2018年3月14日水曜日

それは病気か


ある高校生の悩みを聞いた。学校でクラスに馴染めないらしい。どうもクラスメイトとの人間関係に「気を遣って疲れてしまう」らしい。私も実は人見知りであり、初対面の人は苦手な口である。できれば新しい人とは知り合いたくないし、友達も今以上増やしたくはない。ある程度慣れてしまえば平気であるが、それまではとにかく話すだけで疲れるので、その子の気持ちもわからなくもない。ただ、学校に行きたくないとまではいかないので、そこがよく理解できないところである。

 その子に限らず、会社に行けないサラリーマンの話など、今やどこにでも転がっている。そのうち「国民病」になるのではないかと思うくらいである。先の子も仲の良い友達はいるみたいであり、まったくの人間嫌いというわけでもなさそうである。「合う合わない」があるのも理解できる。ある程度人はみなそうした人間関係を負担に思うものだと思うが、極端に走るのは何が原因なのだろうか。素人にはとても理解できるものではない。

 ある意味、「心が繊細」だとは言えるかもしれない。そういう状況になってしまうと、では「心療内科にでも行って診てもらうか」としか素人的には思わないが、それはそれがベストなのかもしれない。ただ、医者に通わなければならない状況だからと言って、それが果たして「病気」なのだろうかという疑問も頭を過る。普通と違う状況に対して、「異常だ」と判断し、何でも病名をつければいいものではないようにも思う。

 たとえばもはや国民病とも言え、ちょうど今の時期苦しんでいる人も多い花粉症だが、これも病気と考えるのはちょっと迷うところ。花粉症とは、スギなどの花粉に体の免疫が過剰に反応しているものだろう。私のように何ともない者は、花粉に対し体が反応していないということであり、そちらの方が異常なのかもしれない。ちょっとした異臭にすぐ気がつく人もいれば、私のようにほとんど気がつかない者もいる。ちょっとした音が気になる人もいれば気にならない人もいる。

ひょっとしたら人間関係に悩む人は、普通の人が気にならない相手の反応を敏感に感じ取ってあれこれと考えてしまうのかもしれない。私などは、相手が誰であろうと割と平気で自分の意見を言えるが、それで傷ついたり不快な気分になっている人はたぶんいると思う。私も気がつく限りは反省して気をつけるようにはしているが、なにせ私のセンサーは感度が悪いからどうにも心もとない。感度の良いセンサーを備えた人だと、それ故に疲れてしまうのかもしれない。ある意味、「鈍感」こそがこの世の中を快適に暮らしていける要素なのかもしれない。この時期、外で思いっきり深呼吸できる身としてはそう思う。

その昔、子供の頃よく母親に「人の気持ちがわかるようにならないとダメ」と言われたものである。それに対し、「人の気持ちなんてわかるかよ」とよく反発していたものである。その考えは今でも変わらない。仕事ではよくお客さんの気持ちを想像して行動するようにはしているが、基本的に人の気持ちはわからないというのが自分の確固たる考えである。「以心伝心」なんて幻想だと思う。

それでうまくいっているなんて自惚れているわけではないが、できないものは仕方ない。人の気持ちなんてわからないし、わかりたくもない。考えてみれば、基本的に1人が好きなのも人間関係のわずらわしさが嫌だからであり、だから友達も少なく、大学時代の友人などは両手で数えてもお釣りがくる状態である。これからも無理に新しい人の輪に自分から出て行って入りたいなどとは思わない。きっと悩める高校生の子は、こんな鈍感な開き直りができないのかもしれない。

少しでもこんな話を悩めるその子に伝えたい気もする。これから出ていく世の中は、学校のクラスどころではなく、もっと大勢の人と関わり合わなければならないし、その中で感度の良いセンサーを持っているとかなり苦痛になるかもしれない。もっと気楽に、周囲に気を遣わせるぐらいでもいいのにとも思う。

今が人生の悩める一時期であり、早く乗り越えて楽しい高校生生活を送れるようになってほしいと願うのである・・・






【本日の読書】
  
    
   

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