2015年10月10日土曜日

難民移民に思うこと

安倍晋三首相は9月30日(日本時間)、米・ニューヨークで開かれている国連総会の演説で、シリアやイラクの難民・国内避難民に対し、約8億1千万ドル(約970億円)を支援することを明らかにした。昨年の支援額の3倍にものぼる額で、セルビア・マケドニアなどの「EU周辺国で難民の受け入れと格闘する諸国」に対しても経済支援をしていくと発表した。
THE PAGE 9月30日(水)12時0分配信
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 ヨーロッパでは、シリア難民の受け入れが大きな問題になっている。当のシリアは、ロシアがいよいよアサド政権支援のための空爆を開始し、アメリカはそれを非難しているが、ロシアが空爆しているISは欧米にとってもテロ組織として由々しき存在。アサド政権を支持できないアメリカは、批判はすれど苦しいところだ。「敵の敵は味方」ならぬ「敵の敵はまた敵」な状況は、もうぐちゃぐちゃだ。そんなシリアから、人々が逃げ出すのは当然ともいえる。

 そうした難民を受け入れようと、ヨーロッパでは160万人をEU加盟国で分担することを決めている。中心となるドイツは総数で80万人受け入れを表明し、力が入っている。しかし、一方でEU加盟国では国境警備を強化しているとも伝えられ、「受け入れるにも限度がある」ということを暗に示しているのだろう。

 さて一方で、我が国で昨年認定された難民数は、申請のあった5,000人のうちなんと11人。シリア難民は、約60人の申請者のうち3人の受け入れにとどまっているという。直接的には、認定手続き等の困難さがあるようだが、その根底には我が国の「排他的なポリシー」があるように思えてならない。だが、それが問題かと言うと、個人的には「やむなし」というところだ。

 来る少子高齢化に向けて、「移民を受け入れるべし」という声が随分前からある。民主党などは、「移民1,000万人受け入れ」を表明しており、個人的に「移民受け入れ大反対」な立場としては、実現したら大変だと危機感を抱いている。ゆえにこうした排他的な事務手続きは、「黙って続けてほしい」と考えている。難民も気の毒だとは思うものの、だからと言って受け入れるのもいかがなものかと思う。冷たいようだが、お金で支援できるものなら、それで済ますというのが正解だと思う。

 「何でも金で解決するのか」という声が聞こえてきそうだが、日本は既に湾岸戦争時にこれをやっている。突然イラクの侵略を受けたクウェートを、アメリカが中心となった多国籍軍が武力で解放した戦争である。不当な暴力に苦しむ人々に対し、「平和」を盾に直接手を貸して助けようとはしなかったのである。「平和憲法」の意味する「平和」とは、「日本の平和」という意味なのだと認識した瞬間である。

 あの時、日本はお金を出すことによって、「責任」を果たした。ならば今回だってそれも悪くはないだろうと思う。なにせ、世界に類まれなるデリケートな文化を持つ我が国。「被災地で暴動が起こらず整然と行動できる文化」は、「グローバルスタンダード」の「暴動が起こる文化」が流入したらひとたまりもない。心を鬼にして、デリケートな文化を守るべきだと思う。

 さり気ないニュースだったが、今後もちょっと気にしていたいと思うところである・・・

【今週の読書】
声優魂 (星海社 e-SHINSHO) - 大塚明夫 日本語 新版 上 (岩波新書) - 金田一 春彦 カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫) - ドストエフスキー, 卓也, 原





      

2015年10月4日日曜日

ワールドカップ2015

 ラグビーのワールドカップが盛り上がっている。ジャパンが初戦で世界ランキング3位だった南アフリカ(9/28時点で5位に転落済)を破るという予想もしなかった事態に、国内では一気に火がついた感がある。まさに、「勝てば官軍」なのだと思わざるを得ない。こうして、国内で注目を浴びれば、それが裾野の広がりにと繋がり、いずれ実力も底上げされるだろうと期待してしまう。
 
 第2戦のスコットランド戦は負けてしまったが、本来「少しでもいい試合ができればいいな」という気持ちの試合が、「勝てるだろうか」という期待に変わったのも、初戦の効果だ。それにしても、国内の「手のひら返し」には苦笑してしまう。初戦の前は、「ワールドカップって何の?」という無関心が支配していたのに、南アに勝った途端、第2戦は生放送になったし、スポーツ新聞やニュースの報道など、あらゆるところで話題になっている。さも「始めから期待していました」と言わんばかりの雰囲気だ。まぁ悪いことではないからいいけど・・・

 昨夜の第3戦は、難敵サモアに完勝だった。ワールドカップ前には、個人的に「アメリカには勝ちたい、できればサモアにも勝ちたい」と思っていたが、そのサモアに対する勝ちっぷりは1か月前からすると驚きである。最後のアメリカ戦は、順当にいけば勝てるだろう。3勝となると、決勝トーナメント進出という夢のような事態になるが、昨夜南アはスコットランド相手に完勝しているし、ポイントからしてちょっと難しそうである。あとはサモアがスコットランドを破るという「下剋上」があればだが、そこまでスコットランドも甘くはないと思う。

 さてそんなジャパンの思いがけない活躍に、すっかり観戦予定が狂ってしまったが、もともとの興味はやっぱり「オーストラリア」、「開催国イングランド」、「ウェールズ」が顔を揃えた「プールA」の戦いだ。当初はオーストラリアとイングランドが決勝トーナメントに行くだろうと思っていたが、何とウェールズがイングランドを破り、さらに昨夜オーストラリアがイングランドを破ったため、イングランドが3位で予選敗退が確定してしまった。開催国の予選敗退は、あまりみな予想できなかったのではないかと思う。

 オーストラリアの勝因は、専門家から見ればいろいろとあるのだろう。だが、個人的にはオーストラリアの「低いタックル」が何と言っても素晴らしかったと思う。特に、「一人は下に、一人はボールに」というダブルタックルが随所に見られた。大男が体を低くしてタックルにいくというのは、理想ではあるものの、「でかい体で止めて終わり」というパターンが多いゆえに(まぁそれで通用してしまうところもある)、感動的ですらあった。ジャパンのディフェンスも同様で、4年前との差を大きく感じる。

 次の興味は、オーストラリア対ウェールズがある。ウェールズは4年前の大会で、感動的なタックルを見せてくれたところ。今回も開催国イングランドを破っているし、オーストラリアとの対戦は是が非でも見たいところである。もちろん、ジャパンの最終戦(アメリカ戦)もジャパンの命運を握るスコットランド対サモアもできれば観戦したいところである。問題は観る時間だ。宅建の試験前だし、わかっていたこととは言え、なかなか悩ましいところである。

 プールCとプールDは、ニュージーランド、フランス、アイルランドあたりが順当に決勝に出てくるのだろう。あとはアルゼンチンだろうか。そちらは決勝トーナメントで観戦するとしよう。まだしばらくは、寝る間を惜しんで、録画機能もフル活用して楽しみたいと思う。しあわせな時間がまだまだ続き、嬉しい限りである・・・


【先週の読書】
なぜ今ローソンが「とにかく面白い」のか? - 上阪徹 カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫) - ドストエフスキー, 卓也, 原




    

2015年9月30日水曜日

スポーツマンに引退はない

 そろそろシーズンも終わりかけのプロ野球では、先日西武の西口投手が引退登板をしたのを始め、中日の50歳山本昌投手も引退を表明、そのほかにも40代の選手が何人も引退予定である。そんなニュースに触れると、かつてプロレスラーだった馳浩衆議院議員が、「スーポーツマンに引退はない」と語っていたことを思い出す。この頃、とくにその言葉の意味を実感することが多い。

 考えてみれば、プロ野球を始めとして、毎年多くの選手が引退を表明するが、それは「現役」の引退だ。もちろん、現役を引退し、そのままスポーツと縁を切ってしまう人も多いだろうが、元ロッテの村田兆治投手のように引退後もトレーニングを続け、マスターズリーグなどで活躍している人もいる。現役を引退しても、スポーツマンとしては引退していないわけである。

 そういう自分も、先週末は母校の大学ラグビー部のOBが組織しているシニアチームの練習に参加してきた。かつては、「タックルができなくなったらラグビーはやるべきではない」との信条をもっていたが、体を動かすという意味で練習をするのならいいのではないかと考えを変えている。タックルはしないものの、ボールを使った練習で汗をかく心地良さがあり、それなりに楽しめるのである。

 やってみれば、これがなかなかの快感。この頃はジョギングもかなり一般的になってきており、それはそれで悪いとは思わないが、個人的に「ただ走っている」のは面白くも何ともない。それに比べ、ボールを持って走り、パスをし、パスした相手をフォローしてまたパスをもらったりという動きがあった方がはるかに面白い。パント(要はキックだ)を上げ、パントを取り、ディフェンスを抜く。

 こうした一連の動きは、現役学生のようなスピードはないかもしれないが、適度に息切れし、汗をかき、練習後には心地良い疲労感に包まれる。一度体を動かす楽しさを味わうと、その感覚はいつまでも残るようで、現役学生からすると運動とは呼べないようなレベルの運動でも十分快感を得られる。残念なのは、グラウンドが遠い(片道1時間だ)のと、活動が月に1回というところだ。できれば、週1回くらいあると、体ももう少し軽やかになる気がする。

 人間である以上、年を取れば体力は衰える。しかし、トレーニングを続ければ体力はある程度維持できる。先述の村田兆治投手は、60歳を超えてもなお130キロを超えるボールを投げられたというから、まぁそこまで極端ではなくても、ある程度はできるだろう。自分も3ヶ月くらいみっちり鍛え直したら、現役の学生と試合をできるところまで体力を戻せると思う(もちろん2軍相手だ)。ただ、いかんせん仕事を辞めるわけにはいかないし、空いた時間を使って、となると現実的ではない。

 よく、「定年後には好きなことをしたい」という人がいるが、スポーツは定年後にできるものが限られてくるという欠点がある。ゴルフやテニスならともかく、ラグビーはまず無理だ。頭の中では、今でも日本代表のように動けるが、現実の己ははるかに意識に遅れを取っている。昔のように激しいアタックをしたら、たちまち整形外科医のお世話になるだろう。

 ただ、そういう現実の己の姿をしっかり認識し、自分のレベルに合わせてなら、十分にできる。楕円のボールを持っての練習は、まだ体に残っている懐かしい感覚を蘇らせてもくれる。これはこれで、ずっと続けていきたいと思う。「スポーツマンに引退はない」というのは、真実だと思う。考えてみれば、それを肯定するのも否定するのも自分次第だろう。

それが真実だと、身をもって証明し続けていきたいと強く思うのである・・・


【本日の読書】
なぜ今ローソンが「とにかく面白い」のか? - 上阪徹 カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫) - ドストエフスキー, 卓也, 原 






2015年9月27日日曜日

現有戦力で戦う

 プロ野球の野村監督は、「強いチームにはエースと4番がいないとダメ」というのが持論で、よくフロントにいいピッチャーと4番打者を取ってくれと要求していたという。一方、元中日の落合監督は、就任時、「補強はしない」と宣言し、現有戦力で戦い結果を出した。私は両者を比較すると、「落合派」だ。これまで基本的に、常に「現有戦力でどう戦うか」を考えるようにしてきたからである。

 かつて銀行員時代、管理職になったばかりの私の最初の部下は、なかなかできの悪い男だった。その男Yは、頭は良かったのだが、それが災いし、あまりに多い仕事量に根を上げ、「人を増やしてくれなければ無理」と事あるごとに文句を言ってきた。私は、「どうしたらできるかを考えよう」と言い続けたが、頭が良かったからだろう、「どう考えてもできるわけがない」との考えから抜け出せなかった。

 当然、そんな具合だから係全体のパフォーマンスも落ちる。私も必死にYのカバーをしていたが、そうすると本来の仕事が滞り、よく支店長に怒られた。
「お前が部下の仕事をしているから、俺がお前の仕事をしないといけない」と。
ごもっともだったが、どうしようもなかった。そして業を煮やした支店長が、他の支店から優秀な男を引き抜いてきた。

 その男AはYの同期だったが、実に優秀で、それまで溜まっていた仕事を嘘のように片付けていった。まぁ要は強弱をつけて処理したわけであるが、同じ支店内で男としては格下の仕事にあたる窓口業務に回されたYは、辞令を受けた時、泣きながらなんとかならないかと私にすがったがもう後の祭りだった。

 確かにAが来て、圧倒的に仕事が楽になった。こんなに違うのかと驚いたものである。仕事は回り出したが、それでも後味の悪さが残ったのは、それが「現有戦力で戦う」ということが続けられなかったからでもあった。何とかしてYの仕事のやり方を変え、係のパフォーマンスを上げたかったのである。

 確かにエースを連れてくるのは手っとり早い。だが、それで勝っても当たり前だろうとしかならない。今いるメンバーで、誰が何をしたら、チームとしての力が一番発揮されるのか。それを創意工夫してこそ、(仕事であってもスポーツであっても)それがチームプレーであり、そこに醍醐味を感じるのである。

 仕事であってもスポーツであっても、メンバーをあれこれ選ばない。たとえパフォーマンスが劣っているメンバーがいたとしても、それを前提に、「ではどうしたら勝てるのか」を考えればいい。常にそういう考えでいたいと思うのである。

 ただ、1点だけ例外があるとしたら、それはやる気のないメンバーがいた場合だろう。すべての前提は、本人が一緒に一丸となってやろうと思っていることだ。やる気がないメンバーはこの限りではない。落合監督だって、プロとしてやる気のない選手の面倒まではみないだろう。他のメンバーに悪影響があるとなれば、排除も考えないといけないだろう。

 そういう意味では、Yの排除も仕方がなかったのかもしれない。ただそうでなければ、基本的には「現有メンバーで戦う」。常にそういう姿勢は、これからも維持していきたいと思うのである・・・

【本日の読書】
カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫) - ドストエフスキー, 卓也, 原





2015年9月23日水曜日

タクシー業界

 いつも観ているテレビ東京の『ガイアの夜明け』。先日の放送は、タクシー業界であった。大手の日本交通と国際自動車の2社の取り組みが採り上げられていた。両社ともサービス向上はもちろん、人材に至っては大学新卒採用も始めているのだという。

 この番組は、同じテレビ東京の『カンブリア宮殿』と並んで毎週欠かさず観ているのだが、「自分だったらどうするだろう」と考えながら観るのが楽しみでもある。自分がタクシー会社の経営者だったらどうするだろう。自分が学生に戻ったら、卒業してタクシー会社に就職するだろうか、したとしたら入社して何をするだろうか。

 タクシー業界も規制緩和したり再規制したりとなかなか生き残りも大変だというのは、薄々知っている。そしてこの業界は、我らが不動産業界とどこか似ているところがある(→過去の投稿)。免許があれば簡単に参入でき(父もその昔『食えなくなったらタクシーの運転手をやればいいやと思っていた』と語っていた)、簡単に参入できるということは、簡単には儲からないということであり、したがってインセンティブ(歩合制)で尻を叩きながら利益を上げざるを得ない。流れてくる人も労働意欲が低いから、ガラも悪い。そんな業界にあって、両社とも「接客」を意識し、ITを導入し、工夫を凝らしている。

 番組では、日本交通が全国展開を視野に、経営困難に陥った大阪のタクシー会社を買収している様子が紹介されていた。ドライバーの平均年齢が62歳というその会社、さっそくお客様が乗車した時の挨拶から指導を受けていたが、そんな「新しいやり方」に頭の古いドライバーがついていけるわけがない。放送ではやっていなかったが、実際は挨拶などできていないであろうことは想像に難くない。新卒から鍛えて、新しい血と入れ替えていくのは、賢いやり方だと思う。

 そもそも利用者からすると、タクシーはプライベートでは利用しにくい。料金も高いし、「贅沢」というイメージがどこかにある。ここ1年でも私がタクシーを利用したのは、先日の叔父の葬儀の時だけで、東京郊外の葬儀場で駅から徒歩20分のところだったので、やむなく利用したぐらいだ。都心では交通網も発達しているし、せいぜい終電がなくなった時ぐらいだろう。

 ビジネス利用だって、経費節減の中小企業にあっては、都内ではまず利用できない。大企業でもそれは同じで、銀行員時代だって同様だった。一度出向して外資系の金融機関の人と机を並べて仕事をしたことがあるが、彼らは移動は基本的にタクシーだった。「時間を買え」という理屈で、「経費は好きなだけ使え、その代わりたっぷり稼げ」という明確なやり方だった。自分たちもそうしたいと思ったが、日系思考ではなかなか難しいかもしれない。

 タクシーの利用となると、そんな法人需要か、セレブな方たちの買い物とかの移動か、あるいは車の運転が覚束ない高齢者などの利用が多いのではないかと推察される。我々庶民レベルでも気軽に利用できるようになったら、タクシー業界も潤うのではないかと思う。そのためには、やっぱり料金がネックになるだろう。

 初乗り730円は鉄道やバスに比べると圧倒的に高い。目的地までいくらかかるかわからないという不安もある。都内の道路は渋滞というリスクもあるし、やはり庶民が気軽に利用するにはハードルが高い。独身時代は、毎週飲みに行ってタクシー帰りだったが、今はもう体力的にも真似できないところである。

 テレビを観ているだけの業界素人に、何か経営の妙案が浮かぶわけでもない。キッズタクシーという取り組みや、高齢者需要などは、我が不動産業界にも通じるキーワードかと感じた程度である。まぁもうちょっと稼いで、気軽にタクシーを利用できる身分になろうというモチベーションにはつながったかもしれない。

 何はともあれ、これからもいろいろなヒントを求めて、毎週観るのを楽しみにしたいと思うのである・・・


【本日の読書】
ようこそ、わが家へ (小学館文庫) - 池井戸潤





   

2015年9月20日日曜日

ワールドカップ開幕!

 ラグビーのワールド・カップが始まった。日本ではそれほど世間の関心を集めていないが、実はラグビーのワールドカップは、「サッカーのワールドカップ」、「オリンピック」に次いで世界で3番目に大きなスポーツイベントなのである。日本では、そもそもラグビーがそれほど人気となっていないがゆえに、注目されていないのが残念な気もする。

 イングランドで行われているこのワールドカップは、日本は常連メンバー。もはや出場することは当たり前で、いかに勝利するかが最大の目標。なにせ過去のワールドカップでは、1勝しかしていない。前回もそれまで国際試合で連勝していたトンガに敗れ、わずかな希望も砕けてしまった。ワールドカップというと、どこも特別な力が出るようである。

 今回は、日本の所属するプールには、過去2回優勝の南アフリカ、強豪スコットランド、太平洋の強豪サモア、そして唯一IRBのランキングで日本より低いアメリカが所属している。普通に考えれば、南アやスコットランドやサモアに勝利するのは困難。「何とかアメリカに勝って1勝してほしい」というのが、ささやかな期待であった。

 ところがなんと、初戦の南ア戦に奇跡の大勝利を挙げてしまった。メディアもさすがに報道しているが、そのインパクトの大きさは、開催国を始めとする各国のメディアの方が正確に伝えている気がする。
Historic win for ‘Brave Blossams’ (CNN)
Japan in massive World Cup shock(BBC)
BBCでは、過去の大金星の例を5つ挙げ、そのどれにも勝る大番狂わせだと報じている。私も夜中にJsportsで観ていて、大興奮してしまった。

 となれば、「南アより世界ランキングが低いスコットランドやサモアにも勝って決勝トーナメントにも」と期待も膨らむが、そこは冷静に次のスコットランド戦を観るとしよう。この大会で弾みをつければ、次の2019年は日本での開催となるし、地元での決勝トーナメント出場という夢にも現実味が帯びてくる。

 日本のラグビー界の将来に明るさが見える気がするが、しかしながらそこには期待よりもやはり不安の方が大きい気がする。何せ足元では少子化の進行。私がラグビーを始めた母校の高校も、今のところ部員の人数は足りているが、その内容はとなると、中学の時に運動をしていなかったような学生が多く、野球やサッカーに流れる人材と比べると、たぶん見劣りする気がする。もちろん強豪校は別だろうが、「底辺が小さければピラミッドの頂点も低い」という持論からすると、この状況は十分危惧すべきだろうと思う。

 今でも日本代表のメンバーを見ると、1/3が外国人だ。もっとも、帰化した人や高校からずっと日本でプレーしているとか、「ラグビーの世界では十分日本人」とも言うべき人もいるから一概には言えない。日本代表になれば、もう母国の代表にはなれないわけで、そういう意味では全員日本人としての意識でいると思うし、差別はしたくないが、やはりそういう「日本人離れ」した力がないと、世界では勝てないのかと思えたりもする。底辺が広がらないと、「日本人のDNAでは世界では勝てない」となりそうで嫌である。

 経済分野においては、「女性の活用」、「定年の廃止による高齢者の活用」などで、まだまだ働き手を補える方法はあると思うが、ラグビーはそうはいかない。男女別のスポーツだし、体力が影響するから高齢者の活用もできない。どうしても若い男の関心を集めて底辺を広げていかないと、頂点は沈むばかりだと思う。ラグビーだけに限った話ではないと思うが、若者たちには人生の一時期にしか使えない体力をできるだけスポーツに使ってほしいと思わずにはいられない。

 さて、興奮さめやらぬシルバーウィーク。次は23日のスコットランド戦。南アほどではないが、これに勝っても大番狂わせには違いない。是非とも期待したいと思うのである・・・


    

2015年9月15日火曜日

リーダーシップについて思う事

 いつも世話役として参加している公益財団法人小山台教育財団の社会教育事業としてやっている「寺子屋小山台」。先週末は、この「寺子屋小山台」でリーダーシップについての講座が開かれた。毎年恒例の講座ではあるが、実は「リーダー」とか「リーダーシップ」というと、どうも自分にはしっくりこないと心密かに思っている。

 そもそもであるが、自分はチームの一員として行動することに心地良さは感じるものの、「チームの先頭に立って引っ張ろう」というのは何だか面倒だし、かと言って1メンバーとして埋もれるのも好ましくないという、誠に都合のよい考え方をもっている。リーダーでも1フォロワーでもない、いわば「参謀」的なポジションに居心地の良さを感じるのである。

 高校からラグビーを始めたが、3年時にはキャプテンを務めていた。しかし、これが何とも今から思うとイマイチしっくりこないキャプテンだったと思う。キャプテンがどうあるべきか、確たる考えがなかったこともあるが、根底には合っていないという心情があったかもしれない。大学のラグビー部では、キャプテン・バイスキャプテンには選ばれず、うまい具合に「渉外」という役職を得て、嬉々としてプレーと対外交渉とを楽しんでいた。もちろん、リーダーが務まらないというのでもないと心の中で言い訳している。

 ラグビーは元々選手主導のスポーツである。キックオフの笛が鳴れば、監督やコーチの指示は選手に届かない。試合中はすべてキャプテン中心に動くのである。ペナルティの笛が鳴れば、みんな一斉にキャプテンに視線を集める。そして彼が次のプレーを選択し、チームメンバーはすぐにそれを行動に移す。「いや、それは違うんじゃないの」なんて言葉は間違っても出てこない。

 それなりに重責を担うものだし、年間を通してそれを引き受けたいとは思わなかった。ただ、練習試合でキャプテンが出場しないという状況では、流れからゲームキャプテンをやったりしたこともあったが、この程度のリーダーなら別に負担感もない。社会人になってからは、組織の中の一単位としてのリーダーにはなったものの、すぐに次にバトンタッチしたくなったものである(その気持ちは今でも変わらない)。

 逆に「参謀」的なポジションにいる時は、誠に居心地が良い。チームにとってなすべきことだと思えば、誰彼憚ることなく意見を言うし、それによってチームが動けば誠に心地良い。あれこれ指示されるのは好きではないが、組織に影響力を及ぼすのは好きなのである。なんて虫がいいのだろう、と自分でも思う。

 しかしながら、チームワークという点に関しては、ラグビーで培った”For the team”という精神がある。自分もその時がくれば自らトライを取りに行くが、他のメンバーが最適なポジションにいるなら、彼にトライを取ってもらうという考え方が、実生活でも徹底していると思う。今の会社でもそんな考え方でいる。

 結局のところ、そこが一番なように思える。チームにとって、自分がどのポジションについた方が一番良いのか。「参謀」ならより望ましいが、もしかしたらキャプテンなのかもしれない。あるいは1フォロワーなのかもしれない(まぁ居ても居なくても一緒ならほかの居場所を探したいものである)。その時々の役割を果たせるようでいたいと思う。

 それがキャプテンであるならば、しっかりとリーダーシップを発揮できる人間でいたいと思うのである・・・


【本日の読書】
ケンカの流儀 修羅場の達人に学べ (中公新書ラクレ) - 佐藤優 キャロリング (幻冬舎文庫) - 有川 浩





    

2015年9月11日金曜日

インセンティブの功罪

 銀行は様々な業種のお取引先を持っている。それぞれ特色があるが、「油断がならない」という特色を持っていたのが不動産業者である。それは何よりモラルというか、品格の欠けた人たちが多いという理由に他ならない。目的を達成するためには、嘘をつくのも平気だったりするのである(もちろん、極めて良心的な業者がいることも事実である)。

 一度、融資額を引き上げるために売買契約金額を偽造して融資の申し込みに来た業者がいた。売買契約書のコピーを取り、修正液で契約金額を実際の金額より1,000万円多く修正して持ってきたのである。幸いにして、見抜いて防いだものの、似たような事例は枚挙に暇がない。なぜそうなのか。

 そもそも不動産業は誰でも簡単に始められる商売である(宅建の免許は必要だが・・・)。仲介業など「机と電話があれば始められる」と言われているし、不動産を買って貸せばそれだけで賃貸業だ。あちらで買ったものをこちらで売るのに、難しいことは何一つない。そういう簡単なビジネスで簡単に儲かるなら、誰でもやる。そして世の中の真理として、そういう「おいしいビジネス」などそうそうない。

 簡単に始められるが、簡単には儲からない。だから給料も固定給を保証できない。経営者としては、儲けた人が儲けただけもらえる「歩合給」を導入せざるをえない。そしてこの「歩合給=インセンティブ」こそが、ゆがんだモラルの原因である。簡単には儲けられないからこそ、「何でもやろうとする」。きれいごと言ってても、お金がかかっていればそんなの構っていられないのである。

 インセンティブは、プロスポーツの世界や営業職などで耳にする。ただそれほど酷い話を聞かないのは、そこまでしなくても稼げているからなのだろうかと思ってみたりする。あるいは、不正をしようとしてもやりにくいというのもあるのかもしれない。それに比べて過当競争とも言える不動産業界は、「なりふり構っていられない」のかもしれない。

 その昔、妻と二人で近所を散歩していて、たまたま売り出し中の家を見つけた時のことだ。冷やかしで見学させてもらったが、熱心に勧める営業マンには「頭金がまだ用意できないから」と断った(銀行員である身分は当然隠している)。すると営業マンは得意気に、「秘策」を説明してくれた。契約金額を上乗せして銀行に言えば大丈夫だと。「銀行さんには見破られませんよ」と胸を張られた(いや、俺なら見破れると喉まで出かかった)。

 そんな輩がわんさといるのである。ちなみに、「大手不動産会社なら大丈夫」と言えないのが、また酷いところ。「住友」の大看板を掲げているところでも、平気で嘘をつく輩がいる。よほど信頼がおけるとわかっている人以外、間違っても信用してはいけないのが、不動産業界の人間である。

 さて、縁があってそんな魑魅魍魎の住む不動産業界に転職してしまった私であるが、当然そんな品のない事はプライドに賭けてしない。伯父にも遺言として言われたし、言われなくとも子供たちに見せられないような仕事をするつもりはない。人様の喜びを何よりの報酬としながら、しっかり会社の収益に貢献してみせようと意気込んでいる。

 少人数の中小企業ではあるものの、インセンティブは社員全員で享受するようにしていきたいと思うのである・・・


 【本日の読書】
漫画 君たちはどう生きるか - 吉野源三郎, 羽賀翔一 村上海賊の娘(三)(新潮文庫) - 和田 竜




    

2015年9月6日日曜日

美学

 サラリーマンとして長いこと通勤しているが、これまではそんなに苦にもならなかったので、電車に乗った時にあまり座ることなど考えてこなかった。しかし、転職して通勤時間が過去最長の1時間20分となり、ちょっとしんどいこともあって、最近「座る工夫」をしている。と言っても、「席取り合戦」のようなみっともないことはしたくない。あくまでも「スマートに座る工夫」である。

 狙いは山手線。約30分乗るので、やっぱりここで座っておきたい。乗るのはターミナル駅の池袋であるが、ここで座るには一本見送るという作戦もあるが、その5分がもったいないのでそれはしない。次のターミナル駅の新宿から座ることを狙う。方法は簡単で、新宿で降りそうな人の前にさり気なく立つのである。

 と言っても、誰がどこで降りるかなどわからないから、あくまでも観察と推理である。山手線は一周しているので、乗る距離も限られている。池袋から品川までは約半周。つまり、それ以上先に行く人は、反対側に乗るはず。そこから推理すれば、到着した電車に乗っていた人はまず候補に挙がる。

 次に観察の結果、ラフな格好をした人は新宿で乗り換える確率が高いとわかっている。さらに新宿で降りるとわかっている私立の制服に身を包んだ小学生だ。電車に乗り込んだ短い時間にそれらを見極めるのである。これで大体確率8割といったところだ。

 先週のこと、いつものようにドアが開くと、降りる人を待つのももどかしく車内に殺到していくおじさんたちを横目で見ながら、いつもの小学生の前に立つ。鞄を棚に上げたところで、突然横からおじさんが体を押し付けてきた。謝るどころか、さらに体をぐいぐい押し付けてきて、私をどかそうとする。何だと思ったが、その狙いはすぐにわかった。

 見ればそれはこの電車で顔なじみの同じ品川駅まで行くおじさんだ。どこの誰かは知らないが、よく「頑張って」座っているのを目にしている。その日は残念ながら席取り合戦に負けたようで、ならばと瞬間的に狙いを変え、新宿で降りる小学生に目標をチェンジしたのだ。おじさんも席取り合戦の合間にチェックしていたのだろう。そしてその日、合戦に敗れ、焦ったまま小学生を見つけ、既にその前に立っていた邪魔な私を押し退けようとしてきたのである。

 一瞬、正直言ってムカッときたのは事実だ。そこまでするかと思う。押し返してこちらの意思を明確に伝えようかとも思ったが、それはやめにした。ケンカになっても勝てると思ったが、それより何よりそんな席取り合戦はみっともない。いい大人がそこまでするものではない。おじさんと醜い席取り合戦をするくらいなら、いっそ立って行くことを選びたい。

 新宿へと向かうその間も、おじさんは少しでもポジションを確保しようと、ジリジリと私の方にプレッシャーをかけてくる。私が女子高生だったら、間違いなく痴漢に間違われるだろう。心の中で、おじさんの「努力」を苦笑しながら、読んでいた本に集中することにした。貴重な朝の読書タイムをそんなことで無駄にされたくない。それに、よく見れば小学生の隣のラフな格好をしたお兄ちゃんも新宿で降りそうである。

 果して無事、新宿で小学生とお兄ちゃんは降り、私はおじさんと並んで腰かけた。おじさんはさっそく目をつぶり、私は本に集中する。メデタシ、メデタシ。

 通勤電車のいいところは、席を譲ることを考えなくていいことだ。お年寄りや妊婦や子供を抱っこしたお母さんなどはほとんどいないから、読書にも集中できる。さすがに、そんな人を前にして本を読んで座っているのも気が引ける。そんな「美的行動」も意識していたいと思うのである。

 ただ、帰りの電車では、本を読みながらついついうたた寝をしてしまったり、読むのに夢中になってしまい、降りる駅を乗り過ごしてしまったりしているので、もしかしたら席を譲るべきところで譲れていなかったりもしたかもしれない。まぁ、意図して知らん顔だけはすまいと思っている。

 これからだんだんと年も取り、そんな”美学”も語っていられなくなるのかもしれない。ただ、気持としては、「みっともないことはしない」というこの単純なルールをいつまでも守り続けたいと思うのである・・・

【本日の読書】
村上海賊の娘(二)(新潮文庫) - 和田 竜





   

2015年9月3日木曜日

老後ビジネス

 映画『ターミネーター2』を観て感動したのは1991年のこと。当時その感動をずっと保ち続けたいと思い、ビデオが市販されると、迷わずそれを買い求めた。その値段、なんと15,000円。迷いはなかったが、躊躇はあった。

 その後、そのビデオを観たのは、24年間で2回くらいである。今ではツタヤに行けば100円くらいでレンタルできる。VHSのビデオテープはそのままではもう観たくとも観られないし、今から思うと無駄な買い物であった。もう既にその予兆は現れているが、いずれこうした映画などは、劇場公開後はすべてオンデマンドで観られるようになるだろう。観たい時に、いつでも観られ、ストックしておく場所も不要である。

 当時はそんな” 未来”は予想すらできなかったが、今はあれこれと予想を試みている。仕事では昨年から不動産業界に身を置いているが、やがて来るべきは「お一人様」の終活だろう。先日亡くなった伯父の息子と娘はいずれも独身である。つまり伯父の家系は私の従兄妹の代で途絶えるわけで、それまで築いた財産を相続する者はいない。

 そうした例は身近にかなりある。まだ兄弟に子供(つまり甥とか姪)がいればいいが、そうでなければ財産を残す相手はいない。何もしなければ国庫に行くだろう。そうした高齢者のための快適な住まいを提供するビジネスは、世の中のニーズに応えられるような気がする。自らの行く末にも活用できるかもしれない。

 一説によると、日本人は死ぬ時平均3,000万円を残していくらしい。子孫がいればまだしも、いなければそれはみな国庫に行くことになる。人口予測によると、今後50年間で3,000万人超が減るとされているから、トータルすると何と遺産総額は1,000兆円近くとなる。これがすべて国庫にいくわけではないが、今の国家の累積債務とほぼ同じ金額になるわけで、そうなると、「子孫に借金を残すのか!」と目くじら立てなくてもいいんじゃないかと素人考えで思ってみたりする。

 まぁそんなことはともかく、友人たちも独身比率は高まっているし、奥さんに粗大ごみ扱いされるなら、そんな独身の友人たちとともに過ごすのも悪くはないかもしれない。自分の都合だけではなく、そんな考えを持つ人のニーズに応えるようなビジネスをこれからやっていったら面白いかもしれないと思ってみたりする。

 大銀行の一本のネジだった頃と比べ、今はそんな考えに基づいて動いて行くことができる。変化する時代において、15,000円のビデオを買って一生楽しめると思った間違いを繰り返してはもったいない。未来を予測し、変化を楽しみつつ、自らの身の置き所を作りながら、楽しく働ければ最高である。

 間違いと言っても、買ってしまった以上、ビデオも観られるうちにもう一回くらい観ておこうと思うのである・・・


【本日の読書】
格差大国アメリカを追う日本のゆくえ - 中原圭介 村上海賊の娘(一)(新潮文庫) - 和田 竜




        

2015年8月31日月曜日

A rolling stone gathers no moss

 “A rolling stone gathers no moss”という英語のことわざがある。よく知られていることだが、このことわざはアメリカとイギリスでは解釈が違う。イギリスでは、コロコロと転がるように変わる人や物事は良くないと捉えられているようである。この場合、moss=苔は良い意味で使われている。

 これに対し、アメリカでは転がる石は常に新鮮で変化に富んでいるとされ、苔はむしろ悪しきものとされているようである。日本人的には、「石の上にも三年」ということわざがあるし、「苔のむすまで」と君が代にも歌われているように、イギリスの解釈に近いと思う。アメリカのように転職を繰り返すのは、良しとしないところからもそうだろうと思う。

 日本人である自分としては、当然イギリス的な解釈に近くこの言葉をとらえたいが、それは職業とかスポーツとか、何か趣味など一つの道を行く場合であって、その道を行く上では常に転がるべし、変化するべしと考えている。昨日より今日は一歩前進していたいし、明日はさらにもう一歩。そのためには、昨日と同じことをしていてはいけない。どちらかと言えば、アメリカのローリングストーンだ。

 「最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き延びるのでもない。唯一生き残るのは、変化できるものである」とは、進化論のダーウィンの言葉であるが、この言葉は結構気に入っている。私自身、結構飽きやすいところがあるのかもしれないが、同じことを続けるのが苦痛であるがゆえに、共感するのだろうと思う。

 ただ、これは悪くはないと思う。長年務めた銀行などは、ルーティンワークも多く、慣れてくれば比較的楽にこなせるようになる(もちろん、大変な仕事も多い)。人間は安きに流れる動物で、楽をしよう楽をしようと考えるようになる。楽をするために知恵を絞るのなら良いのだが、慣れたやり方を踏襲し維持しようとすれば、考えずにできるようになるから楽ができる。安定した職場ゆえにそうなりがちで、これが一番危ない。

 銀行にいる時は、そういう気持ちで楽をしても、いつか必ず後悔するだろうと思っていたし、そのうち体がなまってしまい、いつしか組織に頼らないと生きていけなくなってしまうのが怖かったからでもある。事実、そういう人が周りにいくらでもいたから、反面教師には事欠かなかったこともある。それが転職を経た今、役に立っていると少なからず実感している。

 昨日と同じことをしていれば、確かに楽だが面白みは少ない。それはたぶん、他の誰でもできることだから、自分は常に「なくてはならない存在」にはなれない。下りのエレベーターに乗っているのと同じで、常に昨日とは違うことをしないと自分の存在価値は出せないと思っている。

 正直面倒なこともあるが、ラグビーをやっていた頃から、トレーニングは常に続けるものだと身にしみついている。やめると試合で弾き飛ばされるのは自分だ。だからトレーニングをやめよう、休もうとは思わなかった。そんな考え方に慣れているから、苦にもならない。

昨日とは違う今日。
今日とは違う明日。
ライバルは昨日の自分。
常に変化を心がけていきたいと思うのである・・・

【本日の読書】
無頼のススメ (新潮新書) - 伊集院 静 土漠の花 (幻冬舎文庫) - 月村了衛




   

2015年8月28日金曜日

懐メロ2015

 つい先日、ネットのアンケートで「松田聖子のベストアルバムについて」というものがあった。20種類くらいの曲のイントロが流れてくるアンケートで、要は「発売されたら買いたいか?」というものであった。おそらく、ある程度購入意欲が高ければ、発売しようという腹積もりなのだろう。

 松田聖子といえば、我々の世代からすると、ちょうど多感な思春期にアイドルとして人気のあったスターだ。いまだ現役で、娘と一緒にTVに出ていたりする。特にファンだったというわけではないが、『瞳はダイヤモンド』を始めとして結構好きな曲があったのは確かだ。久しぶりに聞いていたら、なんだかもっと聞きたくなってしまった。もしかしたら、発売されたら買うかもしれない。

 そう言えば、最近はあまり新しい曲を聞かない。この1年で言えば、JUJUの『ラストシーン』をダウンロードしたくらいだろう。それに対し、たまに音楽を聞くとなると、『ABBA』や『ビリー・ジョエル』、『クィーン』、『ジョン・レノン』など昔のアーティストのベスト盤ばかりだったりする。

 いずれも若い頃特にファンだったというわけではないが、何となく気に入って聞いていたというものばかりである。いずれも購入したのは、ここ10年くらいの間である。何だか無性に聞きたくなって購入し、以来幾度となく聞いているが、飽きるということはない。最近のヒット曲はあまりよくわからないが、新しいものを聞きたいと思わなくなってしまっている。

 YouTubeでも昔の曲はいろいろと聞ける。たまに暇であれこれ検索するが、今でもファンである忌野清志郎率いるRCサクセションはもとより、気がつくと松田聖子はもちろんのこと、薬師丸ひろこや中島みゆきなんかにも聞き入ってしまったりする。最近のアーティストよりも、学生時代に聞いていた曲の方が耳障りがいいのである。

 そう言えばその学生時代、TVでアイドルが出演しているのを見ると、母親などはよく「こんなののどこがいいのかしら」と呟いていたものである。そんな母親のお気に入りは美空ひばりで、当時の私はと言えば、美空ひばりを始めとする演歌などは、逆にどこがいいのかわからないと言い返していたものである。だが、そんな演歌さえ最近では石川さゆりの『津軽海峡冬景色』は紅白では欠かせないと思っていたりする。

 時を経ることによって、昔はそれほど思わなかったものが、熟成されて心に響くものになったのであろうか。薬師丸ひろこなどは、ちょうど同級生の年次なのであるが、昔は世間で騒ぐほど演技も歌もうまくないと思っていたものである。それが今では『Woman』や『メインテーマ』、『探偵物語』など繰り返し聞くようになっている。(歌はやっぱりうまくないと思うのだが・・・)。

 なぜなんだろうと思ってみたりする。人間年を取ると昔が懐かしくなったりするもので、自分も例外ではないということだろうか。よく言えば、それらの往年の名曲は時を経た今でも輝きを失っていないとも言えるのだろう。夜、娘を迎えに行く車の中で聞くビリー・ジョエルなんかは、今でもたまらない雰囲気がある。自分としては後者だと信じたいところである。

 あと40年もしたら、娘も今聞いている「嵐」や「関ジャニ♾️」なんかの曲を懐かしがって聞いているのだろうかと思ってみたりする。今や車の中のBGMは、娘の好みになっている。昔の母親のように「こんな曲どこが」なんて思わずに、なるべく耳を傾けてみようかと思ってみたりするが、やっぱり心に響くものはない。

 まぁ無理して今の曲を聞く必要もない。良いと思えばJUJUの曲みたいにダウンロードすればいいわけだし、人によく思われたくて音楽を聞くものでもない。昔の曲だろうと今の曲だろうと、いいものだと思えばそれを聞けばいいだろう。そういう肩肘張らない自然体で、音楽とは向き合っていきたいと思うのである・・・


【本日の読書】
無頼のススメ (新潮新書) - 伊集院 静 土漠の花 (幻冬舎文庫) - 月村了衛





   

2015年8月23日日曜日

夏合宿

 小学校4年の息子は、この週末を利用して野球の合宿に行っている。合宿と言えば、寝食を共にして集中して取り組むもので、私もいろいろ経験している。だが、小学生で合宿といっても、私も経験があるが、まぁ半分遊びみたいなものだろう。

 私も小学校の頃、野球の合宿で千葉の九十九里に行った記憶がある。確か午前中練習して、午後はプールに入ったと思う。暑い中の練習は大変だったが、みんなと一緒に野球して、プールで遊んで一緒に寝てと、普段はしない経験が楽しかったものである。

 これが高校生になると、遊びモードがなくなる。毎年夏休みにラグビーの合宿があったが、今考えてもあれは酷いものだったと思う。当時は学校をあげて山中湖に合宿に行っていたので、運動部も文化部も一緒。旅館は分散していたが、私の所属するラグビー部は、ブラスバンド部と一緒だった。

 激しい運動をともなうラグビーと音楽とでは、消費するエネルギーはまったく違うのに、食事も何も条件は一緒。それも「普通の旅館飯」だったから、ひもじいのなんの。午前も午後もひたすらハードな練習で、難行苦行そのものであった。1年の時は何も知らずウキウキした気分でバスに乗り込み、なんで2年生が暗い顔しているのか不思議だったが、その理由は行って嫌と言うほど理解できた。

 これが大学になると、再び楽しいものになった。練習はもちろんハードだったが、大学では練習と試合が半々となった。本来そうあるべきなのだが、高校時代は部で行くのではなく、学校で行く合宿だったので、試合相手がいなかったのである。ところが、大学ではラグビー部は単独で「合宿の聖地=菅平」に行く。各大学のラグビー部がわんさと来ているので、試合相手には事欠かないわけである。

 練習して試合をして、試合の反省点を練習で修正し、また試合する。短期間でそれを繰り返し、秋のシーズンに向けて仕上げていくのである。大学生ともなれば、自己責任で行動は自由。自由時間は好きに過ごせたのも良かった。夕食後の短い外出が何より楽しみだったし、そうしたメリハリが良かったのである。集団生活が意外と好きで、「合宿は楽しい」とのたまうとチームメイトにはなぜか怪訝な顔をされたが、我がチームの合宿は「地獄の特訓」などというシロモノではなかったから、楽しむゆとりもあったわけである。

 やっぱり朝から晩まで、チームメイトと一緒に過ごすという環境が自分には好ましかったと今でも思う。その後、就職して社員寮に入ったが、やはり楽しい毎日だったから、集団生活が肌に合っていたのかもしれない。今の時期、大学のラグビー部の後輩たちも菅平に行っている。ちょっとうらやましくもあり、自分ではもうあの経験ができないのかと思うと、とても残念である。

 息子はどんな顔をして帰ってくるのだろうか。小学生の合宿だから、楽しいの一言なのだろう。自分が経験したことを一つ一つ息子が経験していくというのも、感慨深いものがあるような気がする。先のことはともかく、今の時期は「楽しい野球の合宿」を味わってもらいたいと思うのである・・・


【今週の読書】
世界のトップを10秒で納得させる資料の法則 - 三木 雄信 ブラック オア ホワイト - 浅田 次郎





   

2015年8月19日水曜日

多種多様な意見に対して

 「政治とは何か」と問われれば、一般的な大学の教科書によると、「われわれの住む社会における紛争を解決し、対立を調整しながら、社会の秩序を維持する人間の活動である」とされている。まあ難しい定義はともかくとして、意見の違う人々を取りまとめていくのは、やはり大変なことに違いない。

 8月ともなれば、15日までは戦争と甲子園に彩られるものであるが、14日に注目していた安倍談話が発表された。さっそく全文に目を通した。基本的に、「どちらかと言えば安倍総理支持派」の私としては、批判するところはなかった。期待したほど踏み込んではいなかったものの、思っていた以上に「さまざまな配慮」が感じ取れる内容だった。まぁ現時点では一番良い内容なのだろうと思う。

 それでも反安倍派の立場からは、やっぱり批判の声が上がっている。特に「戦争法案反対」とこぶしを振り上げている人たちからは、評価などまるでされていない。それも無理からぬことだと思う。自分に置き換えてみてもわかるが、快く思っていない人が、たとえ正しい事をしゃべっていたとしても、何か隠された意図があるのではないかと思ってしまうものである。ただでさえそうなのだから、この安倍談話の内容なら、叩くところはたくさんあるだろう。

 安全保障関連法案(個人的には賛成である)や原発再稼働問題(個人的には反対である)など、いま国内で我々がもっと真剣に議論しなければならない問題が出ている。だが、議論すればお互いに納得のいく答えがでるだろうかと言えば、たぶんどんなに議論しても双方が納得する答えは出ないだろう。たとえば安全保障関連法案は、理屈の上でいけば、反対派の主張は筋が通らない(だから理屈男の私としては賛成に回っている)。だが、どんなに理屈が正しくとも、個人の感情の部分までは変えられない。それに「正しい理屈」などその気になればいくらでも導き出せる。

 意見が対立したら、納得いくまで議論すればいいじゃないかと私も考えている。だが、世の中はすべてそれでうまくいくというわけではない。どんなに理屈で反論を論破しようとも、それでも賛同を得られないことがあるのだということを、ここ数年で個人の体験としても感じている。だから、どうしようもないと諦めればいいというものではないが、あまり理想を追い求めても難しいと思うのである。要は、そこでどう折り合いをつけるかだろう。

 家庭でも会社でもその他の集まりでも、自分の意見が思うように通らないということは多々ある。それはそれでかなりなストレスになる。ただそこでイライラするか、まぁ仕方ないと受け流せるかが、ストレスを溜めこむか溜めこめないで済むかの差になる。

 「意見の相違は意見の相違」として認められるかどうか。ともすれば、自分の意見を一生懸命説明して相手を説得しようとしてしまう。そして相手がそれを理解できないとイライラしてしまう。時には心の中で相手をバカにさえしてしまう。そんなこともこれまでは自分自身多々あった。

 最近は少し力を抜いて対応できるようになってきたと自負しているが、それでもまだまだなところがある。自分の意見は絶対ではない。相手には相手の正論がある。相手が理解できないのは、うまく説明できない自分のせい。それで自分の思い通りにいかなくとも、仕方がない。

 そんな考えで、リラックスして生きていきたいと思うこの日この頃なのである・・・


【本日の読書】
考えよう、そして行動せよ。 ジャパナビリティが世界を変える - 福川伸次

   

それにしても、やっぱり「安全保障関連法案」に反対する人たちの考えは理解できず、その反論内容を読んでしまうと、心穏やかになれないのである・・・



2015年8月14日金曜日

Carpe Diem

 梅雨が明けて以来、東京も連日の猛暑である。ちょっと外に出れば、汗が吹き出し、この時期愛用のタオルハンカチも瞬く間に汗で湿っぽくなる。ただ、そんな状況ではありながら、いつもそれを楽しむようにしている。どうせあと少しすると暑さの勢いは緩むし、やがて秋の気配が漂うのだ。ならば、今の時期を楽しみたいと素直に思うのである。

 社会人になって、銀行に入ったが、以来お盆のこの時期はいつも働いていた。この時期は年配のおじさんたちが、故郷に帰るために休みを取りたがっていたから、交代で休みを取る銀行にあっては、そんな必要もない若手はこの時期をずらして夏休みを取っていたのである。お盆に休みを取りたい人からすると、ありがたい存在だったのではないかと自負している。

 お盆に夏休みを取らないことは、私からすればメリットばかりであった。この時期、遊びに行こうとすれば、渋滞や混雑は覚悟しないといけないし、さらに加えて料金も高い。逆に働こうとすれば、取引先は休みが多く外出の必要もないから、エアコンの下で事務仕事が捗る。朝のラッシュも緩和されて、下手をすると座れてしまったりする。こんな時期に休んでいるのは、「もったいない」と思っていたものである。

 しかし、銀行を退職し、この時期会社全体が夏休みを取る中小企業に転職してしまったから、今年は様相が違う。何せ会社が休みだから、夏休みを取らざるをえない。横並びが大っ嫌いな性分としては、この時期に夏休みなんてと思うが、仕方がない。実に社会人になって初めての経験である。

 と言っても、受験生を抱えている我が家はどこかへ遊びに行くという計画もなく、いつもの週末が連続しているような感じである。猛烈な日差しの中、玄関を開けると黒い顔の子供が走っていく。よく見ると、隣に住む息子の同級生だったが、2~3週間顔をみないうちに日焼けして凄いことになっている。

 子供にとっては、毎日楽しくて仕方ないだろう。自分の小学校、中学校の頃を振り返ってみても、暑くて辛かったなんて記憶はない。学校のプールに通ったり、御代田に遊びに行っては、従兄と日が暮れるまで遊びまわっていた。当然、汗もダラダラかいていたと思うが、汗なんか拭けばいいし、のどが乾けば冷たいものを飲めばいいしと、楽しい日々を過ごしていたと思う。大人になっても、そういう気持ちでいようと思い、暑い毎日も楽しむようにしている。

 考えてみれば、寒い冬に飲むビールから比べたら、この時期に飲むビールのうまいこと。アイスだって、この時期だからおいしく食べられる。四季のある国に誇りを持つならば、この暑い夏もその一つである。暑さの中にあっても、夕方になればわずかな涼しさを感じることができる。一雨くれば、なおさら風が心地よく感じられる。清少納言が感じたのと同じ気分ではないかと思える。

 コンクリートの上であっても、そんな心地良さも味わおうと思えばできる。つくづく、今この瞬間を楽しみたいと思うのである・・・


【本日の読書】
いつか、すべての子供たちに――「ティーチ・フォー・アメリカ」とそこで私が学んだこと - ウェンディ コップ, Wendy Kopp, 渡邊 奈々, 東方 雅美 マーケット感覚を身につけよう---「これから何が売れるのか?」わかる人になる5つの方法 - ちきりん






2015年8月9日日曜日

清めの塩は必要だろうか

 普段、何気なくやっていることでも、よくよく考えてみるとおかしいと思うことがある。先週参列した伯父の葬儀でも、そんなことをいくつか感じた。その一つが、「お清めの塩」である。

 通夜なり告別式なりに参加すると、よく小袋に入れられた塩をもらう。「お清めの塩」であるが、その存在を初めて知ったのは、たぶん小学生くらいの頃だ。葬儀に参列した喪服姿の母親が、家に帰ってくるなり私に塩を振ってくれと言ったのである。そのシーンを今でも覚えている。「なんで?」と問う私に、「死を持ち込まないため」というような内容の答えを返してくれたのである。

 以来、そういうものだと思って気にもしていなかった。私も古くからの伝統はわりと、意味の薄いものでも大切にするクチだ。だから妻に笑われても、今でも夜中に爪は切らない(妻は風呂上がりに爪を切るのが一番いいという主義だ)。だが、「お清めの塩」はいかがかと思う。

 古来日本人は、死を「穢れたもの」としてきた。だから、「清める」のだろうが、他人ならともかく、身内の、しかも死んで少なくとも悲しく思う伯父の死を「穢れた」ものとは思いたくない。家に持ち込んでも、呪われるなんて思わないし、「清めたい」とも思わない。だから、清めの塩は今回は無視してしまった(母はそんな私に『またか』と顔をしかめていた)。

 清めの塩は、科学的な意味は(少なくとも)現代ではもうない。本当に形式的なものであり、気持の問題だ。だから本人が良しとすれば別に問題はない。昔は、冷凍技術なんてなかったから、人が死ぬとすぐに腐敗が始まる。死んですぐ埋葬というわけにはいかなかっただろうし、万が一のために塩による「殺菌」もある程度意味があったのであろう。

 ちなみに線香も、詳しい由来など知りもしないが、「腐敗臭」を消す目的があると思う。通夜の席では「線香の火を絶やさない」ようにする(地域によって違うのかもしれない)が、これも腐敗臭が漂い出すのを防ぐためだと思う。やはり親しい身内が死んだだけでも悲しいのに、腐敗臭が漂って来たらなおさらであろう。加齢臭だって嫌われるのだ・・・

 その線香も、最近通夜で途絶えさせないようにするというのも意味を失いつつある。というのも、伯父の遺体はドライアイス漬け。最初に着せられていた作務衣も、納棺の時にはびしょびしょになっていた。今回火葬場の関係で、通夜は死んでから3日後であったが、この季節だし昔なら遺体は大変なことになっていただろうが、伯父の遺体は加齢臭すらしなかった。

 そんなことを考えてみると、ますます「お清めの塩」などに意味はないことがわかってくる。だから今回、私は胸を張って「お清めの塩」を無視したが、そんな息子の「へ理屈」が通じないのが我が母親。またしても(自分たちには反論できない)理屈を並べ立てて、習わしに従わない私を快く思わなかったようである。

 でも思うのである。葬儀で一番大切なのは何だろうかと。しきたりに従って、無難に一通りの手順を踏むことか。そうではなくて、感謝をもって故人を弔うことだろう。一番大事なのは「気持ち」だ、と少なくとも私は思う。伯父の死は、少なくとも私にとって穢れたものではない。したがって、清める必要などないのだと、母には言いたいと思う。

 ただ人の考え方は人それぞれ。自分が死んだ時には、「お清め」してもらってもいっこうに構わない。穢れたものとして扱われたとしても怨むことはないだろう。化けて出ることはないと、この場で約束しておきたいと思うのである・・・


【今週の読書】
ザ・ラストマン 日立グループのV字回復を導いた「やり抜く力」 (角川新書) - 川村 隆 いつか、すべての子供たちに――「ティーチ・フォー・アメリカ」とそこで私が学んだこと - ウェンディ コップ, Wendy Kopp, 渡邊 奈々, 東方 雅美





2015年8月5日水曜日

今からの終活

 伯父の葬儀に参列して、改めていろいろなことを感じた。亡くなった伯父の息子(つまり私の従兄)が、葬儀にまつわるあれこれを教えてくれたのである。

 まずは当然ながら事前の準備などできない。葬儀屋の手配も紹介されるまま。たまたま地元の互助会のようなところに入っていたからディスカウントが受けられたそうだが、そうでなければ費用負担に頭を抱えたらしい。そんな話を聞くと、自分の親の時のことを改めて想定しておかないといけないと思う。

 葬儀は曹洞宗の僧侶が来てお経をあげてくれた。そう言えば以前、母から実家の宗派は浄土真宗だと聞かされていたような気がしたが、と思っていたら実はそれは勘違いで、従兄があれこれ調べたところ、曹洞宗だとわかったらしい。今は「檀家制度」など、縁遠くなってしまっている。親父の宗派も確認しておかないといけない。

 だが、自分の時はどうなるのだろうと思い至る。初詣などで神社には行っているが、お寺にはとんと行っていない。親父の実家を調べれば宗派はわかるが、生前まったく縁遠かったのに、この時ばかりお世話になるのもいかがなものかという気がする。たまたま隣に座っていたへそまがりの叔父に聞いたら、「自分の時はだから坊主なんて呼ばなくていいって言ってるんだ」と期待通りのへそまがりな回答。叔父の葬儀の時がどんな様子になるのか、今から楽しみである。

 それにしても、自分の時はと改めて考えてみるが、やっぱり神道形式がいいかもしれないと思う。初詣を始めとして、地鎮祭やお宮参り、七五三に厄除けとかなりお世話になっている。神社にお願いするのが、筋という気がする。そうして八百万の神々の末席に加えてもらって、道端の雑草の担当神をさせてもらうのもいいかもしれない、などとお気楽に思う。

 次に聞いたのが、戒名。伯父のそれはお経をあげた僧侶ではなく、生まれ育った故郷のお寺に戒名を頼むのだとか。だが、それもお値段があって、高価な文字を使うと値段が跳ね上がるらしい。そもそも戒名とは、死んであの世に行った人が仏様の弟子になるための名前だとか。仏様ともあろう方が、名前でお弟子さんに差をつけるとも思えない。そう考えると、高価なお値段は仏様というよりは、それに仕えている(と自負する)お寺さんへの経済的な援助であって、あの世で故人に何かご利益があるというものではないのだろう。お世話になっているお寺さんならともかく、そうでないなら最低ランクで十分だし、そもそも仏さまへの弟子入りがいいのかどうか、考えてみる必要がある。やっぱり、神様の下へ行った方が良さそうである。

 さらに骨壷にも種類があって、一番高価な大理石になると、50万円くらいするらしい。重いのが欠点らしいが、頑丈なのが売りらしい。何でも東北大震災の時も、大理石の骨壷は割れなかったというのである。まさか骨壷にも「耐震性」が歌われるとは思わなかったが、” 長期保管”するものでもなし、割れてもいいじゃんと思ってしまう。

 親の時は普通にやるとしても、自分の時はいろいろと”指示書”を残してやっておいた方がいいなと思う。古くから伝わるものを疎かにするつもりはないが、別に義理立てするようなお寺さんもない。どうせなら、神社にお世話になったお礼をしたいと思うのがごく自然だと思う。家族には、「へそまがり」と思われるだろうが、そんな心づもりを今からしたいと思うのである・・・


【本日の読書】
投資は「きれいごと」で成功する――「あたたかい金融」で日本一をとった鎌倉投信の非常識な投資のルール - 新井 和宏 ザ・ラストマン 日立グループのV字回復を導いた「やり抜く力」 (角川新書) - 川村 隆 我が闘争 (幻冬舎文庫) - 堀江貴文





  

2015年8月3日月曜日

伯父の通夜

 母方の伯父が亡くなったとの連絡があったのは、週末を前にした金曜日の夕方だった。その瞬間、なぜか目頭が熱くなった。余命1カ月との宣告を受けたと母から連絡をもらい、見舞いに行ってからまだ10日ほどしか経っていなかった。

 見舞いに行った時、私の顔を見るなり、「金儲けができればいいというわけじゃないよ。人様に喜んでもらえる仕事をしないとダメだぞ。」と弱々しいながら一気に語った。銀行から不動産業界に転職したことは、年賀状で知らせてあったから、一言言っておこうと思っていたに違いない。挨拶もそこそこに、それだけしゃべると疲れたと言わんばかりに目を閉じてしまった。

 どうやらバブルの頃の不動産屋のイメージでもあるのだろうか、札束をポケットに入れる身振りまでして語ってくれた。その時、「これは遺言だな」と悟った。もちろん、仕事はその通り、人様にいかに喜んでいただくか、を念頭にやっている。私はただ、「わかった」と答えた。もうこれが最後だとわかって病室を後にしたし、その時短い会話を交わし、温かい手を握って帰ってきたが、行って良かったとつくづく思う。

 伯父はそんな死の床でも、リハビリをやろうとしていたらしい。「あれ欲しい」と言って、電動式車椅子を購入したばかり。納品されたのは入院したあとで、結局一度も乗れなかったらしい。だが、そんな最後の時まで、まだまだ人生が続くという意識でいたのだろうし、そういうスタンスは自分も見習いたいと思うところである。

 自分だったら、観たい映画のリストを握りしめて病院のベッドで観続けたいと思う(その頃までにはPCですべてオンデマンドで観られるようになっているはずだ)。死ぬまでにもう一度観たい映画のリストを作っておかないといけない。そして可能ならば死ぬ前日まで読みたい本をアマゾンで注文していたいと思うのである。

 納棺の時、母は伯父の手を取り泣いていた。考えてみれば、親子と兄弟。法律的には一親等と二親等だが、どちらの絆が強いのだろうか。同じ両親の元、同じ家で一緒に育った兄弟。だが、ある時から別々の道を歩み、それぞれ別々の家族を作る。私と弟も、会えば話もするが、会うのは年に1~2回だ。私も母と同じように伯父の手に触れたが、その手は見舞いに行った時とは別物のように冷たくなっていた。

 改めて人はいつか死ぬのだと思う。伯父は6人兄弟の次男。既に3人は鬼籍に入り、残った3姉妹が通夜に参加した。自分の通夜の時は、兄弟は弟だけだし、ずいぶん親族も寂しくなっているだろう。それでもまだ見送ってくれる人がいるだけいいのかもしれない。

 いずれ自分の両親も、叔母たちも見送る時が確実にくる。来てほしくないと言っても無理な相談だし、せめて一日でもその日の遠からんことを願いたいと思うのである・・・

     
【本日の読書】
我が闘争 (幻冬舎文庫) - 堀江貴文