)。職業的にいいイメージは持たれないかもしれないが、彼の銀行員らしいところは、勝負につぎ込むお金は「月10,000円」と決めていたことである。ギャンブルと言えば、のめり込んで借金までして自滅する人がいるが、さすがに銀行員らしい「節度」であった。

カジノ誘致の議論では、「ギャンブル依存症を作り出す」というような意見を言う人がいるが、みんながみんな彼のような節度を保っていたならそんな心配は無用だし、そうなったら公営ギャンブルは成り立たなくなるかもしれないとすら思う。ギャンブルには人を熱くさせるものがあり、それはよくわかる。問題はそこに金が絡むことであり、それは本来、なくなればそれまでのところだが、借金という形(あるいは手をつけてはいけないお金)で継続できることであろう。

私もかつて株をやっていたが(今も持っているだけは持っている)、やっぱり読みが当たって値上がりして利益を手にするのは何とも言えない快感である。そして勝てば自分が凄い存在になった気がして勝負に投入する金額が大きくなる。勝てば良いが、負ければ悔しくて今度はそれを取り返そうとする。そうして気がつけば深みにはまっている。

勝てると思うから資金が尽きれば借りようとする。返済は考えないかというとそんなことはなく、きちんと返そうと(返せると)考えている。何も問題はない。次の勝負に勝てばいいのだから。お金がなくなったらそこでやめれば良いのだが、今の時代は簡単に借りられる。私はそこまで落ちなかったが、気がつけば会社のお金をつぎ込んでしまい、会社が傾いてしまった社長さんもいた。

ギャンブルに限らず、酒や女で身を持ち崩す人の話は枚挙に暇がない。みんな一定の「節度」を保てば問題ないものばかりだと思うが、人が人たる所以なのか、人はしばしば節度を保つことはできず、超えてはならない一線をオーバーしてしまう。でも踏みとどまれる人はいるわけで、そうした「節度」は一体どうしたら身につくのだろうかと思わざるを得ない。「節度」を守れる人と守れない人の違いはなんなのであろう。

それは言ってしまえば「意思の力」に他ならないが、「想像力(想定力)」もあると思う。「この道を行かばどうなるのか」がきちんと想定できれば、ヤバいと思って立ち止まれるだろうと思う。それを「行けばわかるさ」ではまずいだろう。最悪のケースに陥った時にきちんとそれを回避できるのか。それができる確証があるのか。そういう事態をきちんと想定できれば、意思を持って自制できるような気がする。

資格試験の勉強をしていても、ついつい気がつけばネットサーフィンしてしまったりしている自分としてはあまり偉そうなことは言えない。快楽に溺れたいのは人間の本能みたいなものだと思うし、難しいところである。孔子に向かって誇れるとしたら、せめて楽観主義的な性格が物事を悲観的に見ることのない点で、「哀しみて傷らず」はできているところかもしれない。

節度の境界線をチラ見しながら、できるところまで人生を楽しみたいと思う自分なのである・・・




【今週の読書】
 学校の「当たり前」をやめた。 - 工藤勇一 下町ロケット ゴースト (小学館文庫) - 池井戸潤





2019年3月4日月曜日

我が子に望むこと

子供ができたとわかった時、たいていの親が望むのは、「無事に生まれてきてほしい」という事だろう。そして無事に生まれてみれば、そう望んでいたことは忘れて、「丈夫に育ってほしい」と思い、寝返りはまだか、ハイハイはまだか、言葉を話すのはいつか、立つのはまだか、歩くのはと次々に気になってくる。そして幼稚園、小学校となると人によっては、「お受験」となる。どの親も我が子を思ってのことだから悪いとは思わないが、個人的に我が子にとなると違和感を覚える。

自分の子供に対しては、自分自身「お受験」などさせるつもりはなく、娘も息子もこだわったのは、幼稚園から小・中学校と「地元」ということだけ。「歩いて通える」ということを重視したのである。よく朝の通勤電車に小学生が1人で乗っていたりするのを見かけるが、いかがなものかと思わざるを得ない。何かあったらどうするのだろうと思ってしまう。そこまでして通わせる価値のある学校があるとは思えないのである。

娘は中学を卒業して都立高校へと進学したが、その先は未定である。中学生の息子は、我が意に反して塾に通っており、成績もトップクラスである。だが、本当は今の時期に必要なのはスポーツに夢中になる事(これは野球で実現している)であり、漫画を読んだり小説を読んだり、テレビを見たりすることだと考えている。学校の成績はテストで70点くらいとれていればよく、トップクラスになどいる必要はまるでない。70点くらいの成績であれば塾へなど通う必要はないのであるが、妻の意向に素直に従う我が子にもどかしい思いがする。

我が子に望むことはただ一つ。「自分の人生を親よりも長く過ごして欲しい」ということ。それ以上望めばキリがないし、最低限それだけできれば親としては満足である。高校へは行った方がいいと思うし、大学も然り。しかし、どうしてもという事であればそれにはこだわらない。大企業に就職できるならそれも良いだろうが、できなくてもきちんと生きて生けるならいいだろう。ストリートミュージシャンだってやりたければやったらいいと思う。

今の時代も相変わらず「良い高校」「良い大学」「良い会社」という信仰がまかり通っている。特に毒されているのが世の奥様族。「どこの塾がいい」などという話はママ友間で飛び回っているようである。しかしながら、良い高校に行ってもいじめに遭うかもしれないし、受験で失敗して挫折するかもしれない。引きこもりになったり、良い会社に入っても鬱になったり過労死したりするかもしれない。東大を出て大手広告代理店に入ったのに自殺してしまった若者もいる。基本的に先の奥様族は、「入れたら終わり」だ。そこまで考えていない。世の中をきちんと生きていくには、困難・苦難・挫折の嵐は必ずあるものであり、その時それをどう耐え凌ぐかが大事であり、それをどこで学ぶべきだろうかが大事だと考えている。

自分の場合、それは間違いなく漫画であり、また映画やテレビドラマや小説だったと思う。塾へ通って勉強ばかりしていて、そういう「心の基礎体力」がつかないまま成長すれば、ちょっとした困難ですぐにへこたれてしまうと思う。今や精神医療はなんでもそれらしい病名をつけてくれるし、薬も処方してくれる。基本的に「鬱は病気ではない」と考える身からすると、どうにもいただけない世の中である。そんな中で、必要なのは「精神的なタフさ」であると思う。そしてそれは塾に行っても身につかないものである。

人生に試練はつきものであり、それは「良い高校」「良い大学」「良い会社」へ行っても避けられるものではない。ならば、それに対してどう備えるか。「これをやれば大丈夫」というものは思い浮かばないが、何となくその都度語って聞かせたい事は多々ある(聞いてくれるかはわからないが・・・)。いたずらに他所と比べてどうのこうのというのは論外。いかにして自分の人生を困難に負けずに歩んでいくか。そういう親の思いを子供には伝えたいと思う。

走り方ではなく、転んだ時にすぐに起き上がることの方が大事だし、それをこそ教えられる親でありたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 世界史を変えた新素材 (新潮選書) - 佐藤 健太郎 本日は、お日柄もよく (徳間文庫) - 原田マハ




2019年2月28日木曜日

考えることはやはり大事だ

世の中働き方改革がブームではあるが、個人的にはちょっと違った意味での働き方が気になっている。それは、「言われた事をやるだけ」の働き方である。高校生の頃は、漠然と「サラリーマンにはなりたくない」と考えていたが、それは「サラリーマン=顎でこき使われて奴隷のように働く人」というイメージがあったからである。今でいえば「社畜」なんて言葉で言い表せられるだろうか。就職してみてわかったのは、「社畜」になるかどうかはその人の働き方次第、考え方次第だということである。

当たり前と言えば当たり前であるが、どういう意識で働くかは重要だろう。心構えであり、スタンスである。それにあたって大事なのは「考える」ことだと思う。自分の仕事の一つ一つについて、ただ言われるがままやるのと「考えて」やるのとでは自然と結果も変わってくるだろう。「創意工夫」も「考える」からこそ可能になるというものである。

そもそもであるが、この「考える」ということがあまりできていないように思える。かつて務めていた銀行でも、「考えている」とは思えない人も多かった。
「これをやることにどういう意味があるのか」
「この資料をもらうことにどういう意味があるのか」
交渉にあたって、Aという反応とBという反応が予想される。Aだったらこうしよう、Bだったらこうしようと考えておけば交渉も早い。ところがAだったらいいが、Bだったらまたその時考えようと棚上げしようとする。思わず、「なんで?」と思ってしまう。

 トヨタ自動車の改善で有名になった「なぜ」を3回繰り返すというのも、結局、「考える」ということである。「考える」からこそ自分の意見も出てくる。今の会社でも、意見を求めると「う~ん」と言って下を向いてしまったりする人がいる。考えてもわからないというケースもあると思うが、なら調べてみるとか、わかりそうな人に聞いてみるとか、そういうアクションが取れると思う。なのにそこで「思考停止」してしまう。「言われた通りやっておけば怒られないだろう」という保守的な考えなのかもしれない。

よくサラリーマンが会社帰りに赤ちょうちんでくだを巻くということがある。仕事の不満なのだとしたら、そんな不満を言う暇があったら改善策を考えて提案すればいいのにと思う。それが受け入れられないのであれば、それはそれで仕方ないので、不満を言う前に「ではどうすれば良いか」を考えれば良い。上司と意見が合わないことは不思議ではないので、言うだけ言ってダメなら切り替えるしかない。「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」(後藤田五訓)である。

「考える」ことは「責任感」にもつながる。「言われたことだけ」やっていれば、確かに怒られることはないし、ミスさえしなければ責任もない。それは確かに楽だろうが、そういうスタンスは知らず知らずのうちに、自分の「考える力」を奪い、「責任感」をも奪っていく。それは結局、「社畜」への道であり、自分自身に跳ね返ることだと思う。スポーツでも、「やらされている」練習は身につかず(根性と体力だけはつくかもしれない)、ちょっとチームのレベルが上がればレギュラーにはなれない。自分にとって必要な練習を「考えて」実行できる人間がレギュラーになれる。どの世界でも同じだと思う。

ひょっとしたら、考えていないというのは間違いで、腹の中ではしっかり考えているのかもしれない。ただ、それを表明しなければ(あるいは行動に表さなければ)、それは考えていないのと結果的には同じである。
「人の振り見て我が振り直せ」
ではないが、そんな「考えない」人たちを見るにつけ、自分自身は「考える」サラリーマンであり続けたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 世界史を変えた新素材 (新潮選書) - 佐藤 健太郎  本日は、お日柄もよく (徳間文庫) - 原田マハ




2019年2月24日日曜日

決断の正体

ネットの記事で、興味深いものを見つけた。『結婚できる人とできない人の差は、容姿や経済力ではない“決断”できるかどうかだ』というものである。記事では、お見合いをした人が、紹介を受けて最後に「結婚に向かう意思があるかどうか」を問われた際、「年齢や年収を理由に躊躇する」という例を紹介している。お見合いである以上、それらは最初からわかっていたこと。なのにそこで躊躇するのは、結局「決断力がないから」だとしている。

著者の主張はシンプルで、「結婚は決断」だというもの。人生は計画通りにはいかないもの。どんなに慎重に考えても100%思い通りにはいかない。石橋を叩いても、最後に渡る決断ができない人は結婚はできない。結婚できた人は、どこかで「決断」できた人だという主張はその通りだと思う。我が身を振り返ってもその通りであると思う。と言うより、自分の場合はもう少し考えて諦めずにいればよかったと深く後悔している。

それはともかく、著者の主張を読んでいて、もう一歩の踏み込みがないように感じたのも事実である。それは「決断できない理由」である。お見合いでは、事前段階で相手の年齢も年収もわかっている。それで実際に相手と会ってみた結果、年齢や年収を理由に「決断」できないのは、年齢や年収が「本当の理由」ではないということではないかと思う。本当の理由は、たぶん本人にもよく説明のできない「なんとなく」という理由ではないかと思う。

人間は、相手を判断するのに、年齢や年収などのスペックで判断するわけではない。見た目とか、話をしている時の雰囲気だとか、ちょっとしたしぐさなんかで印象が変わる。好きでも嫌いでもなく、大して心が動かない異性というのはいくらでもいるわけで、そういう相手と結婚するかと問われれば、結婚に焦っていない人なら即答で断れるが、誰かと結婚したいと思って探している人なら誰だって煮え切らない態度になるだろう。他にも同条件でもっといい人がいるかもしれない(いないかもしれない)。そんな心境なところに、「どうですか?」と問われれば、上手く説明できない感情を無理に説明するのではなく、手っ取り早く「条件」に難を示すのはありうるパターンだと思う。

その昔、女性に振られてばかりいた20代、どうすればいいのだろうかと悶々としていた時期があった。振られた理由を知りたいと思ったが、教えてくれることはなく、振られるのは仕方ないがせめて理由を教えてくれれば次へと活かせるのにと思ったものである。今から思えば、そんな理由を聞いても意味はないだろうと思うのだが、当時は「それさえ直せば」と必死だったものである。「優しい人が好き」と言われて優しくしても、好きになってもらえるものではないと今ではわかる。よく「好きな異性のタイプは」という質問を耳にするが、個人的にはそれに対する回答は血液型占いと同じくらいにしか信じてはいない。

おそらく、ではあるが、年齢や年収を理由に躊躇する人に、別の同条件の人を紹介し続けてみたら、案外ヒットしてあっさりOKを出すかもしれないと思っている。恋愛は相手の条件で生じるものではなく(まぁお金持ちのイケメンというだけで生じる人はいるかもしれないが・・・)、会って接するうちにいつの間にか生まれるものである。「この人!」と思う相手に巡り合った途端、それまでの「条件」なんかみんな忘れてしまうのではないかと思う。

結局、著者の言う「決断」とは、「まあこのあたりで仕方ないだろう」という「妥協」のことに他ならない。「年齢もこのくらいまでなら仕方ない」「年収もこの程度なら仕方ない」「容姿もほどほど」「性格も悪くなさそう」そういう平均点をかき集めて「妥協」するのが、お見合い結婚できる秘訣ではないかと思う。それを「決断」と言っているのに他ならない。そういう「決断」ができて結婚した人が幸せになれるかどうかはまた別の問題である。

仲人的な立場の人からすれば、そういう決断ができない人を責めたくなる気持ちはよくわかる。記事の趣旨もそんなところである。ただ、結婚するのが必ずしもいいとは思っていない立場からすると、人生で最大とも言える「決断」を安易にしないのもまた「決断」だと思わざるを得ないのである・・・




【今週の読書】
 残酷すぎる成功法則 - エリック・バーカー, 橘玲, 竹中てる実 日本国紀 - 百田 尚樹 When 完璧なタイミングを科学する - ダニエル・ピンク, 勝間 和代





2019年2月20日水曜日

論語雑感 八佾第三(その19)

〔 原文 〕
定公問。君使臣。臣事君。如之何。孔子對曰。君使臣以禮。臣事君以忠。
〔 読み下し 〕
問(と)う、君(きみ)、臣(しん)を使(つか)い、臣(しん)、君(きみ)に事(つか)うるには、之(これ)を如何(いかん)せん。孔(こう)子(し)対(こた)えて曰(い)わく、君(きみ)、臣(しん)を使(つか)うに礼(れい)を以(もっ)てし、臣(しん)、君(きみ)に事(つか)うるに忠(ちゅう)を以(もっ)てす。
【訳】
定公がたずねられた。
「君主が臣下を使う道、臣下が君主に仕える道についてききたいものだ」
先師がこたえられた。
「君主が臣下を使う道は礼の一語につきます。臣下が君主に仕える道は忠の一語につきます」
************************************************************************************
ここでは主従関係にある者について、使う者と仕える者とのあり方について述べている。時代背景もあるから仕方がないことであるが、現在の国民主権、民主主義の世の中ではもはや封建的な意味での主従関係は存在しない。現代で似たような例をあげるとすれば、「雇用関係」であろうか。あるいはスポーツチームの監督(ヘッドコーチ)と選手との関係なんかがこれにあたるかもしれない。

個人的に興味深いと思ったのは、「君主が臣下を使う道は礼の一語につきる」というところである。「臣下が君主に仕える道は忠の一語」というのは比較的理解しやすい。我が国でも「いざ鎌倉」の精神から忠臣蔵まで、すべてを捧げて君主に尽くす姿が美徳とされてきた歴史がある。犬でさえも「忠犬ハチ公」が銅像になるくらいである。それは支配階級からしたら誠に都合の良い精神である。それだけに止まらず、君主が臣下を使う際の心得まで説いたところが興味深いと感じたところである。

質問をした定公とは、おそらく君主だろう。たぶん、「家臣の使い方」という意味で聞いたのかもしれない。あるいは、もっと大きな意味で「偉大な君主とされるためには」という観点から尋ねたのかもしれない。それに対し、君主も「礼」をもって接するべしと説いたものである。まぁ、君主だから生殺与奪の権利があるというわけではなく、ある程度の「使い方」があるというのは理解できるところである。

その君主のあるべき態度として必要なのは「礼」であるとしている。「礼」とはよくわからないが、思いやりのようなもののようであるから、要するに「愛情を持って接すべし」という事ではないかと思う。現代的な感覚から言えば当然だと思うが、当時の感覚からしてもそうであったのだろうかと、ふと思う。それはともかくとして、当時の専制君主であってさえも「礼をもって接すべし」と言うのであれば、現代においては尚更であろう。

雇用関係においては、最近「セクハラ」や「パワハラ」の概念が確立され、また一連の働き方改革で(臣下にあたる)労働者が守られるようになってきている。しかし、それ以前に雇用主(または上司)が、「礼」をもって(臣下たる)従業員(または部下)に接していれば、昨今騒がれているような過労死などの問題もなかったのではないかと思われる。そういう意味では、孔子の言葉は現代においても真理である。

一方の忠であるが、現代では「滅私奉公」も死語となりつつあり、雇用関係でそれを求めるのは時代錯誤的である。ひと昔前の「忠臣」たる「会社人間」も今では流行らない。しかし、それでも敢えて「忠」の精神は必要だろうと思う。「忠」と言っても、それは「人」に対するものではなく、言ってみれば「仕事」それ自体に対するものである。「プロフェッショナル意識」と言ってもいいと思うが、そうした「忠心」は今でも必要だろうと思う。

「自分はプロフェッショナルか」と問われれば、大概の人はそうだと答えると思うが、その実態はと言えば、
「言われればやる(言われなければやらない)」意識
「それは自分の仕事ではない」意識
「昨日と同じ今日を過ごして安心」意識
が至る所で目につく。

 現代のサラリーマン社会においても、「礼」も「忠」も共に上記の意味では重要である。いささか拡大解釈的ではあるが、そんなことをふと考えさせられた言葉なのである・・・




【本日の読書】
 残酷すぎる成功法則 - エリック・バーカー, 橘玲, 竹中てる実 日本国紀 - 百田 尚樹






2019年2月17日日曜日

日大悪質タックル事件に思うこと(その3)

日大タックル指示、200人聴取し映像解析で否定 刑事捜査は真逆の結論
日本大アメリカンフットボール部の悪質反則問題で、警視庁捜査1課は内田正人前監督(63)と井上奨(つとむ)前コーチ(30)による危険タックルの指示はなかったとし、日大の第三者委員会などの調査とは正反対の結論を導き出した。日大関係者ら約200人への聴取、試合映像など客観証拠の精査の結果、第三者委などが「指示」の根拠として挙げた関係者の証言や両氏の発言は、傷害の共犯、教唆を裏付ける材料にはならないと判断。捜査幹部は「グレーではなくシロ」と強調する。
2019.2.5 21:40
************************************************************************************

 この問題は、私も当初から関心を持っていてずっと気にかけてきたが、とうとう「シロ」という結論が出たようである。前回のニュースでは、真相は藪の中で「グレー」という印象を持っていたが、捜査幹部が「グレーではなくシロ」と強調する以上、相当の自信があるのだろう。もともと「そんな(悪質タックルの)指示など出すだろうか」と単純に疑問に思っていたが、この結論の方がしっくりくる。

 そして思っていた通りマスコミはこの結論をおざなりにしか報じない。あれほど大々的にお昼のワイドショーなどでも繰り返し採り上げ、日大の内田監督と井上コーチを日本中に悪役としてのイメージを植えつけたのに、シロと判断されても名誉回復はしてくれない。そんなのニュースバリューがないから当然であるが、当人たちにとってみればあまりに酷い扱いだろう。なんとか救済手段があればいいのにと思う。

 当のご本人たちは、第三者委員会の「クロ」決定で解雇されている。「第三者委員会」はこうした不祥事があるとあちこちで組織され、なんとなく公平感のある人たちに思えるが、所詮は素人。マスコミによる「まっ黒」イメージから抜けられるものではなく、結局ワイドショーレベルの情報で結論を下しているわけである。ご本人たちはどんな言い訳をするのか聞いてみたいところである。おそらく、「警察ほどの調査能力はない」とでもいうのだろうが、それならそれで安易な結論を出すべきではないだろう。

ご本人たちも今さら「シロ」でしたと言われても、失ったものはあまりにも大きい。せめてニュースでもっと大々的に無罪告知してあげたらいいのにと思うが、そんなことは期待できないだろう。そもそもマスコミは、旬を過ぎてしまえば関心の欠片も持たないだろう。今さら無罪でしたなんて面白くもなんともない。報道の自由も大切であるが、この節操のなさは実に嘆かわしいと思う。これでも就活の時はマスコミ(それも報道部門だ)も考えたものであるが、やめておいて良かったとつくづく思う。

関西学院大アメリカンフットボール部は、悪質反則問題で当面中止とした日本大との定期戦について、「19年度は予定していない」という方針は変えていない。監督の指示はなかったとしても、日大選手の悪質なタックルでクオーターバックが負傷したのは事実であり、これはこれでやむを得ないだろう。ただ、「安全にできるか、何らかの検証が必要」と言っているらしいが、そんなことは不可能であり、「何を言っているんだか」と思わざるを得ない。「具体的にどうするのか」というイメージを持たずに、ただ理屈だけをこねるのはビジネスの現場でもよくあるが、こういう発想の人には本当に困らされてしまう。

個人的には、マスコミなんていい加減な集団で信用なんてカケラもできないと思っていて、それは100%間違いないと思っているが、それでも役に立つこともあると思っている。最近の児童虐待の報道など、その内容には顔を背けたくなるような酷いものであるが、それでも学校や児童相談所の問題点などが槍玉に挙がり、それで改善に動くのならそれはそれでいいと思う。マスコミとハサミは使いようだと考えれば今のあり方も仕方ないのかもしれない。

それにしても、先日観た映画『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』はいい映画であった。実話を基にしているが、ワシントン・ポストが政府の意向に逆らって報道の自由の下に政府のベトナム戦争に関する隠蔽を暴いたのであるが、こういうガッツは日本のマスコミにはないだろうなと、観ていてつくづくと思った。まぁ、そんな「ないものねだり」をしていても仕方がない。大事なのは、「自分はどうするか」である。

今回は、ラグビーと似たアメフトであるからこそ最初から「おかしい」と気がついたが、他の問題だったら疑問に思えたであろうか。自分としてはマスコミの報道はなんでも「おかしい」と思っていれば間違いがないと思っているが、それだけではなく、しっかりとした「批判の目」も持っていたいと思う。マスコミもひどいがそれに安易に操られる大衆の1人にはもっとなりたくない。

今回の「成果」を糧に、これからもマスコミの偏向報道からは自由な思考を持っていたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 残酷すぎる成功法則 - エリック・バーカー, 橘玲, 竹中てる実 日本国紀 - 百田 尚樹