先週末、富士見を歩きながら考えた。ところどころに残る自然を見てである。町中はそうでもないが、祖父母の眠る墓に向かうには、林を抜け、畑の中の道を通っていく。この景色は子供の頃からほとんど変わっていない。たぶん、父が子供の頃に見ていた景色とそれほど違わないと思う。道路が舗装され、ビニールハウスが目につくという違いくらいだと思う。おそらく、祖父も同じ景色を眺めていたのだと思う。
父や祖父が見ていたのと同じ景色を眺められるというのも何だか不思議な気がする。人は変われど、自然は変わらない。さらに曾祖父はどうだろうと思いは続く。さらにその上は、と。よく言われることだが、人には2人の両親がいて、4人の祖父母がいる。曾祖父母は8人であり、その上は16人。自分には一体何人の祖先がいるのだろうかと思考は飛ぶ。16人の先は32人。その上は64人。さらに128人、256人、512人、1,024人と続く。
どこまで遡れるのだろうかとふと思う。一世代25年として、1,024人の祖先がいたのは10世代前なので25×10=250年前、ちょうど徳川幕府10代将軍家治の時代であり、田沼意次の時代である。さらに4世代100年遡ると祖先の数はなんと16,384人となる。さらに4世代100年遡ると祖先の数は262,144人。驚異的な倍々ゲームである。さらに4世代100年前だと4,194,304人。応仁の乱の時代の我が祖先は4百万人もいたというのは俄かには信じがたい。
そのまま続けると、さらに4世代100年前には67,108,864人となる。ここまでくるとブレーキがかかる。そもそも南北朝時代の日本の人口がどのくらいだったかはわからないが、江戸時代末期の人口が3,000万人と言われていることを考えると、この時代の人口ははるかに凌駕した数字になってしまう。ここまで遡ると理論的にはすべての日本人がみな我が祖先ということになる。もちろん、実際には重複もあるだろうし、そもそも今と違って移動も徒歩が主流だったことを考えると地域間の移動も限定的だっただろうし、したがって祖先のエリアも限定的だったはずで、すべての日本人が祖先ということもないだろうとは思う。
ただし、親なくして子はないわけであり、ルーツは必ず辿れるわけである。日本人のルーツは、さらにそのルーツはと辿っていけば、およそ700万年前に誕生したとされる人類のルーツにまでたどり着いてしまうのだろう。「人類はみな兄弟」という標語もまんざら嘘ではないわけである。そんな祖先を延々と辿って想像していくのも面白いが、やっぱり会ったこともないご先祖はあまり親しみを感じられない。富士見の伯父の家にある写真と、墓石に名前のある曾祖父までが実感として感じられる限界である。
そんな祖先に想いを馳せていると、まだこの地に来たことのない我が子に想いが及ぶ。子供たちはこの地に何の感慨も覚えないであろう。将来、孫ができるのかどうかわからないが、もしも孫、ひ孫と続いていくとしても、その頃にはいずれ富士見の地も意識されることなく忘却の彼方へと追いやられてしまうのだろう。曾祖父からの一族が眠る墓も子供のいない従兄の代で絶えてしまうと、あとは無縁墓地化してしまうのだろう。何となく寂しい気もするが、4世代も後になればもう誰もそんなこと気にする者はいなくなって歴史の中に埋もれてしまうに違いない。
富士見・祖父らが眠る墓地へ向かう道 |
【本日の読書】
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