〔 原文 〕
子語魯大師樂曰。樂其可知也。始作翕如也。從之純如也。皦如也。繹如也以成。
〔 読み下し 〕
子、魯の大師に楽を語りて曰わく、楽は其れ知るべきなり。始め作すに翕如たり。之を従ちて純如たり。皦如たり。繹如たり。以て成る。
【訳】
先生が魯の国の楽隊長に ―― 「音楽って、こうなんだね。はじめは、音をそろえる。そして思いきり、ひびかせる。すみ通らせる。長つづきさせる。それでいい。」
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孔子が音楽について語るというのも意外な気がする。2,500年前の孔子の時代の音楽が果たしてどんなものであったかはわからないが、何となく現代中国の音楽で奏でられる楽器のメロディーを連想してしまう。本格的な楽団があったのだろうか、その楽団の人たちは農業の片手間にやっていたのかそれとも専属でやっていたのだろうかと想像の翼は広がる。
個人的には昔から「音楽は好きだけど苦手」である。「つまり聞くのはいいが、演奏はダメ」である。今でも音符は読めないし、同じ音楽でも演奏者や指揮者が変わると違う音楽のように変わるというのもわからない。演奏の上手い下手もわからない(音程を外れていたらさすがにわかると思うが・・・)。ただ、クラシックから現代のポップスまで幅広く聴くぐらいはしているという程度である。
そもそも音楽の起源っていつぐらいまで遡るのだろうか。ネットで調べてみても明確な答えはない。たぶん、気がついたらそこにあったという感じだろう。音楽と言ったって、その起源は打楽器的なものかもしれない。何かの合図で木の幹を叩いたりするうちに、リズムがついて合図とは別に調子を合わせるようになっていったのかもしれない。どこかで誰かが、このメロディーはいいとなったものを、最初は口伝えで、やがて文字の発達とともに音符のような記号にされるようになったのかもしれない。
孔子の時代には、既に何らかの基準で演奏の評価がされるようになっていたのだろう。音楽そのものは私も「苦手ではあるが好き」である。映画だって音楽によって盛り上がったりするし、雰囲気を出すには欠かせなかったりする。片思いで苦しんでいた若き日には、なぜかブライアン・アダムスの“(Everything I Do) I Do It For You”が妙に心に染みたものである。小学生がたどたどしく練習している下手なリコーダーだって、我が子が練習しているそれは微笑ましく聴いていたが、他所の子のそれは騒音でしかない。
小学生の頃は、クラッシックはあまり興味を持たなかったが、映画音楽は父親の影響で好きになり、よく父親のレコードを聴いていたものである。それは今でも変わりなく、ジョン・ウィリアムスとかハンス・ジマーなんかの曲は好きである。クラッシックでは「パッフェルベルのカノン」は好きだし、作曲家ではバッハの宗教音楽が好きでよく聴いている(ただし、指揮者による違いまではわからない)。
そう言えば、マンガ『ドラえもん』で、スネ夫がしずちゃんに新しいレコードが入ったから聴きにくればと誘うシーンがあったのを覚えている。それはポップスではなくクラッシック。映画『無伴奏』でも学生たちが音楽喫茶で聴き入っていたのはクラッシックであった。クラッシックは当時の(エリートが嗜むべき)教養として確立されていたのかもしれない。
今は音楽だけを聴くというのは下火になっているのかもしれない。我が家の子供たちもジャニーズなどのJポップが中心だ(長男は最近洋楽に目覚めたようである)。それも悪くはないが、嗜む程度にクラシックを聴くことも教えたいなと、ふと思う。と言っても聴き方を伝授できるほどではないのであるが、家にはCDもいろいろあるし、パパとママの結婚式の入場音楽として使ったものとして『威風堂々』を教えてあげるのもいいかもしれない。
昔はレコード用のステレオセットやラジカセなどの「専用機器」が必要だったが、今はパソコンでも楽しめるし、スマホでも楽しめる。昨年の年末はスマホをポケットに入れて、音楽を聴きながら大掃除をやったが、心なしか効率が良かった気がする。妻の厳しい「小姑チェック」に辟易する気持ちを緩和してくれたのに一役買っていたのは確かである。音楽を聴く環境という意味でも今は良い時代である。
【本日の読書】
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