2009年2月17日火曜日

バレンタインその後

  
バレンタインデーに娘は予定通り№3にチョコを渡し、一方で友達の女の子から友チョコをもらっていた。3歳の長男も近所の同じ年の女の子からチョコをもらっていた。
今は良い時代と言えるのだろう、きっと私も今の時代ならあの頃のような寂しい思いをしなくて済んだはず、と確信している。かつては業者の陰謀と批判していたものである。

さてそのバレンタインが終わるとホワイトデーだ。
これも業者の陰謀で頭に来るが、「お返し」と言われると弱いところで否定もできない。
バレンタインもホワイトデーもすっかり定着した感がある。
頭の痛いところだが、仕掛けた業者もうまくやったものである。

さらに2匹目ならぬ3匹目のどじょうを狙ってオレンジデーなるものもあるらしい。
【バレンタインデーで愛を告白し、1カ月後のホワイトデーでその返礼をした後、4月14日のオレンジデーでオレンジ(オレンジ色のプレゼントも可)を持って相手を訪問し、二人の愛を確かなものとします】というものだそうである。

まだある。
【バレンタインデーから88日目の5月13日はメイストームデー(5月の嵐の日)であり、「八十八夜の別れ霜」ということで別れ話を切り出すのに最適とされます。
これを乗り切れば6月12日は恋人の日。
恋人同士が写真立てに写真を入れ交換し合います。
さらに7月7日の七夕はサマーバレンタインデーで、2月14日に告白を逃した人にセカンドチャンスが訪れます。
 いずれの日においても愛を逃し続けた男性には9月14日のメンズバレンタインデーが設けられています。男性から女性に下着を送って愛を告白する日とされています。
 愛を何度も確かめ合わないと不安という方には、11月11日の恋人達の日に靴下(新品に限る)を贈り合い、12月12日のダズンローズデーには12本の薔薇を贈ります。いよいよクリマスが近づいてまいりますが、遠距離恋愛の方は念のため12月21日の遠距離恋愛の日に、会ってお互いの愛を確かめます・・・】
という事らしい。

あほらしい・・・
いきなり女性に下着を送って愛の告白なんぞした日には、よほどのイイ男でない限り悲惨な結末は火を見るより明らかだ。どうせ考えるならもうちょっとましなものを考えてあげないと不幸な男性が出てくる。もっともそんなのに乗せられて失敗したら自業自得ともいえるが・・・

もともと女性はプレゼント好きという習性(?)がある。
それがバレンタインの場合はロマンチックな習慣と見事マッチしてしまったわけである。
これだけ長いこと定着してしまうと、もはやこれはこれで仕方ない。
しかし、あげる楽しさともらう喜びばかりが脚光を浴び、もらえない寂しさは語られない。

またもらえばもらったで、今度はホワイトデーの悪夢だ。
これは「もらったらお返しを」という事で始った日本独自の習慣だ。
大きなお世話でしかない。
言われなくてもやる事をわざわざ押し付けられたくないと思うのはひがみ根性だろうか。
毎度毎度の狂想曲。
いっその事すべてなくなってしまえと心密かに願うひねくれ根性の私なのである・・・
   
      

2009年2月15日日曜日

ABBA

突然同僚に「『マンマ・ミーア』観ましたか?」と尋ねられた。
私が映画好きと知ってか知らずかであるが、「まだですよ」と回答した。
始めは行きたいなと思っていたが、どうやら時間的に厳しそうだ。
同僚は実はアバが好きだったと言うのであり、しばしアバ談義となった。

「マンマ・ミーア」は映画が公開されているが、全編これアバの曲を散りばめたミュージカルである。
ストーリー展開にあわせて、そこにフィットするアバの曲を巧みにブレンドしていて絶妙な仕上がりの楽しめるお話だ。
私は劇団四季のミュージカル版を観に行ったのであるが、懐かしいアバのヒット曲も楽しめて、劇場も最後は総立ちであった。

アバについては昔から特別好きだったというわけではないが、何となく曲は好きだった。
それにこれまでの生涯で唯一行った事のあるコンサートがアバという「縁」もある。
(その時はアバ好きの友達に誘われて大枚叩いて日本武道館に行ったのだ)
私は総立ちコンサートが大嫌いである。
何でも座ってじっくり楽しみたいのだ。
だから最近のミュージシャンのコンサートにはまったく食指が動かない。
浜崎あゆみでもそうだし、例えフレディ・マーキュリーが生き返ってきたとしても、だ。
(いや、フレディ・マーキュリーだったら行くかな・・・)
30年前のアバのコンサートは座って楽しめたのだ。
良い時代だった。

それに気がつけばベスト版のCD(ABBA GOLD)だって持っている。
アバの曲は詩もわかりやすい英語だ。
だから中学生くらいの時でもなんとなく詩の意味もわかってよかったのだ。
今でも時折CDを聞いているし、車のオーディオにもコピーしてある。
ファンというわけではないのだが、なんだかいつも手元に置いておきたいのがアバである。
たぶんポップ・ミュージックデビュー時の入門編だったから、その原体験が遺伝子レベルに組み込まれているのかもしれない。

だからではないが、「マンマ・ミーア」はとっても楽しめた。
よくこういうものが創れるものだとその創造力と想像力に感心してしまう。
(最後の「総立ち」には閉口したが・・・)
何度観に行ってもたぶん飽きるという事はないのではないだろうか。
そのうち機会をつくって四季版を観に行きたいと思っているのである・・・
    
   

2009年2月14日土曜日

密かな楽しみ

  
仕事が忙しくなって遅くに家に帰る。
子供たちは寝ている。
空腹を通り越した胃袋も静かだ。
妻が寝てしまっているか風呂に入っている時は一人で夕食だ。
何とも寂しいサラリーマンの姿に映るかもしれない。

ところがこういうシチュエーションだと私の目はきらりと光る。
好機到来。
テーブルに着くやごはんに味噌汁をぶっかける。
ああ、味噌汁ぶっかけご飯!
これが実はひそかな楽しみなのである。

妻の目がある時はこれができない。
昔からこれが好きなのであるが、結婚してからは、いや独身時代に実家にいる時もできなかった。
「みっともない」とか「品がない」とか言われて、大っぴらには食べられないのだ。
だからこそ、一人で食べる時は大チャンスなのだ。
味噌汁ぶっかけご飯を食べる幸せなひと時・・・

そもそも何でこんな食べ方するのかと言えば、今はなき祖父の影響だ。
長野県は諏訪に住んでいた祖父は、よくこうしてご飯に味噌汁をかけて食べていた。
母親たちはみな顔をしかめていたが、そこは絶対家長の祖父のこと、表立って批判はできない。
それを見つめる私だけが、目をキラキラさせていたのだ。

家に帰ってから真似して食べようとしたら母親に怒られた。
「何でお茶漬けはよくて味噌汁はだめなのか?」
昔から理論派の私は幾度となく納得のいく説明を求めたが、無駄であった。
田舎ではネコの餌に残飯を与えていたが、余ったご飯に味噌汁をかけたりしていて、要はネコの餌と同じという理屈だった。
それでも、別々ならよくて一緒ならいけないというのも納得がいかないものだ。
禁じられると一層甘美な味となる。
いつしか誰もいない時に、一人で食べる楽しみとなったのだ。

それほどうまいかと言えば正直どうだろう。
でもやっぱり好きなのだ。
残業で遅くなっても「今日は食べられるかな」と思うと、自然と足取りも軽くなるというものだ。

そうして祖父がしていたようにご飯に味噌汁をぶっかけるのだ。
品などなくたっていいではないか。
何も高級レストランでやっているわけではない。
遠い昔に大好きだった祖父が、おいしそうに食べていた姿が今でも脳裏に浮かぶ。
あの時爺さんが食べていたのと同じ味だろうか?
母親たちの非難の目などどこ吹く風で、一緒に並んで食べたかったなと思う。

静まり返った食卓で一人ずるずると味噌汁ぶっかけご飯を食べている孫の姿を見たら、あの世でじいさん何て言うだろうか。
誰になんと批判されようとこれだけは一生やめられない。
これは愛すべきじいさんへのオマージュだと思うのである・・・




2009年2月11日水曜日

バレンタイン


小学校2年の我が家の娘は、本日はチョコレート作りである。
14日のバレンタインに備えてのものであるが、今は小学生から手作りなのであろうか?
その材料を買いに行った池袋の東急ハンズ。
専用コーナーでは、下は小中学生と思しき子供たちも友達と連れ立って来ていて、ちょっとした熱気であった。

今では特別何も感じなくなってしまったが、小中学生の頃はバレンタインデーが嫌で嫌でたまらなかったのを覚えている。
見事なくらいチョコレートをもらえなかったからだ。
人一倍のチョコ好きとしてはかなりの苦痛だ。
さらに追い討ちをかけたのは、弟が毎年のようにもらってきていた事だ。
そう大して容姿が変わるわけでもないし、いや、むしろ私の方が良いくらいだと思っていたのに、兄貴としての面目などあったものではなかった。

中学時代にたった一度だけ机の中にチョコレートが入っていた事がある。
大感激してこっそり隠れて中を見たのだが、差出人がなかった。
入れ忘れたのか、名乗れなかったのかはわからないが感激もしぼんでしまった。
なので高校生になってまともにもらえた時は、ようやく一人前になれた気がしたものだ。

不遇の大学時代を経て社会人になるとそんな状況が一変。
最初の年は7~8個もらった記憶がある。
もちろん義理チョコであるが、当時のおじさんたちが1~2個だったのから比べると同じ義理でも意味合いは大きく違う。
50歩100歩というなかれである。

それから「複数個もらうのは当たり前」という黄金時代を迎えた。
職場の女性陣はみんな義理堅かったのだ(繰り返すが義理チョコでも数はおじさんたちのそれを凌駕していたのだ)。
良い習慣だと初めて思えた。

今ではというと、お返しが面倒だと思うようになってしまった。
妻などは端からお返し期待のひも付きODAだし、義母などからももらうのだがかえってもらわない方が、などとも思ってしまう。
しかし、何せ大好きなチョコレートだけにそういうのも辛い。
まあ、お中元やお歳暮のようなものだと思っている。

長女は今年は№3にあげるのだそうだ。
№1になぜあげないのか聞いたところ、「去年あげたから」だそうだ。
№2の立場はどうなのかとも思うが、娘心は計り知れない・・・

3歳の長男はまだこれからだ。
学校へ行くようになるといろいろわかってくるから、やっぱりわくわくドキドキしたりするのだろう。からかって楽しみたい気もするが、「お父さんの子供の頃はな、」などと語れる過去がないだけに厳しいものがある。

しかし我が身を翻ってみれば「もらえない寂しさ」というのを味わうのも人格形成にはいいのかもしれない。子供の頃から「もらって当たり前」と天狗になられても困るし・・・
やっぱり我が子には自分と同様、千尋の谷から這い上がることが必要だろうと思うのである・・・
   
    
     

2009年2月9日月曜日

美容室

この週末に髪を切りに行った。
以前は床屋へ行っていたが、最近はもっぱら美容室だ。
といってもお洒落に目覚めたわけではない。
というかその方面はどうにも昔から苦手だ(妻の実家では私の独身時代の服装センスはいまだ物笑いのタネにされている)。

始めは「美容室なんて・・・」と気恥ずかしく思っていたが、散髪後のヘアースタイルを毎回バカにされるのもなんだしと思って、とりあえず行ってみたのが始りだ(私はけっこうチャレンジ精神は旺盛だと思う。何でもやってみて判断すべし、と考えるタイプだ)。

行ってみると、それまで描いていたイメージとは程遠く、結構男性客も多いらしく、welcomeという雰囲気だった。客商売だから当然と言えば当然かもしれない。
さらにやってもらうと床屋との大きな違いが一つあった。それは「髭剃りがない」という事だ。

実は私は床屋での「髭剃り」は苦手だ。
毎朝、シェービングクリームをあわ立てて、髭を剃っているが床屋のそれはもっと本格的。
いいといえば良いのだが、どうも良すぎてジョリジョリと皮膚まで削られている感じがする。
蒸しタオルで温めてもらうが、終わった後の感触は自分でやるのとは大違いで、根こそぎ剃られた感じがする。せめて休みの日くらい髭剃りはしたくない派の私としては、休みの日にここまでやられるのには抵抗があったのだ。

さらに髭剃りタイムの分、時間も10~15分短くて済むというメリットにも気がついた。
料金はそんなにかわらないなら初めから髭剃りはなくて、しかも時間も短い方が都合が良い。
カットのあとも馬鹿にされなくなったし、今では何の抵抗感もなく美容室へ行っている。

最近は男性客もかなり増えてきたと担当の美容師さんが話してくれた。
若者ばかりでなく40~50代の男性客もけっこう多くて、土日など下手をすると男性客の中に女性客が一人で逆に居心地悪そうにしている、という事もあるらしい。

そんな話を聞くとついつい、「床屋の将来性は大丈夫か?」と考えてしまう。
両業態は免許で分けられているから、転換も容易ではない。
床屋が生き残っていくためには、
①美容室に奪われた男性客を取り返す
②他の床屋からシェアを奪って残存者利益の拡大を目指す
③美容室には絶対行かない老人客を開拓する
などの対策が必要だろうな、などと考えてしまう。

③では暇な平日に出張サービスを展開し、話し相手も兼ねてやったらいいかもしれないなどと考えてしまう。根本的には免許で規制されているのが、大きなネックなのかもしれない。
両者を融合したような店舗で、個々の顧客に合わせたきめ細かいサービスを展開してくれるようなところがあったら、利用者にとっては本当は一番ありがたい事だという気がする。

お役人さんも床屋の将来のためにも規制緩和を考えた方がいいんじゃないのという気がしてならないのである・・・

     


2009年2月8日日曜日

頼まれ事

私はよく人にモノを頼まれる。
まあ誰でも頼まれ事はするであろう。
私も特別その頻度が高いというわけでもない。
ただ、誰かに何か頼まれた時、一つだけ心掛けている事がある。
それは「断らない事」である。

もちろん、妻からの頼まれ事のようにそれ自体「断りたくても断れない」ものは別としてであるが、基本的に何でも受けることにしている。中には能力的に明らかにできない事や、例えば日程的に無理があったりしてやむを得ない場合は当然この限りではない。
その旨きちんと説明してお断りする。

が、そういうのは極々例外だ。
基本的に何でも受ける。
昔からそういう性格だったわけではない。
むしろ昔は面倒な事はなるべく避けるようにしていた。
だがいつのまにかこうなっていた。

というのも、「頼まれる」という事は「認められる」という事だと思うようになったからである。
頼んできた相手は、自分であれば引き受けてくれる(引き受けてほしい)と思っているから頼むのであり、自分はそれだけその相手の中に存在感を占めているということになる。
もともとそんなに社交的でもないし、友達が多いわけでもない。
謙遜でもなく、実際高校・大学時代は交友関係は極めて狭かった。
無理に広げたいとも思わなかったし、広げるのも苦痛だったのだ。
なので自分の存在自体も極めて狭い範囲にしかないように思えていた。

何気なく引き受けた頼まれ事もやって喜ばれれば気分もいいし、頼まれる事によって自分の存在感を確認できるような気がするのも確かである。何でも引き受けていると、いつのまにか面倒な事を押し付けられる便利な存在となるかもしれないという危惧もあるかもしれない。
だが幸い今のところそんな気配はない。

思い返してみればいろいろ頼まれたものだ。
結婚式の司会や会議の議長、ラグビーは高校・大学とも学年幹事だし、さらに大学のラグビー部に至っては4学年分の取りまとめ幹事だ。その他に世話人などをやっているのもあるし、くだらないものまで入れるとけっこうあるものである。

でもそれでもありがたいものだと思っている。
声をかけられる事は見過ごされる事から比べると遥かにいい。
そうして目に留めてもらえたというだけで引き受ける理由になると思っている。

その昔は何か世の中に役に立つようになりたいと思っていたものである。
今となっては「世の中に」などという大事は難しい。
だが目の前の一人の役に立つ事も世の中の役に立つ事の一つだ。
千里の道は行けねども目の前の一里なら可能だ。
ならば目の前の一里から一歩一歩進んでいくのも悪くはない。
これからもそういう精神で頼まれ事を引き受けていこうと思うのである・・・
    
   

2009年2月6日金曜日

おでん

我が家は東西食物文化の交差点である。
「食は関西にあり」とはよく言われるが、それは確かである。
お好み焼きやたこ焼きばかりでなく、関西に行けばおいしいところにおいしいものは至るところにある。しかし全部が全部、というわけでもない。

結婚前だが、妻に大阪の老舗のおでん屋に連れて行かれた事がある。
カウンターがぐるりと囲む真ん中でおでんがぐつぐつと煮えていて、入った瞬間に食欲をくすぐられる店であった。席についてさっそくオーダー。
いの一番に注文するのはやっぱり「ちくわぶ」。
ところが、目を凝らせども姿が見えない。
値札にもない。不思議に思って妻に尋ねたところ、「ちくわぶ?竹輪の事?」ととんちんかんな回答。あれこれとやり取りをして初めて知った。

「関西のおでんにはちくわぶがない」

この衝撃度は東京育ちのおでん好きであれば理解していただけるであろう。
ちくわぶの入っていないおでんなんて想像できるだろうか?
「おでんと言えばちくわぶ」、「ちくわぶと言えばおでん」。
おでんの主役はちくわぶであり、その他の具はちくわぶの引き立て役でしかないと言っても過言ではあるまい。ジェームズ・ボンドの出ていない007映画を誰が観たいと思うであろう。
それがないのである!
その店のおでんの味も何を食べたかももう忘れてしまったが、ちくわぶがないという事実だけが今も強烈な思い出として脳内皮質に焼きついている。

結婚してからはもちろん、おでんの時にはちくわぶは欠かさないようにしてもらっている。
そのおいしさを教えてあげようと思ったが、一口食べて「こんなのどこがおいしいの」と来た。
星一徹ならちゃぶ台をひっくり返すところだ。

あきれ果てたが悪い事でもないと気がついた。
なぜなら妻がちくわぶを食べないがために、我が家ではちくわぶは私が独占できるからだ。
子供たちも母親へ右へならえで食べようとしない。
だから翌日に残ったおでんを食べる時だって、竹輪やはんぺんは跡形もないが、ちくわぶはしっかりと私を待っていてくれる。これは幸せだ。

とはいえ、最近ちょっと悩みがでてきた。
妻はともかく子供たちだ。
東京に生まれたのにこのままちくわぶのおいしさを知らずに育っていいものだろうか、と。
ちくわぶの味を伝えるのは東京人の私の務めではないか、と・・・

良いはずがあるわけもなく、「教育」することにした。
とはいえ、無理に「食べろ」と言ってもそこは逆効果。
自らおいしそうに食べる姿を見せるしかない。
それこそが、親父が態度で語るものだろう。
というわけで、我が家で夕食におでんが出る時は、なるべくおいしそうに食べるように(もちろん本当においしいのだが)しようと思うのである・・・

    

2009年2月2日月曜日

恵方巻き

節分である。
節分と言えばやはり「豆まき」である。
まあこれは日本全国どこへ言っても共通である。
子供がいればまず家でやる事になるだろう。

ところが我が家はこれだけではない。
もう一つ行事がある。
それが「恵方巻」である。

東京生まれの東京育ちの身であれば、あまり馴染みがない。
かく言う私も結婚するまでは知らなかった。
ところが関西人と結婚したためこのようなけったいな風習がある事を知る事となったのである。

恵方巻とは節分にその年の恵方(ちなみに今年は東北東である)を向いて目を閉じ、太巻きを願い事を願いながら一言も発せずにまるかじり(関西では「まるかぶり」と言う)するのである。
悪いけどとてもじゃないが願い事なんか叶いそうもない風習だ。
家族揃って黙々と食べるわけであるが、なんともはやという感じである。

ローカルな風習と思っていたらここ数年東京でも恵方巻の文字が目につきだした。
主にコンビニであるので見かけた人も多いと思う。
たぶん常に新しいネタを探しているコンビニ業界であるから、関西のローカル風習に目をつけて東京に持ってきたのだろう。

だが、東京人に広まるのであろうか。
我が家は実権者が有無を言わさずやっているから毎年やるが、東京人同士のカップルのご家庭ではいくらコンビニが頑張っても広まらない気もする。
バレンタインのチョコのようにはいかないだろう。

そもそも何でこんなもの広めようと思ったのだろうか?
単なる話題作りだろうか、季節のイベント作りだろうか?
米食推進委員会みたいなものが自給率アップのために取り組んでいるのだろうか?
別に文句があるわけでもないし、(あっても言えるわけないし)子供たちも喜んでいるので季節のイベントとして我が家ではこれからも続くだろう。
何もないよりいいだろう。
そういうわけで明日の我が家の夕食は太巻きなのである・・・

    

2009年2月1日日曜日

世界遺産は世界の遺産

   
先日関越自動車道を往復した時の事だ。
行きの下り斜線で「富岡製糸場を世界遺産へ」という看板を見つけた。そういえばいつも見ているテレビ東京の「ガイアの夜明け」で世界遺産登録を目指す平泉の様子を取り上げていた事を思い出した。ここもどうやらそうらしい。

富岡製糸場といえば日本史の教科書にも出てくる、日本の近代史の一ページを飾る象徴的な存在だ。日本人であるし、行った事はなくてもその価値は十分にわかるつもりだ。だからそれを世界遺産にしようという考え方は理解できる。しかしどうもすんなりと腹落ちしない何かがある。

そもそも世界遺産とは「後世に残すべき人類の資産」という事である。その目的は保護と保存である。だからそれなりの価値のあるものを保護しよう、保存しようという考えもわかる。だが、それだけだろうか?

世界遺産に指定されるとどうやら観光客が激増するらしい。世界遺産巡りは格好の旅行テーマとしていいのであろう。かくいう自分もいずれ世界遺産巡りをしてみたいと思う。しかし、先の番組で取り上げられていた平泉は「街興し」としてそれをやっていた。世界遺産に指定してもらい、それで観光客を呼び込み街の活性化につなげようというものである。

街興しそれ自体否定するものではない。世界遺産への登録申請もしかり。しかしそれが結びつくと違和感を覚える。世界遺産はあくまでも保護・保存が目的であるはずで、それで観光客を呼び込もうというのは筋違いに思える。平泉が落選したのも当然だ。

観光客の増加はあくまでも結果であって、目的ではないはずだ。それを平泉の人達は履き違えている。富岡製紙場も見たことないのでそれ自体は何とも言い難い。しかしやはり観光客誘致目的なのは明らかだ。そういう意図はおかしいだろう。

世界の人の目もあるのだ。おかしな意図で登録申請などしていたら、審査員の手間隙だって大変だし何より日本の良識を疑われないか?街興しは他の方法で考えればいいのだ。世界の中の日本人である。身を正して世界と向き合う気概が欲しいという気がしてならないのである・・・

    

2009年1月30日金曜日

今この瞬間を

    
「あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日」
                        韓国のベスセラー小説「カシコギ」


伯父の葬儀で訪れた御代田の町。
短時間のショートステイでは何度か訪ねていたが、考えてみれば泊りがけで行ったのは14年振りだった。通夜と葬儀の短い合間合間にあちこち散歩した。
なんだか無性に懐かしくなったのだ。

都会では考えられないくらい広い校庭の小学校。いとこが通っていた学校だ。
夏休みには何食わぬ顔で一緒にプールに入って泳いだ。
当時の木造校舎は跡形もなく、廃校となったその場所は校庭こそそのままだが、校舎の跡地には銭湯ができていた。

今思い出してもレトロな駄菓子屋は、錆付いたトタン板で戸口をふさがれていた。
カブトムシを取りに行ったあたりには国道に通じる道路が通っていた。
バッタやカエルやザリガニを取った田んぼはビジネスホテルの駐車場に、伯母さんの作ってくれたおにぎりを持って遊びに行った神社の横にはパターゴルフ場ができていた。
いとこと野球をした空き地にはアパートが3棟連なっていた。
もうあの頃の御代田ではなくなっていた。
30年も経つのだから当たり前だ。

銀行に入って20年。
最初に配属となった思い出の支店は建て替えられて、場所こそ同じであるが近代的な商業施設の中にあり、自分がいた頃の店舗は影も形もない。そのあと転勤して勤めた3店舗もすべて同様だ。
かつての思い出の場所で、もはや記憶の中にしかないというところも、数えてみればかなりある。
それだけ無情な月日が流れているのだ。

何だか年寄り臭くなった。
もう一度訪れてみたいあの頃のあの場所。
もう一度経験したいあの時。
それらはみなどんなに努力しても叶わぬ夢なのか。

これからそういう場所や時間がますます増えていくのだろう。
そうしていつか気がついたらそんな思い出ばかりになっているのだろうか。
ひょっとしたら何気なく生きている今このひと時であるが、20年後の自分が戻りたいと渇望しているひと時かもしれない。そう思うと、回りのものが何だかどれも大切なもののように思えてくる。

今は煩わしいと感じている事もひょっとしたら後から無性に懐かしくなって、その思い出に涙ぐんでいるかもしれない。思い出に浸るのは心地良く、心にも大切なひと時であるが、何よりも時計の針は動き続けている。当たり前の事であるが、今このひと時を大切に生きないといけない気がする。

毎日の仕事に精を出し、ミュージカルや映画を観て本を読んで心の充実感を満たす。
家族や友達と何物にも代えがたいひと時を過ごす。
ありふれた言葉であるが、「今を生きる」のだ。
そうして年老いてよぼよぼになった時に、いい人生だったと振りかえりたいと思うのである・・・

    

2009年1月26日月曜日

伯父の葬儀

   
伯父が亡くなった。

伯父は長野県の、東京から行けば軽井沢の少し先にある御代田という町に住んでいた。
雄大な浅間山が聳えるその麓の町である。
小学校三年生の頃から一人でそこに遊びに行っていた。
伯父の次男(つまり私のいとこ)が私と一つ違いであり、ウマがあったこともあって春夏の休みには10日~2週間は滞在していた。
東京生まれで田舎のない私にとっては故郷の代わりになる所だった。
それが高校に入るまでの私の年間最大イベントであり、最も楽しい事であった。

そんな私だからか、伯父も伯母も事のほかよく可愛がってくれた。
寡黙な伯父は仕事から帰るといつも晩酌をしながら我々の遊ぶのを眺めていたものだ。
もともと具合が悪く入院していたが、行っても既に私の事がわからなくなっていたため、ここのところはずっと見舞いにも行っていなかった。
そしてとうとう「その日」が突然やって来たのだ。

お通夜から参加。
伯父の死に顔は記憶にあるその顔とは別人のようであった。
集う親戚。こんなにいたのかと改めて思うほどだ。
懐かしい顔もあった。中でも伯父の長男の子供が大きくなっているのに驚いた。
確か遊んであげた時は5歳だったやんちゃ坊主が19歳の若者になっていた。
茶髪を後で束ね、ピアスを光らせた彼をいつのまにか見上げる立場になっていた。

伯父伯母たち年寄りはみな変わらない。
でも甥だの姪だのの子供たちはみな10~20代。
誰が誰だかわからない。
そんな集まりゆえ、自然と昔話に花が咲く。
通夜にも関わらず、湿っぽさはまるでない。
伯父の遺体の横で笑顔溢れる集まりだ。
考えてみれば、これが伯父の最後の招集だったのだろう。
賑やかな方がかえってよかっただろうと思う。

一方で子供の頃、従兄弟と遊んだ御代田の家の周辺は、あちこちに新築の家やアパートが建ち並び、道路ができてと様変わりだった。
あの頃の面影が消えつつあり、その方に寂しさを感じた。
酔い覚ましに外に出ると、冷たく澄んだ夜空には満天の星。
東京でもオリオン座は見られるが、星々の中から浮かび上がるオリオン座というのはちょっと見られない。そういえば夜空一杯の星を眺めるのも楽しみであった事を思い出した。
家の周辺は変わっても夜空は昔のままだった。

葬儀が終わって帰って来ても伯父が死んだという実感はない。
今でも御代田に行けば笑顔で迎えてくれそうな気がする。
でもきっとそうなのだろう。
人は死んだらどうなるのかという事はよく言われるが、たぶん伯父は今でもあの頃の御代田のあの家のいつもの指定席に座って晩酌をしているのだ。
そしてなかなかそこに行く機会がないだけなのだ。

いつかそこに行けるのだろうが、それまでは遠くにありて思う故郷に今でもあのままでいるのだと思いたい・・・

   

2009年1月24日土曜日

ミュージカル



  







先日劇団四季のミュージカル「赤毛のアン」を観に行った。
モンゴメリー原作のこの有名なお話、実は私は読んだ事がない。
したがって初めてストーリーを知ったわけであるが、ストーリー自体はいかにも女の子向けという感じだ。

しかしストーリーもいいが、何といっても「生の迫力」。
これに尽きると思う。
右に左にと動き回る俳優たち。
その足音や息遣いが直接伝わってくる。
一人一人が細かいところまで演技しているのには感心してしまう。

ミュージカルとなると映画でも名作と言われているものがある。
古くは「ウエストサイド物語」、「屋根の上のバイオリン弾き」や最近では「オペラ座の怪人」など観てよかったと思うものもある。
しかしどうしても映画でのミュージカルはしっくりとこない。
映画とミュージカルは相性が悪いと個人的には思っている。
映画大国インドの映画はどれを観ても同じ様にみえてしまうし、どうにも面白みが感じられないのは、ほとんど音楽が流れっぱなしの一種のミュージカルだからだと思う。
やはり「ミュージカルは舞台に限る」と思っている。

ただ欠点は料金だ。
8,000円~10,000円というのはちょっと高い。
家族で観に行きたいと常々思っているが、なかなか勇気がいる。
ここのところをもう少し改善してほしいなぁと願ってやまない。
家族で気軽に行けるようになるともう少し世の中も変わりそうに思うのだが・・・

2009年1月20日火曜日

道路政策

「高速道路、休日は1000円上限で乗り放題 2次補正成立で2年間実施」

ファミリー向けにはかなり刺激的(?)なニュースを目にした。
土日祝日の地方の高速道路料金を上限1,000円で乗り放題にしてくれるらしい。
その他平日でも首都高の割引他があるらしい。
ただパブリックコメントなる意見公募を行ってから正式決定するというが、こういう意見に反対意見など出るものだろうか?
さっさとやってほしいものだが・・・

それにしても何でこんな政策が出てきたのだろうか?
新車販売が不振でトヨタをはじめとする自動車各社が減収にあえぐ中、国民に車を買わせようとする戦略なのだろうかと勘繰ってしまう。
しかし、それにしては対応が(役所にしては)早すぎるし、2年間という限定だからそうではないのかもしれない。
それにすでに車のある我が家にとってはたとえ車を買わせようとする政府の策謀だろうと気にする事はない。
素直に喜んでもよさそうである。

ただこれでみんなが車で出かけるようになると、問題は渋滞だ。
今でもGWやお盆などの渋滞は酷いが、さらに拍車をかけることになる。
渋滞の解消策もあわせて考えてほしいものである。
それに、夏休みに家族でレジャーに出かける時は、平日に出かける事が多いだろう。
(それでこその夏休みだ)
その時は恩恵に預かれないわけである。
商業車を除外する目的なのだとしたら、もう少し別の方法を考えてもらう必要がある。

かつて経営コンサルタントの大前健一氏が各家庭で10万円を支払って高速道路を永久にただにするアイディアを公開していた。
わずか10万円でできるそうである。
どうせならこういう恒久的な取組みをしてもらいたいものである。
久々に良い政策だなと思ったのだが、まだ始めの一歩という感じだ。
そういうコメントをどうせなら出してみようか、などと思ったりしてみたのである・・・


2009年1月16日金曜日

給付金の使い道

登場した時は「最後の切り札」的な存在だったのに、今は人気低迷にあえぐ麻生首相。
給付金を巡る議論が賑やかである。

この不況を乗り切るには何とか消費を回復させないといけない。
しかし、この不況下で家庭はどこも財布の紐を厳しく締めている。
そこでお金をばら撒いて使ってもらえば消費も増えるという腹積もりなわけだ。

しかし、所得をすべて使ってしまうアメリカ人ならいざ知らず、堅実に貯蓄する日本人に対し、どれだけの消費刺激効果があるのか、という事で問題になっているわけである。
ばら撒いた後、ゆくゆくは増税が確実なだけに尚更だ。

あるところで面白い話を知った。
例えば月に40万円の収入があり、そのまま40万円を使い切っていた家庭があるとする。
ところがそれではいけないとそのうち10万円を貯蓄に回すことにした。
個人レベルでは誰もが頷く当然の考えだ。

ところがそれをマクロの立場からみる。
それまで40万円の消費があった。
国全体でみると4,000億円の消費であったとする。
するとそれが各企業の売上となり、やがて給与となって個人に還元されていく。

ところが10万円を節約したために消費は30万円となり、国全体では市場規模は3,000億円に縮小。
各企業の売上も3/4に減り、それに対して各企業はリストラや給与カットで対応。
すると個人の給与も30万円に減り、その家庭はさらに節約し、今度は5万円の貯蓄をするため消費を25万円に抑えた。すると・・・

面白い話だ。
逆に言えば10万円の貯蓄をするのではなく、借りてでも50万円の消費をすればいいと言う事になる。
アメリカ人式が正しいという事だ。

給付金も毎月くれるなら、「お国のため」に消費に回そうと思うのだが、1回だけではなぁ・・・
せめて今タイミングを待っている地デジ対応のテレビの足しにしようかと思うのだが、それまではやっぱり「とりあえず貯蓄」に回す事にしようかと思ったりしている代表的庶民の我が家なのである・・・


     

2009年1月14日水曜日

中国から見た日本2

朱建栄東洋学園大学教授の講座に出席した。
期待通りの内容であった。

日中両国の間に横たわる問題はやはり戦争の部分が大きい。
中国側の言い分もわからなくもないが、かといっていつまでも言われ続けるのもどうか。
そっちがいつまでも拘るのであればいつまでたっても友好などありえない、そんな考えを抱いていたものである。

しかしそう思う前に考えないといけない事がある。
第2次世界大戦は太平洋戦線でみると日本対米英中ソの図式である。
そして日本からすると対米英、対中、対ソと3つに分かれる。

人は「加害者意識」より「被害者意識」が残るものである。
そのためか日本人にとって「あの戦争」と言う時、それは「沖縄戦」「東京大空襲」「広島」「長崎」であり対米戦を指す。
加えるなら「シベリア抑留」の対ソ戦である。

しかし中国にとっての第2次世界大戦は「対日抵抗戦争」である。
したがって「あの戦争」といえば「対日戦争」に他ならない。
このギャップが大きいと朱教授は語る。

言われてみれば確かにそうだ。
つい最近自衛隊の航空幕僚長の「大東亜戦争は侵略戦争ではない」とする趣旨の論文が問題となった。対米戦争という観点からすると、平和な鎖国を黒船によって無理やり開国させられ、不平等条約を結ばされ、大恐慌下では列強のブロック経済からはじき出され、押し寄せる帝国主義の荒波から身を守るべくそのための資源を求めて大陸へ進出していった行為は「自衛戦争」と言えるものかもしれない。

しかし対中戦争という観点からすると、「中国国内で」「中国軍(国民党+共産党)と闘った」という事実からしてもそれは「侵略戦争」に他ならない。
ましてや日本軍は連戦連勝で国民党政府を奥地まで駆逐してしまったので尚更だ。
中国人に向って「侵略戦争ではない」などと言えば烈火のごとく怒るもの当然なのだ。

歴史上の事実は一つだ。
しかし光を当てるところが違うと同じものでも違って見えるもの。
要はいろいろな角度から(相手の立場から、そして第三者の立場から)見てみる事が必要だろうと思わされる。

アメリカは自国の利益を追求してドライに動く国だ。
日本と友好関係を結んでいるのも「アメリカ人が良い人」だからではなく、「それがアメリカの利益になるから」だ。
これからは日本もアメリカ一辺倒ではなく、すくなくともEU、中国という大国とバランスをとって付き合っていかないといけないはずだ。
そのためにも角度を変えてモノを見る事も学んでおかないといけない。
そんな事を考えさせられた講義であった・・・

  

2009年1月12日月曜日

中国から見た日本

我々は他人を評価するときその言動や外見に頼る。
それはそれで仕方がないのであるが、その人の考え方まであわせてわからないとその人の本当の姿は見えてこないものである。そんな事を考えさせられた本に出会った。
胡錦濤 日本戦略の本音 ナショナリズムの苦悩である。

実は社会人向けのある勉強会に毎月参加している。
毎回ゲスト講師を招いて講義&ディスカッションをしているのだが、今回の講師が著者の東洋学園大学教授の朱建栄氏。日本にはもう20年以上住んでいて、日本語はペラペラであり日本についてもよくわかっている。
「日本と中国は近いわりに互いを『色眼鏡』を通して相手を見ている」
そう主張するこの本は、講義の課題図書として指定された関係で読んだものだが、そんな日中関係に解決策を提示する本である。

日本と中国の間には様々な問題がある。
靖国神社、歴史認識、尖閣諸島、ODA(円借款)、反日デモ、台湾問題・・・
それらを一つ一つ取り上げて、問題の所在を解説し解決策を提案する。
それも相手の考え方を含めてなので、なぜそういう問題が起こるのか、がわかる。

例えば小泉総理が強行して問題となった靖国神社参拝。
ニュースで見る限り「A級戦犯といっても日本には日本の事情があって起こした戦争。
日本のために働いた人達だし、死んだ人を弔うのになぜ外国に文句を言われなければならないのか」と個人的には思っていた。
「堂々と8月15日に行けばいいのに」と。

これに対し中国からみると違う姿がある。
事の発端は対日戦時賠償の放棄。
日本との平和条約締結に際し、中国は当時500億ドル(当時の日本の国家予算の18年分)と試算されていた戦時賠償金を放棄した。
日本は日清戦争、義和団事件で多額の賠償金を当時の中国政府から取っていたのに、である。それらの資金で八幡製鉄所を作り日露戦争の準備もできたのだ。

放棄の理由は第1次大戦のドイツの教訓でもあり、遠い将来にわたる関係を考えての首脳陣の英断であった。だが、国民は賠償金に多大な期待を寄せている。
中国最大の長春自動車工場を20~30社も作れるし国民の給与レベルも一段上げられる。
どう国民を説得するか。

そこで考えられたのは、「日本人もまた一部の軍国主義者によって引き起こされた戦争で悲惨な目にあった被害者である。同じ被害者から賠償金は取れない」という理屈であった。そうして国民を納得させた経緯があるゆえに、「同じ被害者であるはずの国民の代表である現役の総理大臣が加害者であるA級戦犯に対して参拝する」のは「国民に説明がつかない」となるのである。
そうした背景まで解説してくれるメディアはない。

もちろん一つ一つの問題をどう考えるかは個人の自由だ。
ただそういう事実を知った上で判断しなければ偏った判断となってしまうだろう。
あらためて相互理解の重要性を認識させられる。

2005年時点と少し前の本であるが、基本は現在でもかわらない。
課題図書でなければ絶対読まなかったと思うが、自分の認識の幅を広げてくれる良い本に出会ったものである。
        
  

2009年1月11日日曜日

海外での誘拐事件に思うこと

 
エチオピアで誘拐された日本人医師が解放された。
そういえばそんな事件もあったな、と忘れかけていたが何より無事開放というのは良かったと思う。
開放に当たっては医師が所属するNGOが交渉に当たったようである。
専門のネゴシエーターか何かを雇って交渉したのだろうかと想像力を逞しくしている。

開放にあたってはどうやら身代金150万ドルが支払われたようである。
こういう場合、身代金を支払うとそれに味をしめた犯行グループが再度日本人を狙う可能性もあり、また別グループも同じ事を計画するとなると、世界中で日本人が狙われるという事態も招きかねない。だから安易に身代金交渉に応じてはいけないという考え方がある。

外国ではむしろそういう考え方が主流のようだ。
日本人はすぐに金を払って解決したがるような感じだが、それは「金がある」事と「人質奪還などの任務を外国で遂行できる能力がない」という事情も背景にあるのだろう。

だが「交渉しないというスタイル」もどうだろうか?
例えばハマスやヒズボラなどのパレスチナゲリラはよくイスラエル兵を拉致する。
憎くきイスラエル兵だから捕虜にするより殺してしまうのかと思えばそうではない。
時折、イスラエルとゲリラグループとの捕虜交換がニュースで話題になる。
イスラエルは国内で拘束したゲリラグループのメンバーを自国兵士との交換で解放しているのだ。
それが3人対300人だったりする。

数の上では圧倒的に不利な交換である。
ゲリラからすれば、イスラエル兵一人を拉致すれば100人の仲間を解放できる。
だから「殺すより生かしておく」。
結果的に兵士は殺されずに済む。

イスラエルは国民の数が少ない。
兵士一人と言えども安易に見殺しにはできない。
だから例え不利な条件でも交換に応じる。
その結果、自国兵を守る事になる。
これも一つの考え方だ。

無事に帰せば金がもらえるとなれば殺されずに済む。
お金と命とどっちが大事かなんて比べるまでもない。
しかし、逆に金になると思えば狙われる。
この矛盾は実に難しい。

今回日本政府は表に出なかったという。
水面下でそうした配慮がいろいろとあったに違いない。
何はともあれ安心であるが、海外に行く時はやっぱりいろいろと気をつけなければと思う次第である・・・

 

2009年1月9日金曜日

派遣切り

 
週刊ダイヤモンドで「派遣切り」の問題が取り上げられていた。
一方的に契約を解除する「解雇」は問題あるが、期間満了で契約更新をしない「雇い止め」は仕方ないとする意見が多かったようである。
また、非正規雇用者が大量に発生した原因は、
「国にある26.2%」
「企業8%」
「本人8%」
「そのすべて35.6%」
という結果であったとか。年末の日比谷公園の炊き出しも話題になり、今ちょっとした旬の話題である。

先日某議員が、東京・日比谷公園に開設された「年越し派遣村」を巡り、「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」と発言した事を撤回し謝罪した、とニュースでやっていた。
しかし、どうなんだろう、この問題。私にはよく理解できない。

そもそも派遣は正規社員を増やしたくない企業が、人員調整をやりやすくするために雇い入れているものだ。契約で期間も決まっている。だから「解雇」は問題かもしれないが、「雇い止め」は当然の処置だ。大量に発生した原因は誰の責任でもない。
あえて言うなら「わかっていてもそれに備えていなかった本人の責任」だ。

また職を失い、あわせて寮も追い出されて大変な事は理解できるが、大事なのは「では今後どうするか?」だ。大変だ、気の毒だ、政府は何をしている、という声は聞えてくるが、「今後どうする?」という前向きの声は聞えてこない。先の日比谷公園でインタビューに答えていた失業者は「群馬から来た」と語っていたが、交通費を使ってわざわざ来たのだろうか?まあ職探しに来たついでなのだろう、と考えたい。

そもそも考えようによっては大騒ぎするほどの事だろうかと思えてならない。
もしも私が不幸にして派遣切りにあったとしたら(もちろん家族はいないとしてであるが)、まず何はさて置き次の職探しだ。
こういう時期だから正社員なんて贅沢は言えない。
てっとり早くコンビニを片っ端からまわってバイトの口を確保する。
時給800円としても8時間×6日間×4週間働けば一月15万円ほどにはなる。
贅沢を言わなければ家賃は3万円で部屋を借りられる。
コンビニなら消費期限の切れた弁当をこっそりもらえば食費も切り詰められる。
100円ショップに行けば大概のものは揃うし、段ボール抱えて公園に行かなくても十分生活できるじゃないか。

そもそも世界には1日1ドル以下で暮らす人が何億といるのだ。
そういう人達は何とかしたいと思ってもバイトの口すらない。
そんな人達から比べたら、この日本では「そのつもりさえあれば」コンビニのバイトでさえ屋根の下で3食食べて、「天国のような」暮らしができるのだ。

コンビニでなくても、今は飲食業界は深刻な人手不足だ。
その気になればチェーン店の店長くらいには簡単になれる。
「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」という先の議員の疑問は至極最もだ。何で謝罪する必要があるのか。そんな事を書くと「お前はちゃんとした仕事があるからそんな事が言えるのだ」と言われるかもしれない。だが、逆に言えば、「そんな考え方ができないから切られるのだ」とも言えるのではないか。

ちなみにもしも私がコンビニで働かざるをえなくなったとしたら、深夜枠を中心にシフトを組んで(オーナーも喜ぶだろう)、勤務時間の1時間前から行って掃除からはじめて棚の整理など、とにかく仕事を自分で見つけてせっせと働く。売れ筋商品は本部から指示が来るかもしれないが、競合店や来店客の購買パターンなども観察してその地域にあった提案も積極的にする。こずかい稼ぎのバイトやそこらのフリーターなどは足元にも寄せつけないほどその店に貢献してみせる。そうして1ヵ月後くらいには店長を任されるくらいにはなってみせられると思う。

やっぱりハートの問題、生き方の問題だと個人的には強く思うのである・・・

   

2009年1月7日水曜日

中東情勢に思うこと

 停戦協定が終わった途端に火を噴いたパレスチナ問題。
連日の空爆に続けてついにイスラエル軍の地上部隊がガザ地区に投入された。和平に進むのかと思いきや、また後戻りするようだ。

 イラクに侵攻した米軍と南オセチアに侵攻したグルジアはいずれも勝手な自国の利益のためだったが、イスラエルの侵攻は止むにやまれぬ自衛のため。少々事情が異なる。

 旧約聖書の時代に国を滅ぼされて流浪の民となったユダヤ民族。
流浪の知恵から経済力をつけたが、逆に世界中の嫌われ者となる。
まるですべてのユダヤ人が、借金のかたに胸の肉1ポンドを要求したベニスの商人シャイロックのごとく思われる。

あげくにナチス政権下でのホロコースト。
ようやく2,000年の時を経て先祖の土地に国を作ったと思ったら、建国の翌日から周囲のアラブ陣営から宣戦布告されて戦争の日々。

 東南北をすべてイスラエルを敵視するアラブ国に囲まれ(西は地中海だ)、それでも4回にわたる中東戦争をすべて勝って独立を維持。
南のエジプト、東のヨルダンとは和解し、次第に平和へと向うが北にシリアおよびヒズボラの巣食うレバノンがあり、国内にはイスラエル殲滅を掲げるハマスが牛耳るガザを抱える・・・

自爆テロは日常茶飯事。
イスラエルには一時の休息もない。
無差別にロケット弾を打ち込まれれば、反撃もやむを得ないだろう。

 一方のバレスチナ人も、もともとはユダヤ人のいない間先祖代々パレスチナに住んでいた人々だ。それが勝手に国を作られ追い出されて難民となればイスラエル憎しとなるのも当然。国をもたない彼らの代表がハマスでありファタハである。

 今回イスラエルはハマスの幹部自宅をピンポイント空爆した。その幹部は家族もろとも自宅で殺された。子供も、である。幹部殺害によりある程度の効果はあるのかもしれないが、子供まで巻き込むやり方は逆に怨嗟の炎を呼ぶのではないか。市民の中に紛れ込むハマスのやり方も市民に犠牲者を増やす原因となっている。

 業を煮やした攻撃であろうが、犠牲者はまた一方で新たなハマスを増やす事にもなる。例えば自分であったら家族を殺されようものなら一生相手を許さないし、残されたのが自分一人であれば残りの生涯を復讐に費やすだろう。そう思うのは誰でも同じだろう。

 強大な軍事力も、対国家であれば有効だろうが、テロを抑えられないのはイラクで米軍が証明している。どこかで憎しみの連鎖を断ち切らなければならないが、断ち切るのは困難だ。双方それぞれにもっともな言い分があり、いずれかを非難する事は難しい。時をかけて解決するしかないのだろうか・・・

 そんなニュースを気にしている素振りの人は周りにいないし、他人事で良かったと思うのは他ならぬ自分自身だ。何かできる事はないだろうかと思わない事もないが、中東はあまりにも遠く、憎しみはあまりにも深く、そして自分はあまりにも無力だ。

 帰ってくれば当たり前のように家族が迎えてくれる生活。
家を離れるたびに家族の無事を祈らなくてもよい生活。
このありがたみをどれだけの日本人が感じているだろう。
せめてその幸せだけでもしっかりと味わいたいと思うのである・・・


  

2009年1月4日日曜日

言葉の持つ力

 
初めに言葉があった
言葉は神と共にあった
言葉は神であった
(ヨハネによる福音書)

思うに何気ない聖書のこの言葉は言葉の本質をついている。
多くの宗教の中でキリスト教が生き残り、世界中に広まったのは何より「愛の宗教」と言われるその教えであるが、それを伝えたのは言葉である。

単にメッセージを伝えるだけではない。
我々日本人は言葉の持つ影響力を重視してきた。
言霊信仰である。

楽しみにしていた旅行を前にして、一人が「当日雨だったりして…」なんて言ったとする。
本当に雨が降ると、「お前が縁起でもない事を言うからだ」と批難したりする。
もちろん、雨が降ったのは彼の言葉が原因ではない。

またこれからの受験シーズン、受験生のいる家では「落ちる」だの「滑る」だのの言葉は禁句になったりする。
あるいはどのアパートにも4号室はない。

そうした言霊信仰は行き過ぎのところもある。
しかし、使う言葉を選ぶ事は「神が宿る」言葉を使う上で重要だ。
最悪の事態を想定して物事に対処する事は大事なことであろう。
だが目標そっちのけで最悪の事態ばかり考えていたら、道は最悪の事態へと続く事になるように思う。

言葉には確かに不思議な力がある。
かつてラグビーをやっていた頃、きつい時こそ弱音は厳禁だった。
「まだまだ」と言うともう少しの力が出たものだ。
仲間の一言で最後の踏ん張りができた事もある。
苦しい試合中に衰えかけた闘争心に再び火をつけるのは言葉である。
そしてその一言が言えるかがキャプテンの重要な役割だ。

使う言葉の重要性はスポーツにとどまらずあらゆる事に及ぶ。
だからネガティブな言葉はなるべく使わないようにしている。
人から言われるのも、したがって好きではない。

新年にあたり今年の目標を言葉にして日記に記した。
毎日眺めるつもりだ。
今はちょっとした苦境にあるが負けるつもりはない。
「まだまだ大丈夫」と自分に言い聞かせている。
なんとしても壁を突破しないといけない。
今年は一層ポジティブな言葉を意識して使いたいと思うのである・・・


2009年1月1日木曜日

初詣

 元旦はいつも家族揃って近所の氏神様のところへ初詣に行くのが我が家の慣わしである。一家の家長としてそう決めてずっと実行してきている。

子供の頃はよく両親と初詣に行ったものである。
その時はただその時々の願い事をしていたと思う。
気になっているあの子と仲良くなれますように、とか・・・
けっこう可愛かったのだ。

そんな自分も高校・大学と進むと無心論者になった。
ニーチェばりに「神は死んだ」として、神頼みなどする人間は弱い人間だと考えていた。
当然神頼みはおろか手を合わせる事すら拒絶していた。
まあ麻疹みたいな無神論だろう。

それがいつの頃からか徐々に変わってきた。
それまで自分こそが世の中で最高の存在と自負していたのが、様々な壁にあたり角がとれていったのだろう。自分も周りの人とそんなに大きな違いはない普通の男であるという事実を、否応なく思い知らされてきたからかもしれない。

思い上がるのではなく、学ぶべくは学ぶ、他人を尊重するという事ができるようになっていったのだ。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」といったところだろうか。
そんな心境になってくると、それまで馬鹿にしていた神の存在も受け入れられるようになってきた。

といっても信仰生活に入るほどのものではない。
ただ、原始日本人が万物に神が宿ると考え、八百万の神々を信仰した気持ちが理解できるようになったのだ。キリスト教やイスラム教のような一神教もいいかもしれないが、周りのものすべてに神が宿り、したがって何であれ大切にしなければならないという考え方は、自然の恵みを受けそれに感謝しながら生きてきた日本人のものの考え方として何にも増して受け継ぎたいと思うのだ。

そんな考え方をするようになると、その流れから自然と近所の氏神様へと足を運ぶようになった。
人間誰しも謙虚でなければならない。
思うだけではなく、年に一回は謙虚な気持ちになって頭を下げる必要がある。
誰か偉い人のところでもいいかもしれないが、それよりは近所の氏神様の方が頭を下げやすい。
明治神宮でもなく春日大社でもなく、日頃世話になっている自分の住む地域の氏神様がいいだろう。
そう考えて家族で初詣に行く事を我が家の習慣とし、元旦の行事としているのだ。

だが謙虚に頭を下げても願い事は自分の事ではなく家族の健康と日頃の感謝だ。
自分の願いは、自助努力でなんとかする。
「神仏は尊ぶが神仏を恃まず」
心は宮本武蔵なのである・・・