【原文】
子曰、吾自衞反魯、然後樂正、雅頌各得其所。
【読み下し】
子曰く、吾衛より魯に反りて、然る後に楽正しく、雅頌各〻其の所を得たり。
【訳】
先師がいわれた。「わしが衛から魯に帰り、そのあと音楽も立ちなおり、雅楽も納まるところに納まった。」
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まだ10代の頃、テレビで歌謡番組をやっていると、それを見ていた母親がキャンディーズやピンクレディーなどの当時のアイドル歌手の歌を聴きながら、「こんなのどこがいいのかねぇ」と言っていたのを思い出す。母は美空ひばりのファンであり、歌と言えば「演歌」という感じであった。おそらく、母にとっては演歌こそが歌であり、じっくり聞かせるものであり、フリフリキャビキャビしながら愛だの恋だのと歌う歌謡曲などは歌のうちには入らないという思いだったのだろう。しかし、演歌も歴史は浅く、その前の世代が美空ひばりをどう捉えていたのだろうかと興味深い。
「こんなのどこがいいのかねぇ」と言っていた母の気持ちもよくわかる。「歌とはこういうものだ」という思いがあって、当時のアイドル歌手による流行歌は母の「基準」からは外れていたのだろう。私も共感する部分はあって、当時はアイドルよりもフォークソングの方がいいなと思っていたし、高校生になるとRCサクセションの方向に向かったし、アイドル歌手は遠くから眺めているかたちであった(それは今に至るまで変わらない)。私の音楽の趣味はみな母の「基準」からは外れるだろうが、それが私の「基準」なのである。
孔子が衛から魯に帰り、音楽を「立ち直らせた」とするのはいったいどういう意味なのか、この訳だけではよくわからない。正しい基準があって、そこから外れていたものをあるべきところに戻したということなのだろうか。しかし、正しい基準がいったい何をもって正しいとするのかは疑問である。それは生物が突然変異によって進化するように、基準から外れることによって新しい基準となることは音楽に限らずよくあることだと思うからである。何より自分がいいと思うものこそが何よりの「基準」だろう。
もっとも「伝統」というものも大事だということも理解できる。歌会始で読まれるのは伝統的な短歌であり、川柳が読まれることはないだろう。孔子が正したものがそういう宮中の伝統行事的なものであれば、それはそれでいいのであろう。そういう伝統の良さというのも理解できる。しかし、あまり正しい基準にばかり囚われていては、新しい文化が生まれてくることはない。新しい基準は得てして既存の基準に慣れた人にとっては異質で受け入れ難く感じるかもしれない。しかし、「変化」はそこからしか生まれてこないのも確かだろう。
私は比較的柔軟なつもりではあるが、そうはいうもののラップが出てきたときには「なんじゃこりゃ」と思ったものである(今でもそう思う)。娘がいつからか嵐や関ジャニ∞(今はSUPER EIGHTか)に夢中になりだした頃、心掛けていたのは、決して「こんなのどこがいいのかねぇ」と言わないことであった。それはもちろん、自分の経験則からしてそんな事を言っても娘に嫌われるだけだとわかっていたからである。それに一緒に聴いているとそれなりにいいなと思うようになったのも確かである。人それぞれいいなと思う基準はさまざまであり、他人がとやかく言うものではないのだろう。
そういえば最近はフォークソングという言葉をほとんど聞かない。といっても実は何がポップスで何がフォークなのか厳密な定義はわからないので、私が知らないだけかもしれない。J-POPだK-POPだとか言われるが、何がどう違うのかよくわからない(さすがにJとKの違いくらいはわかるが・・・)。いろいろと派生して変化していくうちに、音楽の姿もその時代の人たちの心をどう捕らえるかで変わってくるのだろう。そこに正しさを求めても仕方ないことかもしれない。
最近、昔聞いていた歌をお気に入りに入れてYouTubeで聴いている。いろいろと変化していっても、聴きなれたものはやはり耳に心地よい。人の趣味にとやかく言うことはせず、自分の趣味だけ追及していくのがいいのだろう。せいぜいその趣味の範囲を柔軟に広げつつ、「自分の基準」で楽しみたいと思うのである・・・
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