元旦はいつも家族揃って近所の氏神様のところへ初詣に行くのが我が家の慣わしである。一家の家長としてそう決めてずっと実行してきている。
子供の頃はよく両親と初詣に行ったものである。
その時はただその時々の願い事をしていたと思う。
気になっているあの子と仲良くなれますように、とか・・・
けっこう可愛かったのだ。
そんな自分も高校・大学と進むと無心論者になった。
ニーチェばりに「神は死んだ」として、神頼みなどする人間は弱い人間だと考えていた。
当然神頼みはおろか手を合わせる事すら拒絶していた。
まあ麻疹みたいな無神論だろう。
それがいつの頃からか徐々に変わってきた。
それまで自分こそが世の中で最高の存在と自負していたのが、様々な壁にあたり角がとれていったのだろう。自分も周りの人とそんなに大きな違いはない普通の男であるという事実を、否応なく思い知らされてきたからかもしれない。
思い上がるのではなく、学ぶべくは学ぶ、他人を尊重するという事ができるようになっていったのだ。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」といったところだろうか。
そんな心境になってくると、それまで馬鹿にしていた神の存在も受け入れられるようになってきた。
といっても信仰生活に入るほどのものではない。
ただ、原始日本人が万物に神が宿ると考え、八百万の神々を信仰した気持ちが理解できるようになったのだ。キリスト教やイスラム教のような一神教もいいかもしれないが、周りのものすべてに神が宿り、したがって何であれ大切にしなければならないという考え方は、自然の恵みを受けそれに感謝しながら生きてきた日本人のものの考え方として何にも増して受け継ぎたいと思うのだ。
そんな考え方をするようになると、その流れから自然と近所の氏神様へと足を運ぶようになった。
人間誰しも謙虚でなければならない。
思うだけではなく、年に一回は謙虚な気持ちになって頭を下げる必要がある。
誰か偉い人のところでもいいかもしれないが、それよりは近所の氏神様の方が頭を下げやすい。
明治神宮でもなく春日大社でもなく、日頃世話になっている自分の住む地域の氏神様がいいだろう。
そう考えて家族で初詣に行く事を我が家の習慣とし、元旦の行事としているのだ。
だが謙虚に頭を下げても願い事は自分の事ではなく家族の健康と日頃の感謝だ。
自分の願いは、自助努力でなんとかする。
「神仏は尊ぶが神仏を恃まず」
心は宮本武蔵なのである・・・
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